第4章 おっぱいがいっぱい
今夜は鍋だ。白菜を筆頭に、ニンジン、大根、椎茸、もやしなどの野菜と、豆腐や肉団子を買い物かごの中に入れて、さっさと会計を済ませる。デュラハン問題もあって少々気疲れしていたため、食材をぶち込むだけで足りる鍋という選択肢になったのだ。
完全に陽の落ちたスーパーからの帰り道、天崎は買い物袋片手にスマホを取り出した。
電話をすると、コール二回で相手が出る。
「よぉ、小悪魔。今いいか?」
『なんだい、『完全なる雑種』。また面倒ごとにでも巻き込まれたのかい?』
「まさにその通りだ」
言い当てられたことには素直に驚いたが、よくよく考えてみれば、そう感心するようなことでもない。天崎から安藤へ連絡を入れる時は、大抵が面倒ごとの始まりだったのだから。
『それにしては、ずいぶんと余裕がありそうな口調だけど?』
「そうだな。むしろ今回巻き込まれるのは、お前の方かもしれないし」
『どういう意味だ?』
目の前におらずとも、訝しむ友人の顔が鮮明に浮かんだ。
「驚かずに聞けよ。って言いたいけど、たぶん聞いた瞬間に卒倒すると思うぞ」
『もったいぶらずに早く言え』
「実は……」
皮肉にも似た半笑いを浮かべながら、天崎は先ほどの出来事を大まかに説明し始める。
話し終えたところで、電話口の向こうから何かが倒れる音が聞こえてきた。
「お前、今ギャグマンガみたいにすっ転んだだろ」
『…………よく分かったね』
「俺も話を聞いた時は同じ心境だったからな」
顔も見えない相手のリアクションが手に取るように分かったのが愉快で、天崎は大きく笑い声を上げた。
しかし電話の相手は、まったく面白くないようだった。
憮然とした口調で問い返してくる。
『その話は本当なのか?』
「マジマジ、大マジ」
『……自分の頭を失くすなんて、間抜けの極みだな』
酷い言われようだったが、実際に間抜けすぎるので天崎も反論できなかった。
『そのデュラハンの胴体って、今おののき荘にいるのかい?』
「リベリアと一緒にいるぞ」
『分かった。今からそっちへ行って、本人から話を聞くよ』
「おう。頼むわ」
といったところで、通話は終了した。
頭部を失くすという大事態だが、天崎個人としては、実はそこまで重大事件として捉えてはいない。おそらく完全に他人事だからだろう。無事に頭が見つかればそれでいいし、先に一般人や警察に見つかって大騒ぎになったところで、天崎とはまったく関係ない。安藤がてんやわんやするくらいだ。
安藤に伝えたことで肩の荷が下り、軽くなった足取りのままおののき荘へ帰宅する。
自室の扉に手をかけると、中からリベリアの声が聞こえてきた。
「気の早い奴だな。もう移動してきたのか」
まだ夕飯の準備もしてないというのに。
それに、ほとんど独り言のように聞こえるのは滑稽だなと思った。
一人で喋り倒しているのは、陽気極まる吸血鬼。その相手はもともと無口な座敷童と、口どころか頭すらないデュラハン。異色の三人組だ。
この狭い空間に一人も人間がいないのはすげえなぁ、と思いながら自室の扉を開けた天崎の目に飛び込んできたのは、なんとも摩訶不思議な光景だった。
「あ! 天崎さん、おかえりなさい!」
「おか」
「……お前ら、何やってんだ?」
意気揚々と帰宅を歓迎するリベリアと円は問題ない。奇怪なのは、彼女たち二人に囲まれておろおろと困惑するデュラハンのターニャだった。
先ほどまで着ていたタートルネックのセーターを脱ぎ捨て、何故か上半身が高校のセーラー服姿だったのだ。
「もしかして、それ……月島のか?」
むしろ、それしかあるまい。
先日、隣に住む有沢空美の部屋で月島がシャワーを借りた際、制服とブラを忘れていってしまったのだ。空美から返しといてくれと頼まれた天崎だったが、結局は返すタイミングが見つからず、そのまま押し入れの中に放置していたのである。
それをリベリアが見つけて……というか円が持ち出して、頭のないターニャをマネキンか何かと見立て、二人で着せ替えを楽しんでいたのだろう。
さすがにその行動がバカすぎて、天崎は頭を抱えてしまった。
「他人の服で遊ぶなよ。っていうか、制服が伸びちゃうからやめてくれ」
