第10章 堕天悪魔 vs 吸血悪魔
「誰……だ?」
初めて見る登場人物に驚いた天崎は、ついつい問い返してしまう。
しかし自問するまでもなく、その女性の面影には見覚えがあった。
白く長い髪に、精悍な顔つき。触れれば溶けてしまいそうな、雪色の肌。そして一切の汚れを許さない純白のワンピース。飛ばされて行った方向が同じだったからではない。あれは間違いなくミルミルだと、天崎は本能的に直感した。
ただ、ほんの一瞬前までは幼稚園児くらいの見た目だったはず。なのに、今はどう見ても二十代前半の姿だ。
突然の成長に混乱する天崎だったが、安藤は別の理由で動揺しているようだった。
「マズいぞ、天崎。肉体年齢を全盛期まで成長させたってことは……ミルミルは殺る気だ」
安藤の狼狽は、天崎の危機意識に拍車を掛けた。
天使にどれだけの運動能力があるかは知らない。しかし今の天崎が対抗できるほど、実力差が拮抗しているとは思えなかった。
「お兄さんがミルミルの邪魔をするからいけないんでちよ。恨みっこなしでちからね」
透き通った黄金色の瞳が、天崎を射抜く。
ミルミルが全身を脱力させた、その時だった。
背中の翼を広げたミルミルが、地面すれすれの低空飛行で天崎に向かって接近する。そのスピードは獲物を狩る鷹のように速く、逃げることを許しはしない。事実天崎は、避けるという選択肢が頭の中を過っても、脚を動かすまでには至らなかった。
ただミルミルの疾走を視界に入れ、身構えるのみ。
そんな中、背後から安藤の叫び声が轟いた。
「天崎! 水晶玉を胸に当てろ!!」
考える余地などない。言われるがまま、天崎は右手に持っている水晶玉を自らの胸に押し付けた。
それと同時、ミルミルが天崎の左側へと回り込む。
まるで恋人同士がするように、ミルミルが天崎の左腕を大切そうに抱き寄せた、その瞬間。
メキリ――。
天崎の左腕は、肩の根元から綺麗に取り外された。
それは引き千切るとか、切り落とすといったような乱暴なものではない。
言うなれば分解。プラモデルの腕を装脱着するように、昆虫の脚を取り外すように、肩の肉もろとも骨からもぎ取られた。
あまりにも手際が良すぎたためか、痛みはすぐに来なかった。先に感じたのは、驚きと不快感だ。
自分の腕が、あっさりと奪われてしまった事実に驚愕し、
骨と骨が分離される感触に不快感を抱いた。
ミルミルの動きに対応できなかった天崎だったが、視線だけは追えていた。
彼女は天崎の左腕を両手で抱いたまま――嗤っていた。
「うっ…………」
嗚咽にも似た吐息が漏れるのとともに、あらゆる思考が飛んだ。
頭にあるのは、絶対的な力に圧し潰される死の未来。そして考えることをすべて放棄した、肉体が生き延びるための反射的な生存本能。
天崎の身体は自身を生かすべく、経験に基づいた最善の行動に移った。
「うがああああああぁぁぁ!!!」
天崎の場合は脚だった。
無我夢中の回し蹴りがミルミルの脇腹へと食い込む。己が傷つくことも厭わない、リミッターが外れた全力……いわば火事場の馬鹿力の一撃だった。
「でち!?」
まさか反撃が来るとは思っていなかったミルミルは、防御なしで回し蹴りを受けてしまう。腰骨を軋ませながら、衝撃を食らうがままに地面から足が浮いた。
だが二・三メートル弾き飛ばされるほどの、生易しいものではなかった。
表現としては、『吹っ飛ばされた』が的を射ているだろう。まるで一流のサッカー選手が全力でボールを蹴るように、ミルミルの身体は遥か遠方へと飛んでいった。
ただ、天崎はミルミルが吹っ飛んで行った方向を確認することはできない。
今さらながら、左肩の辺りから異常な発熱を感じていた。腕をもぎ取られたという事実も相まって、その熱が痛みであると脳が解釈する。生死を左右する大怪我に震えた天崎は、その場で両膝をついた。
