1.自覚
――午後六時半。玄野琉希飛は、家出の支度をしていた。
通学用のリュックサックへと、中学入学祝いに買ってもらったスマホと、小銭で重くなっている財布、――何をするつもりかは考えず、ひたすらに――筆記具とノートを適当に二冊、その他諸々を雑多に詰め込んでいく。
父に貰って大事にしていた懐中時計をリュックの小さいポケットに入れ、利便性を考えての腕時計をはめる。
唯一、思い入れのあったものといって思い出せた写真立て。
今は亡き祖母、海外赴任中の伯父と撮った写真――最後の写真を眺めながら、壊れないようにそっとリュックへ入れた。
――そうして『やることさえ決まってしまえば、もうこっちのもんだ』とばかりに、荷詰め作業を進めていく。
「意外と少ねぇなぁ、俺の思い出の品」
自嘲してみせるが、そこにいるのは沈黙と夕闇に暮れる部屋で、答えるのもそれに同じ。
「はぁ」
……独り言が、多いか……な。
その理由くらい知っている。でも、それを思考の範疇から払っているのは、考えるだけで気が萎えてブルーな気分になってしまうからだ。
答えを呼び起こさないようにただ、そのことを自身に向けて唱え続けていた。
それは琉希飛が今この時、“する理由”を忘れてしまえているからでもある。
自分が、こんなにも一生懸命になれたのはいつぶりだったろうか。
“すべきことのなかった空虚な日々”が“すべきことのある今”になったことで、やっと気づいた“楽しさ”があって、やっと気づいた“使命感”があった。
――ゆえに、琉希飛は止まらない。ゆえに、琉希飛は向かい続ける。
◆
――午後七時過ぎ。琉希飛は家を出た。
鍵を閉め、それをポケットに突っ込んでジャラジャラと戯れに鳴らす。それと同時に帽子もかぶる。
十一月下旬の冷気はそこそこなのだが、今季は寒波が到来しているということで、いつもより寒いように感じた。防寒具を身に纏うと、少しだけだがそれが緩和されたような気がする。
だが、微かな霙を着飾る夜の街はそれでも寒い。
その寒さは自分を投影しているのだろうか――ある種の感慨が胸を襲った。
それを、払う――自分には必要のないことだ、と言い聞かせて自らを宥める。
これで約一年の微妙で中途半端な生活とはおさらばだ。思い返したって、特別な思い出など全く無かった。
『今』は、『今』だけは、この先に待つ、自分の希求する『何か』を望んでいたい――その、従来には信じすらしなかった望みに、賭そうとせん思いを強く抱いて。
――行こうと思う場所は、もう決まっている。
まずは、家の隣にある坂で川の堤防の上へと漕ぎ始める。
砥崎川、と呼ばれるこの川は、琉希飛の住む町――鑑ヶ原市の北部を流れる川だ。
その堤防をいつも通りに西へと向かう。
対岸にも住宅街が広がっていて、こちら側よりも明るい輝きで満ちているように見えた。地の砂利にハンドルを取られそうになる。
街灯の無い中、自転車のオートライトと自分の暗視力を頼りに隣の橋まで、走る。
終盤のアスファルト舗装のされた地を「あぁ、ここまで来たか」と言って迎えながら、駆ける。
橋を渡る。
昼間なら、ここから砥崎川を眼下に臨める。
ただ、夜闇に包まれた今は見下ろしても、街灯の明かりを川面が反射しているだけである。
綺麗かどうかと問われれば、そちら側だと思うが。
「はぁ」
ありふれたそれだけの情景に琉希飛はしばしの間、焦がれていた。
橋を渡り終えると、道路を挟んで右手に地域文化会館が見えた。
その奥に、琉希飛が今も通い、心の拠り所としていた剣道の道場がある。
今日も行く――はずだった道場から発せられる門下生や師範の気勢は、ここからでも感じられるようだった。
いつもならとっくに稽古をしている時間なので、通りすぎるのに多少の罪悪感が生じる。
――行かなかった理由は最早、明確である。
「コンビニにでも、寄ろっか、な」
早くも息切れと寒さに耐えきれなくなってきたので、休憩がしたいと思えてきた。
「えっと、銀街道だから……あそこにあったか」
銀街道とは、この鑑ヶ原市を南北に貫く大通りで、同時にこの市で一、二を争うメインストリートの名前でもある。ただし、メインと言っても車の量はそこらの道と同じくらいで、特に有名な箇所もない。
そんな閑散とした通りを一キロほど進んだところのコンビニに入る。
だが、買うものも何もなかった琉希飛は、その暖房の入った店内を少し、ブラブラ歩いただけで早々に出てしまった。
「何、しようと思ったんだっけ」
思わずこぼれた内心を特に隠そうとせず考えようともせず、琉希飛は再びペダルを漕ぎ始めた。
途中、名古屋走りや信号無視をする車を何回か見た。
ながらスマホをして自転車に気づかず、ベルをけたたましく鳴らされている若者もいた。
……何だ、コイツら。
不謹慎にもそんなことを思ってしまった。
こういうのがいるから何も進歩しないんだよ……
また二キロほど進むと、曲がるべき交差点に差し掛かった。西側には、市街地には珍しい、山――三知山が立っている。
「あぁ、ここだ」
信号を待ちながら呟く琉希飛の左前――南東の敷地には、嘗て父が勤めていた自衛隊の基地がある。
季節は冬だというのに――まるでそんなのは感じていないかのように――グラウンドでは祭りが催されていた。祭りは盛況といった様子で、気づけば周囲には人ごみや路駐された車がそこかしこにあった。
……よく考えたら、今日ってそんなんだったっけ。
まだ信号は青にならない。
正面から家族連れとすれ違う。
――両親と手を繋いでいる男の子の笑みが、琉希飛の心によく映えた。
琉希飛はまた一つ溜め息を吐き、人ごみを避けながら信号を渡る。
「溜め息なんかじゃ、何も変わんねぇんだよ」
自らを激励したつもりが、それは夜の住宅街の中に吹き溜ってしまうばかりである。
――『自分』が、もし、変われたのなら……
どうなるのだろうか、『自分』は。
そんなことを思いながら、琉希飛は緩やかなカーブを抜けて往く。
――怖いのか、どうなるのかが。
不安。心配。懸念。
――何してんだ。とんだバカ野郎だな、俺は。
諦念。呆れ。――。
あぁ――
「――そんなくらい、分かってるさ」
分かってる。だから決めた。
「もう、家になんか、帰らねぇ」
自分探しの旅。なんてカッコいいことではないけど――
「――父さん、母さん。俺は、信じるよ」
自分に残してくれた言葉。
それを信じて、琉希飛は宛て無き旅への想いを募らせる。
宛ては無し。金も無ければ、人情にも頼り難し。――そんな旅路に。
目的地、到着点はおろかゴールすら無くあろう。――そんな冒険を。
――憧れ、そして望む『自分』が今、ここにいるのだ。
それならば、進まぬ道なんて無いだろう。
「父さん、母さん。俺は……いくよ」
琉希飛は町の南西方向――竜見山地へ向かって、再び自転車を漕ぎ出す。
この信号を渡れば、もうこの町とはお別れだ。
それに自分は、霙が降り止んでいたことにさえ、今まで気づかなかったようだ――。