ターニャの身長は、女性としてはかなり高い。ちゃんと頭部さえあれば、おそらく天崎と同じくらいだろう。そんな彼女が月島の制服を無理やり着ているものだから、ピッチピチになってしまっている。へそが丸出しになるほどだ。
「分かりましたよー」
口を尖らせて渋々といったものの、ちゃんと理解はしてくれたようだ。
ターニャの前に座ったリベリアが、バンザイしてくださいと呟く。
「ここで着替えさせるのか……」
普通は男子のいないところで着替えないかなぁ。
指摘するのも面倒なので、天崎はできるだけ顔を背けながら自分の部屋へと上がった。
「それはそうと天崎さん! これ見てくださいよ! かなり似合ってますよね?」
「ぶっ!?」
セーラー服を脱がされたターニャを前にして、天崎は思わず吹き出してしまった。
彼女が身に着けているブラジャーもまた、見たことのあるものだったからだ。
「ブラも付けてんじゃねーよ!」
「一緒にあったもので、つい」
悪びれた様子もなく舌を出したリベリアと円は、お互いの頭を軽く小突いたのだった。
「でも、天崎さん。いいんですかぁ?」
「…………何が?」
何か悪いことでも企んでいるように、リベリアは口の端を吊り上げる。
不穏な雰囲気を感じ取った天崎は、露骨に身を引いた。
目にも止まらぬ速さでターニャの背後に回り込むリベリア。彼女は脇の下から両手を忍ばせると、ターニャの豊満な胸部を鷲摑みにした。
「こんな大きくて綺麗なおっぱい。今後、生で拝めるか分かりませんよ?」
「…………」
リベリアに強引に揉みしだかれるターニャは、ただただくすぐったそうに身をよじらせているだけだった。
そんな友人同士の仲睦まじいじゃれ合いを、天崎は……冷めた瞳で見つめていた。
顔がないから色気がない、と言いたいわけではない。天崎は『完全なる雑種』だ。故に人間以外に欲情したりはしない。たとえ女性のデュラハンが目の前で乳を揉まれようと、鼻の下を伸ばしたりすることは一切ないのだ。
ただそれと同時に、リベリアの言葉も一理あるなと、天崎は考える。
セーターを着た状態では分かりにくかったが、ターニャのスタイルは抜群に良い。豊満で形の良い胸ももちろん、腰回りは陶器のようにくびれているのにもかかわらず、適度に肉もついている。グラビアアイドルにも引け劣らない……いや、普通にトップクラスだろう。永遠に幼児体型の座敷童や、あばらが少し浮いてる貧相な吸血鬼とは大違いだ。
それでもまったく劣情を催さない天崎だったが、探求心には負けてしまった。
「んじゃ……ちょっとだけ」
今後、美巨乳とは縁遠い人生を送るかもしれない。その不安が、彼を動かした。
ターニャの正面に腰を下ろした天崎は、遠慮がちに胸部へと触れる。その瞬間、彼女の身体がビクッと痙攣したが、天崎は気にせず揉み続けた。
ふむ、柔らかい。おっぱいって、こんなに柔らかいものだったのか。
そんな感想を抱きつつも、性的興奮など微塵も感じない天崎だったのだが……。
完全に油断していた。
ターニャの身に着けているブラジャーは月島の物であり、サイズがジャストフィットしてるということは月島の胸もだいたいこれくらいなのかなぁと思ってしまい、さらに目の前の女性には顔がないのだ。
妄想力を発揮した天崎の手がピタッと止まる。
彼の股間の反応に気づいたリベリアが目を剥いた。
「えっ!? 天崎さん、何でですか!? 『完全なる雑種』は人間以外で興奮することはないって言ってたじゃないですか!」
「いや、これはだな……」
まさかクラスメイトと重ね合わせていたとか言えるはずもない。
返答に窮していると、リベリアが頬をぷくっと膨らませた。
「この浮気者!!」
リベリアがターニャの背中を突き飛ばした。
あまりの突発的な攻撃に、油断していたターニャは反応できない。正座から前方へと倒れ込んだせいで、おっぱいを揉んでいる天崎を押し潰してしまった。
「ぐえっ……」
カエルみたいな声を絞り出し、ターニャの胸の谷間に埋もれる天崎。
身体がもつれ合った二人は手足をじたばたさせるだけで、お互い身動きが取れない。
そして不運とは、また厄介なタイミングで重なるものだ。
「お前らな。もう陽が落ちてんだから、さすがに静かにし……」
呆れ半分怒り半分といった口調の空美が、ノックもなしに玄関を開けてきた。
