表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第5話『フェイス・トゥ・デスバルーン』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/224

第10章 死神の作り方

 先ほどと同じく、閑散とした体育館は異様な雰囲気に包まれていた。


 すでに日没を迎えている時間帯。高い天井にある照明は三分の一しか灯っておらず、周囲に薄暗い陰が落ちている。特に館内の端の方は、目を凝らさなければはっきり見えないほどの闇が覆っていた。


 そんな中、石神は一度目の訪問時とまったく同じ場所、同じ姿勢で文庫本を読んでいた。


「あれ? また来たんですか、天崎先輩」


 ずいぶんと人をおちょくった口調に、天崎は拳を握った。


 しかし今は憤りを感じている場合ではない。殴り掛かりたい衝動を押し殺しながらも、天崎は舞台の前まで歩を進めた。


「少し、話し合いたい」

「……いいですよ」


 喉の奥から絞り出すような天崎の声とは対照的に、石神の話し方は空気のように軽かった。


 文庫本を閉じた石神が、舞台の上で立ち上がる。

 それと同時に、天崎は体育館の床に両膝をついた。


「頼む。みんなを……助けてくれ」

「…………」


 頭を下げた天崎の頭頂部に、石神の冷ややかな視線が刺さった。

 しかし返す言葉に棘はなく、いつもの陰鬱そうな軽口で答える。


「なんだ。てっきり僕は、殴り掛かってくるとばかり思ってましたよ」

「できればそうしたい。けど、それじゃあ何の解決にもならない」

「先ほど僕は、先輩の友人と座敷童に酷い仕打ちをしました。そんな敵に向かって、頭を下げるんですか? 先輩にプライドはないんですか?」

「俺のプライドごときでみんなを救えるんだったら、いくらでも捨ててやるよ」

「ふぅん」


 なんだつまらない。とでも言いたげに、石神は深いため息を吐き出した。


「っていうか、天崎先輩が頭を下げたくらいで僕が応じるとでも思ってるんですか?」

「分からない。だけど俺に魂集めをさせてるってことは、お前の目的は学校にいる人間の命じゃなくて、俺個人なんだろ? なら俺はお前の言うことにすべて従う。みんなを助けることと引き換えなら」

「なるほど。敗北宣言の上に無条件降伏ですか」


 少し気分が高揚したのか、石神が愉快そうな笑みを見せた。


 ただそれも一瞬のこと。天崎の申し出を即座に蹴るということもなく、石神は何やら思案するように押し黙った。


 天崎もまた、無言のまま死神の裁定を待つ。


 しかし次に石神が発した言葉は、あまり現状と関係のあるものとは思えなかった。


「天崎先輩。先輩は死神がどうやって生まれるか、知っていますか?」

「死神が……どうやって生まれるか?」


 なんでそんな問いをしたのか理解できぬまま、天崎は考える。


 死神の能力について、先ほど安藤から大まかにレクチャーしてもらったばかりだ。なので天崎が知るわけがない。死神は自然の摂理の一部、という部分だけを切り取って、当たり前のようにそこに存在するものだと思っていた。


 だが石神は『生まれる』と言った。

 普通に親から子が生まれる、という認識でいいのだろうか?


「賽の河原」


 石神の陰鬱な声が、困惑する天崎の頭へと介入する。


「賽の河原については知っていますか?」

「……まぁ、一般常識程度には」


 自信なさげに答えると、石神が無言で手の平をこちらに向けてきた。どうやら自分の知っている知識を話せと催促しているらしい。


「あれだろ? 親よりも先に死んだ子供が、三途の川の河原で父母を供養するために小石を積み上げる。けど完成間近になると鬼が現れて崩されるから、延々と繰り返さなきゃいけないって話だろ?」

「まぁ、下界に伝わっている話はそんなところですよね。でも残念ながら、実際の賽の河原は少し違うんですよ」


 そして石神は、まるで実際に見てきたかのように……自分の体験談を話すかのように、滔々と語り出した。


「まず賽の河原に行くのは親よりも先に死んだ子供っていうのはその通りです。生物が死ねば三途の川を渡り、そのまま冥界へと案内されるのですが、そこで子供は一度、賽の河原に連れて行かれるんです。それで天崎先輩も言ったように、延々と小石を積み上げさせられるんですよね」


