第14章 最終決戦
それから丸二日が経過した。
その間、最終の地に新しく居座ることになった天崎と太郎は、自由気ままに過ごしていた。
城内にある宿泊施設は宿屋と同じ仕様になっているようで、二人のどちらかが鍵を使って扉を開ければ、現実世界と遜色のない部屋が現れる。元々が高級志向に設定されているのか、二人が想像できる範囲の、どんな豪華絢爛な内装に変化させることも可能だった。ただ彼らは、一昔前のあらゆるゲームが置いてある部屋を選んだのだが。
部屋でゲームをする以外は城内を探検したり、腹が減れば食堂の席に座るだけで、どこからともなく現れたNPCが超絶美味の飯を運んできてくれる。滞在中、一度だけ最終の地を訪れたチームがあったが、太郎が余裕で秒殺した。
そうして二日間、二人は自堕落な生活を満喫していた。
三日目の正午、そろそろかなと直感した天崎が準備を整える。太郎とともに城のエントランスに赴き、自らは玉座に就いた。
そこからの眺めは壮観だった。だだっ広い空間に何十もの長椅子が並べられ、そのすべてが自分の方へと向いている。今は隣に立っている太郎以外に人はいないが、すべての席が埋まった場面を想像してみれば、かなりの景色だった。
なるほど。力を持つ者が王になりたがるのも、よく分かる。
何の能力も持たないレベル1の天崎はそんなことを考えながら、その身を玉座に埋めたのだった。
それから待つこと数分。玉座から伸びるレッドカーペットの端に光が差す。ゆっくりと開かれた扉から現れたのは、マントを羽織った魔法使いと金髪の吸血鬼だった。
予想通りだったなと、天崎は口の端を釣り上げた。
その憎たらしい笑みが見えたのかは定かではないが、魔法使いの少女……マロンが、恨みがましく吐き捨てるように言った。
「久しぶりね、天崎。三日ぶりかしら?」
「そうだな。それくらいだ」
「なかなか滑稽な状況よね」
「俺もそう思う」
もともと同じチームだった仲間が分裂し、片方は魔王の座に就き、片方はそれを倒すために最終ダンジョンを訪れる。現実のRPGでも、なかなかないシナリオだ。
しかも魔王の座に就くのは、レベル1のほぼ普通の人間。
相棒は運営もチートと認めるぶっ壊れステータス。神の鉄槌を食らってもなお、尋常じゃない強さを持っている鬼だった。
「生き残りは、もう私たちだけ。優勝は確定してるけど、チーターであるあんたたちを討伐せよっていう運営直々のクエストが発生してるの。これが終わらないと、エンディングを迎えられそうにないのよね」
「俺たちはチーターじゃないんだけどな」
「そんなのもうどちらでも構わない。……覚悟はできてるわよね?」
「覚悟するのはそっちだろ?」
天崎の軽口に、マロンは睨みを利かせた。
両者の会話が終わると、リベリアが数歩前へ出た。
それに合わせて、太郎も少し距離を詰める。
お互いに言葉は要らない。今から始まるのは、純粋な殺し合いだ。
しかし戦闘はすぐには始まらなかった。
対峙する太郎の目を見つめながら、リベリアは背中に語りかける。
「マロンちゃん。約束、いいですか?」
「えぇ……」
不本意だが仕方がない。と言いたげに、マロンの表情に影が差した。
そして懐から携帯みたいなデバイスを取り出すと、誰かと通話を始める。ただ話自体はすぐに終わったようだ。
「なにしてるんだ?」
天崎が問うと、マロンは諦めたように肩を落とした。
「運営に頼んで、リベちゃんのレベルを初期化してもらったのよ」
「よく見てください。私は正々堂々、酒井さんと戦いたいのですよ」
と、リベリアが不敵に笑った。
まさかと思い、天崎はリベリアの顔をじっと見つめてみる。
80以上あったリベリアのレベルが、1に戻っていた。
そう。レベル上昇分のブーストしていたステータスが、すべて失われてしまったのだ。つまりリベリアは今、現実世界と同じ状態というわけである。
「ゲームで付加された能力で酒井さんに勝っても、嬉しくありませんからね」
