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ドラキュティックタイム  作者: 秋山 楓
第1話『ドラキュティックタイム』
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第5章 闇夜の襲撃者

 雲間から覗くわずかな月明かりが、六畳の和室を照らす。


 あらゆる色が失われた薄暗い部屋の中、じっと佇むのは一人の少女。

 ただし、その姿形は人間のそれではない。


 微量の灯りに浮かぶシルエットには、翼があった。コウモリを連想させる漆黒の翼が、少女の背中で小さく折り畳まれている。


 彼女は微動だにしないまま足元を見下ろしていた。


 暗闇でも鮮明に映し出す縦に長い瞳孔は、布団の中で眠る人間を捉えている。

 否、彼もまた純粋な人間ではない。外見や肉体を構成する遺伝子の大部分は人間のものであるが、その実、彼は『完全なる雑種』と蔑まれ呼ばれている、伝説上に存在するあらゆる種族との混血だった。


 無防備な寝息を立てる彼を見つめているうちに、自然と生唾が落ちた。


 吸血鬼の少女、リベリア=ホームハルトは、ゆっくりと彼の傍らに膝を落とす。そして己の背中から生えている翼で包み込むように、彼の上へと覆い被さった。


 数時間前、有沢空美とした会話が思い起こされる。


 我慢も遠慮もする必要がない。ほんの少しだけ、ほんの数滴だけでいいのだ。『完全なる雑種』という珍しい生き血を味わってみたい。どんな味がするのか、確かめてみたい。空美の話により、天崎に対する興味が一段と強いものになっていた。


 決意を固めると、リベリアは自らの鋭い爪で天崎の手の甲を裂いた。

 少しだけ痛みによる脊椎反射を見せたが、天崎が目を覚ます様子はなかった。

 じわりじわりと、赤い鮮血が溢れ出てくる。


「う、うわぁ……」


 脈打つごとに皮膚を濡らす血液を見て、リベリアは生々しい吐息を漏らした。


 天崎が『胸』、安藤が『歌声』に性的欲求を駆り立てられるように、吸血鬼にもまた種族独自の嗜好があった。


 それは『出血』である。生物から赤い血が流れる光景に高揚感を覚えるのだ。


 もちろん、その中でも個体差によって趣向が異なる場合もある。頸動脈が引き裂かれ噴水のように噴き出す血液が好きな吸血鬼もいれば、指先から滴り落ちる一滴に興奮する吸血鬼もいる。


 リベリアの場合、どちらかと言えば後者の方に偏向していた。


 皮膚に針を突き立て、浮き上がった赤い珠が表面張力を失わないまま肌の上を滑る。それを地面へ落ちる前に、舌で絡め取るのが好きだった。


 しかしリベリアは、生きる目的以外の吸血をそう何度も体験したことはなかった。


 吸血鬼にとっての吸血行動の意味は、大きく分けて二つある。

 一つは対象を『殺し』、食糧として『食欲』を満たすもの。

 もう一つは対象を『生かし』、自慰として『性欲』を満たすもの。


 生きるための食糧調達は至極当然に行えるのだが、吸血鬼の中でもまだ未成年のリベリアにとっては、後者の経験はほどんどなかった。


 だからこそ今からやろうとしている行為に恥じらいを覚えるのだし、またわずかな出血を見ただけで熱に浮かされてしまうのである。しかもその血が、滅多にお目にかかれない『完全なる雑種』のものとなれば尚更だ。


 天崎の手の甲から滲む血を見ているだけで、自然と口の中に唾液が溢れた。

 もう一度大きく息を呑んで、自らの口元を舌で舐め回す。


 いったい、どんな味がするのだろう。


 ゆっくり、ゆっくりと、天崎の手の甲へと顔を近づける。恐れるように、歓喜するように、震える舌を伸ばす。


 そしてリベリアの舌の先が天崎の血に触れた、まさにその瞬間――、

 サッ! と、押し入れの襖が勢いよく開かれた。


「ひゃうわあぁっ!」


 あまりにも突然の出来事に、リベリアは奇声を発しながら飛び退いた。


 弾かれるように尻もちをつき、そのまま畳を擦るようにして烈火の如く後ずさる。果てには声にならない声を喉の奥から絞り出し、両腕は動揺のしすぎで奇妙な踊りを披露していた。


