5話
見知った何名かの貴族たちと雑談しながら、エヴェリーナは退室の機をうかがった。
これまでは王太子妃として人脈を保ち、ジョナタを補佐する意味でも人との接触をこころがけていたが、いまとなってはもはや必要ないものだった。
話しかけてくれる人間自体も減っている。王太子妃候補でない人間と接近しても利益がないと判断してのことだろう。
同情を寄せてくれている数名が残っているだけだった。
エヴェリーナは意識してジョナタとマルタを視界に入れないようにした。仲睦まじげな二人を見れば、ただ惨めさが増すばかりだ。
――それでも、頭ではわかっているのに、抗いがたい力で吸い寄せられるのを感じた。
(やめなさい)
自分に虚しく言い聞かせる。だが体はそれを裏切る。ジョナタとマルタに目を向ける。
マルタのぎこちなさは明らかだった。緊張もあいまって固さが見て取れる。
ジョナタはそんなマルタの傍らに寄り添っていた。愛想の良さを滲ませて、まだ不慣れな婚約者を守るように、代わりに受け答えしている。
ジョナタは、自分にはああいうふうに寄り添ってはくれなかった、とエヴェリーナは思う。
それだけ、一人にしても問題ない存在だと思われていたのかもしれない。それは誇るべきことではあったはずだ。
だが理屈でそうわかるだけ、エヴェリーナの胸の内は暗く澱み、乾いてゆく。
(……どうして?)
婚約を解消された瞬間から、何度も何度も繰り返した問い。なぜ自分ではいけなかったのか。何がいけなかったのか。
暗い迷宮を延々と手探りで彷徨っているようだ。
(……もう、帰ってしまおう)
ここにいる意味はない。いま人脈を保とうと、あるいは新たにつくろうともがいたところで、見苦しいだけだろう。
挨拶もそこそこに、この場を辞す気配をそれとなく滲ませる。
だがふいに、空気がかすかに動いた。
「あなたがエヴェリーナ嬢か」
低く、艶のある声が響く。エヴェリーナの周りにいた貴人も、エヴェリーナ自身もはっと声のほうに顔を向けた。
鋭い双眸。見事な赤毛がシャンデリアの光に輝いている。
ジルベルトは口元に薄氷の輝きを思わせる微笑を浮かべ、エヴェリーナの側に迫っていた。
その存在に気圧されたかのように、周囲の人間は視線だけを投げかけて息をのんでいるようだった。
エヴェリーナの周りにいたわずかな知人たちも、災いの予兆を悟った動物のように引いていく。
エヴェリーナの体に緊張がはしった。
だが未来の王太子妃としての修練が、常に優雅たるべしと刻み込まれた本能が、エヴェリーナに動揺を顔に出すことを抑えさせた。
かわりに、ドレスを軽くつまんで腰を落とす一礼を披露させた。
「お目にかかれて光栄です、ジルベルト殿下」
「こちらこそ、エヴェリーナ嬢。これは美しい。王太子妃候補であったのも納得できるな」
冷ややかな笑い声。
王太子妃候補であった――誰も表立って言うことはなかった言葉を簡単に口にする。
先ほどまでエヴェリーナと談笑していた者たちのかすかなざわめきが空気を揺らす。
エヴェリーナは刹那の間、頬に熱がのぼったのを堪えた。
だがジルベルトの言葉は鋭く刺すような感覚を与えても、不思議と尾をひかない。
なぜか、皮肉屋の教師のことを思い出した。遠回しな言い方で批判し、しかしそれはエヴェリーナを試し、改善を促す行動だった。
エヴェリーナは曖昧な微笑で応えた。快とも不快ともつかぬ、受けとる側がこちらに抱く心証によって異なる見え方をする表情。
はたしてそれをどうとらえたのか、ほう、とジルベルトがかすかに感嘆めいた声をもらす。
奇妙な静寂が生じた。半ば緊張し、互いに見えない手で探り合うような無言の間だった。
やがて、典雅な楽曲が流れてそれを破った。
エヴェリーナはほとんど反射的に目を向けた。誰の合図を待つわけでもなく、男女が組になりはじめているのが見える。
華やかな輪の中で、ひときわ鮮やかに一組の男女が――見つめ合う王太子と、新たな婚約者が浮かび上がる。
その光景はエヴェリーナの胸を鋭く刺した。頬が強ばり、目を背ける。
「手を」
鈍く痛む胸を、通りの良い声が貫いた。
動揺を抑え込むことだけで精一杯で、エヴェリーナはなかば無意識に、力を持った声に従っていた。
差し出した手が、大きな手に触れる。とたん、手を引かれ、連れ出される。そこでようやくエヴェリーナは正気に戻った。
「……!」
ジルベルトの大きく強い手。とかされそうに熱い手だった。有無をいわさぬ空気に飲まれてしまいそうになる。
第一王子に手を引かれるがまま、エヴェリーナは音楽と人の輪の中に引きずり出される。
「殿下……!」
「一曲付きあってくれ。こういった場は久しぶりでね、多少腕が鈍っているだろうが寛大に見てほしい」
言いながら、ジルベルトはエヴェリーナの腰に手を回し、もう一方の手を重ね合わせた。
腕が鈍っているなどという表現とは裏腹に、ためらいのない強い手だった。――ジョナタとは、まったく違う。
エヴェリーナは混乱した。予想もしなかった不意打ちを受けたようだった。
人目を集めている――しかもよく知りもしない第一王子とかかわった上で。婚約を解消されてから、こんなふうに人目を浴びるようなことなど決してしなかったというのに。
ジルベルトは強引で、ここまで引き出されてしまえば、エヴェリーナは断ることはできない。
(……私を、見世物にしようとでもいうの?)
