母と私とパンと
人が産まれる瞬間なんて、産まれた赤子の様子なんて今まで見たこともなかった。だって、人を愛せない私には関係のないことだったから。
知ったところでこんな目に合うとは思ってなかっただろうけれどもね。
うねる熱気と感触が私を押し出すと同時に私の体は突き刺さるような冷気に触れ、思わず悲鳴を上げた。
私の産声だ。
周囲が騒めいているような気配がする、しかし目も開かず耳もくぐもったような音しか聞こえない。状況は何も理解できない。
でも何だっていい。どうせ私は生きねばならないのだ。
あの神の手駒として、死を誘う救済者として生きていかねば。
生きて、せめて、あの子は...
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疲れて眠っていたらしい。赤子としては当然か。
しかし、肉体はどうなっているのだろう。そもそも魂とは何なのか。成人女性の思考回路を赤子の脳で再現できている仕組みはどうなっているのだろうか。
赤子の神経細胞は数が多い一方でシナプスが少ないというが...まあ、そもそも神だとか転生だとかしている時点でそんなもの些細な問題だろう。考えても無駄、疲れるだけだ。
それよりかはもっと建設的なことを考えよう。
暫く赤子として生きてきたが、あまり記憶がない。
揺らされ、吸わされ、眠らされて日々が過ぎていく。筋肉がないから体も動かないし五感も当てにならない。
しかし、次第に体も動くようになり目も耳もはっきりと物を捉えるようになった。赤子の成長速度は恐ろしいものだ、思考時間が全く足りない。
バタバタと手足を動かして首が座るようになったころ、何となく周囲の様子が掴めてきた。
今も細い腕で私を抱いている、白い髪と薄空色の瞳を持った美しい女性が私の母親だ。身なりもボロボロ、随分と痩せて汚れている。
それでも私だけはしっかりと、まるで私だけが彼女の希望とでもいうように、手放さないように抱いている。
透き通るような瞳が私を慈愛の眼差しを向ける。絶望の淵で縋る様に子を抱く姿は紛れもなく私の"今世の"母親であった。
この世界は、前世で住んでいたような近代的な社会ではない。少なくとも一昔前の第3世界、或いはそれ以前の文明レベルではないだろうか。
無造作に積まれたレンガ造りの町並みに、石の道路が所々欠けていた。
表通りは店やその他娯楽施設が立ち並び、それなりに明るい様子を見せている。
一方で、古ぼけた路地裏の隙間は所謂スラムと呼ばれるような、暗い世界が広がっている。
そして私や母もまた、この暗い世界の住人だ。
私達は、建物の隙間にある随分とお粗末な小部屋に2人で住んでいる。父親や兄弟姉妹の姿は見当たらない。
以前の言葉で表すならホームレス、であろうか。転生先のこの世界についてよく知らないが、少なくとも子持ちのホームレスを保護してくれるような福祉は期待できない。
母は毎朝早くにこの部屋を出て、私を抱きかかえたまま人の多い大通りに出る。スラムとは異なり、比較的明るい世界の隅に入ることができる。
行き交う人々の様子は多岐に渡り、小さな店が立ち並ぶ為かそれなりに裕福そうな人も多く見受けられた。
私たちはそこの道端で汚れた麻布をひいて座る。
私たちは、物乞いだった。
「どうか子供のために、少しでもお気持ちを」
母がか細い声で私を抱きながら横切る人々に頭を下げる。
道行く人々のほとんどは無視するか蔑む目で睨んで立ち去るが、中には善意か同情か、それとも優越感の為か、小銭をくれる人がいる。
この僅かな小銭こそが母と私の生命線だ。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。」
嘲りながらも小銭を投げつける人に対して、母は微笑みながら何度もお礼を言い土下座する。
僅かなお金に喜ぶ姿を面白がったのだろう、その様子を見た何人かが真似して小銭を投げた。母は嬉しそうに頭を下げ続けた。
私という幼い赤子がいるせいか、私たちは毎日を凌ぐに十分なお金を手に入れることができた。
大通りにはぽつぽつと私たち以外の物乞いが来ることがあったが、暫くするといなくなっていた。
若い女性と赤子という見た目が功を為したのだろうか。母に対して下品な目線を投げかけられることも少なくなかったが、生きる上では寧ろありがたかった。
命に代えられるものなど無いのだ。
1日が終わる頃に母は私を抱え、小銭を握りしめながらとあるパン屋の裏口をノックする。詳細はまだ理解できないが、恐らく廃棄予定のパンを安く売ってくれるように交渉しているのだろう。
店主は物乞いに対してすぐにドアを閉めようとするが、私の姿を見るなり痛ましげな顔をした。あまり乗り気ではなさそうだったが、売れ残った、或いは不格好なパンをいくつも袋に詰めて小銭と交換してくれた。
母はまた頭を深く下げた。