リベリアには珍しく、そこで唐突に笑みを消した。
鷹よりも鋭い眼光で太郎を射抜きながら、右手をゆっくりと顔の前へ翳す。
「けど、最初から全力で行かせてもらいます。酒井さんの強さは知ってますから」
「おう! オレも頑張るぞ!」
太郎は未だに遊びと戦闘の区別がついていないような、緊張感のない声を上げる。
それとは対照的に、自らの人差し指を噛んだリベリアは、小さく虐殺宣言をしたのだった。
「『吸血の時間』」
刹那、リベリアの姿が消えた。否、恐るべき速度で前方へ跳んだのだ。
リベリアの跳んだ方向が、天崎とマロンにとっては視界の延長線上だったからこそ、彼女の姿を眼で追うことができていた。もし真横から見ていたなら、確実に見失っていただろう。静止状態から最高速度に達するまで、ほんの一秒にも満たなかった。
一足飛びで、一気に太郎の元まで距離を詰める。瞬く間、という表現が、これほど的を射ている突進もなかなかない。ほんの一瞬瞼を閉じただけで、リベリアは何メートルも前に進む。その突撃がいかに速いかは、彼女が横切るのと同時に風圧で木片となっていく長椅子が物語っていた。
そしてコンマ数秒後、リベリアの手が太郎へ届く間合いにまで到達した。
太郎の一歩手前。真正面で、リベリアは両足を地面につける。だが突進で得た運動エネルギーは失われない。軸である両脚は地面に固定し、腰の辺りを支点にして上半身を捻る。あらゆる物理エネルギーは、振り上げられたその右腕へ。
リベリアは一瞬だけ息を止めた。
上半身のバネが戻る反動を利用した全力の拳が、太郎の額を貫いた。
「おっ?」
まるで拳が額に触れるまで、リベリアが目の前にいることすら気づかなかったかのように、太郎が間抜けな反応を返した。
だが、もう遅い。
音速を越えるリベリアの拳が、空気を割る。ほんの一瞬の時間差を置いて、太郎の額を強打する衝撃音が轟いた。
速度の最高点で太郎の額を捕らえたと確信したリベリアは、そのまま殴り抜ける。
拳の重さに耐えられなかった太郎の身体が、地面から浮いた。
後方へ吹っ飛ばされていった太郎は、まるで河原で水切りをする小石のように、何度も地面でバウンドする。もし草原のような開けた場所だったなら、地平線まで転がっていったかもしれない。
しかしここは屋内。地平線への旅は、壁によって阻まれる。
爆発音。太郎が衝突するのと同時に、壁に大きな穴が開いた。
崩れ落ちる瓦礫と、舞い上がる大量の砂埃。拳を振り抜いた体勢のまま、リベリアは静かに睨みつけていた。
自分の全力を込めた一撃。その威力は、対物ライフルに匹敵する。いや、物体を破壊する点のみに注視すれば、どんな銃器よりも勝っているという自信はある。現に今、標的であった太郎が壁に衝突しただけで、戦車の砲撃以上の大穴を開けたのだ。
頭を割ったという感触はあった。しかしリベリアも太郎の耐久力は知っている。まさか今ので死んだとは思わない。
砂埃が晴れるまで、リベリアはじっと待った。
果たして、その結果は……。
「す……」
視界が開ける。
瓦礫の中から立ち上がった太郎が、興奮しながら目を輝かせていた。
「すげー! 金髪のねえちゃんのパンチすげー! オレの姉ちゃんの次ぐらいにすげーぞ!」
「…………無傷ですか」
ともすれば挑発にも捉えかねられない発言だったが、太郎はまったく悪気のない純粋な感想だったし、リベリアもそんなことで気を荒げるほど余裕があるわけではなかった。
太郎の身体は砂埃で汚れているだけだ。かすり傷どころか、拳を受けたはずの額ですら痣一つ見当たらない。
「硬すぎでしょ」
と言うも、それで諦めるリベリアではない。即座に追撃に移る。
地面を蹴ったリベリアは、先ほどと同じように太郎へ向けて突進を始めた。しかし今度は殴るのではない。太郎の間合いまで突き進み、そのまま背後に回った。続いて片手で髪の毛を鷲掴みにすると、彼の顔面を地面へと叩きつける。
そして太郎は雑巾になった。
