序
完成された人類とは、意志を完全に疎通し合える個体が、群となったのち巨大な個になることだろうか。そうであったとして、それは果たして”人“と呼べるのか....。思考はここで堰き止められて、少女は寝床を失い数日経った自分に立ち戻らされた。
知らない街の夜は他人行儀で、ここが自分の居てよい場所ではないことを容赦なく感じさせる。
“あの場所”から逃げ出した時から、いやもしかするとずっと前から、この世に自分の居場所などなかったのかもしれない。なぜなら、自分の生まれた場所はもうすでにない。この世界から否定され、“あの場所”が生み出したものによって、完膚なきまでに破壊されたのだから。
自分を瓦礫から引き上げたのは、白い機械で全身を覆った何かだった。一般教養を“あの場所”で教え込まれた自分には理解できなかったもの。おそらくは、外の世界にはまだないもの、私と同じ、あの場所が生んだ技術の産物だと見当がついた。記憶が曖昧だったこと、生活していた場所がすでに瓦礫にまみれていたことから、何が起きたのかは大まかに察した。
『──君たちには生きて、生き延びてほしい。それがどんなに辛い道でも』
機械の目がこちらを見据えて、しかし何度も迷い、言葉を選びながら男の声でそう言った。それはひどく人間らしい話し方で、無機質な見た目との乖離を感じた。暖かい人の心の温度は、強く掴まれた手首から感じる硬質な熱よりもあつく、胸に焼き付いたのだった。
その手が離れてからの事は、また記憶が曖昧になっていた。あれほどの破壊の跡を見るに、きっと警察や消防が動いているはずなのに、現場にいた自分は、彼から離れてひとり、行き着く場所もなく放浪している。今身につけている紳士物のワイシャツと緩いデニムは、可燃ゴミの収集場所に捨てられていた。おそらく自治体の分別規定に従わず市民が投棄したものだろう。お陰で回収されずに放置されていたそれは、施設の室内着で夜を過ごしていた身には宝のように見えた。そうだ、自分の運も捨てたものではない....。
そこまで考えて、運などという曖昧な価値観に身を委ねている自らに愕然とした。ここまでヤキが回るとは、栄養と水分が行き渡らずスポンジのようになった脳も、そろそろ限界らしい。
休める場所を探してたどり着いたのは、街を南に降った先にある公園だった。鬱蒼とした夜の闇を纏う松林の先から、強い潮の匂いがする。
遊具の類はない公園の広場を抜けて、松林内の遊歩道を歩くと、風の塩気が顔にへばりついた。初めての感触に思わず目をつむったが、歩くのを止めるほどではない。立ち止まったら最後、へたりこんでもう立ち上がれない気がした。道を抜ければきっとどこかに、立ち止まって振り返れる場所がある。そう信じて歩くしか、今の自分にはない。それがどんなに辛い道でも───。
思わず足が止まったのは、また強い風が吹いたからではなかった。目が眩むほどの光が、夜を、木々の隙間を切り裂いて少女の網膜を刺したからだ。
揺れる松の細い葉の間から、眩いばかりの光を受ける体は、その光の滋養を細胞の全てで受け入れている。もっと浴びなければいけない、そう思うまもなく彼女は駆け出した。一体どこにそんな力があったのか、ぼろぼろの靴であっという間に砂利道を抜け砂浜に出ると、遮るもののない陽光が赤く燃えて、海の上に浮かび上がっていた。紫とも青ともつかない色に染まる空が、夜の終わりを告げていく。
あれは宇宙にあるということがわからなくなるのは、地球の丸さが太陽の位置を、海面と平行に見せるからだ。それよりも遥かに近い、数歩進めば届く海でさえ、眼前に収まるのはほんのわずか...。
潮風が、強すぎる陽の光が、そしてゆっくりと近づいてくる朝の気配が、自然というものの本質を少女に教えた。深く息をすると、今まで外で食べた粗悪な食事よりも富んだ栄養が、全身に行き渡るのを感じた。
新鮮な酸素を取り込んだ脳が正常な機能を取り戻し、休める場所を探すという本来の目的を彼女は思い出していた。今、ここなら多分立ち止まっても大丈夫。きっとまた立ち上がって歩き出せる。
昨日までの失望も希望も、夜までの全てをもう一度照らす朝日は、ただそこに煌々と輝き続ける。そして同じように、ただその下にあるだけの生活が、もう一度始まる。