秋一月十二日:証拠を集めるため、アレイズは手段を選ばない。
(都合のいい雌猫だ)
アレイズを見るなり発情して媚びを売ってきたその雌猫に、アレイズは内心で冷笑を浮かべた。
鼠達の報告を聞いたアレイズは、さっそく標的の家に向かった。どんな手段で成り上がったのか、アレイズの家とは比べるのもおこがましいような豪邸だ。別に羨ましくはない。
アレイズは、自分の魅力を正しく理解している。均整の取れたしなやかな体に、ルビーのごとく輝く瞳。甘い声と共にキスすれば、誰であろうとたちまちアレイズの虜になった。
豪邸につくなりメイド達をあっという間に篭絡したアレイズだが、彼女達では使いものにならない。そこで目をつけたのが、この雌猫だった。
「アレイズ様のためなら、あたくし、なんでもしてさしあげますわ」
「たとえ主人を裏切ることになっても?」
「主人だなんて、そんな。たまたまこの家にいてあげているだけですのよ? むしろあたくしのほうが主人と呼べるでしょうね」
雌猫は軽やかに笑った。実に猫らしい考え方だ。
彼女の主張こそ主流で、自身を従と置くアレイズのほうが珍しいだろう。もっともそれは、アレイズの主人がそれだけ特別だからだが。
「この家にいるのは、ただ安定した生活が欲しかったからですわ。もっといい宿り木があるなら、そちらに移りますとも。人間のはびこるこの世界を生きるには、相応の知恵が必要でしょう?」
「……まさか、お前もか?」
ただの淫乱な雌猫かと思ったが、そうではないというのか。
アレイズが瞠目すると、彼女は小さく頷いた。これにはさすがに驚かざるを得ない。まさかこんなところで同族に会えるとは思わなかったからだ。
アレイズの正体は精霊だ。今を生きる精霊の、数少ない生き残りと言えるだろう。
人間の台頭によって精霊は徐々に姿を消した。精霊の持つ力は人間の資源として非常に魅力的だったため、乱獲や討伐を繰り返されたからだ。
太古の昔、精霊と人間は互いの領地を巡って対立していた。精霊の心臓が有用なエネルギーになると人間に気づかれてから、争いは激化の一途を辿った。
人間達は、精霊の亡骸から得た力でもって精霊を狩り尽くした。とはいえ、精霊側も人間に対して容赦のない蹂躙を行っていたので、過去の所業をあげつらう気は特にない。アレイズも生まれていない頃の確執なのだからなおさらだ。
傲慢な人間と残忍な精霊の戦争は、人間の勝利で幕を下ろした。
精霊の心臓は精霊石と呼ばれる貴重な資源として扱われ、今も人間の生活を潤している。人間にとって精霊はもはやいきものではなく、精霊石という無機物なのだ。
精霊石は、様々な力が宿った万能の資源だ。精霊石には、その精霊が生前有していた能力がそのまま詰まっていて、枯渇するまで引き出すことができる。
しかしその奇跡は、過去に積み上げられた亡骸によってのみ成立する、限りあるものでもある。
もしも精霊が今も生きていると知られれば、再び狩猟されるのは目に見えていた。たとえ人間に対して悪感情がなくたって、搾取されることとは話が別だ。そこでわずかな生き残りは、社会に溶け込むべく工夫を凝らした。アレイズも、人間社会に混じって暮らしている。
アレイズを慕うしもべは多い。棲む家だってあるし、なにより生涯愛し守り抜くと決めた主人がいる。
だが、それはあくまでも人間社会で得たものだ。大切に思ってはいるが、精霊としてのアレイズの、精霊としての同胞にはなりえない。今も生きている精霊は自分だけかもしれないという、本質的な孤独を埋めることはできなかった。
「あたくし、アレイズ様に尽くしたいのです。ようやく出逢えた、たったひとりの同胞として。……あたくし達、気が合うと思いませんこと? 同じ手段で人間社会にまぎれているんですもの。これはきっと運命ですわ」
愛らしい声で囁かれる。なるほど、きっと彼女もアレイズと同様に、己の魅力を理解して最大限活用して生きてきたのだろう。彼女であれば、大抵の相手はたらしこめるに違いない。
「あたくしの本当の名前はフェイリ。誇り高い精霊の末裔として、自分で自分に名をつけました。この名を知るのはあたくしと、貴方様だけですわ。……あたくしの女心、ご理解いただけます?」
「理解はするが、尊重はしないぞ。俺にとって大事なのはお嬢様だけだ」
同じ精霊である彼女に対して何とも言えない仲間意識が芽生えたアレイズだったが、それはそれだ。優先順位を履き違えてはならない。
「あん、つれないお方。そんなところも魅力的ですけれど。でも……それほどまでに貴方様に想われている人間がいるなんて、嫉妬してしまいます」
それでもフェイリはアレイズにすり寄る。緑がかった青い瞳が、誘うようにアレイズを見つめていた。働きへの対価が欲しいのだろう。
前払い制は情報屋の烏も同様だ。烏の場合はがらくたで喜ぶが、フェイリが欲しがっているのは────
