11話
よく通る低音が、場を一変させた。
エヴェリーナは目を見開き、他の者と同様に声のほうを見る。
「兄上。先にはじめてしまいましたよ」
「構わん」
ジョナタただ一人が変わらず優しげな声をかけた。
ジルベルトの登場は、場にかすかな緊張をもたらす。
ジョナタとは反対に、ジルベルトは場を引き締めて周囲の注目や集中を促すような存在感を放っていた。
――けれどエヴェリーナだけは、奇妙にも安堵に似た気持ちを覚えていた。
(……来てくれた)
とっさにそんなことを思った。しかし、彼は自分のためにやってきたのではなく、はじめから招かれていたというだけのことなのだ。
それでも、生ぬるく澱んでいた空気を、ジルベルトの鋭さが切り裂いて清涼な流れを運んでくれるような気がした。
やがてジルベルトと目が合った。冷たさのある高貴な唇にふっと笑みが浮かぶ。
救われたように感じたのを見透かされたようで、エヴェリーナは慌てて目を逸らした。それでも、頬が少し熱かった。
――ゆえに、ジョナタがエヴェリーナの様子を見て軽く目を瞠ったことも気づかなかった。
「およそ予想はつくが、弟に何か言われたか」
庭園を散策している最中、傍らに立ったジルベルトが、少し声を落として言った。
エヴェリーナは言葉につまった。――ジョナタに悪意や皮肉を受けたわけではない。むしろ、その逆ですらあった。
ジョナタやマルタを中心に、他の貴人たちが少し先行して庭園を楽しんでいる。
エヴェリーナはジルベルトに付き添われるような形でジョナタたちの後を歩いていた。
――だが実際は、ジルベルトが他の人間から少し遠巻きにされているためでもあるようだった。
「あいつは善良ゆえ、少し鈍いところもある。このたびの茶会も、あなたのためを思って新たな相手をあてがおうなどと考えていたのだろう。新しい婚約者に浮かれて、あなたにも同じ浮かれ気分を味合わせることが罪滅ぼしになるとでも思っているのだ。あくまでもあなたのためだと思い込んでいるから余計にたちが悪い」
ゆっくりと歩きながら、ジルベルトはやや冷ややかにそう批判する。
しかしそれはほとんど的を射ており、エヴェリーナは息を飲んだ。
同時に、温かな水が体中に広がって行くような安堵を覚えた。
ジルベルトだけが、いまこの場で自分を理解してくれているような気がした。
「それで、答えは見つかったか?」
エヴェリーナは弾かれたように顔を上げる。ジルベルトを見る。
曇りのない、意思の強さを感じさせる目がエヴェリーナを見つめ返す。
「私欲でも愛でもなく、あなたを落ち込ませていたものの正体だ」
静かに問われ、エヴェリーナは息をつめた。
――この胸を軋ませた感情の正体。嫉妬というだけでは説明しきれない何か。
愛とも違う。野心ではない。
なら、それは。
エヴェリーナの中で、漠然とした感情が形をとりかける。
「兄上。エヴェリーナをそそのかすのはやめてください」
つかみかけた何かが、その声で解けてしまう。
エヴェリーナが少し慌てると、いつの間にかジョナタとマルタが近くにいた。追随していた貴人たちは、それぞれに別れて思い思いに散策しているようだった。あるいは気を遣って距離を置いているのかもしれない。
「そそのかすとはずいぶんな言い方だな」
「エヴェリーナは、私にとって大事な友人ですので」
ジョナタは大真面目に言った。その隣のマルタが、複雑な顔をしている。
ジョナタの目が横に滑り、エヴェリーナを見る。
「……君は、そんな顔もするんだな」
驚きのまじったような眼差しを受け、エヴェリーナは虚を衝かれた。
――そんな顔。
それほどおかしな表情をしているのか。急に不安になって、鏡で確かめたくなった。
ジルベルトが低くかすかな笑い声をもらした。
「淑女の仮面を脱がせられるかどうかは男の器量次第だ。お前が相手では、彼女も仮面を脱げなかったということだろう」
「な……!」
ジョナタが言葉を失う。
エヴェリーナもまた、驚いてジルベルトを見た。
とっさに焦り、ジョナタに向かって口を開いた。
「殿下、わたくしは、その……」