「う……腕が……」
「落ち着け、天崎! 君の腕はすでに再生している!!」
「…………は?」
あまりに現実離れした友人の言葉に、天崎は思わず耳を疑った。
苦痛で表情を歪めながら、恐る恐る左肩に目を向けてみる。失ったはずの左肩からは、確かに腕が伸びていた。さらに視線を下げると、手の平と五本の指。当たり前のように、自分の意思で動く。
しかし……。
「なんだ……この腕……」
新しく生えた左腕は、少々歪だった。
元の腕と比べて筋肉量が異様に多く、体毛が濃くなっている。また刺青のような黒い斑点が浮かび、鋭く伸びた爪は刃物のよう。そして痛みと勘違いしていた発熱は、肩からだけではなく腕全体から発せられていた。
明らかに……人間の腕ではない。
「ギリギリ間に合ったようだね。水晶玉に蓄えられた僕の力を、君の中に取り入れたんだ」
「悪魔の力、って奴か?」
再生した腕の正体が判明したことで、天崎は徐々に冷静さを取り戻していった。
それと同時に、自分の身体に起こっている異変に気づく。
「なんだよ、この力は……」
端的に言えば、溢れ出んばかりの力が全身を駆け巡っているのだ。
跳躍すれば東京タワーを軽々と飛び越え、拳を繰り出せば高層ビルを粉々に砕くことができるだろう。主に肉体的な力の向上を、天崎は感じ取っていた。
「いや……いやいやいや、待て待て待て。お前がミルミルに力を奪われ始めてから、せいぜい二日しか経ってないだろ!? なのに力を全部抜くまでに百年かかるってことは……お前の本体は、コレの二万倍近い力を持ってるってことなのか!!?」
「正確には一日だな。半分はミルミルに持ってかれたみたいだ」
「…………」
大悪魔の一日分の力を手にしているからこそ分かる。クルクルの言う通り、こんな力を持つ悪魔は下界に降りてこられるわけがない。足を踏み入れた時点で、間違いなく世界は崩壊してしまうだろう。
「いやぁ、それにしても君が悪魔の血を持った『完全なる雑種』でよかったよ。普通の人間だったら、力の大きさに耐えられずに身体が爆散してただろうからね」
「お前なにさらっと爆弾発言してんだよ! そんなに危険な行為だったのか!?」
「賭けなきゃどうせ君はミルミルに殺されていたんだ。賢明な判断だったと思うけど?」
「うわぁ……」
結果的に良い方向へ転じたとはいえ、さすがの天崎もドン引きだった。
普通、助けに来た友人が死ぬかもしれない賭けをするか?
「そうだ。今さらだけど、俺はお前を助けるで……いいんだよな?」
「勝手な言い草だな。僕は助けてなんてお願いした覚えはないんだけど?」
「今はそんなやり取りしてる場合じゃないだろ」
「そうだね。それに君が助ける対象は、僕一人じゃない」
「?」
と言って、安藤は前方を指で示した。
遠くの方から、髪の乱れたミルミルがゆっくりとこちらに歩いてくる。
なるほど。どうやら助ける対象は、安藤と自分の二人になったんだと理解した。
「予想外でちたね。まさかお兄さんも悪魔の力を使えるとは……」
聴覚が鋭くなったせいか、ミルミルの吐き捨てるような小言も天崎の耳に届いていた。
殺意に濡れた瞳が、天崎を射抜く。
するとミルミルは、天崎の方へ手を伸ばした。
「死ね」
「――ッ!?」
唐突な『死』の命令に、天崎は身を強張らせる。
忘れたわけではない。ここはミルミルが作成した亜空間の中。あらゆる事象が、彼女の思い通りに実現できるのだ。
なのに――、
「……生きてる?」
いくら待っても、天崎に死は訪れなかった。
己の身体に異変がないことを確認した天崎は、次にミルミルの反応を窺ってみる。彼女もまた、天崎の身に何も起こらないことを訝しげに思っているようだった。
「な、なんで死なないんでちか?」
「……なるほどな。そういうことか」
