3話
マルタに教えるためにやむなく出向く以外、エヴェリーナは侯爵家の邸を出なかった。
乳母や侍女たちは主人と同等かそれ以上に沈痛な面持ちをしており、他愛のないおしゃべりの声も絶えた。
エヴェリーナの陰鬱な気分が邸全体に感染したかのようだった。
外出しないとき、エヴェリーナはほとんど自室でぼんやりとして過ごす。本を読もうとしても、刺繍を行おうとしても、手が止まる。
そしてどこからともなくささやく声がする。
――こんなことをしても無駄ではないか。
古典が読めるようになったのも、見事な刺繍ができるようになったのも、すべて王太子妃となるべくして訓練されたからだ。
だが王太子妃になれなくなったいま、それらすべては意味を失っている。
(わたくしのやってきたことは何だったのだろう)
言われるがまま、教えられるがままあらゆることを必死になって覚えた。習った。考える暇などほとんどなかった。
ただ王太子のために、彼を支え、恥にならぬ存在となるべく教養を身につけた。
だが、その王太子から引き離されて、自分はどこへ向かえばいいのだろう。
ぼんやりとした意識にふいに怒鳴り声が飛び込んできて、エヴェリーナの意識は現実に引き戻される。
この邸で声を荒らげるものなどそうそういない。
いやな胸騒ぎを覚え、なにか引き寄せられでもするように部屋を出た。
声のするほうへ向かっていく。同じ二階の奥の部屋――両親の、私室のほうだ。
そこに向かうほどに声は大きくなっていく。怒鳴っているのは父のようだった。
エヴェリーナは息を飲み、部屋の扉に立った。
金色の取っ手も鮮やかな扉はかたく閉められていたが、怒鳴る声の内容は聞きとれる。
『私に恥をかかせおって! あの薄汚い野良猫が、我が物顔で王宮を闊歩しているのだぞ!』
『落ち着かれてください……』
『これが落ち着いていられるか! お前はわかっているのか!? この屈辱! 腹立たしさ! あの野良猫のどこが、エヴェリーナより優れているというのだ!?』
憤った声がエヴェリーナの胸を穿った。
――父が、母相手に怒鳴っている。
父ですら、思っているのだ。娘のどこがいけなかったのかと。
『だというのに、殿下の寵愛甚だしく、一部の大馬鹿者はあの野良猫を持ち上げる始末だ! 馬鹿者どもがエヴェリーナのことをなんと呼んでいるか知っているか! あの野良猫に礼儀作法を教えているのは、他ならぬエヴェリーナだというのに……!!』
どくん、とエヴェリーナの心臓は脈打つ。
『“つまらない女”、教師役を買ってことさら冷たくあたる“陰湿な女”だそうだ!』
エヴェリーナは青の瞳を見開く。
父の吐き捨てた言葉が頭を殴り、がんと頭蓋の中で反響する。
そのまま膝から砕けてしまいそうになるのを寸前で堪え、よろめくようにその場から離れた。
自室に戻ると同時、寝台に頽れる。
喉が締め上げられているようだった。
(つまらない女――)
そう反復したとたん、視界がぼやけた。
マルタを見て、なにか漠然と感じていたものに決定的な名前を与えられたようだった。
『君は完璧だ。いつだって完璧で、これは君の欠点などという問題ではない』
――ジョナタはそう言った。
エヴェリーナはこれまでずっと非の打ち所のない淑女、理想的な王太子妃と言われてきた。
侯爵家の令嬢とはいえ、エヴェリーナの一家は貴族の中では歴史が浅い。系譜の長さがなにより重んじられる貴族社会にあって、爵位は侯爵でも実際はさほど力がないというのがエヴェリーナの父の悩みだった。
それを埋めるのが、エヴェリーナと王太子の婚約だった。
この婚約をなすため、父は相当に骨を折ったと聞く。エヴェリーナに十分な教育が施されたのは、それだけ父が期待し、誇らしく思ってくれていた証でもあった。
――お前が頼みだ、と父は言った。
我が侯爵家を背負って立つような、完璧な淑女になれと。王太子殿下を支えてさしあげろ、とも言った。
エヴェリーナはそれを受け、惜しみなく努力した。自分を磨いた。自他共に認める完璧な王太子妃候補になるべく力を尽くした。
なのに――その模範的な在り方が、完璧とされた姿が決まり切ったつまらない女になるのか。
そして野良猫と呼ばれるマルタは、宮廷人に眉をひそめられるマルタは――
(わたくしにないものを、持っている……)
あの奔放さ。物怖じしない態度。勝ち気さ。完璧とはほど遠い。
エヴェリーナの常識からすればありえない、そしてエヴェリーナには持ち得ないそれが、王太子を惹きつけるのだとしたら。
――はじめから、比べようもないのだ。
自分には、マルタのように振る舞うことなどできないのだから。
エヴェリーナは枕に顔を押しつけて嗚咽を押し殺した。
――遠い昔、家庭教師の課題がこなせなくて泣いたとき以来の涙だった。