こんな混乱した状況で、近所迷惑まで頭が回るわけもない。ただ、それは天崎の部屋で行われている惨状を目の当たりにした空美も同じだった。
「…………」
「…………」
首のないおっぱいに押し潰されている天崎と、怒る気を失って玄関口で立ち尽くす空美の視線が交差する。
数秒ほどの沈黙が訪れた後、空美はバツが悪そうに頭を掻いた。
「あぁ、悪い。お取込み中だったのか……」
「ふぃ、ふぃがいまふ!」
どうやら視線で訴えた救助要請は伝わってなかったようだ。
ゆっくりと扉を閉める空美を慌てて引きとめようとしたものの……誤解だと否定したところで、誰がどう見ても説得力など皆無なのであった。
気を取り直した天崎は夕食の準備に取り掛かり、ターニャは元のセーターへと着替える。そして途中で乱入してきた空美もまた、何故か他の三人と並んで胡坐をかいていた。
リベリアからターニャの事情を聞いた空美は、神妙に頷いた後、真面目な口調で呟いた。
「にしても、すげえな。この狭い空間におっぱいが八つ……」
「ちょっと待て! あんた今、円も数に入れなかったか!?」
「入れたが何か? 円もちゃんとレディとして扱ってやれよ」
「レディっつっても、円はまだ……痛い痛い! 何すんだ円!」
話の途中で立ち上がった円が、天崎のふくらはぎを足の裏で蹴りつけてくる。さすがの天崎も激痛に音を上げた。
「だははは。お前が変なこと言うから、円がお冠じゃねえか」
「変なこと言い出したのは空美さんでしょ……」
涙目になりつつも、天崎は精一杯の謝罪を表明した。
機嫌を直し、無表情のまま元の位置に戻る円。その隣では、何故かリベリアがさめざめと泣いていた。
「天崎さんは私の貧相なおっぱいでも、ちゃんとおっぱいって認識してくれるんですね」
どうやら嬉し泣きのようだ。
心の底から面倒くさいと感じた天崎は、聞かなかったことにしておいた。
「それで夕飯は何だ?」
「なんで空美さんがそんなこと訊くんですか。鍋ですよ、鍋」
「まさか、まる鍋とかじゃねえだろうな?」
「まる鍋? ……よく分かりませんが、普通の鍋ですよ」
「なんだ。女集めてるから、てっきりそっち方面かと思ったぜ」
「ぷぷぷ」
卑猥な笑みを浮かべる空美と、顔を背けて吹き出すリベリア。その他の三人は、頭上に疑問符を浮かべるばかりだが……空美があまりにもいやらしくニヤニヤしているので、それ以上の追及はしないでおいた。
「にしても、自分の頭を失くすとかマズいことになったな、デュラ美」
「空美さんって、話題をころころ変えますよね」
「お前も酔っ払いの相手をするようになれば分かるよ。奴らは思ったことを次から次へと口にするだけだし、それに対応していくのも一つの処世術だ」
水商売をしている空美だからこそ、なかなか説得力のある言葉だった。
ただリベリアに「デュラ美じゃなくてターニャちゃんですよ」と窘められ、「あいよー」と適当に返事をしているところを見るに、あまり真に受けてはいけないのかもしれないが。
「まぁ大変っちゃ大変ですよね。早く見つけ出さないと、マジで殺人事件として騒がれそうですから」
「ん? ああ、そっちか。確かにそれも大変だけどさ」
「他に何かあるんですか?」
リベリアが問い返すと、空美は少し驚いたように目を見開いた。
なんだお前、知らないのか? とでも言いたげな表情だが、リベリアどころかターニャ本人も分かっていない様子。気になった天崎もまた調理の手を止め、空美の言葉に耳を傾けた。
一同の視線を集めた空美は、「マジか」と頭を掻きながら話し出した。
「デュラハンの頭と胴体が近くにある時は、精神が繋がってるってことは知ってるよな? ある程度離れると完全に分断されるんだけど、その距離は個体差によって違う。デュラ美はどれくらいなんだ?」
問うと、ターニャは自由帳に『10mくらいです』と書いた。
「ま、そんなもんだろ。頭と胴体が10m以内にあるなら精神は一つだが、それ以上離れると二つに別れちまう。頭と胴体、それぞれに同じ人格があるようなものだな。この意味が分かるか?」
そう空美が問いかけるが、誰一人として回答することはできなかった。
その様子を見た空美が続ける。