今しがた起こった現象をすべて理解し、天崎は細く微笑んだ。
亜空間内において、天使は想像が及ぶありとあらゆる事象を実現できる。ならば、それは天使の血統を含む『完全なる雑種』の天崎とて例外ではなかった。
つまり天崎は『ミルミルの死の命令の拒絶』を実現させたのだ。
もちろん、天使の能力を十全に発揮できるわけではない。天崎が干渉できるのは『ミルミルから直接与えられた肉体の変化を無効化すること』くらいのものだった。
「クルクルは小説を書くようなものって言ってたっけ? どうやら俺は、お前が書いた文章でも、自分自身に関することなら消しゴムで消すくらいのことはできるみたいだな」
「……意味が分からないでち」
再び険しい顔つきで睨みつけてきたミルミルが、体勢を低くした。
「亜空間の能力で殺せないんなら、物理的に肉体を破壊するでちよ」
「いや、ちょっと待て!」
「待つわけないでち! ミルミルの目的のために、お兄さんには死んでもらわなければいけないでち!」
激昂したミルミルが、先ほどと同じように低空飛行で突進してきた。
だが、肉体レベルが次元を超越している今の天崎に反応できないわけがない。
ミルミルが繰り出した掌打を、天崎は正面から受け止める。
お互いの両手が組み合わされた瞬間、衝撃により地面が割れた。
舞い上がる砂埃の中で、歯を食いしばった二人は全力で相手を押し倒さんとする。その力はほぼ互角。しかし戦意は圧倒的に天崎が下だった。
「少し落ち着けミルミル! いったん話し合おう!」
「話し合いも何もないでちよ! お兄さんはミルミルの邪魔をしに来たんでちよね!? だったら排除するしかないでち!!」
「邪魔なんかしねーよ! 俺はただ、友達を迎えに来ただけだ!!」
「それが邪魔だって言ってるん……でち!!!」
急にミルミルが力を抜いたため、天崎の身体は勢い余って前方へたたらを踏んだ。
その隙を狙って、ミルミルはその場で身を屈める。バランスを失った天崎の下に潜り込む形となった。
「でち!!!」
地面に手をかけたミルミルは、天崎の腹部を両足で蹴り上げた。悪魔の力を借りた一撃により、天崎の身体は何十メートルも真上へと打ち上げられる。
「――――ッ!!?」
天崎自身も悪魔の力を借りているためか、さほど痛みは感じなかった。ただ猛烈な吐き気が襲ってくる。胃の中の物が、内臓と一緒に口から飛び出すかと思った。
危うく意識が飛びかけた天崎は、自分の置かれている状況を瞬時に把握する。
地面が遠い。そして――視界にミルミルの姿はなかった。
慌てて体勢を整えようとするも、ここは空中だ。血統を覚醒させて翼を生やす余裕もない。故に天崎は、身をよじってミルミルを探すことしかできなかった。
「お兄さんの弱点は、空を飛べないことでちね」
仰向けになった天崎の耳元で、ミルミルの声がした。
次の瞬間、顔面を鷲掴みにされる。
「……待て」
懇願のような天崎の制止を、ミルミルが聞き入れるわけもなかった。
直後に急降下。バスケットボールでも持つかのように、天崎の頭部を片手で掴んだミルミルは、音速を越えるスピードで地面へと叩きつける。
轟音。小さなクレーターができるのとともに、肉片の混じった砂埃が舞った。
だがミルミルは追撃をやめない。悪魔の力を得た天崎の左腕は、一瞬で再生したのだ。潰されたのが頭部だからといって、再生しない道理はない。
クレーターの中で仰向けに倒れた天崎の身体に、ミルミルは馬乗りになる。
マウントを取った彼女は、天崎の身体を殴り続けた。
「家畜同然の扱いはもう勘弁でち! ミルミルはただ、一個体の生物として自由に生きたかっただけでち! 天界からの襲撃に怯えて暮らしたくないでち! それだけなのに……なんでお兄さんは分かってくれないんでちか!? なんでミルミルの邪魔をするでちか!?」
