3.臨淵羨魚の現実
「よっこらせ、っと」
右脇に抱えていた自転車を、訳もわからず湧いてきた謎の掛け声とともに持ち上げる。
分かれ道での選択に正解不正解は無いものの、思っていたよりも右の道の坂道は険しいものだった。
道の真ん中に巨木が思いっきり生えているのは、もう今となっては当たり前になりつつある。
だが流石に、段差が七十センチもあろう岩がゴロゴロしていたり、倒木が積み重なっていたりしていたのには、正直驚いた。
それらを懐中電灯で探りながら越えていくのは至難の業だ。
濁った川を、仕方なく浸かりながら進む。
草叢や薮を掻き分けながら進む。
滑って、倒れ、起き上がり、歩く。躓き、転び、そして立ちあがり、また歩く。七転八倒。七立八起。
少しだけだが、森が開けてきた気がする。
それとは別の方向から、微かな“煌めき”が見えた気がした。
開けてきた森、その先のあらゆる情報を視覚が真っ先に捉える。
「――おい、おい。……ちょっと待てよ」
道は大きく左にそれ曲がり、その右側には――断崖絶壁。
崖下では濁流がうねり、迸っている。
――どういうことだ、最悪じゃねぇか。
まず、崖際に欄干が無い。
次に、今すぐにでも崩れてしまいそうな崖の足場。そして雨という、地面がとても滑りやすくなる、危険な天候。
極めつけは、琉希飛自身が高所恐怖症であるということだ。
つまるところ――琉希飛十四年の歴史の中で最大の恐怖を生み出しているものが、今目の前にあるということになる。
腹を括るしかない。
琉希飛は一時、引き返そうとも考えてしまった。しかし、戻るわけにはいかない。自らの意地が許さないからだ。
琉希飛は、恐る恐る歩みを進める。
崖下では濁流が、琉希飛を招き入れるように波打っている。
もしここで足を滑らせたなら、もし落ちてしまったら……
いろいろな『最悪』が頭を過っていく。だが、そんな『最悪』のことなど考えられないのだ。それほどまでにこの崖が怖い。
『早く終われ』と願うほどそれは、とてつもなく長く感じる。だからと言って『早く終われ』と思わずにはいられないというのは、どういう矛盾だろうか。
そんな『早く終われ』という願いが届いたのか、断崖エリアの終わりが見えてきた。
急に高鳴ってきた鼓動を抑えながら、着実に前へ進んでいく。
終わりが見えても油断は禁物だということくらいは分かっているが、それでも『もう終わる』という希望の前には屈するしかないのだろう。
「はぁ、はぁ……。終わったぁぁ」
今すぐにでも地面に寝転んでしまいたい衝動を抑え、琉希飛は胸を押さえる。
どうにかしようとする思想をめぐらす間隙はとうに安堵の念に埋められてしまっている。
それに加えて、心なしか雨が弱くなった気がした。
急カーブ断崖エリアの次は、直線路だった。
侵入者を拒むように生えている薮の束を、掻き分ける。
「痛ッ」
前々から切っていた箇所を、再び切ってしまった。二度も同じ箇所を怪我をするのはとても痛い。
それに続くように指の腹や、手の甲も何箇所となく切っていて、ジクジクとそれぞれが痛んだ。
顔に近づけてみると、はっきりと血が流れていて、思わず目を逸らした。
痛いのも、グロいのも嫌いだ。ただそれだけだった。
直線路の地形は、まるで登山歩道のように段々と石が組まれていて、今までとは一風変わった雰囲気をしていた。
それに、どうやらここだけは人の手が行き届いているらしい。そんなことならさっきの崖もどうにかして欲しいところだ。
だが、今は亡き先人に怒りを顕にするのはいかにも馬鹿らしいと思い、琉希飛は自身の心を鎮めた。
この上には戦国時代の山城でもあるのだろうか。あるいは開拓用の資材置き場のようなものだろうか。
それが何であれ、琉希飛にとって雨を凌げるような屋根さえあれば充分なのだ。
