1.竜の路
竜。
それは、想像上の生物である。
姿は大蛇のようで、頭には角がある。
翼、四肢、長い髭などの有無により個体差、あるいは種間差が生じており、大きく東洋龍と西洋龍に分類される。
口から炎や毒を吐くものもいる。
その存在は神話だけに限らず、もっと身近な――アニメやゲームでも多様なものが登場している。
他に、未確認生命体という見方をする人もいる。
だが、あくまでも神話や伝説の域の、いわゆる想像上・空想上の生物でしかない――少なくとも琉希飛はそう捉えている。
で、ここからが伯父の話だ。
この鑑ヶ原の南部――竜見地区のさらに西部に九つの霊峰級の山々が屹つエリア。ここは昔から開発されずに残されてきたエリアだ。
その山々の間の谷を縫うように通る竜渓路が開通したのは、今から千年前である。
その開通工事をしていたときに、人々は次々と竜を目撃したらしい。それと同時に、あちこちで土砂崩れが多発するようになった。
それを、「竜を怒らせたのは我々のせいだ」といった先人たちは、畏敬と鎮魂の念をこめて、竜渓路の途中七ヶ所にそれぞれ七つの竜を祀る祠を建てた。
また、周りの山の名前をそれぞれの竜を祀る名前にした。
それ以来竜渓路での怪事件はなくなり、何世紀もの間、隣町との交通路として栄えたのだった。
だが高度経済成長期に入ると、様々舗装された国道や高速道路があちこちで開通。ここもその例に漏れず、次々と峠越えの街道やトンネルが貫通していった。
それにより、結果として竜渓路は衰退の一途を辿ったそうだ。
ただ、山を越える道路はどこも自転車通行禁止らしい。
そこで山を越えて行こうとする琉希飛が目をつけたのが、この竜渓路というわけだ。
今、琉希飛は不安でしかなかった。
既に最後の信号を渡り終え、いよいよ本格的に竜渓路へと足を踏み入れる次第である。
――後戻りはしたくない。
琉希飛はいつも、そう心に決めている。
ゆえにこの往路を悔やみ、立ち止まり、後戻りすることは、己が許さなかった。
ゆえに、己のけじめがつくまではあの町には戻らない――そう信じている。
途端、言葉では表し難い寂寥感が胸を襲った。
それが後悔というものだ――とだけは考えたくない。拒否、拒絶だ。
一気に人の気一つしなくなった道を漕いでいくと、すぐに高速道路の高架橋上に出た。
夜だというのに、そこを走る車はたくさんあって、なぜだか見蕩れてしまう。
それは、後悔からだろうか、寂寥からだろうか。理由が何であれ、高速道路を走る車の喧騒が懐かしいというのは、他でもないある一つと理由にあると思えた。
いつくらい前だっただろうか。父、母、自分、年の離れた弟の家族四人全員で旅行に行った記憶が蘇ってきた。自分は運転する父の隣、冗談話に顔を綻ばせていた。
――鮮明な記憶が脳内で展開されていく。
どれほどの時間、見ていたのだろうか。見当がつかなくなる程見続けた後、ふと我に返り、呟いた。
「――俺って、何がしたいんだろ」
決して自虐的に発せられたわけではないそれに、答えてくれる人は――いない。
溜め息を一つ吐き、琉希飛は森へと入る。
この辺りからは、アスファルトでの舗装がされていない。なので道のあちこちで木の根や一枚岩が、その姿を露にしていた。
琉希飛もここからは自転車を降りて、自分の足を頼りに進むことにする。
自転車のライトだけでは心許ないので、リュックの中から懐中電灯を出して使うことにした。
微かに注がれてくる月光は、道を照らす宛てにはならない。
――水の流れる音が聞こえてきた。
それは木々のざわめく音に遮られていたが、琉希飛が歩くに連れて次第に近づいてきたように感じた。
「この辺に川か……知らないな」
やたらと竜渓路に行きたかった琉希飛だったが、伯父の話に惹かれただけで、どこにどういうものがあるかなんていうことについては全くの無知である。
――行ければいい、越えられればいい。琉希飛はそう思っていた。
道が大きく左に反れてからしばらく進んだところで、琉希飛は懐中電灯の明かりの先に奇妙なものを見た。
