第7章 安藤を知る者
翌日もまた、安藤は休みのようだった。
半ば諦めかけていた天崎は、周囲と同調して安藤が存在しないかのように振舞うことを決めた。自分が意固地になったところで安藤は戻ってきやしない。今はただ、奴の存在を絶対に忘れないと心に誓うだけだ。
しかしそう決心したのにもかかわらず、手掛かりは思わぬところからやってくる。
「あっ。おはよう、天崎さん」
「おぅ、おはよ。昨日は悪かったな。改めて謝るよ」
「ううん、大丈夫。気にしないで」
登校してきた月島と朝の挨拶を交わす。安藤がいないことを除けば、いつも通りの朝だ。
ふと、隣の席で授業の準備をしている月島が、思い出したように声を掛けてきた。
「そうだ、天崎さん。放課後、ちょっと時間あるかな?」
「放課後? どうしたんだ?」
「うん。なんか、お姉ちゃんが天崎さんと話したいんだって」
「裕子が?」
月島の姉である月島裕子は現在、妹の守護霊として日頃から見守っているらしい。しかも彼女たち姉妹は少々特殊で、一日三十分を限度に、姉の魂が妹の身体へ乗り移ることができる。常に対話ができるわけではないため、毎日文通やビデオ撮影をして、お互い意見を交換し合ってるそうだ。
天崎が裕子と最後に会ったのは、月島が退院した翌日。約二週間も前のことだ。
共通する話題があるとは思えないが、何の用なのだろうか?
「分かった。じゃあ放課後、教室に残ってればいいか?」
「えっと、できれば周りに人がいない方がいいって言ってたかな。いつも待ち合わせてる公園でいいと思う」
確かに、月島の性格が変わったところを他人に見られては後々厄介になる。
というか、この会話も誰かに聞かれていないよな? 頻繁に学校外で待ち合わせなんて、誤解してくださいと言ってるようなものだ。
「それじゃあ放課後、いつもの公園に集合だな」
「うん、お願いね」
約束を取り決め、普段通りの一日が始まる。
安藤はいないものだと決意した天崎だったが、視線は無意識のうちに空いた席へと向いてしまっていた。
放課後。先に出て行った月島から少し時間を空けて、天崎もまた公園へと向かった。
木陰になるベンチの側で、仁王立ちしている女子高生が一人。猫背気味だった普段の姿勢とは違い、背筋をピンと伸ばした堂々とした佇まいだった。
「やぁ。久しぶりだね、天崎君」
「おう、久しぶり」
ほんの三十分前まで一緒に授業を受けていたのに、久しぶりとは変な感覚だった。
しかし月島の中に入っている人格は、明らかに別人だ。
はきはきとした発声に、キリっとした鋭い目つき。元々の狸顔から、自信溢れる狐顔へと変化した彼女は、間違いなく月島裕子だった。
「積もる話はあるけど、三十分しかないから手短に用件を話そう」
「なんだ。そんなに長くなる話なのか?」
「ん? んー……せっかくの機会だから、言いたいことくらい言っとくかな」
一息ついた裕子が、驚くべき速さで距離を詰めてきた。
反射的に仰け反るも、胸倉を掴まれたせいで逃げることは許されない。彼女の顔に張り付いた、笑っていない笑顔がめちゃくちゃ怖かった。
「女子大生とデートってのは、なんのことかなぁ?」
「…………」
またその話かと肩を竦めたものの、愚痴ることまではできなかった。
なぜなら、裕子があまりにも殺気立っていたからだ!
