第3章 天使墜落
「…………」
「…………」
二十分後。月島が空美の部屋から無事帰還したのだが、何故かずっと黙りっぱなしだった。
とりあえず座らせて、様子を伺ってみる。
ちゃぶ台の対面に座った月島は、頬を火照らせて、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。妙にそわそわしており、不意に眼が合ったと思えば、すぐに俯いてしまう。恥ずかしくて視線を逸らしたというレベルではなく、天崎からは完全に旋毛が見えるほどだった。
空美の部屋で、何かあったんじゃ?
そう勘ぐるも、天崎としても妙に胸が高まってしまい、未だに話題を振れないでいた。
緊張している原因は、月島の身なりにあった。
まず、髪が濡れている。ただ濡れているだけならまだしも、ほんのり湯気が昇り、シャンプーの甘い匂いが天崎の鼻腔を刺激していた。学校では絶対に見られない女子の私生活を垣間見た気がして、天崎は自身の心拍数が上がっているのを感じた。
また、視覚的な効果で言えば月島の服装がさらに問題だった。
Tシャツは空美から借りたのだろう。彼女の方が背が高いため、月島にとってはサイズが少し大きく、ダボッとしている。普段よりも露出している鎖骨が妙に艶めかしかった。
そして一番厄介なのが、いつもより強調を沈めている彼女の胸元だ。
カーディガンを羽織っていても、童貞の天崎でも一発で分かった。
おそらく月島は今……ノーブラだ!!
「…………」
という興奮材料も合わさり、天崎もまた視点が定まらず右往左往していた。
とはいえ、このまま無言であり続けるわけにもいかない。できるだけ意識しないように、天崎が訊ねた。
「それで、空美さんはどうだった? 上手くやっていけそうか?」
「……うん。思ってたよりも、良い人だったよ」
「そ、そうか」
「…………」
「…………」
会話が続かない。なんだこの雰囲気。
そもそも今は何の時間だ? 部屋はすでに見て回ったし、一応は住人の紹介も済んだし。お見合いみたいに面を合わせているだけで、無為な時間が過ぎていく。なんだかもったいない気分だ。
それにまだ陽が照っているとはいえ、日没の時間は早い。できるだけ暗くなる前に月島を帰したいとは思うのだが……そう意見しようとすると、彼女の方が先に顔を上げた。
「そういえば、円ちゃんは?」
「不貞腐れて押し入れの中で寝てるよ。そこがアイツの居場所なんだ」
見れば、押し入れの襖は隙間なくきっちりと閉じられている。月島の目には、絶対に開けるなという見えない圧力が掛かっているようにも感じられた。
けれども、避けるわけにはいかない。
押し入れの前で正座した月島が、優しい声で語りかけた。
「えっと……もし私が円ちゃんの機嫌を損ねちゃってたら、ごめんね」
「月島が謝る必要はないだろ」
「ううん。たぶん私が悪いんだと思う。私がここに来なかったら……円ちゃんが気分悪くすることなんてなかったから」
「…………」
天崎には深く説明しなかったが、空美の指摘は的を射ていると月島は思っていた。
円は嫉妬している。月島の存在が彼女の機嫌を損ねている。月島の方に非はないとはいえ、円の領域に遠慮なしに足を踏み入れたことに対しては、礼儀を通しておかなければならないと思った。
「円ちゃんが私のことをどう思っててもいいけれど、私は……円ちゃんと仲良くしたいな」
返事はないものの、押し入れの奥で衣擦れの音が聞こえた。
おそらく身じろぎしたのだろう。それが拒絶の意で顔を背けたのか、歩み寄る形で耳を傾けたのかは、分厚い襖に阻まれて判断できないが。
しかし月島自身は満足がいったように、一息ついた。
「まったく。お人よしだよな、月島は」
「そんなことないよ。これが礼儀だもん」
らしいと言えばらしいし、らしくないと言えばらしくない。
初めて会った時の挙動不審な振る舞いからは考えられないほど、しっかりとした意思が月島の中にはあった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。あまり長居するのも悪いし」
「そうか。なら途中まで送ってくよ」
そう言って、天崎が立ち上がった――、
その時だった。
ドオオオオオオオォォォォォン!!!!!!!!