その言い分は、あまりにも自己中心的な要求だった。
自己の欲求を満たすため、他者を犠牲にする。それ自体は賛否両論の意見があるかもしれないが……そもそも天崎は、ミルミルの目的を知らないのだ。ミルミルが堕天した原因も、安藤から悪魔の力を奪う理由も。
それでいて話し合いの席に着かず、自分の意見を押し通す。その振る舞いは、まさに子供。事実ミルミルは、製造されてから五年しか経っていない。天使とはいえ、倫理や道徳を育んでいる途中で逃げ出した、ただの幼児だった。
そして、天崎もまた……完全な大人とは言い難かった。
「でち!?」
頭部を失い、穴ぼこになっている天崎の身体が唐突に動いた。
両腕が鞭のようにしなって、ミルミルの拳を受け止める。
「耳がなかったから何も聞こえなかったけどな……」
気づけば、天崎の頭部は完全に復活していた。
「お前の言い分なんて知るかボケ! 俺は友達を迎えに来ただけだっつってんだろ!!」
掴んでいるミルミルの両手を引き寄せ、自身は勢いよく上体を起こす。
見事なヘッドバッドが、ミルミルの額へと命中した。
「あがっ!?」
脳漿をまき散らしながら後方へ反り返るミルミル。頭突きの際に両手を握り潰したためか、ミルミルの身体はクレーターの外へ弾き飛ばされていった。
身体の軽くなった天崎は、ゆっくりと起き上がる。
そこで彼は目撃した。十数メートル先で膝をつくミルミルの手前に無数の機関銃が出現し、そのすべての銃口が天崎を捉えている光景を。
「撃て!!」
ミルミルの合図とともに、機関銃が一斉に火を噴いた。
銃声なんて生易しいものではない。爆撃機が通過したような爆音が轟く。
それでも天崎は怯まなかった。銃弾の雨を一身に受けながら、ミルミルへと向かって真正面から突撃する。
「小細工してんじゃねえ!!」
悪魔の腕を一振りしただけで、すべての機関銃がスクラップと化した。
その間に距離を取ったミルミルが、新たな攻撃手段を用意する。
「お願いするでち。トランプさん!」
「?」
ミルミルが叫ぶと、彼女の周りに四体のトランプ人間が現れた。
まるで不思議の国のアリスに登場するトランプ兵のようだ。彼らは天崎を敵と認識するやいなや、槍を掲げて突進してくる。
「いや、だからさ……」
天崎の対処は一瞬だった。文字通り瞬きする間に、トランプ兵をチリ紙へと変えてしまう。
そのまま天崎は、ミルミルへと拳を向けた。
「自分より弱い奴を出してどうする! お前が直接殴ってきた方が強いだろうが!!」
「バ、バリア!」
宣言するのと同時、天崎とミルミルの間に分厚い鉄板が出現した。
だが今の天崎には関係ない。鉄板の表面を殴りつけると、衝撃に負けたミルミルの身体が吹っ飛ばされた。地面を二回三回バウンドした後で、ようやく停止する。
天崎には知らない事実がある。ミルミルはまだ五歳であり、天使を育成するアカデミーを途中で抜けてきた堕天使なのだ。故に相対した敵を殺す手段に乏しく、戦いの経験や想像力が圧倒的に不足していた。
相手の事情を何一つ知らずとも、友人を取り返したい一心で戦う天崎。
自分で幸せをつかみ取るため、目の前の障害を取り除かんとするミルミル。
両者は再び対峙する。
だがしかし……。
「はぁ……はぁ……」
「……?」
それほどダメージを負っているわけでもないのに、ミルミルは息を切らしていた。
訝しげに思いながらも、天崎はその原因に思い至る。
おそらくミルミルの身体は、悪魔の力に耐えきれていないのだ。
堕天使とは、純正な天使でもなければ悪魔でもない。天使と悪魔の中間にあたる、堕天使という別の存在であるとクルクルは言っていた。
つまり元々悪魔の血統を有している天崎とは違い、ミルミルは悪魔の力に慣れていない。おそらく徐々に身体を適応させれば、力の許容量も増えていくのだろうが……安藤の力は想像以上に大きすぎた。