「昔の話だが、どっかにマッドなサイエンティストがいてな。デュラハンにちょっと興味を持ったみたいなんだよ。んで、頭と胴体を引き離してまったく違う生活を送らせたらどうなるのか、実験したみたいだ」
「……どうなったんですか?」
「完全に別の人格が生まれたんだとよ。頭と胴体をそれぞれ違う環境に置いたんだから、そりゃ当たり前だわな。見るもの聞くもの話す人、すべて違うわけだ。当然、各々の考え方も時間と共に変わってくる」
そこまではなんとなく理解できた。
もともと同じ人間であろうと、周りの環境が異なっていたら、まったくの別人になってしまうことは容易に想像できる。
ただそれは、あくまでもイフの世界……パラレルワールドの話。一卵性双生児ですら完全に同一人物ではないため、正確な実験データは得られなかっただろう。それがデュラハンなら可能だったというわけだ。
ここで天崎の中に素朴な疑問が生まれた。
「それって悪い事なんですか?」
「そのまま頭と胴体が別々に生きていくんなら大丈夫だ。問題なのは、長年離されていたそれらを引き合わせた時だな」
「……元に戻るんですか?」
「戻るし戻らない。そんなものは、デュラハン本人にしか分からない。ただ傍目からでも判断できるのは、同じ身体に二人分の精神が宿ってるってことなんだ。まったく別の……それこそ赤の他人の精神がな」
そこで空美は、一旦言葉を切る。あまり口にしたくない内容であると察せられたが、結論を聞かずにはいられない。
空美は視線を逸らしながら、重々しく口を開いた。
「記録によると、そのデュラハンは自殺したんだよ。二つの精神が入り混じった身体に耐えられなくなってな」
「…………」
最悪の結末に、誰もが言葉を失った。
正直、想像することすら困難だった。自分の脳に、もう一人違う人格がいるということなのか? それとも思考と行動がまったく一致しなくなるのか?
天崎自身、己の遺伝子の中にヴラド三世という赤の他人の意識が宿っている。しかし今は眠っている状態であるため、精神が干渉されることはない。もし奴が目覚め、なおかつ自分の意識がはっきりしている場合、自分も死にたくなったりするんだろうか?
「言っても、一週間二週間程度じゃ別人格なんて生まれないから心配するなって。頑張って探せよ」
「不安を煽ってた人が言うセリフじゃないですよね」
お通夜ムードの一同を元気づけるというよりも、自分は無関係だから笑い飛ばせるといったような言い方だった。
「なんだよ、せっかく教えてやったのに。あれだ、もし頭部が見つからなかったら、東四郎がデュラ美をオナホとして住まわせてやればいいんじゃないか?」
「はぁ!? あんた何言ってんだ!!?」
「なんだ、違うのか? あんな状況を見たら、誰だってそう思うぞ」
「あれは事故だ!」
俺のイメージがああぁぁと、天崎は頭を抱えて膝から崩れ落ちた。
「つーかこの制服とブラ、まだ返してなかったのか。洋子、困ってんじゃねえのか?」
「返すタイミングがねえよ!」
「ふん。どうせ毎度のおかずにしてるんだろうよ」
「えぇ……」
なんかもう無敵だった。空美には勝てそうにない。
こうなりゃ敵前逃亡するかと、天崎は料理に専念する。しかし月島のブラを片手に立ち上がった空美を前にしては、何をしでかすか気が気でなかった。
「ふっ。東四郎にゃ悪いが、そうと分かればあたしの匂いも付けてやろうじゃねえか」
「何を分かったんだよ、何を」
小声で呆れたのも束の間、空美はいきなり自分のシャツを脱ぎ捨てた。
潔い脱衣に何故か他の女子から拍手が上がるものの……さすがに突っ込まざるを得ない。シャツを脱いだ空美の上半身は、すっぽんぽんだったのだから。
「あんた何やってんだよ! つーか何で元からノーブラなんだ!?」
「ああん? あたしは自分の部屋にいる時は常にノーブラだけど?」
「ここ、俺の部屋なんだけど……」
げんなりしながら肩を落とす天崎を無視し、空美は意気揚々とブラを付ける。
しかし装着した瞬間、空美の表情がくしゃりと歪んだ。
「どうしたんですか?」
「洋子の奴……あたしよりデカいのか……」
「マジですか……」
サキュバスである空美は、その種族柄、多くの男を虜にできるような肉体を有している。もちろん胸が大きければいいというわけではないが、それでも人間界ではトップクラスの肉体美を持っていると言っても過言ではない。