という爆発音が、遠方から轟いた。
続いて地響き。爆発音から生じた衝撃波が、おののき荘を揺らす。
あまりに唐突な出来事に、天崎は全身を強張らせた。
「なにが――」
喉から出かかった言葉は一旦呑み込んだ。
自分が今すぐやるべきこと。次の衝撃に備えて、月島を守らなければ!
持ち前の反射神経を駆使して、天崎は即座に月島を押し倒した。覆い被さり、その身を挺して月島を庇おうとしたのだ。
「ふぇっ!?」
咄嗟のことに間抜けな声を上げるも、月島は為されるがままに身を預けるだけだ。
地鳴りは一瞬で終わった。二回目の爆発はないと判断した天崎は、月島への抱擁を解く。
「なんだ今の爆発音は!? 月島、大丈夫か!?」
天崎の身体の下で仰向けに寝転がっている月島は、何故か覚悟を決めたようにギュッと目を瞑っていた。心なしか突き出された唇は、ぷるぷると震えている。
月島に怪我がないことを確認した天崎は、慌てて窓際へ寄った。
今の爆発は、かなり近かった。
「どこかでガス爆発でも起きたのか? ……月島? おーい、月島」
「あ……あれ?」
一向に起き上がってこない月島を呼ぶと、彼女は恐る恐る目を開けていた。
そして窓の外を眺めている天崎を見ると、『え、何もしないの?』とでも言いたげな眼差しで睨みつけた。
「どうした?」
「……なんでもないよ」
どこか棘のある口調だったが、天崎には月島が拗ねている理由が分からなかった。
いや、今はそんなことよりも、次の爆発を警戒しなければならない。
「月島も今の爆発音、聞いてただろ? けっこう近かったぞ」
「爆発音?」
きょとんとする月島。
その反応は、まるで爆発音自体が聞こえていなかったような……。
「いやいや、今さっきしただろ? ドーン! って物凄い音が!」
「…………?」
それでもなお、月島の反応はパッとしない。
まさか自分の聞き違いだったのか? そう思い始めながらも、天崎は爆発音の発生源であろう方向を窓から眺めた。
すると百メートルほど前方で、砂煙が舞っているのを発見した。
「ほら、見ろよ。あそこで煙が上がってる」
窓際に移動した月島は、天崎と一緒に窓の外を覗く。
最初はまるで間違い探しをするように、外の景色全体を見回していたのだが……天崎が指で示すと、ようやく煙の出所を発見したようだった。
「わっ、ホントだ」
「ちょっと待て。あの方向って、まさか……」
距離はおよそ百メートル。そして天崎の部屋の窓から見える方角。
確証はないが、旧おののき荘跡地……建設途中のおののき荘二号棟がある場所だ。
「悪いけど、一回見てくる」
「わ、私も行っていいかな?」
爆発といっても、火の手が上がっているわけではなさそうだ。危険は少ないと判断した天崎は、月島の同行を認め、早々に部屋を飛び出した。
悪い予感は的中していた。
最初の爆発音からそこそこ時間が経過しているため、舞い上がっていた砂埃はほとんど治まっている。しかしすぐに場所を特定できた天崎と月島は、現場の惨状を目の当たりにして唖然としていた。
建設途中のおののき荘二号棟が、完全倒壊していたのだ。
今日の工事はすでに終わっているのか、もしくは工事自体がなかったのか、近くに作業員の姿はない。もしかしたら倒壊に巻き込まれた可能性もあると一瞬だけ考えたものの、まだ骨組みしかなかったため瓦礫は少なく、とても人が埋まっているようには見えなかった。
「欠陥があった……ってのことなのかな?」
瓦礫を凝視しながら呟く月島の意見に、天崎は首を傾げるほかなかった。
本日は快晴だし、風もない。爆発音から発生した地鳴り以外は、地震も起きてはいないはずだ。自然災害で倒壊したとは考えにくい。
また、ガス爆発やヒューマンエラーと仮定しても疑問が残る。まだガス管が通ってる段階ではないだろうし、近くに重機も見当たらない。おののき荘二号棟が自壊したと考える方が自然だろう。