 だが気が動転してしまうのも無理なからぬこと。人間で例えるなら、エロ本に目を通しながら自慰行為に励んでいる最中だったのだ。己の秘なる部分を目撃されてもなお堂々としていられる精神力など、初心なリベリアはまだ持ち合わせていない。


 涙目になりながらも、激しく高鳴った動悸を無理やり抑え込もうと胸に手を当てる。

 そして空気を読まない押し入れの主に対して、リベリアは癇癪混じりの怒鳴り声を上げた。


「ま、円さん! 驚かさないでくださいよ!」


 しかしその叱咤は円には届いていないようだった。


 いつもの無表情ではなく、どことなく険しい顔をしている。それに円の瞳はリベリアを捉えてはいない。まっすぐに定められた視点はリベリアの横……窓だ。


「……?」


 不思議そうに首を傾げるリベリアと、ずっと窓の方を凝視し続ける円。両者の間に言葉はなかったが……円の一言が、その拮抗状態を破った。


「くる」

「――ッ!?」


 唐突な寒気に襲われ、リベリアは背中を震わせた。

 正体不明の恐怖心に足を竦ませつつも、元凶を視界に入れようと無理やり首を回す。


 そして……見た。


 窓辺に浮かぶは黒い影。月明かりを逆光に、人の形をした影はゆっくりと窓を開ける。


 夜行性の瞳を持つリベリアは、その人物の身なりを鮮明に捉えることができた。


 背の高い女だった。上等な給仕服に身を包み、丁寧に巻かれたブロンドの長い髪が夜風に晒され靡いている。憮然とした態度で口を真一文字に結んでいるが、気品ある佇まいは、どこぞの名家の令嬢と誤解されても違和感がない。


 メガネの奥で光る、縦に割れた瞳孔がリベリアを威圧する。

 見覚えのある……いや、多くの時間を共有してきた人物を前に、リベリアは悔しそうに言葉を絞り出した。


「ミシェル……さん……」

「お久しぶりです。リベリア様」


 敬称を付けている割には高圧的な態度でリベリアを睨みつけるミシェル。

 対するリベリアは、まるでイタズラが見つかった子供のように歯噛みした。


「相変わらず雰囲気が似ていますね。てっきり兄さんが来たのかと思いましたよ」

「当然です。私はアラン様の眷属ですので」

「よく私の居場所が分かりましたね」

「何十年お仕えしてると思ってるんですか。リベリア様の匂いを追うくらい、訳ありません。とはいえ、至る所に匂いを付けられて随分と惑わされましたが」


 リベリアが毎夜毎夜外出している理由はそれだった。


 一ヶ所に留まってばかりではすぐ居場所を特定されると思い、遠出しては自分の匂いを残していたのだ。しかしこうして見つかってしまった今、結局それも無駄になってしまったわけだが。


「かくれんぼも、これで終わりです。さあ、アラン様の元へ帰りましょう」

「……イヤです」

「まだ我が儘を言うつもりですか?」


 駄々っ子を前に、ミシェルは困り果ててしまう。

 それでも尚、リベリアは拒絶を露わにした。


「私は……私は大人になんてならなくていい!」

「リベリア様がいくら拒もうとも、これはもう決定事項なのです。貴女がホームハルト家に生まれてきた瞬間から定められた運命。逃れることはできません」

「でも……」


 目尻に涙を溜め、リベリアは強く拒み続ける。


 しかしミシェルは必死に訴えるリベリアの目を見てはいなかった。彼女の視線はリベリアの身体。一通り眺め終えた後、ミシェルは鼻の頭に皺を寄せて嫌悪感を露わにした。


「リベリア様。私が見繕ったドレスはどうなされましたか?」

「……兄さんにボロボロにされたので捨てました。貴女も見ていたでしょう?」

「だからといって、そのような下賤な衣服を着るべきではありません」


 険しい顔をしたまま、ぴしゃりと言い放った。


 ミシェルの言う通り、元々リベリアが着ていたドレスは、デパートで買った服とは比べ物にならないほど高価な物だったのだろう。だが、それはあくまでも新品での話。服としての機能面を見るなら、大半の布地が引き裂かれたボロ雑巾よりも、今のブラウスの方が遥かに有用だった。