少し考える力が戻ってくると、そんなふうに疑った。あからさまに感情を顔に出すことはすまいと思っても、ジルベルトを見る目に怒りが滲む。
それを察していないのか、あるいはあえて無視しているのか、ジルベルトは薄い微笑で答えた。
「あなたは非の打ち所のない、完璧な令嬢だそうだな――お手並み拝見といこう」
艶のある低い声に、挑発的な響きが漂う。
エヴェリーナは頬に熱を感じた。怒りに似たものがわきあがり、心を乱されそうになる。
――だが、侮蔑されているのとは違うように感じた。
宣戦布告をされているような気がした。
エヴェリーナ自身が不思議に思うほど、むくむくと反発心が首をもたげた。
手を、広い肩に乗せる。
そして、これまでにない、挑み返すような気持ちで微笑した。
「ご期待に添えるよう、精一杯つとめます」
一瞬だけ、ジルベルトの動きが止まった。その唇に佩かれた微笑が深まったように見えた。
重なった手が、エヴェリーナの腰に触れる手が無言の合図を送ってくる。
エヴェリーナはそれに答え、ジルベルトの息に合わせた。ゆるやかに水が流れて行くような自然さで、二人は音楽に乗った。
間もなくエヴェリーナは気づく。
(――嘘つき)
思わず、男に抗議の一つでもしたくなった。
何が久しぶりなのか。いや、それは真実であったとしても、腕が鈍っているなどというのはまったくの嘘だ。
ジルベルトの足運びもリードもまったく完璧で、支える手や触れる指先にまでそつがなかった。引き寄せてくる力は強いのに、不埒さも荒さも感じない。
ジョナタも完璧だったが、ジルベルトのリードは大胆で自信に溢れていた。身を委ねても安心できるような強さがある。
くわえて、強い視線を感じた。エヴェリーナはつとめて目を合わさないようにしていたが、触れあう手も体にまわる腕も熱を感じるほどなのに、視線は更に焼き付くようだ。
――他の女性であったなら、これだけでジルベルトに魅了されていたかもしれない。
リードだけではない――もっと何か大きな主導権まで奪われかねない。
エヴェリーナは頭の隅で緊張を維持しつづけた。ジルベルトの意図はわからないが、この決して無害ともいえぬ相手に、このまま流されたくも屈したくないと思った。
――たとえいまはどれだけ惨めといわれようと、笑われようと、自分は王太子妃候補であった人間なのだ。
そのように育ててくれた両親のために、家名のために、安い女だとは思われたくない。
一つも間違えまいと全身に神経を行き渡らせながら、ジルベルトの動きについていく。
そうしながら、エヴェリーナはここ久しく感じなかった奇妙な充実感を覚えていた。
無気力に苛まれ、弛緩しきっていた体がふいに目覚めさせられたかのようだった。
華やかな舞台。極度の緊張を強いられる場で、望まれうる最高の行動を取る。
――そのために訓練させられてきた。
リードされているという形は保ちつつも、ジルベルトの動きをすべて読み、次の彼の動作のために備える。
相手に神経を研ぎ澄ませ、その動きの一つ一つに応じるのは、どこか静かな決闘のようでもあった。
だから――周囲の視線をいつの間にか浴びていることにも気づかなかった。