裕子が守護霊でよかった。日本刀を生成できる魂があったら、おそらく喉元に切っ先を向けられていただろう。そして有罪と判断するやいなや、斬り伏せてきたに違いない。
今ですら何をされるのか分からず迂闊に動けない天崎は、無難な答えを返した。
「月島に話した時に、お前も聞いてただろ? それ以上の説明はねぇよ」
「ふぅん。ま、別にいいけど。最終的に洋子を選んでくれるならね」
「お前な……少しは妹の気持ちも考えてやれよ」
「あの子は少しくらい強引に背中を押してやった方がいいんだよ。おっと、この話は洋子には言わないでおくれよ。余計なことしないでって、また怒られてしまう」
そういう過保護すぎるところが、月島の自立性を損ねているんじゃないかなぁ。などと天崎が呆れていると、裕子は必要以上に追及するつもりはないのか、背中を向けて距離を取った。
そして再び振り向く。今度は目に見えて怒っていることが窺えた。
妹と違って、感情がよく表に出る奴だ。
「あぁ、そうだ。それと君の隣に住んでいる、あの女はいったい何なんだ! 洋子に変な要求しやがって!」
「隣って、空美さんのことか?」
二人が話したのは、シャワーを借りに行ったあの日だけだろう。
あの時、空美から何か変なことでも言われたのだろうか?
「要求ってなんだよ」
まさか空美に限って月島を脅迫したりはしないはずだ。
案の定、裕子の怒りは天崎が考えているような深刻なものではなさそうだった。
「詳しいことは言えないけど、あの女の倫理観は逸脱している。情操教育的によくない。面倒見が良さそうではあったが、他人をおもちゃのように扱う態度には腹が立つ」
「まぁ、そういう人だからな」
情操教育云々に関しては、サキュバスという種族上、今さらな話だ。
おもちゃのような扱いは……天崎も散々からかわれた経験があるので、その怒りは痛いほど理解できる。ただ、すでに諦めの境地に達している天崎ならまだしも、初対面の月島に手を出すのは、確かに注意した方がいいかもしれない。
「今度会ったら言っとくよ。あんまり月島を虐めないでやってくれって」
「あぁ、是非とも強く言ってくれ。これ以上洋子を茶化されては、私のストレスがマッハになってしまうからな」
「……守護霊もストレスって溜まるんだな」
意外な事実だった。
「私が言いたいのはそんなところかな。おっと、しまった。下らない話をしているうちに、もう五分も過ぎてしまった」
「あんまり月島の身体に負担を掛けるなよ。それで、用件って何だ?」
「君も気になっている話さ。安藤君の件についてだよ」
「なっ――!?」
驚きのあまり、言葉を失ってしまった。
突然出てきた名前に冷静さを失った天崎は、思わず裕子の肩を掴んでしまう。
「お前、安藤のことを覚えてるのか!?」
「近い近い。キスなら私じゃなくて洋子にしてくれ」
「するかよ!」
裕子がおどけてくれたおかげで、自制心を取り戻すのは早かった。
慌てて距離を取り、周囲に誰もいないことを確認する。幸いにも人影は見当たらなかった。
「やっぱり『覚えてる』で正しいんだね?」
「……どういう意味だ?」
「昨日の話だよ。天崎君、安藤君のことをクラスメイトに訊ねて回ってたでしょ? で、結果は誰も覚えていなかった。私もそれを不思議に思ってね、洋子に文通で訊いてみたんだ。でも昼間以上の回答は返ってこなかったよ。『覚えていない』というよりも、『最初からそんな人間は知らない』って感じの反応だった」
「やっぱりか……」
天崎がクラスメイトから受けた感覚は正しかった。
忘れているというよりも、まったく知らない。そんな人間は存在しない。みんなの記憶から安藤の存在だけが消去されており、辻褄が合ってしまっている。
「安藤は……どこへ行ったんだと思う? なんで誰も覚えていないんだろうな?」
昨日、天崎は自分なりに答えを出した。安藤は魔界へ帰ってしまったのではないか、と。
しかしそれは、安藤をよく知っている天崎が導き出した推測にすぎない。親しくない人間がどう考えているのか、別方面からの考察が欲しかった。
「なんで誰も安藤君のことを覚えていないのか。それについては一つ自論があるけど、まず考えるべきはそこじゃないと思う。最初に私たちが交わすべき意見は、どうして私たちだけ安藤君のことを覚えているのか、だ」
「覚えている……理由?」
目から鱗だった。
天崎は最初、『安藤なんて人間は初めから存在しなかったんじゃないか? もしかしたら、自分が生み出した妄想だったんじゃないのか?』と疑った。
そして次に過去の発言を思い出し、自分を除いたすべての人間が安藤のことを忘れるように仕向けた、とも考えた。
しかし今の状況を加味すると、どちらの仮定も成立しなくなる。
天崎の他に安藤のことを知っている、月島裕子が現れた今では。
「私が安藤君のことを覚えているのは、おそらく私が守護霊だからだ。生物どころか魂ですらない、概念みたいな存在だからね」
「概念なら安藤を忘れないってわけか?」
「おそらく、だよ。それ以外の可能性が浮かばない」
確かに他の人と裕子の違いといえば、それくらいしかない。
「では天崎君。幽霊でも概念でもない君が、どうして安藤君のことを覚えているんだい? もしかしたら共通点があるかもしれない」
「俺が安藤を覚えている理由、か」
安藤を悪魔だと知っているから?
