第6章 大悪魔の消失
休み明け。誰もが待ち望んでいない月曜日。
ただでさえ憂鬱な一週間が始まる気怠い朝だというのに、さらに不快にさせる奇声が天崎の鼓膜を貫いた。
「あ~ま~ざ~き~!!!」
先に教室へ入った天崎を追うようにして、友人の犬飼が背後から突進してきた。
一度だけため息を吐いた天崎は、迫りくる友人の額を平手で押し返す。
上半身は後方へ。下半身は前方へ。腰の辺りを支点として半回転した犬飼の身体は、勢い余って一瞬だけ宙に浮いた。そのまま背中から床へと叩きつけられる。
「やべっ、やりすぎちまった。おい、犬飼。大丈夫か?」
「そんなことより天崎! 一昨日はどういうことだってばよ!」
コンマの速さで立ち上がった犬飼が、鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけてきた。しかも何故か泣きながら。強打した背中が大丈夫なのかそうでないのか、はっきりさせてほしい。
「近い近い、離れろ。一昨日って何の話だ?」
「とぼけんじゃねーぞ! 俺の妹が見たんだ! お前が美女を三人も引き連れて、ゲーセンで楽しそうに遊んでる姿をな!!」
あー、そのことか。と、天崎は露骨に視線を泳がせた。
天崎は過去に何度か犬飼の家にお邪魔しており、その際に彼の妹とも顔を合わせている。とはいえ、顔を覚えられるほど親しくした覚えはないので、犬飼の妹の記憶力には舌を巻くばかりだ。
そして一昨日と言えば、女子大生二人とデートをしていた日だ。
確かに遠出したわけではないし、若者が集まりそうな場所を選んだとはいえ、まさか顔見知りに目撃されてしまうとは……。しかも一番面倒くさそうな男の妹に!
「あれはな、少しだけ事情があるんだよ」
「ほ~? じゃあその事情とやらを、事細かに説明してもらおうじゃないのぉ」
今度は額と額がぶつかり、血走った眼でガンをつけてきやがる。
マジで面倒くさい。いつも通り、腹パンで気絶させればやり過ごせるだろうか?
「まず、その三人の容姿を聞いてるかどうかは知らんけど、一人外国人がいてだな。そいつとちょっとした知り合いなんだよ。で、バイト先の女子大生とデートしてくださいって泣きながら頼まれたから、仕方なくだな……」
「じょ、し、だ、い、せ、い! で、ー、と! カーッ! このヤリチンが!!」
「う、うぜぇ」
全体の説明を聞かず、相手が不利になる単語だけをピックアップして攻撃手に変える。お前はマスコミか。
本気で鬱陶しくなってきたので、安藤には悪いが、ここは正直に話させてもらおう。
「俺はただの付き添いだったんだよ。相手の本命は安藤ってわけ。あちらさん、安藤に会いたくて約束を取り付けたんだぜ」
「ふーん。言い訳はそれだけか?」
「言い訳も何も、ただの事実なんだけどな……」
何を言っても無駄そうだ。犬飼はすでに天崎を目の敵にしてしまっている。事情を知るために説明を求めているのではなくて、ただ難癖を付けること自体が目的と化してしまっているクレーマーみたいだった。
「三人もいるんだったらよぉ、俺っちも誘ってくれたらよかったじゃねーかぁ。俺っちも女子大生とデートしたい、したいぃ」
「結局のところ、お前はソレばっかじゃねーか!!」
今度は鼻水を垂らしながらの大号泣だった。感情の起伏が激しい奴である。
すぐ暴力に訴えるのも悪いと思ったが、犬飼が両肩を掴んでガクガク揺らし始めたので気が変わった。無防備になった犬飼の脇腹に、天崎の容赦ない右フックが食い込む。白目を剥いて大人しくなった友人は、膝から崩れ落ちた。
「これが脱童貞パンチ、か。威力、上がってるぜ」
「さて、授業の用意でもするか」
親指を立てて称賛する犬飼を完無視し、天崎は自分の席へと向かった。
ふと、隣の席で女子生徒がこちらを見ていることに気づいた。いつの間にか登校していた、何故か顔が青ざめた月島だった。
「あ、天崎さん。女子大生と……デート、って?」
「うぐっ」
聞かれているとは思わなんだ。
何もやましいことなどないのに、自然と視線を逸らしてしまった。
「説明、してくれるかな?」
「…………」
怖ッ! なんか怒ってる! 哀しげに下がった眼尻は、まったく笑っていない!!