にもかかわらず、たかだか十七歳の女の子が、その空美に敗北を認めさせるなんて……月島洋子、なんて恐ろしい子。
「うがー、頭に来た! こうなったらあたしが東四郎の童貞を奪ってやるぅ!」
「なんでそんな話になるんだよ!!」
自暴自棄な雄叫びを上げた空美が、月島のブラを放り投げて立ち上がった。
力強い足取りで炊事場まで歩を進めると、硬直している天崎を床へ押し倒す。
「おら、童貞野郎! 勃て! 立てじゃなく勃て!」
「ひいいぃぃぃ!!!」
仰向けに倒れた天崎の上に、上半身裸の空美が馬乗りになってくる。
なんでいきなりこんなことになってるんだよ! と混乱する最中、天崎は必死に救助を求めるものの……他の女子から返ってきた反応は、望んでいたものとまったく正反対だった。
「あっ! 空美さん、ずっこいですよ! 私も私も!」
「なんでだよ!」
叫んでる間にも、寄ってきたリベリアが天崎の左腕を拘束し始めた。
さらに何故か円まで側に来て、リベリアとは反対の右腕をギュッと抱きしめる始末。おそらく何かの遊びと勘違いしているのだろう。
頼みの綱のターニャは……おろおろと困惑するばかりだ。
「や、やめてくれぇぇ……」
野獣のような女子三人に完全拘束された天崎の口から、何とも情けない叫び声が漏れた。
だが憐れな『完全なる雑種』の救いを求める声は、ちゃんと大悪魔に届いていたようだ。
奇跡的なタイミングで、玄関の扉が開く。
「天崎。さっきからノックしてるんだから、居るんなら出てくれ……」
苛立ちを隠そうともしないため息を吐きながら、安藤が勝手に入ってきた。
中で何が行われているかも知らずに。
「…………」
「…………」
今まさに天崎を襲おうとする体勢のまま固まる女子一同と、見てはいけないものを見てしまったように絶句する安藤。一瞬で状況を察した彼は、心底関わりたくないと言いたげに視線を逸らした。
「すまない、取り込み中だったか。またしばらく経ってから出直してくるよ」
「ま、待ってくれ安藤! 助けてくれええぇぇ!!」
最後の希望を逃すまいとする天崎の絶叫が、おののき荘中に轟く。
かくして天崎の童貞は護られたのだった。
もう勘弁してくれと、背中を丸めて鍋を作る天崎。
その後ろで、リベリアとターニャから事情を聞いている安藤。
元のシャツに着替え、手持無沙汰に円と遊んでいる空美は、部屋の中を見回してから再び真剣な口調で呟いた。
「にしても、やっぱすげえな。この狭い空間に、男の玉が四つと女の玉が……」
「あんたまた急になに言っちゃってんの!?」
火にかけていた鍋と睨み合いをしていた天崎が、我慢できずにツッコミを入れた。
しかし空美はニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべるだけだ。
「んー? あたしはただ、目ん玉の数を言っただけなんだけどなぁ。男の目ん玉が二人で四つなのに、女の目ん玉は四人で六つだもんなぁ。数が合わなくて不思議だなぁって。それでぇ、童貞の東四郎君はナニと勘違いしたのかなぁ?」
「くっ……」
相手をしたら負けだ。
平常心を保てと己に言い聞かせ、天崎は再び鍋を見る。
「ちなみに女は玉じゃなくて豆な」
「うるせぇ!」
この女の前で平常心を保つのは一生無理だなと、天崎は分からせられたのだった。
と、話を聞き終えた安藤が割って入った。
「コントはそこらへんで。事情はだいたい把握したよ。これは厄介だね。あんまり長い間離れてると、人格が……」
「あぁ、その話はあたしがしたぞ」
「……そうですか」
残念そうに肩を竦める安藤。説明したがりの唯一の見せ場が奪われ、やる気五割減といったところだった。
「何はともあれ、地道に探すしかないよ。僕もできるだけ協力するから」
「ありがとうございます!」
呆れながらも安藤が手伝うことを明言すると、リベリアは土下座に近い形で頭を下げた。それを見習うように、ターニャも上半身を深々と傾ける。
「んじゃ、僕は帰って情報収集してみるよ。すでに誰かに見つかったことも視野に入れてね」
「なんだ、帰っちまうのか? もうすぐ鍋もできるぞ」
「今回の件はスピードが命だし、今日は夕飯にお呼ばれしたわけじゃないだろ」