「思うに、そこで眠っている人間に誑かされて購入されたのでしょうね」


 と、ミシェルの眼球が未だ熟睡中の天崎を捉えた。

 ……嫌な予感がする。

 ミシェルの意識を天崎から逸らすため、リベリアは安い売り言葉を口にした。


「ところでミシェルさん。貴女は私を連れ戻すためにここへ来たのでしょうが、本当にそれが可能だと思ってますか? この私が貴女如きに後れを取るとでも?」

「真っ向からの戦闘になれば難しいでしょう。四肢を折ってでも連れて帰って来いと申しつけられていますが、返り討ちに遭う可能性の方が高いかと。なので私としては、リベリア様が大人しく従ってくれることを願うばかりです」

「イヤです。さっきも言ったように、ミシェルさんの説得には応じません」

「……そうですか」


 目を伏せ、一考するミシェル。

 そして何かを諦めたように、大きく息を吐き出した。


「ならば仕方がありません。少しばかり強引な手段ですが……」

「あ」


 しまった! 挑発は逆効果だった!


 気づいた時には、すでにミシェルの姿が消えていた。否、消失したのではない。驚くべき速さで小さくジャンプしたのだ。


「なッ!?」


 目では追えていたが、あまりの突拍子のなさに身体の反応が遅れてしまった。


 ミシェルは部屋のど真ん中にいた。眠っている天崎の、わずか数十センチ上空。身を屈めた姿勢から、天崎の頭部を踏み潰さんと脚に力を込める。


「天崎さん起きてッ!!」


 叫ぶよりも早く、リベリアは天崎の腕を掴んでいた。


 力任せに引っ張り、無理やり布団から脱出させる。結果、間一髪のところでミシェルの踏みつけを回避させることに成功した。


 しかし……。

 ドオオオオオォォォォン!!!!