「説明、って言われてもだな……」
まさか月島に恐れを抱く日が来ようとは……。
なんで月島は怒っているのか、なんで自分に非がある感じなのか疑問に思いながらも、また一から説明せねばなるまい。月島の眼力は、納得するまで決して解放しないよと言っていた。
と、背後から重りがのしかかった。
「ほほう。修羅場ですかな」
「死ね」
肩の上でニヤニヤしながらほざく犬飼の腹へと、肘打ちを食らわせてやった。音もなく沈む犬飼。今度こそアイルビーバックできまい。
一通り成り行きを話してる間、天崎は『安藤早く来い』とずっと思っていた。
説明を終えたところで、ちょうど朝のHRを知らせるチャイムが鳴った。結局、話を聞き終えた月島から引き出した感想は「へー、そうだったんだぁ」だけ。無表情なのがまた、天崎の恐怖心を煽った。
「あれ?」
担任が現れても、安藤の席は空いたままだ。
アイツが遅刻してきたことなど、今まで一度しか見たことはない。しかもその時は、片腕をぶった切られた翌日だった。
「安藤の奴、今日は休みなのか?」
「?」
独り言のつもりだったのだが、疑問形だったためか、隣の月島が反応した。ただ彼女は、曖昧に笑って首を傾げるだけだった。
まぁ、月島が安藤の動向を知っているはずはないから、その反応は当然だろう。HRが終わっても登校してこないようなら、後でラインでも送っておくか。と、天崎は特に気にもせず前を向いた。
結局、午前中の授業が終わっても安藤は登校してこなかった。きっと風邪でも引いたのだろう。なにも今まで皆勤だったわけじゃない。
「さぁて、楽しい楽しい尋問の時間だぞ」
「いや、昼飯の時間だろ」
許可なく前の席に腰を下ろした犬飼を、天崎は半眼で睨みつけた。
「女子大生と楽しぃくデートした天っち君は、果たしてどこまで進んじまったのかなぁ?」
「どこまでも何もねぇよ。一昨日の話だろ」
「私も、気になるかな」
「おぉふ」
隣から身を乗り出してきた月島に対して、天崎は距離を取るように仰け反った。
午前の授業が終わってすぐだったため、自分の席で教材を片付けていた月島にも聞かれていたようだ。
「んではぁ、質問形式でどんどん暴いていっちゃうぜぇ。天っち君、ズバリ女子大生たちの電話番号はゲットしたのかなぁ?」
「うぜぇ……」
殴ってやりたい衝動に駆られたが、座っている状態ではボディは狙えない。さすがに顔は可哀想だと、天崎の理性が働いていた。
力強い眼力でこちらを見つめている月島もいるので、無暗に暴れたりもできない。
代わりに天崎は、マイクを持っているようなジェスチャーで突き出してくる犬飼の右手を、煩わしそうに手で払った。
「電話番号とラインの交換くらいはしたよ。悪いか」
「したんですか! やっちゃったんですか!?」
「…………」
別に腹も顔も変わらないか。と、天崎は前言撤回したくなった。
「いやいや。よく考えてみろよ、犬飼。普通、番号くらいは交換するだろ?」
「……………………するな」
「するんだ」
熟考の末に冷静に納得した犬飼に対し、月島は残念そうに驚いた。
「そもそもだ、お前ら。朝も言ったと思うけど、こないだのメインは安藤なんだよ。俺はただの付き添い。一昨日遊びに行った以外に交流なんてないの。今後の進展があるとすれば安藤の方なんだから、そっちに尋問しとけ」
「いや、だからさ……」
犬飼のテンションが急激に下がった。
その落差は、まるでカラオケで熱唱中に店員が注文品を持ってきたかのよう。
そう……仲間内に他人が介入したかのような反応だった。
そして犬飼は、訝しそうに表情を歪めながら、当然のように言い放った。
「その安藤って奴は誰なんだよ。お前の中学ん時の友達か?」
「は?」
何を言われたか分からず、天崎は間抜けな声を上げてしまった。
安藤が誰かと問われれば、あの安藤しかいないだろう。
「俺らの友達の安藤だよ。今日は休んでるけど」
「???」
それでもなお分からないと言いたげに、犬飼は腕を組んで首を傾げた。
さすがの天崎も、この無意味なやり取りに徐々に腹が立ってくる。
「このクラスの安藤だっつーの。出席番号二番。俺とお前の間!」
「天っちこそなに言ってんだよ。このクラスに安藤なんて名前の奴はいないし、出席番号二番は俺っちだぜ」
「…………は?」