「…………」
そして、そう思い至った理由は天崎自身も実感していたからだ。
この状況が長引けば非常にマズい、と。
身体を再生するのに、悪魔の力を使いすぎてしまった。もしこのまま戦いを続けていれば、いずれ復活が叶わなくなるだろう。何より怖いのが、どの時点で力が尽きるのか、天崎自身が把握できないことだった。
「だから……一気にケリをつけるぞ」
「何か言ったでちか?」
「いいや? ただ、面白いこと閃いたと思ってな」
悪魔の力は左半身に片寄っている。やるなら右側だな。
そう判断した天崎は、自分の右腕に噛みついた。
「『吸血の時間』」
腕の肉を食いちぎるほど強く噛み締め、その血を啜る。
口の中に鉄の味が広がるのと同時に、天崎は実感した。自分の中の吸血鬼という存在が、徐々に膨らんできていることを。
以前、吸血鬼の血統の扱い方は少しだけ学んだ。なのでヴラド三世が復活しないギリギリを見極めて吸血鬼化する。
だが、今回は元より心配する必要はなかった。
なぜなら悪魔の血統が吸血鬼の血統を抑え込もうとしているからだ。これではヴラド三世の意識も覚醒できまい。
「お、お兄さん。何をやったんでちか!?」
『真実看破』で天崎を視ているミルミルが驚愕を露わにした。
思った以上に良い反応をしてくれたようなので、天崎としても気分がいい。
「世にも珍しい、吸血悪魔の誕生ってところだな」
「きゅ、吸血悪魔ぁ?」
そう。天崎が行ったのは、左半身は悪魔、右半身は吸血鬼の複合技だった。
「一応、処置は成功ってところだな。長くは持ちそうにないけど……どうする、ミルミル? 降参するなら今のうちだぞ」
「す、するわけないでち!」
「そうか……なら、少し大人しくしてもらおうか!」
天崎が吼えた、刹那――。
ミルミルの右腕が、ぶどうのようにもぎ取られた。
初っ端の意趣返しのつもりだった。ミルミルの意識はまったく追いついていない。軽くなった右側を見て、ようやく腕を奪われたのだと認識したくらいだ。
「でちっ――」
瞬時の判断で、ミルミルは逃走を選択した。翼をはためかせ、真上へ飛び上がる。
天崎が唯一追ってこられない場所。先ほどの経験を活かした判断のつもりだったのだが……焦っていたためか、ミルミルは気づかない。天崎は空中で身動きが取れなかっただけで、空へ飛び上がるためには、必ずしも翼が必要ではないことに。
唐突に身体が重くなったと感じたミルミルは、慌てて足元を見下ろした。
地面から跳躍してきた天崎が、左足首を掴んでいたのだ。
そのままミルミルの身体を地面に向けて思いきりぶん投げる。足首から手を放す際、ブチッと音がして腿の付け根辺りから引き千切れた。
回転しながら墜落するミルミル。
重力に引っ張られるがまま着地した天崎は、地面と衝突した彼女の元へと歩いていく。
ミルミルの片腕と片脚は、すでに復元していた。そして四つん這いになりながらも、近づいてくる天崎に黄金色の瞳を向けたのだが――その中に、戦う前には宿っていたはずの戦意は見当たらなかった。
ただただ、怯えていた。
「ば、化け物……」
「化け物?」
その一言が、天崎の思考を沸騰させた。
「俺は化け物なんかじゃない! 人間だ!!」
「ひっ……」
自分を人間だと強く信じている天崎だからこそ、その一言は深く胸に刺さった。
平常時に向けられたなら、鼻であしらうくらいの余裕はあっただろう。しかし今は状況が違う。悪魔と吸血鬼の血統が影響しているためか、非常に好戦的になっていた。
真っ白になった頭が、気分を変えた。
もともと落ち着いて話し合うために屈服させたのだが、別にそんな面倒なことをしなくてもいいのではないか? さっさと殺してしまえば、何よりの解決になるのではないか?
