第2章 すれ違い
犬飼の彼女疑惑に花を咲かせた後、天崎は一人で帰路についていた。
妬ましい気持ちはある。かといって僻んでいるほどではない。どちらかといえば、どうやって真偽をはっきりさせてやろうかと腹積もりするのが楽しいといった感じだった。
ニヤニヤと悪巧みをしつつも、おののき荘へと到着する。
自室の扉を開ければ、いつも通り円が畳の上でリラックスしていた。
「ただいま」
「おか」
変わらずのやり取りがあり、天崎は私服へと着替え始める。
その途中、机に置いたスマホが鳴った。
「誰だ? ……ミコミコさん?」
ディプレイに表示されていたのは、珍しい名前だった。
ミコミコとは、リベリアのバイト先の同僚である。少し前、安藤の付き添いでダブルデートをした際に連絡先を交換し、たまに近況報告としてメッセージのやり取りはしていたが、向こうから電話を寄こすことは滅多になかった。
何か緊急の用事か?
疑問に思いながらも、天崎はスマホを耳に当てた。
『おっすー。天崎君、おっひさー。元気してる?』
「お久しぶりです。俺は元気ですよ。ミコミコさんこそ、相変わらず元気そうですね」
『おう、あたしゃ元気いっぱいだぞい。それしか取り柄がないからね! って、誰が年がら年中ノー天気じゃい!』
いや、言ってないし。
最後に会った時よりもさらにテンションアゲアゲなミコミコの声を耳にして、天崎はむしろこの人の落ち込んだ声を聞いてみたいとすら思ってしまった。
「それで、今日はどうかしましたか?」
『どうかしましたかとはお言葉ですな。女の子が電話してるんだから、もっと喜びなさいな』
あー、しまった。さっさと用件を聞くのはマズかった。
しくじったかなと少しだけ後悔しつつも、どうやら文句を垂れたミコミコ本人も、あまり気にしていないようだった。
『冗談は置いといて、リベちゃんの容態はどうかなーって心配になっちゃったのさ』
「リベリアの容態?」
なんか不穏な単語が飛び出してきた。
天崎がオウム返しすると、逆にミコミコは驚いたような声を上げる。
『あれ、知らなかったの? リベちゃん風邪引いちゃったらしくてさ、一昨日からバイトお休みしてるんだよ』
知らなかった。確かに思い返してみれば、今日の朝食も、昨日の夕食の時もリベリアの姿を見ていない。毎食たかりに来るわけではないとはいえ、まさか風邪を引いていたとは。
いや、ちょっと待て。と、天崎は自問自答する。
そもそも吸血鬼って、風邪引くのか? 引くわけないだろ。
『リベちゃんに電話して、お見舞い行こうかって言っても大丈夫の一点張りだからさ。よかったら天崎君も気にかけてやってくれないかな? 本人は強がってるだけかもしれないし』
「……そうですね。分かりました。ちょっと見に行ってきます」
『よろしくお願いね。リベちゃんも、私が行くより天崎君が行った方が喜ぶと思うし!』
「そんなことありませんよ。情報提供、感謝します」
『お、なんだか事件を捜査する刑事みたいだ』
などと最後は冗談を交わしながら、ミコミコとの通話は終わった。
スマホを机の上にそっと置いた天崎は確信する。
間違いなく仮病だ、と。
じゃあ仮病を装う理由は何だ? 電話が繋がるんだから、何か事件に巻き込まれているというわけではないだろう。ちょっと遠出してたり、バイトに出られない理由が他にあれば、それを伝えればいいだけの話だ。
ミコミコさんたち従業員には言えない理由なのか?
考えていても答えは出ない。どのみち『調査員』のことを伝えるため、今からリベリアの部屋を訪れようと思っていたところだ。起きているかどうかは微妙な時間帯だが、もし風邪でなくとも、動けない理由があるのなら部屋にはいるだろう。
さっさと着替えた天崎は、円に「リベリアの部屋に行ってくる」と断りを入れ、外へと飛び出した。
彼女の部屋は一階だ。階段を降りて、扉の前に立つ。
インターフォンを押して少し待ってみるものの……中からの反応はなかった。
「返事がない。ただの屍のようだ、ってか?」
先ほどまでミコミコと話していたためか、ついつい下らない冗談を漏らしてしまった。
反応がないということは、寝てるか外出中なのだろう。完全に陽が落ちてからまた来るかと思い、二度目のインターフォンを押さないまま立ち去ろうとしたのだが――ふと気づいた。
リベリアの部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていたのだ。
ってことは、鍵は掛かっていない。締め忘れ? 中にはいるのか?