「豆腐も入ってるんだけどな」
「……また後日、ご相伴に預からせてもらうよ」
豆腐と聞いて少しだけ逡巡したものの、安藤は帰宅を決めたようだ。挨拶を交わすと、さっさと立ち去っていく。
玄関の扉が閉められたところで、今度は空美が立ち上がった。
「あたしもそろそろ出勤時間だから、ここらでお暇させてもらうわ」
「ありゃ、空美さんも?」
「貧乏学生の夕食に同伴できるわけないだろ。また今度、金は出すから美味いもん作ってくれや」
「そうですか」
「あと、一応あたしも客とかに生首が見つかった事件がないか聞いとくけど、あんまり期待はするなよ。何か分かったら連絡する」
「恩に着ます!」
再び深々と頭を下げるリベリアに手を振った空美もまた、部屋から出て行った。
そのタイミングで、ようやく夕食の完成である。コンロの火を止めた天崎は、女子三人が囲むちゃぶ台へと鍋を移した。
「さぁ、できたぞ。食え」
「わあ! 美味しそうですね!」
「つっても、野菜をぶち込んだだけなんだけどな」
謙遜はしつつも、お世辞を一切含まないリベリアの感想は、いつ聞いても心地良いものだ。
ただ今日ばかりは、それ以上に興味をそそられることがあった。
天崎もまた、三人と同じくちゃぶ台の前へ腰を下ろす。だが視線の先は鍋ではなく、鍋を見つめているような格好で前傾姿勢になっているターニャだった。
口がない状態で、いったいどうやって食べるのか。
もしくは胴体だけでは、食事を取ることができない? いや、そんなはずはない。空美も頭と胴体が長年引き離されたデュラハンの話をしていたし、どんな生物だって栄養は必要だ。何らかの方法で、食事をするはず。
期待を込めた視線でターニャを凝視していると、彼女はなんと……箸を取った!
食べるんだ! と、天崎の期待は膨らんでいく。
そしてリベリアとは比べ物にならない綺麗な箸遣いで、野菜を自分の皿へと取り分ける。最終的にターニャは、普通に食べるのと同じような動作で、箸に摘まんだ白菜を本来口があるべき場所へと運んだ。
「んん!!?」
もちろん口はない。口はないはずなのに……天崎は見てしまった。
箸で摘まんでいた白菜が、タートルネックの中に吸い込まれていった瞬間を!
「どゆこと!?」
ついつい驚きの声を上げてしまう。
ターニャ本人はびっくりしたようだが、最初から天崎の視線に気づいていたリベリアは、得意げに解説し始めたのだった。
「天崎さんもすでに見ているとは思いますが、実はこうなってるんですよ!」
ターニャの両肩を掴んだリベリアが、彼女の上半身を強引に前へ倒した。首の断面を、正面にいる天崎に晒す形だ。
タートルネックに隠れた断面図は……黒い靄がかかっていて、よく見えなかった。
影ではない。黒い霧のような物体が、断面を覆い隠しているのである。
それ自体は、ターニャが制服を脱いだ時から見えていた。ただあんまり直視はしたくなかったし、その後はおっぱいに気を取られて詳しく聞きそびれていただけだ。
リベリアは自分の取り皿にあるニンジンをフォークで刺し、ターニャの首筋へと運ぶ。すると首の断面を覆っていた黒い靄がまるで生き物のように動き、ニンジンを包み込んでしまったのだ。
そして数秒後、首から離れたフォークの先端にはニンジンがなかった。
「すげえ!」
「でしょ! デュラハンって、実は口からも首元からも食事を取ることができるんですよ!」
「マジか!」
世の中には不思議な種族がいたもんだなぁ。どういう身体の構造してんだろうなぁ。
などと感想を抱きながらも、天崎は普通に食事を始めた。あんまり踏み込むと常識がゲシュタルト崩壊しそうだったし、何より首から食事を取る光景は、なんか見てはいけないものを見てしまったような気分になったからだ。
説明を終えたリベリアも元の位置に戻り、鍋パーティは再開される。
ふと横を見ると、円だけが箸を動かしていなかった。
「円、どうした?」
心配そうに問うと、円は自分の胸部をペタペタと触りながら消沈気味に呟いた。
「おっぱい、ない」
「……お前はない方が魅力的だよ」
どんだけ前の話題を引きずってんだよと呆れながらも、天崎は半笑いで本心を口にする。すると円は満更でもないように表情を緩ませ、箸を鍋に突っ込んだのだった。