漆黒の意志が、天崎の脳裏を過る。
怯えきっているミルミルの息の根を止めよう。
そう決断し、一歩踏み出した――その時だった。
「――――ッ!!?」
天崎の身体もすでに限界だった。
胸の奥底からこみ上げてきた黒い塊を吐き出す。コールタールのような黒い血液が、天崎の上半身を濡らした。
悪魔だけなら、吸血鬼だけなら、まだまだ活動可能だっただろう。しかし二つの血統を……しかもあまりにも力の強すぎる血統を同時に覚醒させるのは、人間の肉体では強度が足りなさ過ぎたのだ。
疲労が体力を蝕み、思わず地面に膝をついてしまった。
こうなってしまっては、天崎の取れる選択肢は限られてくる。
このまま激しい運動をせずに安静にしていれば、徐々に普通の身体へと戻っていくだろう。幾度となく他種族の血統を借りてきたが、大抵の場合はそうだった。
また、吸血鬼と悪魔、どちらか一方の血統に絞れば、もう少しだけ活動ができるという実感はあった。吸血鬼の場合はヴラド三世に乗っ取られるリスクを負い、悪魔の力は再びあの水晶玉を介しないと難しいが。
そして、もう一つ。最後の力を振り絞り、このままミルミルを潰すという選択肢だが……やってはダメだと、天崎の本能が警告する。事態の解決に『殺す』という結末を選んでしまったが最後、おそらく二度と日常には戻れない。
しかし、そんな天崎の葛藤を、戦意喪失したミルミルが看破できるわけもなかった。
血を吐いて動かなくなった天崎を見て、今が逃げるチャンスだと思ったのだろう。懸命に翼を動かして、ゆっくりと天崎から離れて行く。
「ま、待て!」
力を振り絞って立ち上がったはいいものの、徒歩以上のスピードが出ない。ふらふらと飛んでいるミルミルの方が、わずかに速かった。
そのままミルミルは、生け垣を飛び越えていく。
「くそっ!」
悪態をついても始まらない。天崎は、壊れそうになる脚を必死で稼働させた。
と、ようやく安藤が追い付いてきた。
「おい、天崎! 大丈夫か!?」
「いや……ちょっと無理した結果がコレだよ」
「ミルミルは?」
「悪い、見失った。その生け垣の向こうだ」
ミルミルの逃げていった方向を指で示すと、安藤の顔が青ざめた。
「まさか、アイツ……」
何か思い当たることがあるようだ。
血相を変えた安藤が、天崎を見捨てて先へ走っていった。
「おいおい、マジか。肩くらい貸してくれよ」
恨み言を言いつつも、追わねばならない。
ミルミルは戦意喪失していたとはいえ、まだ悪魔の力が残っているはずだ。普通の人間と変わらない安藤が立ち向かったところで、結果は見えている。
動きの鈍い脚に鞭を打ち、天崎は必死で追いかけた。
生け垣を越えた先には小さな東屋があった。樫でできた、柱と屋根しかない簡素なものだ。面積は、エレベーターの箱よりも少し大きい程度だろう。
安藤はその東屋の前で、睨みを利かせながら身構えている。
対峙するのは、すでに満身創痍のミルミルだ。
そして……、
「あれは……マジョマジョさんか?」
東屋の下で、椅子に座ったままぐったりとしている女性が一人。俯いているためはっきりと顔を窺うことはできないが、その女性の雰囲気と髪型には見覚えがあった。
ミルミルはマジョマジョの背後に回り込んで、鋭い爪を彼女の首元に押し当てている。
その光景を目にして、天崎はようやく状況を理解できた。
安藤がミルミルに素直に従っていた理由。
それはマジョマジョという人質がいたからだ。
天崎はミルミルから視線を外さないまま、安藤へと近づいた。
「安藤」
「あまり変な動きはするなよ、天崎。いつ彼女の首が飛ぶか分からない」
たとえ吸血悪魔の力が万全だったとしても、ミルミルを屠るより早くマジョマジョの首が掻っ切られることだろう。人質がある限り、この距離ではどうすることもできそうにない。
「ミルミル。頼むから彼女から手を離してくれ」
「嫌でち。ミルミルの安全が確保されるまで、絶対に離さないでち」
安藤の要求を、ミルミルは当然のように却下した。
すると、マジョマジョの首筋に一筋の血が流れる。どうやらミルミルは返答を催促しているようだ。
「分かった、分かった。落ち着け。僕たちはここから絶対に動かない。要求を言ってくれ。なんでも言うことを聞く」