太郎の髪の毛を掴んだまま、リベリアは城内を駆け巡る。床を、壁を、天井を、太郎の顔面をあらゆる側面に押し付けながら、縦横無尽に飛び回った。
体育館の三倍くらいの室内を一周したところで、最終的に天井へと向かった。ステンドグラスから透過する様々な色の光が、無表情のリベリアとズタボロになった太郎を映し出す。
頂上付近にまで達したリベリアが、手にしていた太郎を床へと向けて投げ捨てた。使い終わったボロ雑巾をゴミ箱へ放り投げるように、こんなクソ汚い布切れは一秒たりとも触れていたくないと言わんばかりに全力で。
太郎は空中で身動きが取れない。弾丸の如く勢いで地面へと落下するのみ。
メテオとなった太郎が床に激突すると、小さなクレータができた。
だがリベリアのターンは、まだ終わらない。
太郎が地面に衝突するのを確認するやいなや、彼女は自らも地面へと向けて発射した。一人分の大きさの砲弾が、銃弾の速度をもって頭上から降り注ぐ。
クレータの中心へ、脚から着地する。つま先が、太郎の脇腹を抉った。
さらなる衝撃でクレーターの面積を増やした後、リベリアは距離を取った。いきなり反撃が来ても対応できるよう身構えながら、クレーターの中心を凝視する。
太郎は……ゆっくり立ち上がり、眩暈を覚えるように頭をふらつかせるだけだった。
「め、目が回ったぞ……」
「…………化け物ですか」
素直な言葉で、リベリアは太郎を賞賛した。
当然ながら、城の床や壁はゼリーのような柔らかい素材でできているわけではない。たとえ道具を使おうとも、人間の腕力では簡単には壊れない石造りである。握り拳程度の石でも、頭を数回殴れば人間は死ぬだろう。
なのに太郎は死なないどころか、傷一つついた様子はない。
その耐久度に若干引きつつも、リベリアは軽く城内を見回した。
太郎の顔面が通った壁や床は、まるで小さな塹壕のような線を描いて抉れている。地上すれすれを進む、モグラが通った跡のようにも見えた。
それを確認したリベリアは、不本意にも納得してしまった。
壁が柔らかいわけではなく、太郎の頭がそれ以上に硬かった。それだけの話だ。
だがそうなると、どうしたものか……。
リベリアは身構えたまま思考を巡らせる。全力の一撃はものともせず、顔面を引きずり回した結果は目が回っただけ。単発の攻撃も、周囲の環境物を使ってもダメージは与えられない。
ならば……。
考えがまとまるやいなや、リベリアが飛んだ。今度は跳んだではなく、飛んだ。
低空飛行で、太郎の頭上を目指す。さすがの太郎も少しは彼女の動きに慣れたのか、間合いに入った瞬間に拳を突き出した。しかしリベリアは、全身を捻って難なく攻撃を回避する。
そして太郎の真上まで来ると、組んだ両手を振り上げた。
ハンマーと化したリベリアの両手が、太郎の頭頂部へと叩き落とされる。ゲンコツと表現するにはあまりにも激しい打撃が、太郎の身長を縮めた。そう、文字通り身長が縮んだのだ。
突っ立った状態で一撃を食らってしまったためか、太郎の両足が釘のように地面へとめり込んでしまった。その深さは約三十センチ。膝のやや下あたりである。
「じゃ、覚悟してくださいね」
空中でバク転し、太郎の正面に降り立ったリベリアが無感情に言った。
リベリアの渾身の一撃が、太郎の顔面を叩きのめす。ただし一度だけではない。二回三回四回……幾度となく繰り出されるリベリアのラッシュが、太郎を襲った。
「オラオラオラオラオラオラァァ!!」
逃げられない太郎をサンドバッグに見立てて、リベリアの容赦ない乱打が披露された。その一撃一撃は、重機をもスクラップに変えられるほど。十発も放てば、『クロウディア』では最上級の物理防御魔法も破壊する。
太郎がダメージを負うまで殴るのを止めるつもりはない。
そう決意し、リベリアの猛撃が続いた。
と、その時である。
「ッ!?」
視界の端で、血が舞ったのを捉えた。
リベリアの意識が、空中に飛び散る血へと向く。続いて、太郎の鼻へと移った。
彼の鼻から、薄っすらだが血が垂れている!