……いや、それだと円や空美が忘れていたことと矛盾する。
安藤ともっとも親しくしていたから?
それも疑問だ。天崎だけが覚えている状況が不自然だし、まだ確認はしていないが、この分だと安藤の家族も忘れているだろう。
「…………」
しばらく考えてみたものの、コレという原因は思いつかなかった。
「悪い。ダメだ、思いつかない」
「そっか。じゃあ天崎君が覚えている理由は保留だな」
「それで、さっき言ってた自論ってなんだ? 安藤はどうなったんだ?」
「あくまでも推測の域を出ないってことを念頭に置いて聞いてくれ。私はまだ安藤君をよく知らないからね」
間違っていても恨まないでくれよ。とでも言いたげに、裕子は保険を掛けた。
「安藤君がいなくなった理由。私が考えるのは……先日会った天使のことだ」
「天使?」
ついついオウム返ししてしまった。
突拍子がなさすぎる。天使と安藤を、いったいどうやって結びつけるのか。
「んん? なんだい、今の間の抜けた返事は。私の考えがあまりにも的を外してるから訊き返したんじゃなくて、まるで天使という単語を初めて聞いたような反応だったぞ」
「いや、だって、天使なんて今まで見たことも会ったことも……」
ない。と言いかけて、違和感を覚えた。
つい最近、どこかで天使に関する会話をしたことがあるような……。
誰と話した? どこで話した?
……何か大切なことを忘れているような気がする。
「なるほど。これが天使の言っていた『認識阻害』というやつなのかな?」
「『認識阻害』?」
問い返すと、裕子は得意げに笑った。
「忘れたのなら教えてあげる。先週、洋子が君の部屋へ行った時に遭遇しただろ? 空から落ちてきた天使に」
「……そうだ、思い出した。名前は確か……」
「ミルミルだ」
名前を耳にして、ようやく完全に記憶が蘇ってきた。
それにしても、どうして忘れていた? たった数日前の出来事だぞ?
その原因は明白だ。天使との遭遇を安藤に報告しても、奴は気に留める素振りすら見せなかった。それを問題なしと判断した天崎は、天使の存在を記憶の端へと追いやっていたのだ。
そこへ加わる天使の『認識阻害』。覚えていられるわけがない。
「私の考えはこうだ。おそらく安藤君は、何らかの理由で天使に連れ去られた。そして騒ぎにならないよう、安藤君を知るすべての人間に『認識改変』が行われたっ、て感じかな。ほら、天使も言ってたじゃないか。この世に存在してはいけない存在を連行するのが仕事だって」
「それが安藤に当てはまったって言うのか?」
根拠は? と問い返そうとして、それが愚問であることにすぐ気づく。
安藤とは、いったいどのような存在だったか。
「今まで詳しく聞きそびれちゃってたけど、安藤君は人間じゃないんだろ? 一晩で腕が治るくらいだからさ」
「安藤は……悪魔だ」
「悪魔?」
「魔界を統一するほど力を持った大悪魔なんだよ、安藤は。今は普通の人間と変わらないらしいけど……」
天崎は安藤の素性と目的をかいつまんで説明した。
それと並行して考える。
確かに安藤は普通の人間じゃない。とはいえ、体の構造や身体能力はすべて並の人間程度のはずだ。大悪魔であった前世と、その時に培った知識を持っていることを除けば。
それだけで、天使の連行対象になるのだろうか?