「要求は最初に言った通りでち。お兄さんから悪魔の力を奪いきるまで、この亜空間で生活してもらうでち。人質のお姉さんは頃合いを見計らってちゃんと帰すでちよ。お兄さんたちが、ちゃんとミルミルに従ってくれればの話でちが」
ミルミルの瞳は憔悴しきっている。おそらく要求通りに動けば、人質はあっさりと解放してくれるだろう。彼女の顔からは、そう思わせるほどの焦りと疲労が見えていた。
逆に言えば、要求が通るまで絶対にマジョマジョから離れないはずだ。ギリギリまで人質を盾にしなかったということは、これが最後の手札だろうから。
「天崎はどうすればいい? 帰せばいいのか?」
「ダメでち。『完全なる雑種』のお兄さんは、絶対にまたミルミルの邪魔をしに来るでち。だから……悪いけど、この場で死んでほしいでち」
「…………」
「ミルミルはここで見てるから、悪魔のお兄さんが殺すでちよ」
安藤が、無味乾燥とした表情で天崎を見据えた。
天崎もまた、感情を失った顔で安藤を見返す。
一年と半年ほど友人をやっているが、さすがに相手の心を読み取ることはできなかった。
そしてたっぷり十秒ほど見つめ合った後、安藤が首を横に振った。
「残念だけど、それはできない」
「何ででちか?」
「今の僕じゃ、物理的に天崎を殺せないってのもあるけど……彼は僕の友人だからだ」
「そんなことは知ってるでち。じゃあ悪魔のお兄さんは、このお姉さんが死んでもいいってわけでちね?」
「それも困る。だから二人とも生かせられる要求をしてくれないかな?」
「ふざけるなでち!」
甲高い咆哮が響く。怒りに任せ、そのままマジョマジョの首を刎ねそうな勢いだ。
ミルミルの感情の変化に、二人は身構える。
その時だった。
「ふざけてるのはアンタの方なり」
どこからか声が聞こえた。
ただミルミルだけは声の位置に気づいたようで、彼女は慌てて後ろを振り向いた。
それと同時に、天崎たちにも認識できるようになる。
ミルミルの背後には、小さな天使が立っていた。
「クルクル!」
天崎が叫ぶやいなや、ミルミルはクルクルに向かって腕を薙ぎ払った。
鋭い爪の一閃を後転しながら避けたクルクルは、そのまま距離を取る。
「何のつもりでちか!」
「何のつもりもなにも、約束破りに制裁を与えに来ただけなりよ」
「制裁?」
「安心するなり。もう終わったなり」
クルクルが残念そうに肩を竦めた、その瞬間――、
ミルミルの全身から、灰色の蒸気が立ち昇り始めた。
「これは……あ、あ、あががががっがっががっがっががッッッ!!!???」
不思議そうに自らの身体を眺めたのも束の間、唐突にミルミルが苦しみだした。
その場に倒れたミルミルは、頭を抱えてのたうち回る。
「う、裏切ったでちねええぇぇ、クソジジイぃぃぃぃ!!!」
「最初に裏切ったのはそっちなり。一般人に危害を加えるなと忠告したはずなりよ」
つまらなさそうに吐き捨てたクルクルが、東屋を迂回して天崎たちの方へと歩いてくる。
その動きを、ミルミルは憎しみに満ちた眼差しで追っていた。
「クルクル! いったいミルミルに何をしたんだ?」
「簡単なことなりよ。クルクルの天使の力を少しだけ分けてやったなり」
それ以上の説明は不要と言わんばかりに黙り込んだクルクルは、蒸気を発しながら苦しみ続けるミルミルを見学し始めた。
成り行きをまったく把握できず、天崎はいつもの調子で安藤に説明を求める。
どうやら安藤は、すでに事を理解していたようだった。
「天使と悪魔の力は、まったく正反対の性質を持っているんだ。それこそプラスとマイナスで打ち消し合ってしまうようにね。ミルミルはさっきまで、強大な悪魔の力を所持していた。そこに天使の力を加えると……」
「天使と悪魔、両方の力が打ち消し合って消滅するってことなのか?」
「そう。その証拠に、ミルミルの身体を見てみるといい」
そう言われて、天崎は視線を向ける。
灰色の蒸気に包まれるミルミルの身体が、少しずつ小さくなっているように見えた。
「堕天使とは、天使でも悪魔でもない種族。天使の性質を捨てて、悪魔の力を受け入れるための準備期間だと思ってくれてもいい。でも大原則として、上に上がることはできないんだよ」
「上に上がれない?」
「堕天使が天使に戻ることはできないってこと。堕天使として生きていくか、悪魔まで堕ちるか、選択肢は二つしかない。ミルミルはすでに半分以上も悪魔に染まっていたから、天使の力はさぞ強力な毒となっているだろうね」