 石神の視線の先に、すでに天崎はいなかった。

 遠い過去でも視るかのように、薄暗い天井を見上げている。


「で、違うのはここからです。まず小石の山を崩しに来るのは鬼じゃなくて、冥界の番人なんですよ。ただまぁ、人間にとっては鬼に見えるのかな。……それはいいとして、実は積み上げた小石の山を崩される子供と、崩されない子供がいるんです」

「崩される子供と……崩されない子供?」

「えぇ。崩されなかった子供は、小石の山が完成すると冥界へ連れて行かれます。いわば普通に成仏するのと同じですね。しかしその傍らで、冥界の番人がやって来て山を崩され、延々と積み上げる作業を繰り返す子供もいます。その違いは何だと思いますか?」

「…………」


 天崎は黙り込んでしまった。石神が話を通じて何を言いたいのかさっぱり分からないのもあるが、何よりも彼の問いの答えがまったく想像もできなかったから。


 ただ石神は天崎に回答を求めていたわけではないらしい。


 少し時間を与えただけで、天崎が答えられそうにないと判断すると、彼は自嘲的な笑みを見せて解答を口にした。


「自殺した子供、ですよ」

「自殺?」


 それはあまりにも想定外の答えだった。


「事故や病気、もしくは誰かに殺されてしまった子供は、山を一つ作った時点で許されるんです。だから冥界の番人も崩しに来ない。けど、自殺した子供は違う。自分で命を絶った子供だけは違う。親より先に死を選んだ子供は許されない。だから完成間近になると冥界の番人が現れ、何度も何度も崩していくんです。罪を償い続けるようにね」


 まるで憎むべき相手の顔を思い出すかのように、石神の眉間に皴が寄った。

 しかしすぐに口調を変えた石神は、目の前にいる天崎へと語り掛ける。


「なので心配しなくてもいいですよ。月島裕子も一度は賽の河原へ小石を積みに行ってるはずですが、おそらくすでに許されてると思います」


 石神は裕子の過去を知っている? それだけでなく、その死因も?

 いや、それは今考えるべきことではない。


「それと死神の話と、どういう関係があるんだ?」


 単純な疑問だ。死神と賽の河原が、どう繋がるのか。


「簡単な話ですよ。積み上げては崩され、積み上げては崩されと繰り返していたある時、冥界の番人がやって来て取り引きを持ちかけてくるんです。死神になって、現世の魂を導く仕事をしないか、とね」

「……それが死神の正体なのか?」

「そうです。同じ作業の繰り返しで苦痛を感じ始める頃にやって来るもんですから、変化が欲しかった子供はついつい飛びついてしまうんですよ。死神の役割がどれほど無機質で孤独なものかを知らないまま、ね」

「…………」


 賽の河原。自殺した子供。死神になる理由。


 石神の話を聞き、死神について一通りのことは理解した。しかし肝心な解答が何一つ与えられていない。


 すなわち石神は何故、今そのような話をしたのか。


 聞いている限りでは、天崎個人のことを目の敵にしているようでも、誰かに恨みがあるようでもなさそうだった。


 いや。そもそも死神としてそこに存在しているということは、つまり石神は……。

 そう考え始めたところで、石神はまた急に話を戻す。


「あぁ、そうそう。無条件降伏でしたね、天崎先輩。僕の言うことになんでも従うってのは本当ですか?」

「…………あぁ」


 唐突に話が切り替わったことで返事が遅れてしまったが、それ自体は嘘ではない。石神のゲームに負け、天崎は降伏したのだ。全員助かるのならば、どんな要求にも応える覚悟はある。


「分かりました」


 そう言って、石神は目を伏せた。


 そして纏っている漆黒の布切れの中から何かを取り出すと、天崎の方へと放る。体育館の床に弾かれたそれは、金属音を上げて足元へと滑ってきた。


 目の前で停止したそれを確認すると、天崎は驚いたように目を見開く。

 刃渡り十五センチほどもある、サバイバルナイフだった。


「では、自殺してください」

「……な……に?」


 絶句した。

 驚愕を露わにした瞳で石神を見る。彼の顔に感情はなく、ただただ事務的に要求しているだけのようだった。


「自分の身体を刻みたくないんなら、別の方法でも構いませんよ。首を吊りたいのならロープを用意します。飛び降りたいのなら屋上まで見守ります。それくらいの選択は自由ですよ」

