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ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第5話『フェイス・トゥ・デスバルーン』

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第7章 トロッコ問題

 当然ではあるが、体育館も深夜と勘違いさせられるほど静まり返っていた。


 ただ他の場所と比べて、雰囲気が異様に違う。何が違和感の元になっているのか、体育館の中をぐるりと大きく見回した天崎は、ようやく解答に行きついた。


 館内には、倒れている人間が一人もいないのだ。しかも魂すらもない。


 当たり前の光景を違和感と捉えてしまう今の現状を再確認し、天崎は身震いしながら体育館の奥へと歩を進めた。


 並べられたパイプ椅子を避けながらも、天崎の視線は正面から外れることはなかった。なぜなら舞台の上では、この状況を作り出した死神――石神照樹が退屈そうに文庫本を読んでいたからだ。


 声が届く位置まで近づいたところで、天崎は刺々しい口調で問いただした。


「おい、石神。体育館にいた人たちはどうした?」

「外に移動させましたよ。本を読んでるのに、天崎先輩にその辺をうろうろされたら気が散りますからね」


 まるで興味がないといった感じの答え方に、天崎のこめかみに青筋が浮かんだ。


 怒り任せに殴り掛かりたい衝動を深呼吸で抑えている間にも、石神は文庫本を閉じてゆっくりと立ち上がる。


「肉体は丁寧に扱っているんで、大丈夫ですって。それより、どうかしましたか? まだゲームが始まってから二時間も経ってませんよ」

「話し合いたいことがある」

「訊きたいこと、ではなくてですか?」


 それは『質問は受け付けるが、ゲームの制限を緩和させる交渉は一切しない』といったニュアンスが含まれているようだった。


 だが天崎は構わず続ける。


「校内中の人間全員を助けるのは不可能だ。時間が足りなさすぎる」

「ふうん。先輩はやりもせずに不可能だと決めつけるんですか?」

「やったよ。けど一人助けるのに十分かかった。二十四時間じゃどう考えても足りない。これじゃあゲームとして成り立たないだろ」

「なるほど、なるほど」


 何を納得したのか、石神は思案するように二度頷いた。

 そして天崎をさらに絶望へと突き落とす言葉を吐く。


「おそらく天崎先輩は、このゲームの主旨を間違って捉えてるようですね」

「なに?」

「僕は全員助けろなんて、一言も言っていませんよ」

「なん……だと?」


 耳を疑った。


 いや、そんなわけがない。聞き違いでなければ、石神は間違いなくその口からゲームクリアの条件を言ったはずだ。『校内で倒れているすべての人間を助け出してください』と。


 天崎が絶句していると、石神は飄々と言い放った。


「そりゃ全員助けられるに越したことはありませんよ。けどそれは天崎先輩の完全勝利条件であって、ゲームを終わらせるための必要条件ではありません」

「……どういう意味だ?」

「例えば、そうですね……天崎先輩は、トロッコ問題って知っていますか?」

「トロッコ問題?」

「ま、道徳心を問う正解のない思考実験なんですけど」


 と言って、石神は淡々と説明を始めた。


「線路が二つ、平行に並んでいます。その上に片方には五人の人間が、もう片方には一人の人間が身動きの取れない状態で寝転がっています。さて、そこで線路の向こうから一台のトロッコが走ってきました。このままでは五人の人間が轢かれて死んでしまいます。しかしここで自由に動ける人間……この場合、天崎先輩ということにしましょうか。天崎先輩は、トロッコの行く先を切り替えられる、切り替え装置を手にしています。それを動作させれば五人の命は助かります。ですが線路を切り替えた先は、一人の人間が横たわっている方の線路なんです。……と、ここまで長々と説明しましたが、言いたいことは要は二つだけ。『あなたは線路を切り替えずに五人の人間を見殺しにしますか? それとも線路を切り替え、助かるはずだった一人を殺して五人を助けますか?』」

「五人を見殺しにするか、一人を俺が殺すかの二択ってことか?」

「ものすごく簡単に言えば、そうなります」


 天崎は顔を伏せ、しばらくの間、思考に耽っていた。


 何をせずとも、五人は死ぬ運命にある。しかしそれらは、自分が手を加えることによって助けられる命だ。まったく無関係だった人間を犠牲にして。


 ……秒針が一周するほど考えに没頭したが、ついぞ答えは出なかった。

 天崎は首を振って、ギブアップを表明した。


「そんなもの、選べるわけないだろ。命は数じゃない」

「それも一つの解答ですよね。けど僕は、トロッコ問題そのものを使って天崎先輩を説き伏せたいわけじゃない。今の状況とトロッコ問題を照らし合わせて、よく考えてみてください」