……さすがに答えは出ない。
「なるほどね。悪魔か。それが分かれば、私の自論に信憑性が出てくるというものだ」
「どうだろな。筋は通ってるみたいだけど……なんかしっくりこない」
「世の中、理不尽な出来事は唐突に起こるものだよ。どんな大切なものでも、歯車の噛み合わせ次第では突然失うものさ。私のようにね。……あぁ、とはいっても、別に運転手を恨んだりはしてないよ。アレは私が悪い」
自虐とも捉えられる裕子の言葉には、大いに説得力があった。
「ここまでの話をまとめると、安藤君は悪魔で、天使の連行条件に当てはまった。連れ去られた後は、『認識改変』で元から存在しなかったように誰の記憶からも消去された。こんなところでいいかな?」
「……そうだな」
一つ一つの事実を頭の中で咀嚼しながら、天崎はゆっくりと同意した。
そして、ようやく裕子の最初の問いかけに答えを見出した。
何故、自分だけが安藤を覚えていたのか。その理由は……。
「あっ……分かった。俺が『完全なる雑種』だからだ」
天使が原因と判明した今なら、己の血統によるものだと納得できた。
ミルミルと出会った時、月島には視えず、天崎には視えていた。誰もが安藤を忘れていたのは、この『認識阻害』と同じだ。天崎の中に天使の血統があるからこそ、『認識改変』の効果が薄かったのだ。
「ってことは、もしかしたらリベリアも覚えてたのかもしれないな」
天崎は小さく毒づいた。
昨日、結局リベリアを訪ねることはなかった。ちょっとだけ眠るつもりだった昼寝が、気づいたら三時間も経っていたのだ。その時点でバイトへの出勤時間を過ぎていたため、リベリアは不在。その後すごく空腹の円に怒られたことは、お察しの通りである。
「なんだい、なんだい。自分だけ納得しちゃってさ。私にも教えてくれよ」
「あぁ……俺だけ安藤を覚えてる理由が、ようやく分かったんだ」
自分の血統である『完全なる雑種』の意味を詳しく説明する。
以前、妹の方へ簡単に話したこともあるためか、裕子は事実をすんなりと受け止めたようだった。
「へー。なかなか面白い血統してるんだね、天崎君は。というより、君のような存在がいるってことは、世界に人外が蔓延っている何よりの証明じゃないか」
「事実そうなんだよ。人間社会に溶け込んで生活してる人外って、けっこういるんだぜ」
「なるほどねぇ」
それを耳にした裕子は、少年のように顔を輝かせた。吸血鬼に日本刀で勝負を挑むような奴だ。たぶん世界の未知なる鱗片を知って、心躍らせているのだろう。
「私の話はこんなところかな。どうだい、役に立ったかい?」
「大いに役立ったよ。ありがとう」
「そりゃよかった。君には計り知れないほど大きな恩があるから、こうやって少しずつ返していかないとね」
天崎としては貸しを作ったつもりではないのだが。
と、裕子が踵を返した。
「もうすぐ時間だから、私はこの辺で」
「なんだ、帰るのか?」
「洋子が帰りにお遣いを頼まれてるんだ。今日のところは引き上げさせてもらうよ」
そう言って背中を見せる裕子。しかし何故かバックで天崎の方へと向かってくる。
最終的に彼女は天崎の真正面で華麗なターンを決めると、まるで銃を突きつけるような仕草で喉元を突いた。
「たまにこうして会おう。君と女子大生の今後の展開も気になるからね」
「はは……」
安藤のことを覚えてるなら、この前はただの付き添いだったって理解してくれるだろ? ……と言っても無駄そうだった。誰が主役とか関係なく、裕子は女子大生とデートしたことそのものを批判しているようだ。
「それじゃあ、また今度ね。洋子のこともよろしく」
