1話
何が起こっているのか、わからなかった。
自分の夫となるはずのその人、婚約者でありこの国の王太子であるジョナタは、金褐色の瞳を伏せた。
まるで罪の意識でも覚えているかのように。
――ジョナタのそんな表情を、エヴェリーナははじめて見た。
「いま……、なんと?」
エヴェリーナはかすれた声で聞き返す。十年近くも婚約者という関係にあって、彼の言葉を聞き返すなどという無礼をはたらいたのは、これがはじめてだった。
「……すまない、エヴェリーナ。君は何も悪くない。だが君に対するせめてもの誠実として、この婚約を解消させてほしい」
ジョナタは真摯に言った。
エヴェリーナは混乱する。言葉に詰まる。表情が取り繕えない。――こんな態度は、王太子妃として好ましくないとわかっているのに。
ここのところ、ジョナタが何か悩んでいるらしいことは感じていた。春の妖精のような朗らかな彼には似つかわしくない暗さだった。
深刻な様子で話があると呼び出され、こうして彼の私邸に来た。
――そうして、切り出された話だった。
「なぜ……、ですか?」
エヴェリーナの口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
――なぜ。なぜ。なぜ。何がいけなかったの?
わたくしは何を失敗したの?
ジョナタが目を上げる。細く高く形の良い鼻。気品と人を惹き付ける力を湛えた目。王族らしい自信と傲慢さと、けれどそれをくるむ希有な明るさを持った顔。
エヴェリーナの胸の内はかつてないほど乱れた。
「わたくしに何かご不満がおありですか。至らぬところがあるのは承知しております。具体的に仰ってください、ただちに……」
「違う、エヴェリーナ。君は完璧だ。いつだって完璧で、これは君の欠点などという問題ではない」
ジョナタは困ったような顔をして言う。
エヴェリーナの胸は騒ぐ。
「私に愛する者ができた。彼女を正妃として迎えたいのだ」
だから君とは結婚できない――王太子ははっきりとそう言った。
エヴェリーナは声を失う。目の前が一瞬暗くなる。ぐらりと世界が揺れる。
愛する者。
その言葉が頭の中で反響し、打ちのめす。
こんなとき、どんな態度を取ればいいのかどんな言葉を返せばいいのかわからない。
教えられていない。どんな反応をすれば王太子妃候補として正しいのか。
だが徹底して叩き込まれた習性が、感覚が、反射が、エヴェリーナの唇を持ち上げさせた。
――常に王太子の意に添い、その心を察し、慰めるべし。
頬を動かし、落ち着いた典雅な発音で発声させる。きっとどの言葉よりも多く口にしたであろう答えを。
「はい。殿下の、お望みのままに」
王太子妃候補として、答えた。
ジョナタは金褐色の目を見開き、そして――そうか、と安堵の表情を浮かべた。
◆
王太子ジョナタと侯爵令嬢エヴェリーナの婚約が破談になったとの報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。
二人は幼い頃より婚約者同士だったが、彼ら自身が直接関係しているわけではない諸問題が重なり、正式な結婚が先延ばしになっていた。
昨今、それが片付き、ようやく結婚式を間近に控えたところであった。
それが、突然にして白紙になったのである。
この唐突な婚約解消劇は、ジョナタとエヴェリーナについて様々な憶測を呼んだ。しかし続く再婚約によって、王都は更に噂と憶測の嵐が飛び交うこととなった。
王太子ジョナタは侯爵令嬢エヴェリーナを捨て、平民の女マルタと婚約したのである。
――では、そのマルタとはいったいどのような女なのか?