早く見たい――逸る気持ちに駆られつつも、転ばないよう慎重に近づいていく。
そこには小さく、そしてとても簡素でお粗末な祠があった。
それは神社にある揺拝所と似た趣を持っている。
屋根すらないそれの台座には、金色をした西洋龍の置物が固定されていた。不思議なことに、全く錆びついていない。
また、隣には碑が立っており、そこには“皇ノ龍ノ祠”とだけ、まるで墓石のように彫られている。
試しに碑に彫られた文字を人差し指で少しなぞってみると、大量の苔が付いてきた。
それ以外には何の特徴もないそれだったが、どこか侮ってはいけないような神聖な雰囲気を漂わせている。
「まぁ、手ぇぐらい、合わせとくか」
呟きつつ合わせ手を作り、礼をし、そして考えた。
……“皇ノ龍ノ祠”。確か、“皇”は、“開祖の偉大な王、宇宙を取り締まる神、偉大なさま、大きくて立派なさま”という意味だったはずだ。ちなみに最前者は、紀元前二二一年に秦の国王が、自分を“始皇帝”と称したことに由来するらしい。
家で漢字の勉強をしていたときに読んだ本の内容が今、鮮明に思い起こされる。
つまるところ、“皇ノ龍”というのは、皇帝のような威厳を醸した龍だったのだろう。
少し見てみたい気もするが、それが現れたのは千年も前のこと。到底無理な話である。
「よし、行くか」
ほとんどを考察に費やしたが、そもそも特に願うようなこともないので、それもそれで仕方ないと納得した。
自転車のライトと懐中電灯の明かりを、それぞれ二割八割程度の比率で頼りながら、寒き冬の夜の森を進んでいく。
「今、何時だろ」
スマホを取り出していちいち見るのは面倒なので、手元の腕時計に明かりを当てて時刻を確認する。アナログな針は八時半を軽く過ぎた点を指していた。
再び懐中電灯を前に向けると、かなり先のほうに第二の祠らしきものを確認できる。
懐中電灯の明かりを反射したのは、さっきの祠にもあったものと同じ西洋龍の鋳物だ。
別種の龍を祀るのなら、普通は違うものを用意するのではないかと、軽く物申したくなってしまう。
祠の名は、“神ノ龍ノ祠”。相変わらず、文字が彫られた碑には苔がビッシリとこびり付いている。
“神ノ龍”というのは読んで字の如く、“神様の竜”という意味だろう。
とりあえず掌を合わせた後、速やかに通過させていただいた。
しばらく進むと、また祠が見えてきた。この辺りの祠の配置は結構狭い間隔にあるように思える。
だが、この祠は他のそれとは少し違う点があった。祠が二つ並んでいるのだ。名を刻んだ碑はその間に配置されてある。それらの名は、“辰宙両龍ノ祠”。
翼が両側に二枚なければ空を舞うことができないように、双方がいることで意味を成す竜なのだろうか。
だがそれにしては“辰”と“宙”が一番になる意味が、思い当たらなさすぎる。
でも結局のところそんなことはどうでもいいので――琉希飛には全く関係のないことだから――実際「どうでもいいか」と思いながらもやはり、掌を合わせるだけのことはする。
さっさと通過しようとする琉希飛。
――次の瞬間 、琉希飛の体に不可思議な重圧が圧し掛かった。
体が異常に重くなったのは、そこを通った一瞬のみ。なのに、後遺症と言うべきか――通過した後も激しい眩暈と、込み上げてくる嘔吐感。
「ぬぅっ、ぅぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
それら二つに押し潰され、琉希飛はとうとう悲鳴を上げた。
体験したことのない感覚。“誰もいない森”という環境。
それらが、琉希飛の体を蹂躙し尽くす恐怖となって襲いかかる。
――苦しい……
――気持ち悪い……
――死ぬかもしれない……
負の三重奏が琉希飛を襲っていく。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁ――」
――そのとき琉希飛は、初めて本当の苦しみと出会ったのだった。