「あぁ、またな」
別れの挨拶を交わした後、裕子は少年のようなダッシュで公園を駆けて行った。
何か一つだけ言い忘れたことがあるような気をしながらも、天崎はその背中が見えなくなるまで見送ったのだった。
そのまま直帰した天崎は、家の扉を開けて愕然とする。言い忘れていたことがあったのは、気のせいではなかった。預かっている制服とブラを返すのを忘れていた。
「おか」
「……ただいま」
また今度にするかと諦め、制服のまま畳の上へと寝転がった。
すると円が上から顔を覗き込んでくる。
「ごはん」
「まだ早いだろ。……いや、寝るわけじゃないから大丈夫だよ。っていうか、寝たら起こしてくれ」
「フライパンとお玉?」
「……それは近所迷惑だ。普通に声でいいよ」
円の顔が退くと、天崎は天井に向かってため息を漏らした。
そして何気なく訊ねてみる。
「円。この前の話なんだけど、部屋に天使が来たのって覚えてるか?」
「てんし?」
再び視界に入った円が、何のことやらと首を捻った。
あの時はずっと押し入れに籠っていたとはいえ、座敷童が自分のテリトリー内で起きた出来事を知らないはずがない。やっぱり覚えていないのだろう。
「悪い、なんでもない」
自分から話題を切った天崎は、再びため息を吐いた。
月島裕子との会話で分かったことは、たくさんあった。
安藤がいなくなった理由は、天使に連れ去られたから。
天使の『認識改変』によって、安藤に関する記憶のすべてが改竄された。
天崎が覚えているのは、天使の血統を有する『完全なる雑種』だから。
もちろん憶測の域は出ない。だが筋は通っている……気がする。
ミルミルが墜落してきた日と、安藤が姿を消したタイミング。そして月島が天使を視認できなかった『認識阻害』という能力が、天崎だけが覚えているという現状と、あまりにも酷似していた。
だけど……。
できることは、何もない。完全に手詰まりだった。
ミルミルが安藤を連れ去ったとして、果たしてどこへ行ったのか。居場所が分かったとしても、どうやって助けに行けばいいのか。そもそも、助けに行くという表現であっているのだろうか。ミルミルは自分の仕事をしただけだし、安藤は別に助けを求めていない。いや、突然連れ去られたんなら助けを求める余裕もなかったんだろうけど……。
「気を抜くと、忘れそうだな」
天井の木目を眺めながら、なんとなしにぼやいた。
さすがに安藤を忘れたりはしないが、すでにミルミルの容姿は曖昧になっていた。
目を閉じて、頑張って思い出してみる。
雪色の髪に、小さな翼。体格は小柄で、純白のワンピースを着ていた。
特徴を単語にして並べることはできるが、ミルミルの顔がどうしても思い出せない。同じように白く塗った幼児の中に混じってしまえば、判別なんてできなくなるだろう。たぶん三日もすれば、また存在すらも忘れるはずだ。
記憶から抜け落ちてしまう相手を捜すのは、不可能に近い。
もし捜すとなれば、やっぱりミルミルではなくて安藤の方だが……。
かといって、手掛かりなしじゃ行動もできない。
「しゃーない。買い物がてら、散策にでも行くかな」
家で寝転んでいるよりは、街中を歩き回った方がマシだ。
という具合で呟いた天崎が、気持ちを買い出しに切り替えた――、
その瞬間だった。
「…………???」
とてつもない違和感を覚えた。
寝転がったままなので、当然ながら天井の木目が視界に入っている。
けれど、それがあまりにも不自然だと感じてしまったのだ。
「???」
未だ謎は解けない。ぼんやりと天井を眺めたまま、天崎は身体を強張らせた。
この違和感は……いったいなんだ?
