4話
祝勝会という耳慣れぬ言葉がエヴェリーナに届いたのはそれから数日後のことだった。この国では長く平和が続き、軍が動かされたとか大きな戦があったというのは聞いていない。
誰にも会いたくないと願う気持ちとは裏腹に、王宮で行われるその宴には何があっても出ろというのが父の命だった。
こちらに何一つ非はないのに、まるで謹慎するかのように引きこもっているなど我慢がならない、というのが父の心情らしかった。
王太子妃候補の座を奪われ、その後釜がマルタになってから、エヴェリーナの父である侯爵の機嫌は日々悪化する一方になっている。
婚約の違約金として王から多大なる財を賜ったが、それで気持ちがおさまるものでもない。
引きこもっているエヴェリーナと違い、宮廷人たる父は種々のよくない噂を耳にしているのだろう。
すべては、王太子の心を繋ぎ止められなかった自分に非があった。
そう思っているエヴェリーナに、父の命に背けるはずもなかった。
その日の夜に行われた祝勝会は、見た目にはほとんど夜会と変わらなかった。
場所が王宮広間であることと、そこかしこに見られる面々が高位の貴族ばかりであることから、いつもより規模の大きいものであり、重要な催しであることはうかがえる。
周囲を漫然と眺めながら、エヴェリーナは扇子の下でそっと溜息をつく。
ちらちらと視線を感じるのが、いつにもましてわずらわしい。
(……着飾ったところで、見せるべき相手ももういないのに)
今日のエヴェリーナの衣装は、瞳の色に合わせた鮮やかな青のドレスに、シャンデリアを思わせる豪奢な三連の首飾りと、同じ意匠の耳飾りだった。
露出した首回りや豊かな胸元、なだらかな肩の白さが際立って見える。
ほっそりした手を包む長手袋は最上級の絹が柔らかな光沢を放ち、手首のあたりに真珠がぬいつけられ、金糸で美しい模様が刺繍されている。
化粧にしても相当な念の入りようだった。
これらはすべて、主であるエヴェリーナのために、侍女たちが怒りと悲しみのすべてを鼓舞の力に変えるように仕上げてくれたものだ。
主の美しさを余さず引き出すことが、せめてもの周囲に対する報復であるとでもいうように。
しかしこれでは、まるで自分が王太子妃だと誇示するような装いだ。
エヴェリーナ自身が一番気後れしていた。
ふと、なにか抗いがたい力に惹き付けられたように視線が動く。
王太子と、その新たな婚約者の姿が見えた。
今日もジョナタの盛装は完璧だった。品のある濃紺色に金糸で豪華な縫い取りのされた衣装が、彼の高貴さをいっそう引き立てる。
その隣、長くエヴェリーナの場所であったそこには、明るい赤のドレスに、柔らかい真珠の装飾品で装ったマルタがいた。
マルタの衣装も化粧も相当な手の込みようだが、まだ王宮の空気に慣れていないぎこちなさが感じられた。――だがそれも、初々しく新鮮なものとして王太子の目には映るのかもしれない。
エヴェリーナは自分の体を見下ろした。
マルタが赤で、自分が青。まるで、正反対の二人であると示しているかのようだ。
つまらない女。
父の声が耳奥に蘇り、エヴェリーナは二人から目を背けた。
そうすると、周りからひときわ視線を感じた。
視線を浴びること自体は慣れていないわけではないが、いままでより露骨だった。
――これまでは、自分が磨き上げたものへの賛美、羨望のものとして受け止められた。
だがいまはそれだけではないように思えた。
好奇心――もっと言えば、王太子に捨てられた女への嘲笑がそこにあるような気がした。
(……やはり、来るのではなかった)
このような場で、これほど惨めな気持ちになったことはない。
扇子の下で強く息を止めて堪えていると、広間の奥、国王の傍らにいる侍従が静聴を促した。
しん、と空間が静まる。
鎮座していた国王が声をあげた。
「みな、今宵はよく集まってくれた。大いに飲み、食べ、歓談するように。そして一つ、みなに祝ってもらいたいことがある」
エヴェリーナは胸に鈍い痛みを覚えた。――祝い事。いま王宮内を席巻している慶事といったら、王太子とその最愛マルタとの婚約しかないではないか。
暗い気持ちになったとき、だが予想を裏切る言葉が続いた。
