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12話

 ジルベルトの背を追って小走りになる。広い背が近づくほど、背後の声は小さく聞こえなくなっていく。


 ジルベルト殿下、と呼ぶ前にすらりとした後ろ姿が立ち止まった。振り向いて、エヴェリーナを待っている。


 エヴェリーナの胸は高鳴った。

 息を弾ませながら追いつく。立ち止まって呼吸を整えていると、ジルベルトのやや皮肉な声がした。


「あなたも存外鈍いところがあるな。いや、忍耐力があるというべきか。このような場にわざわざ参加するとは。ただの茶会であるはずがないだろう」

「! ですが……。いえ、言葉もありません」


 エヴェリーナはかすかな苦笑いを浮かべるしかなかった。


「それで。愛でもなく私欲でもないもののことはわかったか?」


 鋭くも透明な双眸がエヴェリーナを見る。

 エヴェリーナは少し考えながらもうなずいた。


「――わたくしは、マルタに嫉妬したのだと思います。ですがそれは、ジョナタ殿下のお気持ちが彼女に傾いたからというより、やはり王太子妃というものを奪われた衝撃が大きかったように思います。王太子妃になるというのは、ずっと、わたくしの目指すべき目標でしたから」


 言葉にすれば、それは嫉妬でもあり私欲でもあるように聞こえる。

 伝わるだろうかとエヴェリーナが不安げにジルベルトを見上げると、だが彼は反論するでもなく、静かに聞いていた。


「わたくしの気持ちを乱したのは、マルタという女性のありかたでした。侮辱するつもりはありません。ただ、彼女は、わたくしがこれまで必死に身につけてきたものを何一つ持っていなかった。ジョナタ殿下のお気持ちを射止め、ただ愛というもののために王太子妃にかわられてしまった。それなら……わたくしがいままで目指してきたものは、過ごしてきた歳月はなんだったのでしょう」


 古典。歴史。語学。礼儀作法。音楽。美術。政治力学。父親の期待と願いもあって、エヴェリーナは徹底的に王太子妃候補として教育を受けてきた。


 厳しい家庭教師を前に泣きながら音読させられた。舞踏の授業では体がくたくたになり、そのあとの座学ではまるで集中できなかった。それでも厳しく叱られた。


 ――美しくあることは当然だった。

 その結果得たのが、完璧な淑女という称号だった。そうまでしてようやく、王太子妃という目標にたどりつける。そのはずだった。


 口内にこみあげてきた苦さを噛みしめ、かすかに震える声を絞り出す。


「至らないなりに、わたくしは必死に努力してきたつもりです。ですが、マルタを見ていると――、マルタには確かにわたくしにない魅力があります。あの明るさや愛嬌、物怖じをしないところ。あれは生まれ持っての魅力ともいうべきもので、わたくしには到底得られぬものです。わたくしはその生来の魅力に負けたのでしょう。ですが……生まれつき持っている者に、持たざる者がどうやって敵うというのですか」


 言葉が溢れて止まらなかった。こんなにまくしたてるのは聞き苦しく、あるまじきことだ――まして相手はジルベルトだというのに。

 頭の隅でそうささやく声があっても、迸る感情は抑えきれなかった。


 日に焼けたマルタの肌。あけすけで、だが(とが)められることのない物言い。あれが天性の愛嬌であり、王太子の心さえ射止められるもので、他の欠点すべてを補うのだとしたら。


 ――そんなもの、自分には一生手に入らない。


「マルタを見ていると、自分がこれまで積み上げてきたものが、わたくしのいまの在り方が、ひどく無価値なものに思えたのです。それが、とても耐えがたく……」


 気持ちが高ぶり、喉がつまった。

 できない、わからないと泣いて、それでもあなたは王太子妃なのですからと許されなかった。そんな日々に耐えた。

 自分を高め続けたのは、すべて王太子妃という目標のためだった。


 そこに野心があったわけではない。ジョナタを特別愛していたのとも違う。

 ただ目指すものがあったから邁進まいしんした。それが生きる目的でもあった。あと少しで届こうというときに、これまでの自分を否定するような存在が目の前に現れた。


 だから。


「とても――悔しかったのです」


 その短い言葉が、王太子妃候補という立場を失った以後の、エヴェリーナのすべてだった。

 思い悩み何千何百という言葉を費やして、ようやく自分を見つけたような気がした。


(わたくしは……悔しかったのだ)


 寛容で慈悲深き完璧な淑女としては決して褒められた気持ちではない。

 けれど、この激しい感情が本当の自分だった。


 視界が滲み、ジルベルトから隠すように顔を背ける。強く息を止めて激情をやり過ごそうとしていると、ふいに顎に大きな手が触れた。

 驚きに目を見開く間に、優しく、だが抗いがたい力で持ち上げられた。


「それを、“誇り”というのだ、エヴェリーナ」


 エヴェリーナは、潤む目を見開いた。

 ぼやけた視界の中でも、ジルベルトの赤毛は燃え盛る炎のように鮮やかで、自分を見つめる双眸はそれ以上に鮮烈な輝きを宿していた。


「悔しいと思うのは、本気で取り組んだ証だ。全力で打ち込んだだろう。誇りは、そこにしか生まれない。これまで積み上げてきたものを否定するな。あなたを否定しているのはあなた自身だけだ」