あれだけ頑丈だった太郎が、鼻血を見せた。決して無敵ではない。少しずつだが、確実にダメージは入っている。このまま行けば、いずれは倒せる!
その心の余裕が――油断を招いた。
ラッシュを繰り出すリベリアの両腕をすり抜けるようにして、細い腕が伸びてきた。五本の指が開き、リベリアの首を捕らえる。
「ぐっ……がっ……」
気づいた時には、もう遅かった。
お互いのリーチは同じくらい。ただ太郎の攻撃を食らうのは致命的だと判断し、開戦直後の一撃以外はいつでも避けられるように警戒していたのだ。しかし太郎が血を見せ、このまま一気に押し切ろうと焦ったのがマズかった。
リベリアの体重が前へと傾いていることを見極められ、ここぞというタイミングで腕を出してきた。
ラッシュが止まる。未だ地面に足がめり込んだまま、太郎は片手でリベリアの細い首を締め上げる。対するリベリアは、苦しそうな呻き声を上げながら、太郎の手首に爪を立てていた。
だが太郎の拘束は解けない。首を持つ握力は、さらに強くなっていく。
そして……。
バキッ! と音を立て、リベリアの首の骨が折れてしまった。
「おっ?」
だらりと垂れ下がる頭。太郎の手首を掴んでいる両手の握力も、徐々に弱まっていく。
白目を剥いたリベリアの瞳を見て、太郎は呆気に取られていた。
「折れちまった」
教師に怒られた小学生のように、太郎はしゅんと項垂れた。首の骨を折ってしまったことに対する詫びの態度だったのか、もしくはあれだけ啖呵を切ったのにもう終わりかという失望の意味だったのかは、誰にも分からない。
ただ、このまま亡骸を手にしていても仕方がない。
太郎がリベリアの首を解放した、その瞬間――、
リベリアの瞳に光が戻った。
「おっ!?」
あまりに唐突かつ予想外の出来事に、太郎は一瞬だけ硬直した。
リベリアはその一瞬の隙を逃したりはしない。首の骨が折れ、しっかりと座っていられない頭を勢いよく前方へ振ると、すぐ目の前にある太郎の腕へ思い切り噛みついた。
「痛てぇ!」
思わず叫ぶ太郎。
そこで完全に解放されたリベリアは、距離を取るように後方へ跳んだ。
「金髪のねえちゃん、なんで生きてるんだよ!」
「吸血鬼は首の骨が折れたくらいじゃ死にませんよ」
「マジか!? オレだったら普通に死んじまうぞ!」
「……貴方の骨は、絶対に折れないでしょ」
事実、人間の身体とほとんど構造が変わらない鬼は、首の骨が折れたら死んでしまう。だがそれは、あくまでも折れたらの話。今までリベリアの攻撃を完全に耐えていた太郎の骨は、絶対に折れないと評価しても過言ではなかった。
対して吸血鬼は、首の骨が折れたくらいでは死なない。どころか、心臓を貫かれようが首を刎ね落とされようが、すぐに死ぬことはない。適切な処置と時間、そして脳さえ無事ならば、どんな大怪我でも完全回復する。
だが首の骨を折られたことは、この場において致命的だった。
数十分もあれば、首の骨など簡単に繋がるだろう。ただそれは、首を固定させて安静にしていた場合である。戦闘中に治すのは、まず不可能だ。
首の位置が定まらない状態で、果たしてどこまで力が出せるか。
不安に思うのと同時に、リベリアは太郎の手首に視線を移した。
先ほど噛みついた時、太郎は痛いと叫んだ。ちゃんと痛覚はあるようだし、攻撃も徐々に効いてきているような気がする。
それに太郎はリベリアのスピードについて来れている様子はない。すべての攻撃において、太郎は視線で追うことも防御姿勢を取ることもできていなかった。
となれば作戦は一つ。太郎の手が届かない範囲から、ヒットアンドアウェイを繰り返す。
しかし問題は、そんな弱攻撃で太郎にダメージを負わせられるかどうかだ。
おそらく無理だろうと、リベリアは判断する。
ならば……賭けだ。
目を細めたリベリアは、手首の歯形に息を吹きかけている太郎からさらに離れた。
「酒井さん。これから私は、本当の本気で勝負に出ます。覚悟してください」
「そうか! じゃあオレも、マジで本当の本気を出すぞ!」
嬉しそうに笑った太郎が、地面から両足を引っこ抜いた。
リベリアは再び自分の人差し指に噛みつく。
「そんなことで、さらに強くなるのか?」
いつもと同じ行動をするリベリアに、天崎が口を挟んだ。
「えぇ。いつもより啜る血の量を多くするだけですが、一時的にさらなる身体能力の向上が望めます。ただ、それなりのリスクも発生するのですが……」
「リスク?」