絶世の美女であるとか、実はさる高貴な方のご落胤であるとか、さまざまに噂がささやかれ、その噂がまた別の噂を呼び、しばらく都を騒がしくしていた。
「あーっ、もう! なんなのこの裾! 動きにくいったらありゃしない!」
怒れる猫を思わせる声が、エヴェリーナの耳をつんざいた。
この王太子の別邸でこのように声を荒らげるものは、他に誰一人としていない。
応接間の一室に、エヴェリーナとマルタはいた。
怒れる猫に似たマルタは、繊細な刺繍と真珠の縫い付けられたドレスをさも鬱陶しそうに持ち上げ、怒りの声をあげている。
そしておもむろに、エヴェリーナに振り向いた。
「ねえ! 他の服はないの!?」
「……それが一番、装飾が少なく動きやすいものです」
「はあ!? 信じらんない! あなたたち、よくこんな衣装で毎日生活できるわね!」
マルタは高くたたみかけるような調子で叫んだ。
エヴェリーナは答えられなかった。圧倒されるような思いで言葉を失っていた。
王太子ジョナタに、マルタの教育係を頼まれたのは一週間ほど前のことだ。
『マルタは……野良猫のような女だ。王宮の作法をまるで知らない。このままではたいそう困ったことになる。そこで、あまりにも図々しいとはわかっているが、あなたに教育係を頼みたいのだ。あなたほど完璧な淑女はいない。それに……あなたに、マルタを知ってもらえればと思う』
ジョナタは少し歯切れ悪く、エヴェリーナに言った。
けれどエヴェリーナは見た。
野良猫、と表現しながらも、かつての婚約者の目元が柔らかく和むのを。
その声に温かな愛情が滲むのを。
元婚約者に、新たな婚約者の教育を頼む――エヴェリーナの侍女や親類の者は怒ったが、エヴェリーナ自身は拒めなかった。
はい、殿下。お望みのままに。
いつものように、そう言ったのだ。
あるいは――マルタという女がどういう人間であるか、確かめてみたいという気持ちがあったのかもしれない。
「……お立ちください。そのように勢いよく椅子に腰掛けてはなりません。衣装にも皺ができてしまいます」
「座り方までいちいち決まってるの!? はあーっもう! 貴族ってほんと……! あ、ああ、別にあなたに悪く思っているとこがあるわけじゃなくて!」
マルタは遅れて気づいたとばかりに少々慌てた。
エヴェリーナは目を伏せ、気にしておりません、とだけ言った。
――マルタ。平民の女。
粗野で粗暴な、と侍女たちは眉をひそめたが、エヴェリーナの理性は、それも平民出身なら仕方のないことだと認める。住む世界が違うのだ。たとえば陸の生き物を、海の世界に連れてきたらまったく異なる振る舞いになるだろう。
あまりにも人種が違うので眉をひそめはしたが、不思議と醜女だとは思わなかった。
肩につかないほど短く切りそろえられた暗褐色の髪。
薄茶の目は少し大きめで、眉には気の強さが見てとれる。
小さめの鼻や血色の良い頬には、王宮に仕える人間にはない生命力が感じられた。どこかたくましさもあり、愛想の良さが魅力的に映る人種だろう、とエヴェリーナは思う。
――それでも。
(……なぜ)
どうして、この女性なのだろう。たとえ平民でも他にいくらでも別の女性がいたのではないか。
自分の何が、この女性に劣っているのだろう。
エヴェリーナは矢車菊を思わせる碧眼に、金褐色の長い髪をもっている。
純粋な金髪ではないところに欠点はあるかもしれないが、マルタと比べれば断然美しいとされる色だった。
肌の色も、マルタが無造作に陽に焼けているのに対し、エヴェリーナの肌は処女雪のような白さだった。
鼻はマルタより細長く高く、穏やかな目元はよく高貴だと謳われる。唇はもとより赤く、花にしばしば喩えられる。
酒場の看板娘、働きものであったというマルタは体も引き締まっている――やせ気味である。
対してエヴェリーナは肉付きがよく、豊満といえる体つきだった。
宮廷人の美の基準からすれば、エヴェリーナがマルタに劣っているところは一つもない。
外見だけではない、家柄も、育ってきた環境も教養も、何もかもがこれといって劣っているとは思えなかった。
(私に、何が足りないの?)
マルタという女を目の前にして、エヴェリーナの疑問は深まるばかりだった。
そしてその疑問の分だけ、胸をじりじりと焼かれるような苦痛があった。
ジョナタは決して激情家というわけではない。感情が豊かだが穏やかさも持ち合わせている。
立場をかんがみて理性的に考えるなら、たとえマルタという女を愛していたとしても、エヴェリーナを正妃とし、マルタを愛妾とするのが普通だ。それでも反発は起こっただろう。
だが、ジョナタはわざわざエヴェリーナとの婚約を解消した。
――正妃にしたい、と言った。
ジョナタを溺愛している国王夫妻もさすがに驚いてはじめは止めたと聞いた。しかしそれでも結局折れたのは、ジョナタのほうが決して折れなかったからだという。
それだけ、マルタという女を深く愛しているのだ。
考えるほど、エヴェリーナの胸に重く暗い澱がたまってゆく。
エヴェリーナのそんな思いにも気づかず、マルタは入室するところから椅子に腰掛けるという他愛のない動作に何度も格闘していた。王太子妃ともなれば、一挙手一投足が女性の模範とされる。
エヴェリーナがようやく及第点を出すと、マルタは椅子に座ったまま、深々と溜息をついた。
「はあもう、前途多難だわ」
言葉とは裏腹に、マルタはさほど落ち込んでいなかった。
エヴェリーナは礼儀正しく、批評の言葉を慎んだ。けれど、胸に澱んでいたものが言葉になって浮かび上がるのは止められなかった。
「……一つ、うかがってもよろしいですか」
マルタは大きな目をエヴェリーナに向けた。
「何? って、ああ……何ですの? って聞かなきゃいけないんだっけ? ううん。あなたも、そんな大仰な言葉じゃなくて普通に喋ってくれたらいいのに」
「……これが、わたくしの普通ですわ」
「そ、そう。そうよね、侯爵家のご令嬢だもの……」
マルタはばつの悪そうな顔をした。
エヴェリーナはぼんやりとそれを見つめていた。
「どのようにして……ジョナタ殿下とお知り合いになったのですか?」