「…………」


 あまりに理不尽な条件を突き付けられ、天崎の心臓が一気に跳ね上がった。


 しかし、何故だかすぐに鼓動が治まっていく。そんなことできるわけがないと一蹴することもせず、石神の要求を素直に受け入れ始めてしまっている。


 おそらく奴の態度があまりにも淡々としているからだろう。


 まるで手術前の外科医のようだ。患者にとっては一生に一度あるかないかの大手術でも、医者にとっては大勢いる患者の一人にすぎない。全身麻酔が解けた後は新たな日常が待っていると、安心感を錯覚させられているのだ。


 あぁ、そうか。だからか。だから石神は、死神の話をしたのか。

 死は、すべての終わりではない。死神になるという選択肢もある、と。


 それを理解しても、今の天崎は反抗する気になれなかった。

 震える手でサバイバルナイフを拾う。


 懸念するべきことは、一つだけだ。


「俺が死んだら、本当に全員助けてくれるんだよな?」

「もちろん。ゲームの主役である天崎先輩が退場するのであれば、それ以上続ける理由がなくなりますからね。ちゃんとすべて元通りにして、僕は撤退しますよ」


 それを聞いて安心した。と言わんばかりに、天崎は長いため息を吐いた。


 サバイバルナイフの先端が目に入る。おそらく、これで首を斬ったら痛いだろう。たくさん血が噴き出るだろう。絶命するまでに、どれだけの時間を要するのかも分からない。


 どちらにせよ、自分はただ耐えるだけだ。それでみんなの命が救われるのなら……。


 ふと天崎は、先ほど石神とした問答を思い出していた。


 あの時、トロッコ問題に忠実に沿っているわけではないと石神は言った。だが今の状況を鑑みれば、あながち的外れではない。


 トロッコが突っ込む線路に校内の人間全員が、もう片方の線路に天崎一人が寝転がっているようなものだ。ただし、トロッコの切り替え装置は天崎自身が握っているのだけれども。


 まぁ、そんなことはもうどうでもいい。

 顎を上げた天崎は、サバイバルナイフの先端をゆっくりと喉元へと持っていく。


 自分さえ我慢すれば、他の人間は幸せになれる。

 見知らぬ誰かを救うために、天崎は今、自らの命を絶つ――。


「ダメだよ」


 その瞬間、とても暖かい感触が背中を覆った。

 まるで天女が羽織る羽衣みたいに、天崎を優しく包み込む。


 驚いた天崎は、ぎこちない動作で首を半回転させた。


 肩の上に、見慣れた黒い髪が乗っている。顔は見えないものの、背中から抱きしめられた感覚が誰のものかは、瞬時に分かった。


「ま、円!?」

「ダメだよ、東四郎。あなたを待ってる人がいる」


 普段の円からは想像もできない流暢な言葉づかいで、天崎を叱った。


 頭の中が幸福に満たされる。それと同時に、思い出した。必ず戻ってくると、月島と約束したことを。


 そして次々と浮かんでくる、天崎にとっての大切な人たちの顔。


 単純なことだった。大切な人には、また別の大切な人がいる。人と人とが繋ぐ、広大なネットワーク。けど天崎にだって大切な人がいれば、大切に思ってくれる人がいる。決して欠けてはいけない、大切なピースだ。


 少し前、誰かがこんなことを言っていた。


『他人を助ける前に、まずは自分を助けるべきだ』


 深い言葉だ。と、場違いにも感心してしまう。


 他人を助けるために自分を犠牲にするような行為。そんなものは決して正義ではないし、ましてや自傷行為ですらない。ただの加害者であり、悪だ。なぜなら、自分と繋がっている大切な人たちの一部を欠落させるようなものなのだから。


 そして何より――、

 自分すらも大切に扱えない弱い奴が、他人を救えるわけがない!