 鼓膜を震わす爆発音。粉塵が舞い、暗闇とは別の意味で視界が悪くなる。


 追撃に備えて感覚を研ぎ澄ませるリベリアだったが、ミシェルは動かなかった。ただ無残に変わり果てた部屋を目の当たりにし、リベリアは悔しそうに顔を歪ませる。


 今の今まで天崎が横になっていた場所に、巨大な穴が開いていた。


「少し強めに踏みつけただけなのですが……なんとも脆い建物ですね。このような場所、一夜たりとも寝床にしたくはありません」


 消失した床の端で、給仕服の吸血鬼が事もなげに言い放った。


 その飄々とした態度がリベリアの癇に障る。数日とはいえ、自分がお世話になっていた建物が壊されるのは……やっぱり悲しい。


 とはいえ今は感傷に浸っている場合ではない。ここは二階だ。階下の住人がどうなったか心配である。

 ……いや、その前にまず自分たちの身の安全か。


 リベリアは天崎の腕を思いきり上下に振った。


「起きてくださいってば! 天崎さん!」

「ん……、む~ん……」

「床が抜けるほどの轟音だったというのに、なんて寝つきのいい……」


 あまりの危機感のなさに、リベリアも思わず呆れてしまった。


「リベリア様は、その人間を庇いながらどこまで私と戦えますか?」

「ぐっ……」


 不本意にも、自分が殺すはずだった天崎を明確な弱点と認定されてしまった。


 兄の眷属であるミシェルよりも、純粋な吸血鬼のリベリアの方が力関係は上だ。邪魔さえ入らなければ、リベリアが圧勝するだろう。


 だからこそ、ミシェルは天崎を執拗に狙ってくるはずだ。彼を守りながらとなると……。


 考える猶予は与えてくれそうにない。壁に立て掛けてあったちゃぶ台を手に取ったミシェルは、まるでフリスビーのようにリベリアの方へと投擲した。


 嫌らしいが合理的な攻撃だ。天崎の対処に意識を割かれ、リベリアが隙を見せたところで仕掛けてくる魂胆だろう。


 故に避けるという選択肢はない。口惜しいが、ここはちゃぶ台を破壊する。

 迷いを払い、拳を構えたリベリアだったが……。


 飛来してきたちゃぶ台は、偶然にも二人の横を逸れ、流し台の冷蔵庫へと衝突した。お辞儀をするようにひしゃげた冷蔵庫の中身が、辺りへと散乱する。


「…………?」


 投擲を終えた姿勢のまま、ミシェルは自らの手を不思議そうに眺めた。


 今、どうして外したのかが理解できなかった。この近距離、しかもちゃぶ台サイズで標的に掠りもしないとは、いったいどういう訳か。


 疑問を抱いたのも一瞬、微量な気配を感じてミシェルは振り返った。

 押し入れの中から睨むようにこちらを凝視している円の姿を認め、すべてを理解する。


「なるほど。ここには座敷童がいたのですね」


 リベリアを視線で牽制してから、ミシェルは面倒くさそうに円の方へと一歩踏み出した。


「脆弱な神ですが、視られていては厄介です。こちらから処理しましょう」

「円さん、逃げて!」


 ミシェルの矛先が向き、円はビクッと肩を震わせた。

 しかし彼女は逃げようとしない。否、動きたくても動けないのだ。

 円はミシェルの魔眼に魅せられていた。視覚を介して円の精神へと干渉し、身体の自由を奪っている。


「さあ。良い子ですから、そのままじっとしているのですよ」


 ゆっくりと、ミシェルの手が円の首へと伸びていく。


 吸血鬼でなくとも、能力の使えない円を葬るのは造作のないこと。実際、彼女の身体は普通の小学生とほとんど変わらない。少し強めに首を捻るだけで、簡単に絶命してしまう。


「あっ……、あっ……」


 呼吸すら困難なほど硬直している円を前にしても、リベリアは未だ動けずにいた。


 これは……罠なのか? ミシェルなら、一秒もあれば円の首を刎ねられるはず。それをしないということは、こちらが止めに行くのを誘っている? それとも円の未知なる能力を警戒してるだけか?


 どのみち、円にだって手を出させたりはしない。

 一か八か、全力で踏み込めばギリギリで届くタイミングまで様子見したところで……。

 リベリアは、ようやく自分の半身が軽くなっていることに気づいた。


「あんた、メイドのくせに子供の扱い方が下手だな」

「ッ!?」


 何者かに手首を掴まれ、ミシェルの殺意は霧散した。


 射殺すような目つきで手の主を睨みつける。そこには、ついさっきまで熟睡中だった天崎の姿があった。


「いったい何なんだよ。俺の部屋をめちゃくちゃにしやがって……」


 被った被害の大きさにしては、天崎の態度は冷静そのものだった。迷惑そうに眉を寄せ、小さく愚痴を漏らすのみ。もっとも、まだ現状を正しく認識できていないだけかもしれないが。


 だが糾弾すべき相手を間違えるほど、天崎も愚かではなかった。

 ミシェルの手首を掴む握力が徐々に強くなっていき、やがて骨が軋み始める。

 舌打ちをしたミシェルは、天崎の手を強引に振り解いて距離を取った。


「貴方はこの部屋の主ですね?」

「ん? ああ、そうだよ。ちゃんと家賃も払ってるし」

「ならば最低限の礼節を以って振舞わなければなりません」


 と言って、ミシェルは恭しく一礼した。


「お初にお目にかかります。私はそちらにおわしますリベリア=ホームハルトの兄、アラン=ホームハルトの眷属にして侍女を仕えております、ミシェルと申します」

「リベリアの兄の眷属だぁ?」


 胡散臭そうな声を上げ、リベリアに確認を取る。

 すると彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。どうやら本当のようだ。


「ってことは吸血鬼か。また厄介な……」

「貴方のお名前を頂戴してもよろしいですか?」

「俺は……」


 言葉を詰まらせながらも、天崎は部屋の中央にできた大穴を一瞥した。


 寝込みを襲うという、とても友好的とは思えない吸血鬼に個人情報を渡しても大丈夫だろうか。と躊躇ったのだが、リベリアという前例もあるので今さら感はある。しかも彼女の身内となれば尚更だ。


 円と自分のためにも、ここは無暗に反感を買うべきではない。

 そう判断した天崎は、正直に名を名乗った。


「天崎東四郎だよ。正真正銘の人間……って言いたいところだけど、本当のこと言えば、俺はほぼ人間の『完全なる雑種(フリードッグ)』だ」

「『完全なる雑種』?」


 今度はミシェルが訝しげな声を上げる番だった。


 もちろん『完全なる雑種』という存在を知らないわけではない。ただ、この場でその単語を耳にしたのが、あまりにも予想外だったのだ。


 その理由はリベリアにある。


 兄の元を離れ、日本に逃げ込み、身を隠すため仮宿としてこのアパートを選んだ。そこまではいい。しかし同じ屋根の下で暮らしていたのが『完全なる雑種』だったなど、そんな偶然はあり得ない。『完全なる雑種』と呼ばれる一族など、全世界的に見ても両手の指で数えられるほどしか存在していないのだから。


