9話
父に質問攻めにされ、厳しく戒められるまでもなく、ジルベルトにこれ以上近づいてはいけないということはエヴェリーナにもよくわかっていた。
二人とも微妙な立ち位置で、関わりを持つのは決して歓迎できない者同士なのだ。
しかし盤遊戯に誘われ、その後に交わした会話はエヴェリーナの心をひどく乱した。
(……なぜ?)
なぜ、どうして。婚約解消後に繰り返したその問いは、いまや少し別の意味合いを持つようになった。
――なぜ、自分はこれほど落ち込んでいるのか。
なぜ――ジルベルトはここまで自分の心に踏み込んでくるような真似をするのか。
だがそのどちらにも、疑問が深まるばかりだった。
しかしエヴェリーナの両親の警戒とは裏腹に、ジルベルトはその後も平然とやってきてはエヴェリーナを誘った。
観劇、茶会、鑑賞会など、あらゆる暇潰しにエヴェリーナを伴おうとしているかのようだった。
両親は必死に断ったが、もともとジルベルトは第一王子その人である。家格や身分の上で比べものにならない相手に、常に断り続けることはできなかった。
エヴェリーナは何度か、ジルベルトに伴われて出かけた。
遠慮の無い物言いと傲慢なほどの自信に溢れた彼は、だが仕草や行動は紳士だった。
決して露骨な下心は感じず、不埒な真似に及ぶような気配もない。
それだけに、ますますエヴェリーナはジルベルトの意図がわからなくなる。
微妙な立場の二人が、友人のように会うことについて周りがどう思うか、ジルベルトが考えていないはずはない。
エヴェリーナは言葉を選びながらも、本人に問うた。
なぜ、自分をこのように伴おうとするのか。
「あなたに興味がわいた、という理由では不満か?」
簡潔にそんな答えが返ってきて、エヴェリーナは目を瞠った。
ジルベルトは口元にかすかな微笑を浮かべている。本気なのか戯れなのか判断がつかない。
「……殿下のお立場を考えると、わたくしのような人間を頻繁に伴うのはあまりよろしくないかと思います」
「それこそ立場なら問題ないだろう。私はいまだ独り身で、あなたもいまは自由の身だ」
まったくためらいなく、ジルベルトは言った。
エヴェリーナはかすかに息を飲んだ。
(――どういう、意味なの)
含みのある言葉に聞こえる。だが、ただこちらの反応を見てからかっているだけではないのか。
エヴェリーナが表情を押し隠していると、ふいに手をとられた。そろえた指の下に、大きな手が入り込んでくる。
鋭利な、けれどどこか激しさを帯びた目がエヴェリーナを見つめた。
「手放された花に虫が群がる前に拾い上げるのは当然だろう?」
形の良い唇がささやく。
エヴェリーナは固まった。やがて鼓動が乱れはじめた。
ジョナタはこんな言い方はしなかったし、他の人間もこんなわかりやすい誘い文句は口にしなかった。
熱湯に触れたかのように手を引っ込める。淑女の振る舞いとは言えなかったが、ジルベルトの戯れはたちが悪すぎた。
そのジルベルトは笑っていた。
「……無論、自分がどう見えているかというのは嫌気がさすほど理解している。だがこちらが何をしても注目を集めざるを得ないのだ。気にするだけ無駄だろう。あなたも既に注目を集めているのだから気にする必要は無い。閉じこもって陰鬱に過ごすよりはよほどましだろう」
さも当然といわんばかりの口調。
エヴェリーナは一瞬言葉を失った。そして呆れてしまった。これではただの開き直りではないか。
「説明するまでもないが、私に不穏の心はない。……どれほど努力したところで、生まれはどうにかなるものではない。そのことに鬱屈を抱くほど若くはない」
さらりと続けられた淡白な言葉に、エヴェリーナは遅れてはっとした。
――不穏の心はない。
それはつまり、叛逆の意志などはないと言っているのではないか。
むろん、言葉ではいくらでも偽ることができる。しかし、エヴェリーナには彼が嘘を言っているようには思えなかった。
生まれはどうにかなるものではない、とも言った。
簡潔な言葉に感情の湿った響きはなかった。諦め受け入れたあとの、乾いてさらさらとした感触に似ていた。
言葉にすればその短い結論に至るまで、ジルベルトはどれだけ悩み考え、あるいは何かを乗り越えてきたのか。
「ジョナタは王太子として問題のない素質を持っている。私は面倒ごとは嫌いだ。大きな領地を一つおさめるだけで十分だ。我が父上もそのことをよくご存知だ」
さらりと言われ、エヴェリーナは息を飲む。
(不満はない……、国王陛下もそれをご存知ということ?)
第一王子でありながら王太子ではないという立場に、別に不満はない。不穏な考えもない。そのことを、国王もわかっている。――だからこそ、王はジルベルトのためにわざわざ祝勝会などを開いて表舞台に立たせたのか。
エヴェリーナの見た限り、ジルベルトとジョナタは不仲には見えなかったのも確かだった。仲が良いとも見えなかったが、貴人の兄弟としてはごく普通の範囲であったように思える。
大器を感じさせ自信に満ちあふれていながらも、王位にはさほど興味がない――ジルベルトの奇妙なねじれは、だが不思議と納得できてしまった。
それだけジルベルトは鷹揚で、ぎらぎらとした野心を感じないからかもしれない。
エヴェリーナがそんなことを考えていると、ふいに小さく笑う声があった。
「――おおむね、ジョナタは善良で根の真っ直ぐな男だが、それゆえに一つ欠点がある」
エヴェリーナは驚いてジルベルトを見た。目と目が合う。
「珍味は、正統な美食あってこそ際立つということがわからぬらしい。たまに食すからこその珍味だ。野趣に溢れた珍味も毎日口にすればいずれ飽きるし、常食には向かん」
軽く揶揄するような口調に、エヴェリーナは忙しなく瞬く。
ジョナタにわだかまりはないというようなことを言っていたのに――何を言おうとしているのだろう。
ふ、とエヴェリーナの手がまたもすくわれた。指先を引かれて、ジルベルトの吐息が触れる。
「伴侶を見る目がないな、弟は」
触れる息がかすかに笑っている。
とたん、エヴェリーナはくらりと目眩を覚えた。たちまち頬に熱がのぼる。
「ご、ご冗談を……っ」
ようやくのことでそれだけを言い、手を引く。
ひどくいたたまれず、顔を背ける。ジルベルトの笑い声が聞こえる。
(な、何を言うの……っ!)
顔が熱い。
――これまで、もっと直接的に容姿を褒められたことは何度もある。そのことにいちいち動揺などしなかった。なのに、どうしていまこれほど動揺してしまうのだろう。
ジルベルトの眼差しにも声にも、あまりに力があるからなのか。
――野趣に溢れた珍味という言葉が、たぶんマルタを指しているだろうこともようやく気づく。とたん、エヴェリーナの胸に仄暗い喜びがわいた。
貴人らしい婉曲な、だが陰湿さの感じない言葉で、マルタより自分を認めてくれたのはジルベルトだけだ。
それでも、エヴェリーナは自分を戒めた。
(……浮かれてはだめ)
こんな喜び方は、卑小に感じられる。自分に許したくない類のものだった。
マルタもジョナタももう自分には関係ない。何を言われても反応せず、遠ざけることが一番いいのだ。
――おそらくは、ジルベルトも。




