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望みうる最善(1)

 エヴェリーナは奇妙な緊張感を覚えていた。かつては王太子妃候補として、緊張を強いられる数々の場面を想定して練習したものだが――これから臨む場は、そのどれにもなかったものだ。


 矢車菊の瞳は静かに、姿見の中の自分を見つめた。背後に立つ二人の侍女が、入念に髪を梳かして結い上げ、数歩離れて検分しては近づいて微調整し、ということを繰り返している。それだけ、主の緊張と意気込みを理解しているのだろう。


 結い上げた長い金褐色の髪、傷一つ無い白い肌に、紅を塗られた唇が際立つ。鏡の向こうから見返す矢車菊色の瞳は、長い金の睫毛に縁取られていた。


 夜会ではないため、エヴェリーナが今まとうのは露出の少ない濃緑のドレスだった。落ち着いた色合いだが、胸元や袖や裾に使われているレースや刺繍が精緻で控えめな品の良さを漂わせている。過度に強調せずとも、豊かな胸やくびれた腰つきは、理想の貴婦人といわれる体型に近い。


 出しゃばらず、だが相応に高貴に、そして知性を感じさせるように――今回のエヴェリーナの装いはそう演出するためのものだった。すべて、これから会う相手のためのものだ。


 二人の侍女の入念な調整を受け、エヴェリーナの装いはようやく仕上がる。あまり時間をかけすぎても、夫を待たせることになってしまう。

 私室から出て、玄関へ向かう。すぐに、執事がエヴェリーナの夫を呼んできた。

 長身にくわえ、見事な赤毛が目を引く美丈夫がやってくる。

 エヴェリーナの夫――ジルベルトは妻の姿を見るなり、微笑というにはやや鋭すぎる表情を口元に浮かべた。


「ずいぶん念入りに準備したようだな」

「……お待たせして申し訳ありません」

「構わん。妻の準備を楽しむぐらいの余裕はある」


 さらりと言われ、エヴェリーナも自然と笑みを浮かべた。ジルベルトの美貌にはやや鋭すぎるきらいがあり、不慣れなうちは皮肉や揶揄を見出してしまう者も多いという。だが今のエヴェリーナには、ジルベルトの微妙な反応の違いを見分けることができる。

 からかうようでいて、賞賛の響きが確かにそこに滲んでいる。


「では行こうか」


 ジルベルトが腕を差し出し、エヴェリーナは手を伸ばしてそこへ触れた。




 エヴェリーナがジルベルトの――第一王子の妃となってから、目まぐるしく時が過ぎた。ジルベルトの領地は王都から離れたところにあり、妻となったエヴェリーナも同行して、ほとんどの時間を領地で過ごすようになった。


 ジルベルトは第一王子という微妙な立場であり、社交界から一定の距離を置く必要がある。その妻となり、彼に従うことになったエヴェリーナに、かつては王太子妃候補として社交界の中枢にいたあなたにはさぞかし退屈でしょうとささやく者も少なくなかった。


 だが、エヴェリーナにとってはむしろ好都合ですらあった。王太子に婚約を解消された一連の騒動で、少なからず疲弊していた。

 憶測と嘲笑の飛び交う場所から離れ、また王太子とその新たな婚約者の噂も届かぬところにいれば、療養にもなる。――何より、ジルベルト自身のことを知ることができる環境というのはとても好ましかった。


 優れた第一王子という評判を裏切らず、ジルベルトは領主としても優秀で、田舎の地を瞬く間に活気づけ、栄えさせた。領主さま、と領民から崇拝の念をもって呼ばれている。

 のどかでありながら活気に溢れた領地の暮らしを、エヴェリーナは思いのほか気に入った。療養のつもりでいたのに、新しい自分を発見し、力が満ちていくようだった。


 だからこのまま王都に行かなくてもいい――暮らしも落ち着き、そう思い始めてきたときに、ジルベルトの館に王宮からの使者が来たのだった。


 ただの舞踏会や催し物なら断るジルベルトが、その使者がもたらした招待は受けた。

 弟であり王太子であるジョナタとその妻となったマルタが、ちょうど今、王宮をあけているからというだけではない。


 エヴェリーナはジルベルトと共に王都に戻り、都内にある第一王子の邸に移った。そこで完全な身支度を整え、ジルベルトと共に王宮へ向かうところだった。


 第一王子の紋章入りの馬車に乗り、エヴェリーナはジルベルトと向き合う形で座る。いつも以上に口数の少ない妻を見てか、ジルベルトは鋭く笑った。


「何をそれほど緊張する必要がある。我が母はそれほどおそろしい人物に思えるか?」

「! そうでは、ありません……! ですが、殿下の母君です。ここにいたるまで、ご尽力頂いていたと聞いています。どうお礼をしたらいいか……」

「そう固くなるな。母上もあなたのことを気に入っているようだからな。母はやや寛容にすぎるところがあるが、見る目はある。取り繕わずとも、そこに実があれば何の問題もない」


 はい、と答えながら、それでもエヴェリーナはやはり気になってしまった。

 どんな相手か事前に情報を得て把握することが当然とされてきたエヴェリーナにとって、義母にあたるはずの人物がいまいちよくわからないというのは不安を覚えるものだった。


 ジルベルトの評判は耳に入ってきても、その母だという人の噂はあまり聞いたことがないのだ。今日この日は、ジルベルトの母とエヴェリーナが会う日だった。ジルベルトの母のほうから強い要望があったという。


 エヴェリーナが王太子妃候補でなくなった一連の騒動の後、すぐに第一王子ジルベルトと結婚できたのは、ジルベルトの母その人が、王に働きかけてくれた面も大きい。かつて王の寵愛を受け女性であり、いまはよき友人として王宮で過ごしているというその人が、さりげなく助力してくれたのだ。

 これまで、ジルベルトの母はこれといって特徴的な噂を聞かない一方、悪い評判も聞かなかった。ゆえに、今回のように王に働きかけるというのは珍しいことのように思える。


 そのこととジルベルト自身の言葉から考えられるのは、政争から距離を置ける程度には観察力と冷静さがあり、王宮で平穏に過ごせる程度には無害で、息子と仲の良い女性という人物像だった。


(不興を買うようなことはしたくないわ)


 エヴェリーナはひそかにため息をつく。王に影響力を持ち、第一王子との繋がりも強い女性と不仲になるのは得策ではない。――かつて躾けられた、政争に関する感覚がそう告げている。

 だが、ジルベルトの母に嫌われたくないという気持ちはそれが理由ではなかった。

 エヴェリーナはそっと目の前の夫を見た。

 この第一王子の伴侶として恥ずかしくない人間でありたい――それ以上に、この人の母に嫌われたくなかった。

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