「…………あ」


 石神の言わんとしていることに気づき、天崎は絶望の声を上げた。


 トロッコ問題という思考実験は、絶対的に正しい解答など存在しない。十人十色という言葉があるように、十人の人間がいれば、十通りの解答が存在する。そしてそのどれもが正解であり、間違いでもある。


 しかしトロッコ問題を例として引き合いに出すならば、とある前提条件が必ず含まれる。

 すなわち、多かれ少なかれ人は死ぬということ。


 理解した瞬間、呆気に取られていた天崎の表情が、見る見るうちに怒りのそれへと変化していった。


「ふざけるのもいい加減にしろ! 何がゲームだ! そんなもの、最初から成立してないだろ!!」

「いえ、成立していますよ。僕と天崎先輩の主旨の捉え方が異なっていただけです」


 石神は軽蔑するような冷たい視線を天崎に向け、無感情に言い放った。


「トロッコ問題を引き合いに出した僕が言うのもなんですが、別にこのゲームはトロッコ問題を忠実に再現しているわけではない。天崎先輩が持っているのは、線路の切り替え装置ではないんですよ」

「なんだと?」

「トロッコはどう足掻いても五人が寝転がっている線路へと突っ切っていきます。そして天崎先輩が持っている装置は、人間を移動させるためのものです」


 石神が何を言っているのか理解できず、天崎は混乱する。

 すると石神は、いやらしい笑みを浮かべて解答を口にした。


「果たして天崎先輩は、五人の中から誰を安全な線路へと移動させますか?」


 その言葉を耳にした天崎は、すべてを理解した。

 石神は言っているのだ。生かせる命をお前が選べ、と。


 それはあまりにも……理不尽な選択だった。


「制限時間は二十四時間ですから、頑張れば五十人から七十人くらいは助けられるんじゃないですかね? 全員はさすがに無理ですけど」

「お前……」

「僕としては誰を助けようとしても構いませんよ? 天崎先輩の親しい人間から順に助けていきますか? 一つのクラスを丸ごと助けるくらいの時間はあると思いますよ。それとも命を差別化しない天崎先輩は、見知らぬ人間も含めてランダムに救っていきますか?」

「この……」


 もう我慢の限界だった。血が滲むほど下唇を噛み締めた天崎は、怒りが示すまま石神の方へと向かって一歩を踏み出す。


 その瞬間、石神は舞台の上からふわりと浮いた。


 まるでワイヤーアクションのように放物線を描きながら飛び立った石神の身体が、瞬く間に天崎の頭上へと到達する。そして纏っている布切れの中から現れた足の裏が、天崎の額を軽く蹴った。


「くっ……」


 小突かれただけなのでさほど痛みはなかったものの、あまりの予想外な動きに、天崎は対応できなかった。蹴りを甘んじて受け、後方へとバランスを崩してしまう。


 続いて石神の追撃が来る。足の裏の次は、手の平だ。


 石神は天崎の額に手を添えると、全体重をかけて押し倒した。為す術のない天崎は、そのまま背中から倒れ、体育館の床に大の字に寝転がされてしまった。


 最後に石神は、虚空から出現させた大鎌の柄の先端を天崎の胸へと押し付ける。先ほど石神と裕子が争った時と同じような構図となった。


「嫌だ嫌だとごねてばかりじゃ誰も助けられない。賽は投げられたんだ。さっさと行動に移せ」


 吐き出された石神の言葉が、天崎の胸に重くのしかかった。

 だがそれで怯む天崎ではない。倒れたまま、がむしゃらに両腕を石神の方へと伸ばす。


 しかし寸でのところで逃げられた。

 舞台から飛び降りた動作を逆再生するかのように、石神はふわりと宙に浮きながら舞台の上へと戻っていった。


「こんな所で僕と問答している暇があったら、一人でも多くの人間を助けてあげたらどうですか? 時間は有限ですよ」


 舞台の上に降り立った石神が、冷たい口調で天崎を責める。


 すると突然、石神の周囲に黒い粒子のようなものが現れた。渡り廊下の時と同じように、石神は黒い粒子の中へ身を投じると、音もなく消え去ってしまった。


「…………」


 逃げる石神の姿を、天崎は追うことができない。

 上半身を起こしたまま、誰もいなくなった舞台の上を、ただただ呆然と眺めることしかできなかった。

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