それに、ここ、またはこの先に何かしらの人工物があるのではないかという推測は、周りの状況から見るに、現実味を帯びてきている。それだけは確実である。
なぜだか、この直線路の出口に月明かりではない何かの“煌めき”が見えた気がした。多分、久しぶりに外に出てきたから疲れているのであろう。早くこんなところを抜けて休まねば。変な衝動が琉希飛の足を急かす。
その“煌めき”は、断崖エリアの前で見たものと妙に似ていた。あれは何なのだろう。
そんな疑問を抱く前に琉希飛は直感した。自分はあの“煌めく何か”に、本能的に導かれてきたのではないか。それと同時に琉希飛に琉希飛の胸中に畏怖の念が芽生えた。
そして琉希飛の目には、前方にある“煌めき”が何かのオーラを纏っているかの如く、更に異様に煌めき始めたように映った。
琉希飛は我に返り、改めて歩き出した。
自分は知的好奇心によって導かれた、という考えが頭から離れない。
不思議と、だが自分は確実に興奮してきた。
こんな感覚は、今までに味わったことのないものだった。妙な昂りが琉希飛の心を刺激する。
雨が降り、風も吹き止まない森の中。そんな環境だが、琉希飛の鼓膜は、明らかに場違いな電子音を捉えた。
その発音源はリュックの中にあると悟った琉希飛は、すぐさまチャックを開き、雨粒がどんどん入っていくのもお構いなしに手探りでスマホを探した。
ずぐに見つかったスマホの画面には、かつての剣友の名があった。
琉希飛は迷う。――もちろん、その電話に出るか否かにである。
いや、迷っている暇はない。着信音はいつ切れてしまうか分からない。
琉希飛は少しの遅疑逡巡の後、ようやく着信ボタンを押し、機体に耳をあてがった。
突然の電話だった。
発信元は、日下優弥という男。
彼は、去年まで琉希飛の学校の剣道部の主将だった。“去年まで”というのは、その学校から琉希飛が転校したのが去年だったから。両親の死に伴って、伯父の家に移るためだった。
彼は頭脳明晰、運動神経抜群、ルックスもなかなかのもので、クラスの中核を担うような存在だった。
そんな彼は、行き場を無くしていた当時の琉希飛を奮い立たせ、彼の輪の中に入れてくれた。
そんな彼から電話がかかってくるのは大抵、お互いの近況を語り合うためである。
半年前くらいから音信不通だったので、今このタイミングでかかってくるとは思いもしなかったが。
「俺だけど、こんな時間にどうした」
いろいろな迷いを胸の中に押し込め、努めて平常心然とした口調で切り出す。
「よっ、玄野。元気してるかい? もちろん俺は元気だけど」
機体越しに優弥の――中二生にしてはやや高めの声が聞こえてきた。相も変わらず、元気にしているようで何よりだと、琉希飛は思う。
「あぁ、元気ですが。いえ、あの……どちら様でしょうか」
「いやいやぁ、分かるでしょ! 俺だよっ! 俺! 俺!」
「……すみませんが、そういった電話はお断りでして。他をお当たりください」
「ちょっと待て! 何か違うぞ!」
「はいっ、……冗談でした! んで、今日は優弥、どうしたんだ? 」
こうして冗談をかまして話すのはいつぶりだろうか。そしてこんなことができるのは、琉希飛と優弥の仲だからでもある。
「そうだったなぁ。今日は玄野に言いたいことがあるんだ」
「ほぉ。もったいぶってないで、早く言いなよ」
「分かったよ。じゃあ言うぞ! 聞いて驚くな!」
今度は空気を読んで黙ってみる琉希飛。
優弥の息を吸う音が、機体越しに微かに聞こえた。
「こないだ、剣道の新人戦があってなぁ、そこで俺たち、ベスト四に入ったんだ! だから今度の春の県大会に出るんだ」
嬉しげな口調で発された優弥の言葉を理解するのを、なぜか琉希飛の脳は拒むようだった。
『ケンタイカイニデルンダ』という言葉の意味を、ようやく理解することができた琉希飛の頭に、ある記憶が蘇る。
そう、ある記憶とは、『あの日』のことだ。あの、忘れがたい敗北の記憶――