◆ 無 人 駅
その声は、頭の下から聞こえてきた。
「ねえちょっと、そこのあなた」
ベンチに仰向けになってうとうとしていた磯谷は、驚いて跳ね起きた。
「だ、誰です?」
身を起こし辺りを見回しても、がらん、とした田舎駅のホームには常夜灯が淋しくともっているだけだった。
また、声がした。
「ここですよ」
磯谷は立ち上がり、震える足で線路に近づいた。
恐る恐るホームから下を覗くと、ひどく貧相な男がレールの上に横たわっていた。
よれよれの作務衣の襟元を掻きながら、男は磯谷に言った。
「終電はもう出ましたかね」
磯谷は当惑しながら答えた。
「とっくに行きましたよ。私はそれに乗り遅れたんだ。それよりあなた、何をしているんですか」
「なんだ。じゃあ始発までだいぶありますなあ」
男は大声で笑った。
嫌な笑いだ、と磯谷は思った。口ばかりがひくひくと動き、目は雨上がりの水溜まりのように淀んでいる。
また口許だけを動かして、男が言った。
「あたしはこれから死ぬんですよ。ほんとにこの世にゃ未練が尽きた」
「馬鹿なことを。死んだらお終いです。生きてるからこそやり直せるんじゃないですか」
「いえいえ。もうあたしに出来るやり直しは、死ぬことだけなんです」
磯谷は線路に降りた。男は起き上がろうともせず、首の後ろで腕を組んだ。
「ねえあなた、自分で命を絶った人には恐ろしい罰が当たるって言いますよ。最後まで生きてから死んだって、遅くはないでしょう」
磯谷は男を抱き起こそうとしたが、男の体は途方もなく重かった。
「いいんです。あたしはちっとも怖くはありません。これから始発が来るまで、しばらく夕涼みとしゃれ込みますよ」
その時、線路がぴりぴりと震え出した。貨物列車が近づいて来た。
ねじれるように男の表情が変わった。
「え? 待ってよ。あたしにゃまだ心の準備が」
顔が恐怖に引き攣っている。男は起き上がろうとした。
「た、たすけて。体が動かない!」
磯谷は男を助け起こそうとしたが、その体は溶接したように線路に張りついていた。闇の向こうから、どう猛な速度でヘッドライトが近づいて来る。もう間に合わない。
磯谷はホームに這い上がった。
男が獣のように絶叫し、それを車輪の轟音が掻き消した。
ベンチに突っ伏して、磯谷は耳を塞いだままがたがた震えていた。
そしてようよう身を起こした磯谷の耳に、闇の中からか細い声が忍び寄ってきた。
「ねえあなた、終電はもう出ましたか?」
今夜これから一体何度この声を聞くことになるのか。そんな事を磯谷は考えていた。
- 了 -