やっぱりこいつは雌猫呼びで十分だな、と思いながら、アレイズはフェイリの首に舌を這わせた。
*
「アレイズ様がおっしゃるような証拠は、探してみせますけれど……わざわざそんなことをする必要があって? 面倒なことをせずとも、お嬢様をさらって逃げてしまえばいいではありませんか。貴方様ならできるでしょう?」
「お嬢様は人間なんだ。人間らしく幸せに生きてもらうために、今の立場を失わせるわけにはいかない」
まだアレイズを求めようとするフェイリを気だるげにあしらう。
確かに彼女の言う通り、邪魔するものをすべてなぎ倒したほうが早い。だが、それではきっと主人は喜ばないだろう。
もちろん、精霊の力は強大だ。精霊は等しく残酷な性質ではあるが、弱い個体、強い個体がいて、扱える力の方向性も異なる。比較対象がいないのではっきりとはわからないが、自分の能力は闘争向きのもので、まあそれなりに強いだろうとアレイズは思っていた。
アレイズがやろうと思えば、この国を滅ぼすこと……はさすがにできないが、主人の敵のことごとくを葬り去ることぐらいはできる。おそらく。
先祖と違ってアレイズは、これまで利己的な理由で人間を傷つけたことはなかった。
店先のものを盗むとか、ゴミ捨て場を漁るとか、そういうことはよくやったが、それはあくまでも生きていくためだ。
そもそも、発生れたばかりの精霊は力が弱い。まずまっさきに編み出すべきは人間と戦う方法ではなく、人間に正体を悟られないよう生き抜く方法だった。
なお、アレイズの能力で人の心に傷は負わせたかもしれないが、流血沙汰ではないので数の内には入れていない。
それから、能力に頼らず己の体ひとつで戦った場合も数えていない。
ちなみにどちらの場合であっても、行動理由は「主人のため」「自衛のため」なのでよしとしている。守るための力を腐らせるのはただの馬鹿だ。アレイズは賢い。
アレイズにとって幸運だったのは、まだか弱いこどもだったうちに主人と出逢い、彼女の善性に触れたことだろう。
彼女は、アレイズを惜しみなく愛してくれた。いつだって食事はふたりで分け合い、寄り添って眠った。幸せな時間だった。ひとりで震え、浅ましく這いずり回っていたかつての自分が、もはや思い出せなくなった。
精霊として力をつけてからも、アレイズは能力を乱用して暴虐を振りまくことをしなかった。
それは、自分が精霊であると人間達に感づかれないためでもあったし、大好きな少女を傷つけたり引き離されたりしないようにするためでもあった。
十年前のあの大雪の日、食べるものが何も見つからずに行き倒れていた幼いアレイズを拾い、居場所を与えてくれた優しい女の子。あの子にだけは、アレイズの正体が凶悪な精霊だと、知られたくないのだ。
だから主人を救出する手段として、すべてを暴力に頼らないというのは最初から決めていた。いや、もちろん、必要であるのならやぶさかではないが。
ようは主人と、その他大勢の人間に本性を知られなければそれでいい。結局邪悪な存在は、どこまでいっても邪悪だった。
もしもアレイズが考えなしに怪物の本能を剥き出しにして、主人を陥れた者や主人を捕えた者を殺し尽くせばどうなるか。
もはや主人はこの国では生きられなくなるだろう。せっかく家族と呼べる男と、幸せな生活を手に入れたのに。まだ十六歳の少女に、それはあまりにも酷な仕打ちだ。アレイズとて、彼女を不幸にしたいわけではない。
今を生きる精霊として、正体を隠匿する程度の知能と、人間社会から遠ざかって生きることの困難さへの理解はある。伊達にこれまで生きていない。
それはフェイリもそうだろう。だから彼女も精霊の持つ凶暴性を抑え込み、問題を起こすことなく人間社会で生活してきているはずだ。案の定、アレイズの主張はフェイリにも理解できることだったのか、フェイリはそれ以上そそのかそうとはしなかった。
「この屋敷の家主一家は、明日は夕方まで留守にするはずです。その隙に、お望みのものを見つけ出してさしあげますわ」
「頼んだぞ。怪しいものは全部押収してくれ。手駒をよこすから、持てない分はそいつらに預けてくれればいい」
「まあ。アレイズ様は来てくださらないの?」
逃がしたくないというように、フェイリは抱きついて媚びてくる。アレイズはそれを振り払い、フェイリを睨みつけた。
「面倒な女は嫌いだ。お前は言われたことだけやっていろ」
「ひどいですぅ。強くて冷徹で傲慢な殿方、あたくし大好きですのに」
付き合っていられない。本当にこの発情猫に任せて大丈夫だろうか。やはり、明日は自分でも様子を見に来ることにしよう。
フェイリはくすくすと笑っている。彼女の希望通りにするのは癪だが、これも最愛の主人のためだ。アレイズはうんざりしながら、主人がいるはずの塔の方角を見つめた。