 つまりリベリアは、自分の意思で『完全なる雑種』に接触したということ。

 彼女の意図が読み取れず、ミシェルは柄にもなく困惑してしまう。


「リベリア様。どうして貴女は『完全なる雑種』などの元にいらっしゃるのですか?」

「……答える義務はありません」

「そうですか……」


 哀しそうに顔を伏せるミシェル。


 だが次の瞬間、彼女の瞳に絶対的な意志が宿った。決意を固めたと言えば聞こえはいいが、ミシェルの表情から窺えるのは、命令を入力され後は実行に移すだけの機械のそれ。多少は残っていた人情味が、完全に無機質なものへと変貌する。


「なんにせよ、リベリア様を連れ戻すという私の目的に変更はありません。それでもなお拒むというのであれば、手段を厭わないまで」


 ミシェルの魔眼が天崎を射抜いた。

 目的に変更はない。その言葉通り、実力で敵わないのなら人質を盾にする。


 魅せるのは『死』。生物であれば誰もが恐れ忌み嫌う事象を突き付けられ、天崎は身も心も竦み上がってしまう……はずだった。


 天崎の決断は、ミシェルの魔眼の効果が顕れるよりも早かった。

 先手必勝。全身をバネに飛び掛かった天崎の拳が、ミシェルの頬骨を狙う。


 しかし不意を突いた強襲も、吸血鬼の前には意味を為さなかった。拳がミシェルの顔に触れるよりも先に、手の平で難なく止められてしまう。


「何の真似ですか?」

「リベリアの家の事情に首を突っ込むつもりはないけどさ、だからって素直に利用されると思ったら大間違いだ。それにこっちはアパート壊されてんだぞ? ちょっとくらいは反撃させろよ」


 余裕のない、しかしどこか勝機を見出したような笑みを天崎は見せる。


 その時、天崎のポケットから何かが落ちた。わずかな月明かりを反射して輝くそれは、手の平に納まるサイズの小さな十字架のアクセサリだった。


 それは天崎が対リベリア用として事前に購入していた物。もちろん名のある教会に保管されていた物でなければ、どこぞの聖人が所有していたなどという逸話があるわけでもない。そこら辺の小物屋で売っていた、ただ十字架の形をしているだけの金属だ。


 だが吸血鬼のミシェルにとって、その形は決して無視できるものではなかった。


 古き習慣を良しとする吸血鬼ハンターの中には、十字架を使用する者もいるのだ。拘束具だったり、毒を仕込んだ暗器だったりと使用例は様々だが、自分を害する道具に変わりはない。故にミシェルの意思とは関係なく、床に落ちた十字架を目視せずにはいられなかった。


 同時に気づく。これは――罠だ。


「しまっ……」

「覚悟しろよ、吸血鬼」


 天崎の方へと意識を戻した時には、もう遅かった。

 彼はプラスチックの容器を手にしており、今まさに中身をぶち撒けようとする寸前だった。

 回避は間に合わない。せめて顔だけでもと、ミシェルは両腕を交差させてガードする。


 しかし思った以上の衝撃は訪れなかった。ビチャッ! という半固形状の何かが周囲に撒き散らされた音を耳にしただけだ。


 訝しげに眉を寄せながらも、ミシェルはガードを解いた。


「これは……」


 給仕服にこびり付いているのは白い液体。やや粘度のあるそれは、重力の赴くまま下へ下へと伝っていき、やがて辺りに鼻を突く激臭が立ち込める。


「この匂いは……」


 その物体が何なのかを理解していくのと同時に、ミシェルの顔に絶望が浮かんできた。


「ああ。お察しの通り、すりおろしたニンニクだよ」

「うっ……」


 得意げに正体を明かす天崎を前に、ミシェルは口元を押さえながら苦しそうに下を向く。

 だからこそ天崎は気づかなかった。縦に割れたミシェルの瞳孔が、不気味なほど紅く染まっていくのを。


「か、換気を……」


 弱々しい声がミシェルの口から漏れた、その瞬間――、


 突然、給仕服の背中が引き裂かれた。中から現れたのは、リベリアと同じコウモリのような翼。彼女を吸血鬼たらしめる漆黒の翼が、横幅いっぱいまで広げられる。


「なッ!?」


 唐突に突風が発生し、天崎は思わず顔を背けてしまった。


 続いて、床を抜かれた時と同じような破壊音。マズいと思い、咄嗟に防御姿勢を取る天崎だったが……攻撃らしい攻撃が来ることはなかった。どころか、ミシェルの姿が消えている。