よく分からないまま、天崎は扉のノブに手をかける。まさか扉を閉められないほど元気を失っているとは思わないが、在宅中なら注意しなくちゃいけないし、外出中だとしても閉めてやるべきだろう。
扉に手をかけ、少しだけ隙間を広げた天崎は、部屋の中へと呼びかけた。
「おーい、リベリア。居るか?」
返事はないものの、一般人よりも優れた聴力を持つ天崎はしっかりと耳にしていた。
部屋の中から、ずずずという衣擦れの音がしたことを。
やはりおかしい。間違いなく、中に誰か居る。なのにリベリアが天崎を無視する理由はないし……まさか空き巣?
もし間違っていたら後で怒られることも覚悟し、天崎はゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は薄暗く、そして異様に狭かった。天崎の所と間取りは同じはずなのに、一回りも小さく見える。ただ彼女の部屋は何度も訪れているため、その理由は知っていた。
リベリアの部屋は、壁の色が分からなくなるほど本棚が立ち並び、その中には漫画やライトノベルがぎっしりと詰まっているのだ。天崎も飯を作ってやるのと引き換えに、度々それらを借りに来ているのである。
薄暗いのは蛍光灯が灯っていないだけだし、謎の閉塞感の正体は知っている。
何もおかしくはない。他におかしい所はないからこそ……天崎の視界に、その物体が真っ先に飛び込んできた。
居間の中心で静止しているその物体を凝視したまま、天崎は数秒ほど硬直する。あまりにイレギュラーすぎて、脳が理解してくれなかったのだ。
呼吸すらも忘れたまま、ずっと立ちつくす。
やがて息苦しくなるのと同時に、理解が追い付く。
混乱に伴う興奮からか、一気に呼吸が乱れていった。
夢か現か。現実か幻か。
自分が目にしている物をしっかり受け止めるため、天崎はゆっくりと呟いた。
「リベリアの部屋で……首のない死体が……寝転がっている?」
紡がれた言葉は、すんなりと自分の耳へ入っていった。
状況は、天崎が口にした通りだ。玄関口で佇む天崎の影に重なるようにして、居間の中心で人が一人倒れている。しかもその人の姿勢をどう解釈したところで、頭部があるようには見えなかった。
体つきは女性だがリベリアではない。背中に翼がないし、肩幅が彼女に比べてだいぶ広い。おそらく横に並んで立てば、遠目からでも明確な身長差が見て取れるだろう。
いや、その死体が誰であるかということよりもまず、どうしてリベリアの部屋に首なし死体があるのか。
その理由は、思考を切り替えるのと同時に理解できた。
決して忘れていたわけではない。ただ見て見ぬふりをしていただけだ。
リベリアは吸血鬼……人を喰らう化け物だということを。
「うぐっ……」
状況に気圧され、吐き気がこみ上げてくる。
嫌悪感に満たされた脳は、早くここから立ち去りたいという信号を発し、天崎の足を一歩引かせていた。
だがしかし、退路はすでに断たれていることを、彼はその瞬間まで気づかなかった。
「あちゃー。見つかっちゃいましたか」
「――――ッ!?」
背中、つまりアパートの外から聞き慣れた声が耳を突き、天崎は咄嗟に振り返った。
おののき荘の前で、片手にコンビニ袋を引っ提げた金髪の吸血鬼が立っていた。
しかも……ちょっとした悪戯が親にバレて、叱られることを覚悟する子供のような笑みを浮かべながら。
「リベ……リア……」
「もう、天崎さんも天崎さんですよ。鍵が掛かってないからって、勝手に人の部屋に入るのはマナーとしてどうなんですか?」
扉が少し開いてたんだから、そこまで責められる謂れはないだろ。
いつもならそう返していたかもしれないが、今は和気藹々と会話できる精神状態ではない。
振り返った姿勢のまま、天崎は声を絞り出すように問いただした。
「これは……お前がやったのか……?」
混乱と恐怖に慄きながらも、天崎は頑張ってリベリアと視線を合わす。
そんな精神的にいっぱいいっぱいな天崎の内心をまったく察していないのか、彼女は陽気な口調で答えた。
「えぇ、そうですよ。一昨日あたりから連れ込んでいます」
そんな……と、愕然とした天崎は膝から崩れ落ちたい衝動に駆られた。
リベリアはこの国に来てからは人間を殺していないと言っていたし、これからも殺さないと誓ってくれた。なのに、彼女の部屋には首のない死体がある。つまり約束は嘘……裏切られたということなのか?