――見苦しい姿をさらしていたら申し訳ない。わけもわからぬうちに、とっさにそのようなことを口にしようとした。
だが、眉をつりあげたマルタが勢いのある声でそれをさえぎった。
「ジルベルトさん……あなた、ジョナタのお兄さんなのに本当にいやなやつね!」
「お前に好かれなくとも結構だ、野良猫」
「のっ……!?」
冷たく突き放され、マルタが大きく目を見開く。同時に、ジョナタが眉をつりあげて兄を睨んだ。
「兄上、マルタへの侮辱は許しませんよ」
「侮辱ではない。陰で言うぐらいなら本人に言うというだけだ。野良猫には野良猫の魅力もあろう。愛情を感じること自体を否定するつもりもない。だが王太子妃の地位は愛情で埋められるものではないぞ」
「そう何度も言われなくってもわかってます!! ジョンのためならがんばりますからっ!!」
両手を腰にあて、気の強さもあらわにマルタが反論する。
エヴェリーナは目を白黒させるばかりだった。
マルタはジルベルト相手にも物怖じせず睨みつけ、ジルベルトは冷厳にそれを見下ろしている。
――その光景に、エヴェリーナはじわりと暗いものが胸に広がるのを感じた。
愛想が良く、礼儀を知らないと言われるマルタ――けれど相手が王太子でも第一王子でも気さくでいられるマルタは、ジョナタを魅了したように、ジルベルトとすら親しくなってしまうのかもしれない。
エヴェリーナには決してとれない態度で、エヴェリーナには決してできない距離の詰め方で、マルタは平然と王太子の心を奪っていってしまったのだ。
(いや……)
いやだ、と痛烈な叫びが胸の内にこだました。
ジルベルトまでマルタに奪われたくない。
「……まあいい。せっかく招いてもらったところを悪いが、そろそろ辞去するぞ。この参加者と茶会というのは私には合わん。そこの野良猫も威嚇していることだしな。エヴェリーナは借りていく」
エヴェリーナははっと目を上げた。
「兄上、エヴェリーナをそそのかさないでくださいと言ったはずです! 彼女には、ふさわしい相手を――」
「誰がそそのかしているだと? 次の相手は彼女や彼女の周りが決めることであって、いまのお前が決めていいことではないだろう」
ジョナタの真剣な抗議を、ジルベルトはやや皮肉めいた顔で受け流す。
エヴェリーナは硬直していた。だが胸にわだかまっていたものが、ジルベルトの言葉でふっと軽くなるのを感じた。
「――それにだ。私では彼女の相手に不足だとでも?」
王太子の顔に驚愕が浮かび、凍りつく。
エヴェリーナもまた、反射的に手で口を覆っていた。
鼓動がとたんに乱れはじめ、表情を取り繕えない。――ジルベルト流の、きわどい戯れ言に過ぎないだけなのに。
「お、お戯れを……」
張り詰めた空気をとりなすようにエヴェリーナはそれだけ言うのが精一杯だった。
「来い、エヴェリーナ」
ジルベルトはただそれだけを言い、もはや用はないとばかりにジョナタに背を向ける。
エヴェリーナはうろたえ、ジルベルトとジョナタの間で視線をさまよわせた。
だが何か見えない力に引き寄せられるように、ジルベルトのほうへ踏み出す。
「エヴェリーナ……!」
焦ったようにジョナタが呼ぶ。その声はわずかにエヴェリーナの足を止めた。
――エヴェリーナの頭のどこかで、これまで培われた理性がささやいた。
ここで、これほど露骨にジルベルトと辞してしまえば、どうとられるか。
たとえそこに特別な関係などなくても、いくらジョナタであっても、ただの友人関係などとは思ってくれまい。否、他ならぬジョナタの前でこれほど露骨な行動をとってしまえば――。
ジョナタの傍らで、マルタが名状しがたい顔をしていた。怒っているような、不安を覚えているかのような表情。ちょっと、とジョナタの腕を引いている。
その様子を見たとき――エヴェリーナはふいに気づいた。
もう、胸の中に焦げ付いたものを感じない。あれは嫉妬ではなかった。
あれはきっと――。
エヴェリーナは、優雅に一礼した。
「お招きいただき感謝を申し上げます。途中で辞する無礼をお許しください」
無心に、丁寧に言ってドレスを翻す。
背中に、エヴェリーナと呼ぶ声が聞こえた。だがもう振り返らなかった。