パンは日によって果物やジャガイモ、運がいいと若干傷んだ魚や肉になった。
夜は小部屋に戻り、母は食事を得て私に授乳する。
私が十分な量の栄養を取ったと確認してから、座ったまま眠りにつく。眠る時も母は私にかすれた、しかし透き通った美しい声で子守唄を歌ってくれた。
私は母に負担をかけさせたくなくて、直ぐに寝るふりをした。
彼女は私が眠りについたことを確認すると、安心したように共に眠った。
毎日この繰り返し、1日1日を縫うように呼吸し続けた。
しかし、こんな生活がずっと続けられるとは到底思えない。
きっと母も分かっていたのだろう、それでも私が離乳するまではずっと一緒に居たかったのだろうか。
私が物につかまりながらも立てるようになり、歩く真似をするようになった頃 ―おそらく1歳を迎えるころだろうか― にやつれ切った母はある夜、ふらふらとどこかへ出かけた。
眠りについたふりをする私を、部屋の角に残して。
どこへ行ったかはわからないが、想像はできた。
帰ってきた母は今まで手に入らなかった量のお金を握りしめていた。
しかしその顔は、何も映していなかった。
倒れるように冷たく硬い床に寝転び、人間らしさが消え、機械のように、人形のようにうずくまった。
何とか生き永らえて居た頃の希望の笑みは消え、子守唄を歌わなくなった。
私の為に食物を柔らかくし、与える姿は母と言うよりも餌やり機だ。
それでも母は、毎晩外へ出かけた。
帰ってくるのは、決まって夜明け前だ。
お金の余裕が出たためか、ボロボロながらもまともな衣類を纏えるようになった。夜に川で衣類や体を洗うこともできたからか、体臭も随分マシになった。
身なりをまともにすれば、母は美しい女性だった。
如何にも訳ありと言うような、彼女は貧民層にいていいような見た目ではなかった。
赤子の頃はわからなかったが、仕草が優雅過ぎる。
パンの食べ方一つに気品が溢れていた。歩くとき背筋がピンと伸びていた。
父がいないこと、私が産まれた直後は今よりも健康そうな状態であったことから、私が産まれる前に何かあったのだろう。それなりに良い育ちをした母がこんな身分に落とされて、それでも生活できていたのはなぜだろうか。
水面に映った私の顔は、母の真っ白な髪と薄い瞳を兼ね備えていた。父の面影は分からなかった。
私は母に優先して食事を与えられ、眠くとも昼間は付きっ切りで様子を見てくれた。
表情こそ失ったが、私に対しての愛は変わらず注がれており、私はそんな母に深く感謝をした。貧しくて辛くて、お腹がすいても体が痛くとも、母が隣に居るだけで幸せな気持ちになれた。
母といるときは、私は自分の正体を忘れて居られた。
神のことも、転生のことも、自分の呪いのことさえも。
これほど満たされた時間は、辛い現実から目を背けさせ、夢であると錯覚させた。
それはまるで、あの時の、あの子と共に過ごした時間のように。
永遠に、別れが来なければいいのに。
それでも、二人とも到底このまま生きていけるような状態ではないことは頭のどこかで理解していた。この世界は無常であることくらい、赤子でも知っている。
タイムリミットは刻々と近づいてくる。
私が言葉を完璧に理解し、短い複数の単語を拙く話せるようになった頃、その日はやってきた。
母は帰ってこなかった。
日が明けて昼を過ぎ、夜を迎えた。
1日経っても母は現れず、2度目の太陽が顔を出した。
昨日は家に貯蓄していた僅かなパンの欠片を口にして凌いだが、もう何も残っていない。
周囲が明るくなって暫くしたころ、私は立ち上がって住処を出た。
母は帰ってこない。何故かは自分でもわからないが、それが絶対的な真実であると、そう確信した。
2歳の子供だ。外に出たところで死ぬ確率の方が当然高いし、まだ何もできない。でも、せめて誰かに助けを求めなければ。
ここでずっと居ても、餓死するだけだ。母が命を懸けて育ててくれた命を時間と共に放棄するのは嫌だった。
以前の道は憶えている。狭くて汚い路地裏をゆっくりと歩き、ふらつきながらも大通りを目指した。
そうだ、大通りには幾つもの店が立ち並び、人通りも多い。2歳の女児がふらつきながら現れれば、きっと助けてくれるもの好きもいるだろう。
すきっ腹を抱えて私は歩き、小石にすら躓く程に拙い足取りで誰かに助けを求めようと、あと少しで大通りにつくところだった。
その瞬間、私は突如背後に人の気配を感じた。
振り向くより早く、私の視界は塞がれ、口と鼻に刺すような臭いの布地が当てられた。
赤子の手足では藻掻くことすらかなわず、急な眠気にも耐えられるはずがなかった。
私の意識は暗転した。
そうだ、この世界の文明のレベルからしても治安だって良いはずがないのだ。私のような、守る人がいない弱者はカモでしかないのに。
今までは、守ってくれる人がいたことを当たり前のように...