「……上?」


 落ちてくる木片を伝い、上を向いたところで絶句した。


 床と同様、天井に大きな穴が開いていたのだ。おそらくミシェルが突き破って飛び立っていったのだろう。ただ、穴から見える範囲の夜空にミシェルの姿が映ることはなかった。


「もしかして……やったのか!?」

「やってるわけないでしょ! 何を考えてるんですか、貴方は!?」


 すかさずリベリアのツッコミが返ってきた。


「ニンニクを投げつけるなんて、完全に火に油を注ぐようなものですよ!」

「ニンニクって吸血鬼の弱点だろ!?」

「弱点は弱点でも、身体に触れただけでダメージとか負いませんからね!?」

「でもあいつ、効いてたような感じだったぞ!」

「それは匂いがダメだったんです! 私だってネギ類の入った料理を前にしたら顔を背けるくらいはしますし……」


 と言って、リベリアもまた口元を押さえた。


「うっ、私も気分が悪くなってきました……」

「正直すまんかった」


 中身のないやり取りを終えたのも束の間、突如として大きな揺れがアパート全体を襲った。


 最初は地震かと思ったが、揺れは余韻も残さず一瞬で収まってしまう。ただ、何故だか急に寒くなった。


「はあ!?」


 天井を見上げ、二度目の絶句。いや、そこに天井はなかった。


 飛び立ったミシェルが開けた穴だけではない。部屋の端から端まで、まるでプラネタリウムのように秋の寒空を眺めることができていたのだ。


 そして、月の側で羽ばたく一体の吸血鬼を発見する。


 ミシェルが両手で掲げている物体は、彼女の体格の何倍もある巨大な長方形のシルエット。それがおののき荘の屋根だと気づいたと時には――もう遅かった。


「毒物を排除しますッ!!」


 野ざらしとなったおののき荘に向けて全力投球される屋根。当然のことながら元の状態に戻るわけもなく、弾丸の如く射出された屋根はおののき荘へと激突する。


 部屋の中に取り残され、逃げることも叶わなかった三人は――、

 崩壊するおののき荘とともに、瓦礫の中へと落ちていった。






 瓦礫の山と化したおののき荘の残骸に降り立ったミシェルは、激しく後悔していた。


 またやってしまった。アランの眷属として仕えて以来、ニンニクを前にすると、どうしても冷静さを失ってしまう。おそらく吸血鬼になって初めて死にかけた原因だからだろう。人間の頃は普通に口にしていたニンニクで、まさか呼吸困難になるとは思わなかったのだ。


 そしてこれは、初めから吸血鬼だったアランやリベリアには理解してもらえないトラウマでもある。故にミシェルは、ニンニクに対して純粋な吸血鬼以上に嫌悪感を表すようになっていた。


 まるで汚物にでも触れるかのように、服についたニンニクをハンカチで拭い取る。二度と使えなくなったハンカチを地面へ投げ捨てる頃には、すっかり冷静さを取り戻していた。


 やがて異常事態に気づいた近隣住民の声で騒がしくなってくる。遠くの方ではサイレンも。

 少し暴れすぎた。そろそろ潮時か。


 撤退をする前に、ミシェルは足元の瓦礫を見下ろした。

 リベリアがこの程度で死ぬわけがない。無傷か、もしくは軽傷を負ってどこかで埋まっているはず。探し出して連れて帰りたいのは山々だが、寝床にしていたアパートをぶっ壊してしまった手前、今顔を合わせたら逆に殺されかねない。ここは逃げるが吉だろう。


 天崎と円に関しては残念だ。この崩壊に巻き込まれては生きてはいまい。


 正直、殺すつもりはなかった。リベリアを説得する過程で結果的に死なせてしまったのなら致し方ないが、できることなら穏便に済ませたかった。眠っている天崎を踏みつけようとした時も、リベリアが対処できるよう手を抜いていたわけだし。