二度目の呆けた返事。まったく理解ができない。
埒が明かないと悟った天崎は、隣に視線を移した。月島は困ったように笑いながら、何故か謝ってきた。
「ごめんね、天崎さん。私、このクラスの人たちはだいたい覚えたけど、他のクラスの人たちのことは、まだ全然知らないの」
「あー、なるほど。別のクラスの奴か。安藤なんて苗字、別に珍しくもないからな。この学年にも何人かいたはずだぜ」
「いや、そうじゃなくて……」
ダメだ、話が食い違っている。
他のクラスではなく、このクラスの安藤の話をしているのに。このクラス唯一の安藤という名の男子生徒を。
「真っ黒な髪でメガネを掛けた、優等生を絵に描いたような奴だよ。からかうのもいい加減にしろ」
「ごめん。私は知らない、かな」
「お前の姉が腕ぶった切った奴のことだよ!」
「――ッ!」
頑なにシラを切る月島に、天崎はついつい大声を出してしまった。
一年と半年も友人をしている犬飼もそうだが、最近転校してきた月島も安藤のことを忘れるはずがない。一ヶ月近く前、あれだけ世話になったのだから。
「天っち。でかい声出しすぎ」
「……あぁ、悪い」
犬飼の冷えた指摘で、天崎はようやく自分が怖い顔で月島を睨んでいることに気づいた。
それと同時に、分かったことがある。
委縮して縮こまっている月島の反応は、決して天崎をからかっているようには見えない。
そしてからかっていないのであれば、月島が嘘をつく理由がない。
つまり、月島は本当に安藤のことを忘れている……のか?
「悪いな、月島。怒鳴ったりして」
「ううん。いいよ、大丈夫」
胸の前で交差させていた両腕は解いてくれたが、視線を合わせてはくれなかった。月島の性格上、たとえ天崎の罵声でも相当堪えたようだった。
三人の間で、少し気まずい空気が流れる。
逃げるわけではないが、天崎は無言のままスマホを取り出した。
安藤に送ったメッセージに、未だ既読はついていない。
胸の奥に言い知れないもやもやを抱えたまま、午後の授業を終えた。
帰りに誰かとどこかへ寄っていく気分でもなかったため、天崎はHRが終わるのと同時に席を立った。友人たちには軽く挨拶をしただけで、そのまま直帰する。
昼休みに弁当を食べた後、居ても立っても居られなくなった天崎は、クラスメイトに安藤のことを聞いて回った。その行動の結果、もやもやが晴れるどころか、さらに謎が深まってしまうばかりだった。
クラスメイトの誰もが、安藤の存在を忘れていたのだ。
いや、忘れていたというのは少し語弊がある。誰も安藤のことを思い出さなかったし、まるで最初から知らないような返答ばかりだった。
また、安藤の名前や容姿がみんなの頭から抜け落ちているだけではない。空席になっている安藤の席を指して訊ねても、反応は誰もが同じだった。
その席は今、誰も使ってはいない、と。
それでも納得のいかない天崎は、最終的に生徒名簿を確認してみた。男子出席番号一番は天崎、三番は犬飼省吾。そしてしっかりと明記してあるではないか、二人の友人に挟まれた安藤の名前が。
なのに、誰もが言う。安藤の名が見えていないように、二番は犬飼なのだと。
その時点でムキになるのを諦めた天崎は、今度は安藤が忘れられている原因を考えてみる。
クラスメイト全員が、イタズラで自分をからかっている?
その可能性は……なくもない。しかしイタズラに加担するために、安藤が授業をサボったりするか? ……いや、それはない。安藤の性格上、天崎に嘘をついたり友人の悪ノリに便乗することはあっても、自分を犠牲にはするまい。あの小悪魔が優等生を演じなければならないのは、天崎も知っている。
では安藤が欠席したタイミングを狙って、誰かがイタズラを考えたとか?
……それもなさそうだ。今日は月曜日。安藤が欠席したと判ったのは、今朝の話だ。そこからクラス全員に天崎を嵌めようとする意思が伝わるのは、まず不可能だと思う。さすがにどこかで情報が洩れるだろう。
じゃあどうして全員が全員、安藤のことを忘れている?
どうして安藤の存在が……なかったことになっている?
いや、そもそもの話……。
「…………」
イタズラの可能性を否定した途端、恐ろしい想像が天崎の頭の中を過った。
安藤なんて人間は、最初から存在していなかったのではないか?