信じていた割合が圧倒的に大きかったからこそ、失望は加速度的に増してく。
天崎の中でのリベリアの信頼度が急激に落ちているのにもかかわらず、それでも彼女は何かお願いでもするように、顔の前で両手を合わせた。
「それで天崎さん。もしよろしければ、このことは大家さんには黙ってていただきたいのですが……」
「大家さんっていうか、警察……」
いや、警察なんかじゃダメだ。相手は吸血鬼なのだから。
先ほど安藤たちと交わした会話のせいで、吸血鬼ハンターという単語が脳裏をよぎるが……言葉にする前に、リベリアは慌てたように両手を振った。
「け、警察はダメですよ! 密入国なんですから!」
「密入国!? そういうことか……」
リベリアの愚かさに、天崎は頭を抱えた。
戸籍がないから殺していいなんて考え方は、言語道断だ。あってはならない。人間の命に対する倫理観にそこまで食い違いがあったなんて、天崎は自分の認識の甘さを今さらながら反省していた。
顔を背けた天崎は、残念そうに視線を地面に落とす。
「俺たち……やっぱり根本的には分かり合えないのかもしれないな……」
「えっ、なんで突然そんな悲しいこと言うんですか!?」
本気でショックを受けているのか、リベリアの表情がくしゃりと歪む。
だが泣きたいのは天崎も同じだった。
「だってそうだろ。こんなの……人間社会で許される行為じゃない。少なくとも、俺は許容できない」
「ちょっと待ってくださいよ! 天崎さんの所だって、円さんがいるじゃないですか!」
「円は座敷童だ。戸籍がないのが普通なんだよ」
「それはそうかもしれませんが……んん?」
突然、リベリアが訝しげに眉を寄せた。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません。っていうか、お二人ってまだ挨拶もしてなかったんですね」
「は? お前、何言って……」
言いかけて、気づいた。リベリアが天崎の顔に人差し指を向けている。
いや、正確には天崎の背後へだ。
「振り向いてください。それで全部分かりますので」
「全部分かるって、何が……」
意味が分からず、天崎は指示通り背後へと振り向く。
だがそれと同時に、リベリアではない誰かに肩を叩かれた。
「え?」
そして天崎は見た。見てしまった。
先ほどリベリアの部屋の真ん中で音もなく寝転がっていた女性の死体が、天崎の肩に手を置いている光景を。もちろん、普通の人間にはあるはずの頭部は失ったままで!
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙。
だが一瞬後には、天崎の理解は絶叫という形で表現された。
「おぎゃあああああああーーーーーもごごごご……」
「はいはーい、シャラップです。そんな大声で叫んだらバレちゃうでしょうが」
リベリアに羽交い絞めにされ、四本の指を無理やり口の中に捻じ込まれることによって、強制的に黙らせられる。指先が喉の奥に当たり、先ほどとは違った意味で吐き気がこみ上げてきた。
「じゃ、今から説明しますんで、黙って部屋の中に入ってくださいねぇ」
「!?!?!?!?」
リベリアに抱えられた天崎は、強引に彼女の部屋へと押し込まれていく。その光景は、歯の治療を嫌う子供を無理やり診察台へと運ぶ歯医者のようだった。
ただ拘束しているのは天崎ですら歯が立たない吸血鬼であり、部屋の中へ案内しようとしている女性は頭部のない死体であったが。
「もごごごごごご……」
抵抗もできず、助けを呼ぶこともできず、かといって状況すら一ミリたりとも理解していないまま、天崎は何が待っているのかも分からない闇の診察台へと運ばれていくのであった。