「効果が切れた後は二日酔いみたいな吐き気が襲うのと、次の日は全身が筋肉痛で動けなくなります」
「……大したリスクじゃないな」
とはいえ、生死を賭けた戦いの中で二日酔い状態になるのは、かなりの痛手だ。
リベリアが言う一時的というのは、どれくらいの短時間なのかは分からない。しかし諸刃の剣にも相当する奥の手を使ってくるところを見ると、どうやら彼女は短期決戦に持ち込もうとしているようだった。
「行きますよ。『吸血の時間・刹那』」
リベリアの姿が、再び消えた。開戦時同様、猛スピードで距離を詰める。
ただし今度は、前回の比ではなかった。瞬間移動と評しても、決して過大評価ではない。まるで映像のコマ落ちのように、リベリアの身体が断続的にしか目に映らなかった。
リベリアの狙いはまず、今の全力がどれだけ通用するかを見極めることだ。
初撃と同じように、太郎の額めがけて拳を振るう。当然、反応されれば視界外へ回り込むことを考慮に入れ、反撃されれば回避できる余裕も持つ。一番気をつけなければならないのは、決してカウンターを食らわないことだ。
一瞬たりとも太郎の挙動を見逃さないよう、リベリアは目を見開いた。
間合いに入った。リベリアが拳を振り上げる。
そこで初めて、太郎はリベリアの接近に気づいたようだった。
強化されたリベリアの反射神経が、自分と太郎の動きを瞬間的に計算する。
太郎が反撃すると仮定し、パンチを撃ってくる所要時間。
それを回避せず、全力で拳を振り抜くまでの所要時間。
攻撃が当たってからのことは考えなくても大丈夫だろう。スピードは自分の方が圧倒的に上だ。後方へ吹っ飛ばした後、太郎がどのような反撃に出ようとも、余裕で避けられるはず。
瞬時に計算を終えた結果、行ける! とリベリアは確信した。
太郎の反撃を食らわぬのなら、このまま殴り抜けるのみ。
拳が初動に入った。数十センチ先の額を目標に、最高速度へと達する。
と、ようやく太郎が反応した。彼は頭を後方へと、わずかに仰け反らせる。
回避行動か? とリベリアは考えたが、どう見ても遅すぎる。今までの太郎の動きから察するに、ここから避けるのは絶対に不可能だ。
関係ない。このまま全力で殴り抜ける。
リベリアの脳裏に、自分の拳が太郎の額を捕らえる一瞬先の未来が映った――はずだったのだが……。
コンマ数秒だけ、現実の方が早かった。
「ふんっ!」
ほんの少しだけ後ろへ反っていた太郎の頭が、掛け声とともに前方へと動いた。故に、リベリアが描いていた目測よりも早めの接触となったのだ。
たった数ミリの、本気のヘッドバッドである。
そう。ヘッドバッドの予備動作は、たった数ミリだったはずなのに――、
その威力はリベリアの拳にも勝っていた。
衝撃に負けたリベリアの右腕が――裂ける。
「――ッ!?」
指先から肩口にかけて、いくつもの赤い縦の線が奔った。まるで内側から小型の爆弾が破裂したかのように、右腕の皮膚が裂けて肉が飛び散っていく。
太郎の頭の硬さとヘッドバッドの相乗効果が、リベリアの右腕の耐久度を超え、衝撃がすべて自分へと返ってきてしまったのだ。
あまりに予想外の出来事に、リベリアは咄嗟に身を引いた。
しかし彼女は怯んではいない。
太郎の間合いギリギリの位置まで後退し、破裂した右腕を鞭のように振るう。飛び散った腕一本分の血肉が太郎の目に入ったことは、決して偶然ではなかった。
「め、目がぁ、目が見えないぞ!」
視力を奪われ、慌てふためく太郎。
これを好機と捉えたリベリアが、さらなる追い打ちにかかる。
左手の人差し指と中指でピースを作り、太郎の両眼めがけて突いた。
二本の指が、瞼の上から太郎の眼球を貫く……ことはなかった。
指先が瞼に触れた瞬間、二本の指は小枝のようにパキリと折れてしまったのだ。
「なんでやねん!」
リベリアの口から、今まで一度も使ったことのない関西弁が漏れ出たのだった。
とはいえ、この位置関係はマズい。たとえ目が見えなくとも、適当に腕を突き出すだけでカウンターを食らってしまう。真正面にいるのは利口ではない。
そう判断したリベリアは、太郎を中心として円を描くように背後へと回った。
……はずだったのだが、リベリアを完全にロックオンでもしているかのように、太郎の顔がしっかりと追尾していた。
「な、なんで!?」
「なんかこっちから金髪のねえちゃんの匂いがするぞ!」
匂い? まさか視力が奪われたことにより、他の感覚が鋭くなったんじゃ?