自分だけが覚えており、誰も彼もが忘れている。
正しいのは周囲、間違っているのは自分。
安藤という人間は本当は存在せず、天崎が作り上げた妄想の人物だったとか……。
「…………」
いや、そう結論付けるのは早計だ。安藤は妄想なんかではない。ちゃんと実在する人物だ。忘れてはいけない……ような気がした。
考えに没頭しながら、おののき荘へと帰宅する。
玄関を開けると、いつも通り円が畳の上でくつろいでいた。
「おか」
「……ただいま」
パッとしない天崎の返事に、円は眉をひそめた。どうやらいつもとは違う天崎の様子に気づいたようだ。
「どしたの?」
「いや……」
言葉を途切れさせた理由は二つある。
一つは未だ思考に専念していたから。
もう一つは、円に安藤のことを訊くかどうか迷ったからだ。
正直、円から答えをもらうのは怖かった。彼女が知っていると言った場合、クラスの人間だけが安藤を忘れているということになる。もしかしたら何かしらの異変が、学校を取り巻いている可能性が出てくる。
逆に彼女が知らないと答えた場合でも、さらに謎は深まるばかりだ。クラスメイトのイタズラである可能性はなくなり、安藤は本当に姿を消したということになる。すべての人間の記憶からも消え、何故か天崎だけが覚えているという事実を残して。
どちらに転んでも、天崎にとってはあまり良い返答ではなかった。
だが……。
問わないわけにはいかない。問題を有耶無耶にできるほど、天崎はいい加減な性格をしていなかった。
「なぁ、円。俺の友達の安藤って知ってる……か?」
よな? と訊かなかったことで、天崎は自分の中にある解答に気づいた。
そして案の定、円は「?」と首を傾げる。
「だれ?」
「いや、いい。なんでもない」
やっぱり円も忘れている。というか、完全に知らない名前を聞いた反応だった。
円と安藤も、少なからず顔を合わせている。一緒に鍋もやったし、ジュースももらったことがあるし、天崎が幽体離脱をした際は二人とも手伝ってくれた。安藤が天崎の家に来た回数だけ、二人は会っているはずだ。
なのに忘れるなんてことは……あり得ない。
「そういや、鍋といえば……」
それ以上、円に追及することはせず、天崎はカバンを下ろした。
確か一ヶ月くらい前、空美も一度だけ安藤の顔を見たはずだ。
「ちょっとだけ出てくる」
「いってら」
そう言い残して、天崎は隣の部屋へと向かった。
この時間、もしかしたら空美はまだ寝ているかもしれないが、背に腹は代えられない。今は一刻も早く、安藤の存在の有無を知りたかった。
インターフォンを鳴らすと、中から気怠い声が返ってきた。どうやら起きているようだ。
たっぷり三十秒ほど待ってから、ゆっくりと扉が開いた。
「お、なんだ。東四郎か」
訪問者が誰か分かってないんなら、ちゃんとした恰好で出てこいよ……。
というツッコミはなしだ。以前、それを言って殴られたことがある。
「何の用だ?」
「ちょっと空美さんに訊きたいことがあって。俺の友達の安藤って知ってますか?」
「はぁ? 安藤?」
その反応ですべて察した。答えを聞くまでもない。
「あたしがお前の交遊関係まで知るかよ」
「この前、俺の部屋で鍋した時に会ってるはずなんですけど」
「鍋? あぁ、すき焼きのことか。馬鹿言うな。あんときゃ、あたしとお前とリベリアと円の四人だっただろうが。安藤なんて奴、見たことも聞いたこともねぇよ。幽霊でも視えてたんか?」
「いえ……」
やっぱり。安藤の存在だけが、すっぽりと抜け落ちている。
その事実に居たたまれなくなり、天崎は思わず目を逸らしてしまった。
「あぁ、そうそう。そういえば洋子の奴は学校行ってるか?」
「洋子? ……月島なら普通に来てますけど?」
「チッ。ってことは、予備を着てるわけか」
舌打ちを吐き捨てるのと同時に、空美の顔が極悪のそれへと変わった。
あんまり変な顔すると、癖になっちゃいますよ。という指摘はしない。以前、それで膝蹴りを食らったことがあるからだ。
「ちょっと待ってろ」
と言って、天崎を玄関先で待たせたまま奥へ引っ込んでいってしまった。
しかしすぐに戻ってくる。紙袋を持って。
「悪いけど、こいつを洋子に渡してくれないか?」
「何ですか、コレ?」
「こないだ来た時の忘れ物だよ」