「あー……なんつーか、この結界って鬱になる効果でもあるのか?」


 ほとんど心の中で呟くような声で悪態をついた天崎は、サバイバルナイフを捨てて自嘲気味に鼻で笑った。


「俺の命一つで千人以上も救うだなんて、烏滸がましすぎるにもほどがあるだろ」

「東四郎?」

「ごめん、円。俺はもう大丈夫だ。心配してくれて、ありがとな。それで悪いんだけど、決着をつけるから少し離れててくれないか?」

「……うん、わかった」


 天崎に頭をわしゃわしゃと撫でられた円は、彼の強い眼差しを確認した後、小走りで体育館端へと移動していった。


 背筋を伸ばした天崎が、石神へ呼びかける。


「つーかお前、円が入ってきたの見てたんだろ? 止めなくてよかったのか?」

「どうせその座敷童には何もできないと思って、見逃してただけですよ」


 何もできない? あまりに見込みが甘すぎて、天崎は笑ってしまった。


 円は今、天崎の命を救ってくれたのだ。座敷童として……いや、天崎の友人として、最上級の幸せを与えてくれたと言っても過言ではない。


「天崎先輩こそ、ナイフを捨てたってことは違う自殺の方法を選ぶんですか? それともゲームを再開するんですか?」

「いや、もう死ぬ気はねえよ。かといって魂集めも、あんまりやる気が出ないな」

「なら、まだ魂を回収していない人間の命は諦めるってことですか?」


 訝しげに問う石神の目を見つめながらも、天崎は答えない。

 それどころか質問を完全に無視し、話をガラッと切り替えた。


「死神の生まれ方については理解したけどさ、それってつまり、お前も過去に自殺したから死神になったってことなんだろ?」

「……そうですね。それが何か?」

「ダサいな」


 声を押し殺して笑い始める天崎の顔は、小悪党のように醜く歪んでいた。

 石神は目を細め、その表情からは温度が失くなっていく。


「ダサい? 先輩は何を思ってそんなことを言うんですか?」

「実際に自殺しようとしていた俺が言うのもなんだけどさ、俺にはちゃんと止めてくれる大切な人がいたわけだ。でも、お前にはいなかったってことだろ?」

「…………」

「お前、死神は無機質で孤独って言ってたけどさ、死ぬ前から孤独だったんじゃないのか?」

「……あんたに……何が分かる?」

「親にすら見捨てられるなんて、悲しい人生だったんだな」

「何が分かる!!」


 刹那、激昂した石神の身体がふわりと宙に浮いた。数時間前と同じ、ワイヤーアクションのような動きで天崎の元へと接近してくる。振り上げられた石神の両手には、虚空から出現した大鎌が握られていた。


 思惑通りに、天崎は口の端を吊り上げた。


 頭に血が上った状態だと行動が直線的になりやすいことは、身をもって知っていた。そのための安い挑発だ。


 一度目の面会時とは正反対の状況を作り上げる。

 すなわち怒りに満ちているのは石神であり、天崎は冷静そのもの。


 故に、石神が振り下ろした大鎌の柄を掴むのは容易だった。


「――――ッ!?」


 石神は意外そうな表情を見せたが、よくよく考えれば驚くことではない。


『完全なる雑種』である天崎の動体視力や反射神経は、普通の人間の比ではない。大鎌が薙ぎ払われる前に柄をキャッチするなど、朝飯前だ。


 まるで大鎌の取り合いのような構図になりながら、二人は近距離で顔を突き合わせる。


「心にもないこと言って悪かったな。謝るよ」

「う、動かない!?」


 天崎の謝罪もまったく耳に届いていないほど、石神は動揺していた。


 それもそのはず。天崎に掴まれた大鎌は、まるで地中に埋まってしまったと思わせるほど、押しても引いてもまったくビクともしないのだ。


 これもまた、天崎の想定通りだった。


 あれは最初に石神が姿を現した時のこと。裕子が竹刀で殴りかかった際、石神は大鎌で応戦した。競り合いはほぼ拮抗状態で、最終的に石神が裕子を弾き飛ばしたのだが、天崎は少しばかり違和感を抱いていた。


 競り合っていたのは、運動が得意ではない洋子の身体だ。

 つまり石神の腕力は、女子とあまり差がないのではないか?


 その証拠にトロッコ問題で激昂した時以外、石神は決して天崎に近づこうとはしなかった。面会する場所は広々とした体育館を選び、教室でペナルティを与えに来た時も、まるで逃げるように去っていた。


 そんな腕力の弱い石神が、『完全なる雑種』の天崎に敵うはずはない。それだけ警戒していたにもかかわらず、不用意に接近したということは、よほど挑発が効いていたということなのだろう。