目を閉じ、瞼の裏でミルミルの姿を映し出して、天井を見つめたところで……得体の知れない違和感が襲ってきた。
天井とミルミル。この二つが重なり合うのと同時に、天崎は違和感を抱いたのだ。
だってそこに、天井があるのだから。
「なんで……天井があるんだ?」
いやいや、そんなのは当たり前だ。吸血鬼が屋根ごと持ち上げたわけでもなければ、天使が墜落してきたわけでもない。破壊されていないのだから、一般的なアパートに天井があるのは当然である。
だが天崎が抱いている疑問点は、そんな些細なことではなかった。
「アイツ……ミルミルはどうしてここへ来たんだ?」
上体を起こし、言葉にしながら必死に思い出す。
確かミルミルは、天崎の中に流れている天使の血に引き寄せられて、この地に落ちてきたと言っていたはずだ。普段は誰もいない公園や、河川敷に落ちるとも。
だったらミルミルが落ちるべき場所は……ここじゃないのか?
天崎が今まさに住んでいる、この新おののき荘に。
多少の、少なくとも百メートルくらいの誤差はあったのかもしれない。もちろんその可能性も否定はできないのだが……ミルミルが落ちたのが、ピンポイントで旧おののき荘跡地というところに、何か意図を感じずにはいられなかった。
居ても立っても居られなくなった天崎は、唐突に立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「いってら」
円に声を掛けるやいなや、制服のまま外へと飛び出した。
向かうは旧おののき荘跡地、おののき荘二号棟が建てられるはずだった場所だ。今のおののき荘から、わずか百メートルほどしか離れていない。
すぐに到着した天崎は、くまなく周囲を見渡した。
その土地には何もなかった。建設途中のおののき荘二号棟が倒壊したのは先週のことだし、すでに業者が瓦礫を撤去したのだろう。今後再び建設が始まるかどうかは知らないが、今のところは更地になっていた。
何もない。土の地面の上に、わずかに残った木くずが散乱しているくらいだ。
だが……。
そこには何かがあるはずだ。ミルミルが引き寄せられる原因となった、何かが。
天崎は自分の中から無意識を取っ払った。そして意図的に自身に暗示をかける。
天使がいる。天使がいる。天使がいる。
目には視えない天使がいると仮定し、じっと更地を凝視した。
その時だった。視界の端で、一際異彩を放つ白い物体が浮かび上がった。
「あっ……」
ついつい声を上げてしまう。が、それも無理なからぬこと。ほんの一瞬前まで、そこには本当に何もなかったのだから。
立ち入り禁止の柵を跨いだ天崎は、はやる気持ちを抑え、白い物体の元へと駆け寄った。
その正体は、年端も行かない子供だった。
肩の辺りで揃えられた白髪。真っ白なワンピース。背中には雲のように軽い翼。
少年とも少女ともとれる中性的な顔立ちの子供が、何もない地面の上で、すやすやと気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「お、おい……」
側で片膝をついた天崎は、遠慮がちに声を掛ける。
すると白い子供が、不快そうに身じろぎした。
「う~ん、あと五年~」
「長すぎだろ。オリンピック跨いじまうよ」
そうはいっても、見つけてしまったのだから見ぬ振りはできない。こんなところで眠っていたら風邪引くぞ、という当たり障りのない理由を免罪符に、天崎は白い子供の肩を揺すった。
「もう、なんなりか! せっかく良い夢見れそうだったのに!」
「わ、悪い……」
まるで反抗期の子供が母親に向けるような癇癪に、天崎は思わず謝ってしまった。
だが再び眠らせるわけにはいかない。そのまま二度寝しようと寝転がる白い子供を遮り、天崎は慌てて問いただした。
「えっと……君はミルミルっていう名前の天使じゃないんだよな?」
一応確認しなくてはならない。ミルミルと特徴が一致するこの子供が、誰なのかを。
と、再び寝転がろうとしていた白い子供が、不機嫌そうに天崎を睨んだ。
「ミルミル? 誰なりか? クルクルはそんな変な名前じゃないなり」
そう言って立ち上がった白い子供は、ちんちくりんな身体を精いっぱいに伸ばして、不遜な態度で名乗りを上げた。
「クルクルの名前はクルクルなり! 正真正銘の惰天使なりよ! お兄さんは誰なりか?」