手渡された紙袋は、特に口が閉じられているわけでもないので、中を覗き見てみた。
入ってたのは、女子の制服とブラジャーだった。
「渡せるか!!」
「あぁん? お前、一緒のクラスなんだろ? 簡単じゃねぇか。それにブラはともかく、制服は替えがないと困るだろ」
「いや、それはそうなんだけど……」
仮に学校へ持って行って、月島に渡したとする。『これ、この前俺の家に来た時に忘れてったぜ』と言って手渡したのが、制服とブラジャーだった。万が一、それを誰かに見られていたら? ……根も葉もなかった噂に、意味のない信憑性を与えるだけだ。その後、根掘り葉掘り事情を聴かれるのは目に見えている。そう考えるだけでも、寒気がしてきた。
ふと顔を上げると、空美が何故か申し訳なさそうに片目を閉じていた。
「あちゃー、しまった。そういうことか。悪い、ブラも制服も洗っちまった」
「別に匂い嗅いだりはしねーよ!?」
「ほお? あたしゃそんなことは一言も言ってないんだが? お前は女子のブラを預かったら匂いを嗅ぐのか?」
「だからしないって!」
「するかしないかなんて関係ねぇ。発想がある時点でやったも同然だ」
「えぇ……」
なんという暴論。それがまかり通るなら、世界の犯罪率は何倍にも膨れ上がっている。
あまりの傍若無人ぶりに天崎が呆けていると、ニヤニヤ顔の空美は扉に手を掛けた。
「んじゃ、そういうことでよろしく。貸したTシャツとカーディガンはいつでもいいから返せって言っといて」
「え、ちょっと待っ……」
制止もむなしく、空美は扉を閉めてしまった。奥へ引っ込む足音が聞こえる。
紙袋を引っ提げた天崎は、呆然としたまま扉を見つめていた。
「えっと、何しに来たんだっけ……」
あぁ、そうだ。安藤だ。空美もまた、安藤の存在を知らないようだった。
月島の制服とブラの入った紙袋を持ったまま、天崎はとぼとぼと自分の部屋へと戻った。これに関しては、またいつか返せばいい。どうせ月島も、いつかはおののき荘に引っ越してくるんだし、その時にでも。
紙袋を畳の上に置いた天崎は、腕を組んで天井を見上げた。
円と空美も安藤を知らなかった。おそらく、これ以上調べても結果は見えているだろう。ただ天崎としては、予測だけで結果を導きたくはなかった。それが友人が消えたという事件だから、特に。
大家は安藤のことを知っているかどうか、微妙なところだ。というか今は居ない。
リベリアはまだ寝ているだろうから、後にしよう。
残るは作家の安田だけだ。アイツも確か、安藤のことは知っているはず。あんまり会いたくはない相手ではあるが、仕方がない。ちょっと話すだけだ。
再び外に出た天崎は、おののき荘の一階を目指した。
安田の部屋のインターフォンを押す。しかしいくら待っても、返事はなかった。
「いないのか?」
気配もないし、鍵も掛かっている。
在宅業だから昼間でも居ると思っていたが……そういえば担当と打ち合わせがある時は長く空けるとか言ってたっけ? そのための外出なら、ちょっと運が悪かった。
「仕方ねーか」
どのみち確認程度のものだったから、諦めもつくというもの。
特に落ち込むわけでもなく、天崎は自分の部屋へと足を向けた。
ただ玄関を開けたところで、奇異な光景を目にする。
円が、サイズの大きすぎるブラを着物の上から着用していたのだ。
そして天崎の姿を見るやいなや、扇情的なポーズをしてウインクを寄こしてきた。
「うっふん」
「……他人の物で遊んじゃいけません」
冷静に返した天崎は、さっとブラを取り上げた。
「あ~れ~」
「それは着物の帯を取られた時だろ」
いったい、どこでそんなことを覚えてくるのやら。
同級生のブラに触れていることを意識してしまった天崎は、一回だけ咳払いをした後、紙袋の中へと戻した。そして自身は畳の上へと寝転がる。
考えることはたくさんあるが、はっきり言って疲れた。
最後の確認だけしたら、ちょっとだけ昼寝しよう。
そう決心し、天崎はカバンからスマホを取り出した。
『もっしー! いやぁ、天崎君の方から電話くれるなんて、あたしゃ嬉しいよぉ。もしかしてあたしに惚れちゃったとか?』
「はは……」
相変わらず元気な人だ。
「こんにちは、ミコミコさん。今電話、大丈夫ですか?」