決して太郎の正面から逃れられなくなったリベリアに、混乱が満ちる。そしてそちらに注意を奪われていたからこそ、太郎が拳を握っていることに気づくのが遅れた。
「軽めの……」
「くっ……」
避けられない。
リベリアは未だ原形を保っている左腕でガードする。
「ドーン!」
太郎のパンチが炸裂した。リベリアの左腕が無残にもへし折れる。
しかし太郎本人も宣言したように、その一撃はあまりにも弱かった。左腕は折れるだけに留まり、吹っ飛ばされるどころか、リベリアの重心が少し後ろに傾いただけだ。
ただそれは、太郎の作戦通りだった。
突き出していた拳を即座に収めた太郎が、今度は身を屈めて上半身を捻る。
「かーらーのー、本気の……」
「待っ……」
「ドーーーーーーン!!!」
リベリアの懇願を聞くはずもなく、本気の一撃が繰り出された。
すでに後方へバランスを崩していたリベリアは、転倒する覚悟でさらに重心を後ろへ倒す。目の見えない太郎はリベリアがどこにいるか分かっていても、細かい動きなどは把握していないはず。だから少しでも身を引き、手の届かない位置まで倒れることができれば……。
ギリギリだった。目測からして、太郎の腕がギリギリ届く距離。
伸びきった拳の先端が、ほんの少し、リベリアの顎に触れただけだった。
にもかかわらず、リベリアの身体は爆発にでも巻き込まれたかのように吹っ飛んだ。
「――ッ!?」
風の波だ。太郎の正拳突きから発生した風圧に、呑み込まれているのだ。
その風圧は、まるで巨大生物の体内に放り込まれたかのように息苦しかった。
風の流れが呼吸を許してくれない。質量を持った風圧が、身体の自由を縛る。
リベリアはただ風が為すまま、その身を預けることしかできなかった。
やがて壁にぶつかることで、リベリアはようやく地面に触れることを許された。
しかし彼女の身体は、すでに戦える状態ではなかった。
右腕は破裂し、左腕はバキバキに折られ、下顎は粉々に砕かれていた。
それに壊されたのはなにも肉体だけではなく、彼女の闘争心もだった。
「ひーん、ふよふひまふ~」
壁に背中を預けているリベリアが、子供のような泣き声を上げた。
と、その時である。リベリアの背後に、暗闇の渦が現れた。それは次第に大きくなっていくと、リベリアをあっという間に呑み込んでしまう。今の攻撃でHPがゼロになったのだ。
「……どうやら、勝負は俺たちの勝ちみたいだな」
玉座に座っている天崎が、無感情に、しかしどこか優越感に浸った口調で言った。
ガックリと項垂れていたマロンが天崎を睨み返す。しかしすぐに抵抗する意志は消え、絶望に満ちた表情のまま視線を地面に落とした。リベリアを失ってしまった今、どう足掻いたところでマロンに勝ち目はない。
マロンはゆっくりと目を閉じた。
悔しそうに下唇を噛むと、一変して穏やかな顔へと変わる。それは諦めを意味していた。
そしてマロンは瞼を開き、吐息と共に自らの負けを宣言した。
「そうね。この勝負、私たちの負……」
「た~ろ~う~」
その時だ。マロンの敗北宣言に重なるようにして、誰かが太郎の名前を呼んだ。
女性の声だった。だが当然、今喋っていたマロンのものではない。
突然の闖入者に、天崎とマロンは慌てて周囲を見回した。ただ唯一その声を聞き慣れている太郎は、気が動転したように取り乱していた。
「そ、その声は……。ね……姉ちゃん!?」