「――北の国境における騒ぎの鎮圧に赴いていた王子ジルベルトが、こたび完璧に鎮圧し、国境の平和をもたらした。その勝利を祝い、労をねぎらいたいと思う」
おお、と歓声が答える中、エヴェリーナは目を見開く思いだった
(ジルベルト殿下……)
それは確かジョナタの異母兄で、第一王子ではなかったか。
王子ジルベルトについての情報と知識を頭の中で総ざらいしていると、広間の扉が開いた。
左右に護衛の騎士を従え、盛装の男性が入ってくる。
まあ、と女性達の華やいだ声があがる。
エヴェリーナもまた、思わず目を奪われていた。
盛装の男性――おそらく第一王子であるその人は、ジョナタとはまるで真逆だった。
日に焼けた肌に、精悍な体つき。王子よりも騎士あるいは将軍といわれたほうがよほど納得するような鋭さのある美丈夫だった。
深みのある赤毛の持ち主で、切れ長の目には研ぎ澄まされた知性が垣間見え、高く通った鼻筋は高貴さがあった。
ジョナタがおとぎ話にでも出て来そうな理想の王子像であるなら、彼はもっと確かな存在を持ち、現実の持つ重さや蔭を受け止めるかのような強さがあった。
そして甘さをはねつけるかのような、一欠片の冷ややかさが、見る者に侮りを許さない。
国王の前で、ジルベルトは深く頭を垂れた。王は親しげにジルベルトの肩に触れた。
「……ジルベルトよ、よく戻った。迅速に我が命を果たしたことをまずは称えたい」
「ありがたきお言葉にございます、陛下」
赤毛の王子は一礼する。
国王は更にジルベルトの肩を抱き、周囲の者に体を向けさせた。
「さあ、みなのもの。このジルベルトの労を大いにねぎらい、勝利を祝ってもらいたい」
国王の言葉に、明るい歓声と拍手が答えた。
拍手をしながら、エヴェリーナはジルベルトを見つめた。
ジルベルトはジョナタのような愛想の良い微笑を浮かべるでなく、どこか棘を孕んだような微笑を浮かべていた。
その眼差しは観客を何気なく眺め、だがふいにエヴェリーナで止まった。
視線が絡み合い、エヴェリーナははっと息を飲んだ。
ジルベルトの視線は、一直線に貫いてくる。
エヴェリーナは呪縛されたように立ち尽くす。
時が止まる。
周りの状況も忘れ、奇妙に緊張した瞬間がおとずれる。その束の間だけは、世界に自分と相手だけしか存在していないかのような錯覚――。
エヴェリーナは長く、その硬直の中にいた。
だがふいに耐えかねて目を逸らすと、とたん、周囲のざわつきが耳に戻ってきた。
世界が動き出す。
(な、なに……?)
体が奇妙に緊張していて、鼓動が少し速い。
おそるおそる、ジルベルトのほうへ目を戻す。しかし、向こうはもう自分を見ていなかった。
実弟であるジョナタと向き合って話をしているようだった。
扇子で隠した口元で、エヴェリーナはなんとか呼吸を整える。
二人の王子は険悪な仲ではないが、談笑、という雰囲気にも見えない。
王太子妃になるべく教育されてきたエヴェリーナは、宮廷内の微妙な人間関係、力関係を察するよう訓練を受けてきている。
頭の中の、第一王子ジルベルトに関する知識を引っ張り出す。
――理想的な王子と称されるジョナタにも劣らぬ優秀な人物である、というのは何度か聞いたことがある。
あまり目立たないのは、ふだんあまり宮廷に姿を見せないからだろう。北の方の遠い地に領地を持っていて、日頃はそこで暮らしていると聞いた。
第一王子であり優秀な人物であるにもかかわらず王太子に定められなかったのは、生母の身分が低かったためとされている。
(……危うい人だわ)
少し考えただけで、そう悟った。
第一王子でありながら王位にのぼれないとなると、その心中はいかほどか。深く考えなくても容易に察することはできる。
――優秀な人物であり、へたに周りに人望があるか、あるいは野心のある側近を抱えていたりすると、ジルベルトは反逆の意思を抱いてもおかしくない。
万一ジルベルトが実際に叛乱などを起こした場合、その周囲にいた人間は罪を免れない。
――近づかないほうがいい。
エヴェリーナの嗅覚はそう嗅ぎとった。いまにいたるまで、ジルベルトに関する不穏な噂は聞かない。しかし背負ってたつ家、守らなければならない家族や地位がある以上、危険を孕むものは少しでも避けなければならなかった。