『大丈夫だよ。講義サボタージュしてるから』
サボんなよ。と、危うくツッコミそうになった。
『んで、なんか用事かな?』
「ちょっと訊きたいことがあるんです。ミコミコさんは、安藤を……」
とまで言って、言葉を切った。
少し質問の仕方を変えてみたくなったのだ。
「一昨日遊びに行った時って、俺とミコミコさん以外に誰がいましたっけ?」
『えー、リベリベとマジョマジョでしょ? 一昨日のことだぜ、天崎君』
「すみません。最近、物忘れが激しくて」
『痴呆が始まったのかな? 魚とか大豆を食べるといいらしいぜ』
「参考にさせて頂きます」
ミコミコも覚えてはいない。
残るは一人だ。
「もしかして、マジョマジョさんも近くにいますか」
『いないよー。あぁ、そうそう。実はマジョマジョ、昨日から風邪引いたらしくてさ。今日休んでるんだよね』
「風邪?」
『うん。お見舞い行こうかって言っても大丈夫って言うし、一人暮らしだからちょっと心配なんだよね。こういう時くらい、友達を頼ればいいのにね』
「そうですね」
マジョマジョはいない、か。
風邪を引いて寝込んでいるなら、電話を掛けるのも迷惑だろう。ミコミコの回答で結果は得ているのだ。マジョマジョに確認する必要もない。
「最後に一つだけ。一昨日って、どうして集まることになったんでしたっけ?」
『あれ、リベリベから聞いてないんだっけ? あたしとマジョマジョとリベリベの三人で遊びに行こうってことになって、リベリベがお世話になってる天崎君も連れてくるって言って。あたしたちも一度お店で天崎君のことは見てたから、オッケーしたんだよ』
「その……俺がお店に行った時って、何人で行きましたっけ?」
『え? 一人でしょ?』
電話越しでも分かる。ミコミコは、さも当然のように言っている。
記憶が改竄されているようだが……安藤が最初から存在しないと仮定すると、筋が通っている内容だった。
「分かりました。ありがとうございます。突然すみませんでした」
『いいってことよ。なんかあったら、どしどしお姉さんに質問してきなさいね。あ、それとまたみんなで遊びに行こうぜ』
「えぇ、その時はお願いします」
通話を終え、天崎はスマホを畳の上へと放り投げた。
結局、安藤のことを覚えている奴は誰一人としていなかった。忘れているというよりは、本当に最初から存在しないかのように。生徒名簿に載っている名前でさえも、天崎が生み出した幻覚であるかのように。
いつからこうなったのかは、よく分からない。少なくとも、一昨日のデートまでは存在していたはずだ。天崎の記憶が改竄されていなければ。
畳の上で仰向けになったまま、天井の木目を凝視しながら考える。
実のところ、安藤がいなくなったことについて、天崎はそれほど取り乱してはいなかった。最初はあまりに突然だったため錯乱したものの、いろんな人に問いかけるにつれ、だんだんその事実を受け入れ始めていた。
理由は明白だ。なぜなら安藤は人間ではないのだから。
人間の社会生活を調査するため現世に転生してきた悪魔。それが安藤だ。しかも安藤は魔界でもトップクラスの力を持つ大悪魔であり、さらに上位の悪魔の命令で今の任務をこなしているらしい。
比べることすらおこがましいかもしれないが、人間でいったら、大企業の役員が会社命令で地方へ異動させられるようなものなのだろう。任期は決まっていれど、途中で本社に戻る可能性もなくはない。
というか、天崎は過去に一度だけ安藤から聞いていた。
もしかしたら寿命で死ぬのを待つまでもなく、魔界に帰ることがあるかもしれない、と。隕石が頭に衝突するくらいの確率を示唆しながら。
だから今の天崎は、偶然にもその日が来たんだと自然と考え始めていた。
誰の記憶からも存在が消えたのは、おそらく安藤が、人間界に迷惑を掛けないために何か処置をしたからだろう。問題なのは、何故天崎だけが覚えているのか。そして本当に魔界に帰ったのであれば、どうして一言の挨拶もなかったのか。
混乱が治まっていくのと同時に、憤りの感情が湧いてくる。
ちょっとくらい別れを惜しめよ、と。
天井の木目を眺めるのに飽きた天崎は、目を閉じた。次第に意識が薄れていく。
長いようで短い付き合いだった友人の顔を思い浮かべながら、天崎はその身を眠りへと投じていった。