急いで目を拭う太郎。視界が開けるのと同時に、太郎は声がした方を凝視した。
リベリアが呑み込まれていったはずの暗闇の渦から、黒髪の童顔な女性が顔を覗かせていたのだ。鬼の形相をした彼女は、視線で射殺さんばかりの目つきで太郎を睨みつけていた。
「丸一日帰ってこないと思ってたら、こんな所でほっつき歩いて……」
怒りを露わにしながらも呆れ果てた口調で独り言ち、女性が渦から出てくる。年齢の割には小柄な部類で、和装装束でその身を包んでいた。
一歩一歩近づいてくる女性を前にし、怖気づいて足が竦んでいる太郎には、逃げ出すどころか身を引くことすらもできなかった。
「ち、違うんだ姉ちゃん! これには訳が……」
「だまらっしゃい! どんな言い訳も勉強をサボっていい理由にはならないよ!」
女性のげんこつが太郎の頭頂部に落ちた。
星を見た太郎の目に薄っすらと涙が浮かぶ。
お仕置きが終わると、今度は太郎の頭髪をがっしりと握りしめ、周囲の状況に一切見向きもしないまま、渦の方へ引きずっていく。姉に対してうだつが上がらない太郎は、無抵抗のまま運ばれるだけだ。
「さぁ、帰るよ。勉強をサボった罰として、一週間は部屋から出られないくらいの覚悟はしなさい!」
「わ、わかったよ、姉ちゃん! オレ、勉強頑張るからさ。もう逃げたりしないからさ! だから放してくれ。すんげぇ痛いぞ!」
「言葉じゃなくて態度で示せ!」
暗闇の渦まで歩を進めた女性は、まるで粗大ごみでも扱うような雑さで、自分の弟を渦の中へと放り投げた。そのまま自分も中へと入る。姉弟が完全に姿を消すと、暗闇の渦は役目を果たしたと言わんばかりに消滅していった。
残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。
「…………」
「…………」
一部始終を呆然と見守っていた天崎とマロンは、暗闇の渦が消えた後、しばらく何もない空間を無言のまま凝視していた。お互い、今の出来事を整理する時間が必要だったのだろう。第三者の介入は、混乱の嵐を巻き起こしていった。
混乱から先に立ち直ったのは、女性の正体を知っている天崎だった。
彼は目を泳がせながら、弱々しい声音でマロンへ問いかける。
「……なぁ、高槻。お前さっき、敗北宣言したよな?」
「……そうだったかしら?」
いつの間にか立ち上がっていたマロンが、飄々と返した。
いや、絶対に負けを認めてたじゃん! と、天崎は表情で訴える。
「でもリベリアと酒井の勝負は、こっちの勝ちだろ?」
「そうね。けど、それはあくまでも二人の勝負でしょ? 私とあんたにとっては、まったく関係ない話だわ」
「…………」
まるで一分前のお互いの表情が入れ替わったみたいだった。
絶望に打ちひしがれた表情は天崎の元へ。
余裕を見せながらも、相手を見下したような表情はマロンの元へ。
逆転したお互いの立場が、その表情までをも一変させていた。
武力を持たないレベル1の魔王は、最後の手段に出る。
「分かった。高槻、少し話し合おう。勝負はお前の勝ちでいいから」
「なーんにも聞こえないわねぇ」
必死の命乞いも、マロンは完全に聞く耳を持たないようだ。
懐から杖を取り出しながら、ゆっくりと天崎の元へと歩いていく。
その顔には、満面の笑みが張り付けられていた。
「じゃ、そういうことで」
杖先を天崎に向けたマロンは、意気揚々と死刑宣告をしたのだった。
「燃えろ」