「……ひとまずアラン様に報告しましょう」


 人間に姿を見られては厄介だ。後片付けは任せて、崩落事故を起こした張本人は夜空へ飛び立とうと翼を広げた。


 だがしかし、背後で瓦礫の崩れる音がして、再び足が地面に縫い付けられる。


 振り返ると、そこには柱の残骸を押し退けて立ち上がる天崎がいた……のだが、様子がおかしい。息が荒々しいのは崩落に巻き込まれた影響だとしても、彼の身体の一部が名状しがたい姿へと変貌しているのはどういう訳か。


「何ですか……その腕はッ!?」


 生きていたことも驚きだが、理解不能な現象を前にミシェルは狼狽してしまう。


 天崎の右腕、肩から先が異常に肥大化していた。しかも人間の腕ではない。黒い体毛に覆われ、四本に減った指の先にはナイフのような鋭い爪が生えていた。


 その姿はまるで獣。天崎の右腕は、ゴリラともオオカミとも区別のつけがたい野生のものへと変化を遂げていた。


「『獣王の怪(モンスターアクション)』」


 心なしか紅くなった天崎の瞳が、じっとミシェルを見据えた。


「俺は『完全なる雑種』だって言っただろ? 少し時間はかかるけど、身体の中にある遺伝子なら、その種族特有の個性を引き出せるんだよ。中でも半分人間の獣人や人魚の遺伝子は比較的扱いやすいからな。今回は戦闘向きの獣人を選ばせてもらった」

「そ、そんなバカなことが……」

「できないと思うか? これを機に自分の常識を更新しなよ」

「…………」


 信じられないとでも言いたげに、ミシェルは口を開けたまま硬直してしまう。


 いや、『完全なる雑種』に対する自分の知識はかなり浅い。故に天崎がそのような特殊な体質だったとしても、驚きこそすれ否定できる材料は持ち合わせていないのだが……だとしても納得できない面もある。


 体内の遺伝子を自由に引き出せる? 『完全なる雑種』というからには、もちろん吸血鬼の遺伝子も所持しているはずだ。それはつまり、条件さえ整えれば天崎は一時的に吸血鬼にもなれるということ。


 地上に存在するあらゆる生物の頂点に君臨する吸血鬼。

 その吸血鬼の能力を有しながら、なおかつ他の生物の特徴も持っている……だって?

 バカげている。それではまるで……。


 だが思考を巡らせている猶予はなかった。ミシェルが恐れ戦いている間にも、獣の右腕を振り上げた天崎が一歩踏み込んでくる。


「覚悟しろよ」

「くっ……」


 不安定な足場にもかかわらず、天崎の動きは速かった。


 一足飛びで一気に距離を詰められる。空への回避は間に合わない。苦虫を噛み潰したように顔を歪めたミシェルは、身体の前で両腕を交差させた。


 そして――、

 バキッ! という豪快な音とともに、天崎の拳がミシェルの腕の骨を砕いた。


 あまりに強烈な衝撃だったためか、ミシェルは後方へと弾き飛ばされる。だが元より撤退するつもりだったミシェルにとって、これは好機だった。吹っ飛ばされた反動を利用して、夜空に向けて滑空する。


 そのまま天崎に一瞥もくれることなく、ミシェルは飛び立っていく。


「待て!」


 呼び止めるも、徐々に高度を上げていくミシェルを追う手立てはない。

 と、天崎の隣で瓦礫が動いた。


「ミシェルさん!」


 慟哭にも似たリベリアの悲鳴が大空へと響き渡る。


 彼女の声を聞いて一瞬だけ動きを止めたミシェルだったが……結局は、引き留めるまでには至らなかった。


「……追います!」

「いや……待ってくれ……」


 弱々しく萎んでいく天崎の声。

 見れば、異形の右腕を携えた天崎は辛そうに膝をついていた。


「頼む。円を、掘り起こしてくれ。俺は、ちょっと……動けそうにない……」

「……分かりました」


 優先順位など問うまでもない。今は円の命が何よりも最優先だ。


 救助活動を始める前に、リベリアはもう一度ミシェルの方へと視線を向ける。折れた両腕を荷物のようにぶら下げ、ミシェルは大空の彼方へと消えていった。

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