 よく響く言葉が、一言ごとに胸を強く打つ。脆く揺らいでいた自分に、ジルベルトの言葉の一つ一つがいかりとなって繋ぎ止めるかのようだった。


 ――誇り。

 その言葉が、エヴェリーナの中で一際強く、太陽のように輝く。


「生まれ持ってのものは、どうしようもない。それは認めるしかない。だがあがきもがいて、己を高めたことを否定するな。研鑽(けんさん)を重ねた過去を否定するな。決して無駄などではない」


 顎を捉えていた手がそっと離れ、長い指が、滑らかな頬をそっと撫でた。

 その熱を帯びた指先にエヴェリーナは震え、自分の中の凝っていたものが溶けていくような気がした。


 ――生まれ持ってのものは、どうしようもない。

 ジルベルトの発したそれは、誰のどんな言葉より心に響いた。


『どれほど努力したところで、生まれはどうにかなるものではない。そのことに鬱屈を抱くほど若くはない』


 かつて淡々と言われた言葉。その意味を、いま衝撃をもって思い知ったような気がした。


 ――ジョナタを上回る器とも噂されながら、生母の身分ゆえに王太子とはなれなかった。

 そのことを受け入れるまで、ジルベルトはどんな日々を送ってきたのか。

 安穏な日々を過ごし、自然とその結論に至ったのでは決してないだろう。


(……この人は、きっと)


 もがいて、あがいて――それでも絶望しなかった。


 だから――こんな目をするのだ。

 こんなに深い共感と理解を表した目を。


 エヴェリーナももう、ジルベルトから目を背けることはできなかった。

 体中が熱く震えていた。自分にこれほど激しい熱があるのを知らなかった。ジルベルトという火が、自分の中に燃え移っているようだった。


「……私はジョナタに感謝している」


 唐突に、ジルベルトは言った。


「あなたをわざわざ手放してくれた。私なら決してそんな愚は犯さん」


 エヴェリーナは大きく目を見開いた。熱くなっていた体に、とたんに甘い震えがはしった。

 もう、曖昧な微笑で覆い隠すことはできない。


「王太子妃以外にあなたにふさわしいものは一つだけだ」


 頬に触れていた手が滑るように離れてゆき、エヴェリーナの手を取る。

 ――それは、とエヴェリーナは声なき声をあげる。

 ジルベルトの熱い唇が手の甲に落とされた。


 これまで何度も、何人もに受けた挨拶――だがいま、この人に触れられてこれほど体にさざなみがはしる。


 手の甲からわずかに顔を離し、強い瞳がエヴェリーナを見る。


「第一王子の妃。我が妃となれ、エヴェリーナ」


 熱のこもった、艶めかしい声がエヴェリーナを揺らした。

 くらりと目眩がする。けれど取られた手が強くて、動けない。


 熱く激しいものが胸をいっぱいにして、エヴェリーナの喉はひどくつかえた。

 けれど答えはもう決まっていた。

 その言葉はかつて何度も、ほとんど反射のように繰り返していたものと同じだった。

 ――でも、いまは。


「はい。ジルベルト殿下の、お望みのままに」


 豊かな感情の響きをのせて、元王太子妃候補は答えた。




 ◆




『 王太子ジョナタと、その妃候補であったエヴェリーナの突如の婚約解消にはじまる一連のできごとは、近年の王室でもっとも大きな騒ぎであっただろう。


 この騒ぎは、後にエヴェリーナが王太子の兄と結婚したことによって更に様々な憶測を呼び、長引いたともいえる。


 およそ作家と名の付くものはたいそう創作意欲を刺激されたらしく、この騒ぎを元にしたらしい悲劇喜劇が様々につくられた。

 経緯もさることながら、平民出身の王太子妃というのも何かと想像をかきたてられるものだからであろう。


 その後の王太子と妃について様々な噂が飛ぶが、幸福なものは少ない。

 宮廷という別世界のできごとであり真実は定かではないにしろ、平民出身の人間がすぐに受け入れられるはずもないことは、同じ平民である我々なら容易に理解できることである。


 一方で、元王太子妃候補と王太子の兄はその後比較的良好な夫婦であり続けたらしい。詳細がさほど残っていないのは、劇作家の食指を動かすような()()がなかったからかもしれない。


 また一説には、王太子がエヴェリーナに再び接触しようとしていたというものもあるが、これも巷間にはびこるもっともらしい創作かもしれない 』


 ――ある世人の手記より

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