「そういうことだったのか……」
今後、血統の複合技を使う場合は、少し頭を使った方がいいのかもしれない。今回は吸血鬼と悪魔という特に真逆の性質ではなかったが、組み合わせによっては自身が消滅する危険性も出てくるだろう。今のミルミルのように。
「って、ちょっと待て。俺にも天使の血統は入ってるだろ? なのに悪魔の力を取り入れても問題なかったのか?」
「君の身体の中にあるのは『力』ではなくて『血統』だろ? 片方を覚醒させたところで、もう片方の血統が消滅することなんてあり得ないよ」
「……根拠は?」
「んー……理論的に?」
なんかいつにも増して適当だなと、天崎は友人を睨みつけた。
ふと東屋に視線を戻すと、ミルミルに動きがあった。
体積が半分以下になった身体を懸命によじりながら、亀にも劣る速度で這い寄ってくる。
「ミルミルは……ミルミルは、ただ……静かに、平穏に……暮らしたかった、だけ……でちのに……」
憎しみに濡れた瞳が、正面に佇む三人を射抜く。
差し伸べられた手は、まるで救いを求めているようでもあった。
「なんで……なんで……」
誰に向けたわけでもない最期の言葉とともに、ミルミルは消滅してしまった。
灰色の蒸気が、そよ風に乗って大空へと舞っていく。
「……ん、なんだ?」
時間が経過するにつれて、視界が徐々に鮮明になっていく。その途中、今までミルミルが伏せていた場所に白い物体を見つけたのだ。
顔を見合わせた天崎と安藤は、急いで東屋へと向かう。安藤はマジョマジョの容態を確認しに行き、天崎は出現した白い物体へと駆け寄った。
「これは……赤ん坊!?」
床に転がっていたのは、泣き声を上げもせず、すやすやと眠っている生まれたばかりの赤ん坊だった。
なんでこんな所に赤ん坊が? と疑問を抱くも、その容姿を確認して可能性に思い至る。
白い髪に、白い肌。そして背中には、指で摘まめるサイズの小さな翼。
天崎が呆気に取られていると、横に来たクルクルが冷静に分析した。
「ふーん。どうやら堕天使の搾りカスが残ったみたいなりねぇ」
「搾りカス?」
「こいつは完全に悪魔に堕ちていたわけじゃないなりよ。堕天使としての部分も、少なからず残っていたなり。なので天使の力を注入しても、完全消滅とはいかなかったみたいなりね。だけど、まぁ……」
赤ん坊を見下ろしたクルクルが、冷えた言葉を漏らしながら手を伸ばした。
「生かしておいても仕方がないなりから、さっさと排除するなりね」
「待て待て待て、さすがに待て」
慌てて制止する天崎を、クルクルは訝しげな目で見上げた。
いくらなんでも、さすがにそれは容認できない。
「殺す必要なんてあるのかよ」
「殺す必要があるというよりも、生かしておく意味がないってところなりね。今のコイツは見た目や遺伝子が堕天使ってだけで、ただの人間となんら変わりがないなり。天使でも悪魔でもないから、野垂れ死ぬしか道はないなりね。だったらいっそのこと、ここで殺してやった方が優しさというものなんじゃないなりか?」
「…………」
「それともお兄さんがこの娘を育てるなりか?」
訝しげな視線が、馬鹿を見るようなものへと変わった。
天崎は思わずたじろいでしまう。
「俺に、それが……できるのか?」
「それを訊いてるのはクルクルの方なり。堕天使だからとか、天界から使者が来て排除されるかもしれないとかは考えなくていいなりよ。そいつにはもう特別な力は一切ないなりからね。要は、お兄さんは普通の赤ん坊を普通に育てる覚悟と心構えがあるなりか?」
「…………いや」
そんなもの、あるはずもなかった。
天崎はまだ高校生だ。一人の人間を育てられるほどの時間もなければ、経済力もない。いくら知識を蓄え覚悟を決めようとも、物理的な準備が整ってはいなかった。
でも……。
せっかく残った小さな命を、見捨てることなどできるわけもない。
「安藤。マジョマジョさんの容体は?」
「問題ないよ。ただ眠ってるだけのようだ」
「そっか」
一つの懸念が晴れ、天崎は安堵のため息を吐いた。
赤ん坊となったミルミルへ視線を戻すと、壊れ物を扱うように優しく抱き上げた。
すやすやと気持ちよさそうに眠る赤ん坊を眺めながら、再び息を吐く。
友人を助けるために行った自分の行為が本当に正しいものだったのか、今の天崎には分からなかった。




