2話
感情を押し隠して、聞く。その先に、声にならぬ言葉をこめた。
――どうやって、あの人にこれほど愛されたの。
マルタは目を見開いた。そうすると、本当に猫のようだった。
それから、ううん、とうなって宙を見る。
「あの人、お忍びでうちに来たの。うちの料理、ちょっとした評判になってて。ご学友っていうの? その人に聞いて、一度食べてみたいって思ってたんだって」
そう切り出してから、マルタは笑った。
「恰好こそ平民っぽくても、やっぱり顔立ちとか所作とかって隠せないでしょ。それにやけにこう、態度が堂々としてるっていうか、余裕があるっていうか。どう見ても貧乏人じゃないし。変な人だなあって思ったの。すぐに、どこかのいいとこの坊ちゃんだろうなって思ったわ」
マルタは嬉しそうだった。
素朴で純朴な――隠すことのない喜びの表情。
エヴェリーナはそれを眺めながら、胸がじりじりと焦げていくような苦しさを味わう。
――料理。給仕。看板娘。
そういった庶民的なものが珍しくて、ジョナタは惹かれたのだろうか。
「でね、その……うちは酔っ払いも多くて。私、絡まれちゃってさ。両手に料理持ってたときで振り払えなかったのよね。すっごく腹が立って蹴ってやろうかと思った時、ジョンが助けてくれて」
「……ジョン?」
「ああ、えっとね、あの人、ジョンって仮名を名乗ったの。安直でしょ」
まさか王太子だなんて思わないじゃない、とマルタは照れくさそうな顔をする。
――酔っ払いから娘を助ける。
ジョナタに、そんな一面があったのかとエヴェリーナは驚く。
エヴェリーナの知るジョナタはいつも完璧な王太子だった。
エスコートはきわめて洗練されて礼儀正しく、婚約者であるエヴェリーナとの関係に不埒な噂をよせつけないほど常に正しい距離と態度を保ち続けた。
その――彼が。
「……そこから、なんとなく知り合いになって。うちの料理が気に入ったとかで、しょっちゅう来るようになって。王太子がまさかそんなことするなんて思わないじゃない? 王太子ってそんなに暇なの?」
「……いいえ、そのようなことは……」
「へ、へえ。じゃあ、よほどうちの料理が気に入ってたのね」
マルタがはにかんだ表情を見せる。
どろりと、エヴェリーナの胸の澱が動く。
――ジョナタが暇であるはずがない。だがわずかな隙間をぬって何度も通うほど、料理が気に入ったというわけでもない。
マルタに、会いに行っていたのだ。
エヴェリーナは胸を押さえた。
「ちょ、ちょっとお嬢さん? 大丈夫?」
「……失礼しました。何でもありません」
マルタが慌て、エヴェリーナは目を伏せながら胸から手を退かせた。かわりに膝の上で組んだ手に力をこめた。
――胸が痛い。どろどろとした黒い澱に、心臓を握りつぶされてしまいそうだ。
(聞きたくない……)
こんな話など聞きたくなかった。
マルタとジョナタの接点を知りたいと願っておきながら、その真実にひどく傷つけられる自分がいた。
どうして。
(どうしてなのですか、殿下……)
なぜ、なぜ、なぜ。
その問いばかりが頭を回る。
自分の何がいけなかったのだろう。なぜこの娘は愛されて、自分はそれがかなわなかったのだろう。
エヴェリーナは王太子妃になるはずだった。そうなるべくして育てられ、そうなるものだと疑わずに生きてきた。
なのにいま、愛というもののせいで押し退けられ、どうしたらいいかわからずにいる。
自分は愛されなかった――そのせいで王太子妃候補ではなくなった。
自分は何を誤ったのかとそればかりが胸を穿つ。
「――マルタ、エヴェリーナ」
ふいにそんな声が聞こえ、エヴェリーナとマルタは同時に顔を向けた。
エヴェリーナの心臓は強く痛みを覚えた。
王太子ジョナタその人が、応接間の扉に立っていた。
殿下、とエヴェリーナが呼びかけようとした声を、
「ジョン!」
弾むようなマルタの声がさえぎる。
同時にマルタは立ち上がり、ジョナタに駆け寄る。
「おいおい、礼儀作法はどうした。こんなふうに走っていいのか?」
「いまはいいの! もう、窮屈ったらありゃしないわ! こんなに窮屈なら、ジョンの求婚なんて受けなかったのに!」
「お、おい……!?」
「ふふ、冗談よ、冗談!」
二人は立ったまま、気安い会話をする。
エヴェリーナはぼんやりとそれを見た。
(……あのように、気安い物言いをしても……殿下はお怒りにならない)
ジョナタのこんなくだけた態度をはじめて見た。
内心の衝撃と絶望は、顔には出なかった。――ずっとそんなふうに躾けられてきたからだ。
エヴェリーナは徹底して、王太子たるその人に礼儀正しく接するよう厳しく教え込まれた。最上の敬意を払い、わずかな無礼も許されない。
王太子とその妃は衆目にさらされ、他国の使者とも接する。閨以外で、隙となるようなものを安易に見せてはならないとされていた。
なのに、マルタはそんなことをまったく気にしていないようだった。きっと知りもしないだろう。
――エヴェリーナには、あのような言動は決してできない。許されなかった。
そして何よりも。
(殿下は……こんな顔をされるのだ)
マルタを見つめる目は優しく、誰が見ても明らかなほど愛情に溢れている。すらりとした長身に、いつものような張り詰めた空気はない。
完璧な王太子ではなく、心和ませる一人の青年がそこにいた。
エヴェリーナの知らない王太子。エヴェリーナの知らないジョナタだった。
ジョナタはマルタに向けていた優しげな目をようやく持ち上げ、エヴェリーナを見た。
「すまないな、エヴェリーナ。マルタに教えるのは大変だっただろう」
「……いいえ」
「ちょっとジョン! 私だってがんばったんだから!」
マルタが童女のように主張する。
ジョナタは笑ってそれを受け止める。
エヴェリーナは、そんな二人をただ傍観していた。
(わたくしは――)
マルタのように、自分の功績を主張することはできない。
王太子妃としてあらゆることは完璧にできて当然だったから。
自己主張などしては、王太子であるその人に、驕っていると眉をひそめられると思ったから。
なのにいま王太子は、温かな眼差しでマルタの言葉を聞いている。
エヴェリーナはふいに、目の前が暗くなって立ちすくむような錯覚に襲われた。その錯覚で本当に動けなくなってしまう前に、椅子から腰を上げた。
「……では私はこれで失礼いたします」
「ああ、手間をかけた」
「ありがとね、お嬢様!」
二人に労われ、だがエヴェリーナは目を伏せていえ、と短く答えただけで足早にその場を辞す。
胸が重い。鈍い痛みがする。
一刻たりともここにはいられない。
ここは王太子の別邸。――もはや、自分の居場所ではなくなっていた。