「それと、もう一つ。お前が俺に近づかなかった理由があるよな?」


 問いかけるやいなや、天崎は力いっぱい両腕を振り払った。

 握力の尽きた石神は柄から手を放し、周りのパイプ椅子を巻き込んで転倒してしまう。


「これをこうしたら、どうなるんだろう……なっ!」


 そして何を思ったのか、天崎は奪った大鎌の先端を自分の胸へと突き刺した。


 おそらく石神は恐れていたのだ。大鎌の刃が天崎に触れ、『完全なる雑種』の中に存在する死神の血統が覚醒するのを。


「くっ……」


 痛みはない。しかし唐突に気分が悪くなり、吐き気がこみ上げてくる。

 まるで傷口から湧いた蛆虫が、血液に乗って全身を巡っていく感覚だ。

 やがて胸から這い入った嫌悪感は全身に行き渡り、神経を溶解させる。

 肉体と魂がごちゃ混ぜになって、天崎の身体は形を保ったまま一度崩壊した。

 そして血統の中に眠る小さな遺伝子が刺激され、新しい自分が生成される。


「これが……死神」


 石神と同じく、漆黒の布切れを纏った天崎がそこに誕生していた。


 吐き気や気持ち悪さはなくなったものの、また別の感覚が全身を支配していた。


 孤独感、閉塞感、そして異様な寒気。あらゆる負の感情が、意味も理由もなく天崎の心の中に蔓延っている。


「くそっ!」


 死神化した天崎を前に、石神は距離を取るようにバックステップで宙へと浮く。体育館の天井付近まで逃げた石神だったが、その判断は完全に悪手だった。


「待てよ」


 低い声で呟いた天崎もまた、風船のようにふわりと浮いた。

 そのまま天井と石神の間に割り込むように、天崎は身を滑らせる。


 人間対死神ならば、まだ石神の方にアドバンテージがあった。しかし同じ土俵に上がってしまった今の天崎に対し、すべての能力で劣っている石神が勝てる道理など一つもない。


「お前が言ったトロッコ問題、誰も死なせない方法が一つだけあるぞ」

「…………」


 一瞬にして自分の頭上に現れたことに驚いているのか、石神は目を見開いた。

 その間にも、天崎は右腕を振り上げて上半身を捻る。


「それは……俺がこの手でトロッコを止めることだ!」


 全身全霊の拳が、石神の顔面にめり込んだ。

 骨の軋む音が聞こえ、拳からは鼻が変形する感触が伝わってきた。


 石神の身体が真っ逆さまに落下していく。受け身も取れないまま床に叩きつけられた後は、大の字に倒れて動かなくなってしまった。


 また闇の中へ逃げられてはマズい。天崎は急いで床へと降り立ったのだが……鼻から大量の血を流し、意識が朦朧としている様子を見るに、その心配もなさそうだった。


 ともあれ、これで終わりではない。


 今までされた仕打ちをすべて返すような乱暴さで、天崎は石神の胸倉を掴み上げて強引に引っ張り起こした。


「おい、石神! 気絶するんじゃねえぞ!」

「うっ……」


 どうやら本当に気を失う間際だったようだ。天崎の恫喝によって完全に意識を失うことができず、石神は強引に覚醒させられる。


「これ以上殴られたくなかったら、みんなの魂を元に戻せ!」

「殴られたくなかったら……ですか」


 甘いですね。とでも言わんばかりに、石神ははっきりと口にした。


「嫌です。殴られようが……たとえ殺されようとも……僕はやりません」

「なにが……」


 お前をそうさせているんだ? 問う前に、天崎はもう一度拳を振り上げていた。


 実際のところ、石神にどこまで覚悟があるかは分からない。しかし、こちらは千人以上の命を背負っているのだ。たとえ本当に殴り殺すことになっても、絶対に従わせてやる。


 天崎もまた、心を鬼にして覚悟を決めたのだが――、

 痙攣する瞼をこじ開けた石神は、何故かせせら笑っていた。


「そんなことよりも、こんな所で油を売ってていいんですか?」

「なに?」

「天崎先輩は今、死神の身体になっています。つまり死神と同じような能力が使えるってことなんですよ。けど先輩の『完全なる雑種』の血統って、時間とともに普通の人間に戻っていくんですよね?」


 ハッと気づいたように、天崎は顔を上げた。

 石神は尚も得意げに言う。


「どれだけの間、死神の血統を維持できるのかは僕も知りません。だから急いだ方がいいんじゃないですか? ちなみに僕は、もう二度と大鎌を出したりしませんよ」

「円!」


 その場に石神を放り捨てた天崎は、体育館の端で待機している円の名前を呼んだ。

 小走りでやって来た円に、天崎は指示を与える。


「今からみんなを助けるぞ! 少し手伝ってくれ!」

「うん、わかった」


 希望の光が見え、天崎は円と共に体育館の外へと駆け出して行った。

 その背中を、床に倒れた石神は呆れた眼差しで見送っていた。


「天崎先輩。自己犠牲で解決できない問題はたくさんあるってこと、忘れないでくださいね」


 小さく紡がれた言葉は誰の耳に届くこともなく、闇の中へと呑まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