秋一月二十日:そして、男爵令嬢は────
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「ジェダさん、これすっごく美味しいわ!」
ジェダが手土産に持ってきたプリンは、たった一口でリデルを魅了した。常々思うが、ジェダは美味しいものを見つける天才だ。これなら食べやすいし、祖父も喜んで食べてくれるだろう。
「お気に召したのならなによりです」
照れ笑いを浮かべるジェダの膝の上では、優雅な白猫のミーナが丸まっている。その首に巻かれた青いベルベットのリボンはジェダが選んだらしい。
アレイズとお揃いみたいね、と笑うと、ジェダもミーナもまんざらではなさそうだった。アレイズだけは不満を訴えるように尻尾を激しく揺らしていたが、照れているのだろう。
「本当はわたしからお礼に行くべきなのに、わざわざ来てくれてありがとう」
「貴方を不当に拘束することになったのは、僕達の落ち度ですから。……リデルさんが元気そうでよかった。でも、もう二度とあんな真似はしないでくださいよ。せめてぼ……え、えっと、信用できる人に相談してください」
「ごめんなさい……」
明るく前向きなことが取り柄のリデルも、今回の件はさすがに反省している。
病気がちな祖父に元気になってほしくて、名医に頼った。どうしても外国の高い薬が買いたかった。一回だけならなんとかなるが、継続的に薬を購入するとなるとどうしても出費がかさむ。そのために大金が必要だった。
リデルの母は、誰かと駆け落ちを目論んで……そして捨てられて、落ちぶれて娼館に流れ着いた。薬の一つも買えずに病で苦しみながら死んでいった母を間近で見ていたので、祖父を同じような目に遭わせたくなかったのだ。
母が死んで孤児院とは名ばかりの施設に入れられ、独りで生きることを余儀なくされたリデルだが、寂しくはなかった。アレイズという親友に巡り合えたからだ。この小さな命を守るという使命は幼いリデルに希望の灯をともし、十四歳で祖父に見つけてもらうまでなんとか生きていくことができた。
アレイズと一緒に祖父に引き取られてから、リデルはとても幸せだった。新しい家族がいて、ちゃんとした家があって、食事が美味しくて、友達もできて、可愛いドレスを着ることができるなんて。
絵本のお姫様のように贅沢な暮らしを送ったとまでは言わないが、それでも貴族として華やかな世界の住人になることができたのだ。劣悪な幼少期を思えば天国も同然だった。
だが、ある日リデルの前に現れた青年が、その幸せを崩した。
大貴族の使いだというその青年は、リデルに利用価値を見出したらしい。金をやるから言う通りにしろと言われた。誰かに話したり、拒んだりすれば、その大貴族による報復が待っている、と。
祖父はずっと母を探していた。消えた娘の捜索に私財をなげうっていたので、男爵家はとても貧しい……らしい。リデルの基準からすればまだまだお金持ちだ。
それでも確かに、他の貴族に比べると貧乏なのだろう。貧困を恥ずかしく思ったことはないが、金銭の大切さは身にしみてわかっていた。
だから、提示された大金に目がくらんでしまったのだ。本物の貴族のお嬢様なら、きっと格好よくはねのけられるのだろうけど……リデルはまがい物のお嬢様だから、そんな振る舞いはできなかった。
大金と引き換えに求められたのは、罪人の汚名を被ることだった。怖くなったが、もう引き返せない。報酬で祖父に恩返しができれば、それでよかった。
だが、リデルはもはや罪人ではない。
嘘の自白をしたとして偉い人に怒られたが、そのこと自体を罪に問われることもなかった。リデルに構っていられるほど、彼らも暇ではないのだろう。
それに、祖父の病気も快方に向かっている。国王が薬を安く輸入する約束を相手の国と取り付けてくれたし、王子が親アンドラ派からキーファ家の分の賠償金ももぎとってくれたからだ。
自分がもらっていいのかはわからないが、くれるというなら受け取るのがリデルの主義だ。おかげで十分な薬を買うことができたし、医者に代金を払うこともできた。
旗印のアンドラ公爵を失った親アンドラ派は、急速に勢いを失ったらしい。
政治のことはリデルにはよくわからないが、代表者のカリスマでのみ成り立つ集団はその代表者がいなくなった途端に烏合の衆に変わる、とかなんとか。ジェダがそう言っていた。さすが文官、ジェダは物知りだ。
アンドラ家の庭からは、密約の書類や非合法の兵器などがこれでもかと見つかったらしい。親アンドラ派が国家転覆を目論み、そのための武器や資金集めに勤しんでいたことは誰もが知るところとなった。
何故庭に埋めてあったのかは定かではないが、そこに隠せば見つからないと思ったのだろう。
親アンドラ派のこれまでの罪状を、第一王子がこれでもかと言わんばかりに叩いたことで、彼らはもはや再起不能に陥ったようだ。王子も王子で腹に据えかねているものがあったのかもしれない。
親アンドラ派とまでは言わずとも、これまで王家を日和見主義者だとか理想だけの腰抜けだとか嗤っていた貴族もおとなしくなったようだ。隣国の後ろ盾を得た彼を相手に内乱を起こすような気概のある貴族は、国内には既に存在しなかった。
「今度もし厄介ごとに巻き込まれそうになったら、まっさきにジェダさんに相談するわね。だってジェダさんはとても頼りになるんだもの。今回も、わたしを助けるためにすごくよくしてくれたし」
「いや、僕は何もしていませんよ。頑張ったのはアレイズくんとミーナちゃん、それから貴方を好きな動物達です。すごいですね、リデルさん」
「……?」
「まさかあんなに動物達に愛されているなんて、まるで聖女みたいだ。……あっ、じょ、冗談ですよ! 気持ち悪かったらごめんなさい」
何の話だろう。訊こうと思ったが、アレイズが前脚でジェダを叩いたのでそれどころではなくなった。
「アレイズ! だめ、だめよ!」
慌ててアレイズをジェダから引き離す。アレイズは気位こそ高いが、さほど凶暴なわけでもない。だが、何故かたまに暴れ出すのだ。ジェダがその対象になることが多い。
しつけはきちんとしているはずなのに、一体どうしてジェダにはつらく当たるのだろう。ジェダは動物好きな、優しい人なのに。……他の動物の毛がついているのが気に喰わないのだろうか?
「ジェダさん、大丈夫? 薬箱を持ってきてもらうから、少し待っていて」
「こっ、この程度、放っておけば治りますよ! お気遣いなく!」
そうは言うが、爪が出ていたせいで叩かれたところにひっかき傷ができていた。こまめに爪切りをしていなければどうなっていたことか。
給仕していたメイドに頼み、薬箱を持ってきてもらう。せめてものお詫びにとジェダの手当てをする間、アレイズの相手はミーナに任せることにした。ミーナは気だるげな様子だが、二匹の相性は悪くなさそうだ。
「もう、アレイズったら。いい加減ジェダさんとも仲良くしてくれてもいいでしょう? せっかくミーナちゃんを引き取ってくれたのに。ミーナちゃんを連れてきてくれなくなったらどうするの?」
手当てが終わったのでアレイズを叱りつける。だが、アレイズは素知らぬ顔でそっぽを向くばかりだ。
「ジェダさんばっかり構ってるって、嫉妬しちゃった? 心配しなくても、わたしはアレイズのことが大好きなのに。……ありがとうね、アレイズ」
アレイズの頭を撫でる。リデルにじゃれつきながら、アレイズは甘えた声でにゃあと鳴いた。
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