どのみち、倒壊した理由を考えるのは天崎たちの仕事ではない。
「とりあえず警察と消防に……いや、建設会社に連絡だな。その後は大人に任せよう」
「そうだね」
建設会社の電話番号は、すぐそこの看板に書かれてある。が、二人ともスマホを部屋に置いたままだった。ひとまず部屋に戻り、もう一度ここへきて通報しよう。
そう思って、踵を返そうとした瞬間だった。
ガラリ。と、倒壊したおののき荘の瓦礫が動いた。
「えっ?」
立ち止まった天崎は、音がした場所を凝視する。
どうやら瓦礫が自然に崩れたわけではなく、中から何らかの力によって押し上げられているよう。誰かが下敷きになっているのなら大変だ。早く助けなければ。
だがしかし、天崎の心配と決意はすぐに霧散することになる。
下敷きになっていた人物が、周囲の木材を押し退けて元気一杯に立ち上がったからだ。
「あーーーー、腹減ったでちぃーー!!!」
小柄な少女が、瓦礫の山の上で両手を挙げていた。
これにはさすがの天崎も混乱を禁じ得ない。
瓦礫に人が埋まっていたことも驚きだが、それが作業員ではなく、年端も行かない子供だった。しかも傍目からはまったく気づかないほど完全に埋もれていたのに、周囲の瓦礫をものともせず元気に立ち上がったのだ。
そして何より、その少女の身なりが天崎の目を惹きつけた。
雪のように真っ白な、長い髪。琥珀と見間違う、透き通った瞳。触れれば溶けてしまいそうな、軟らかい肌。膝小僧が見えるくらいの、純白なワンピース。その姿はまるで――。
少女の姿に見惚れていたのは、ほんの一瞬。
今は呆けている場合ではないと、天崎はすぐに正気を取り戻す。
「えっと……大丈夫か? 怪我はないか?」
「んん? お兄さん、ミルミルのことが見えるんでちかぁ?」
腕を組んだ少女が、訝しげに首を傾げた。
その返答と反応を目の当たりにした天崎の脳裏に諦めが過る。
あっ、なんかダメっぽい。経験則からして、たぶん話が通じないパターンだ。
「月島ぁ。おーい、月島!」
「?」
先におののき荘へ足を向けていた月島を呼び止めた。
振り向いた月島が、不思議そうな顔を浮かべて戻ってきた。
「なんか……女の子が下敷きになってたみたいだけど……」
「女の子?」
天崎の隣に並んだ月島が、おののき荘に成り損ねた残骸を凝視した。
しかし――反応はまったく芳しくなかった。
少しだけ敷地内を見回した後、最終的に天崎に視線を戻して首を傾げた。
「どこ?」
「は?」
さすがに言葉を失ってしまった。どこも何も、すぐ目の前だ。
少女と二人の距離は、五メートルも離れていない。しかも瓦礫の真ん中で仁王立ちしているのだ。確かに天崎のへそくらいしか身長はないが、視界に入らないほどではない。現に天崎には見えている。
まさか……幽霊?
とも思ったが、すぐに却下した。霊感に関しては月島の方が強い。
「いや、ほら、すぐそこ! 真っ白な髪で、白いワンピースを着てる女の子がいるだろ!?」
「白い髪……白いワンピース?」
再び視線を瓦礫に戻した月島の目が、徐々に見開かれていった。
そして今この瞬間、突然白い少女が目の前に現れたように驚きを露わにした。
「わっ、本当だ!」
「本当だって、お前……」
こんなに近くにいるのに、月島は認識できていなかったのか?
呆れた目で見つめていると、擁護は白い少女の方から飛んできた。
「ふふん。お兄さん、お姉さんを責めちゃいけないでちよ。ミルミルが視えなかったのは、普通の人間には普通のことなんでちからね」
「普通の人間には普通のこと?」
問い返すも、少女の方から追加の説明はない。
代わりに両手を腰に当て、偉そうな態度で名乗りを上げた。
「ミルミルの名前はミルミル。正真正銘の天使でち。ミルミルは餓死寸前の空腹だから、お兄さんたちはミルミルにご飯を献上するでちよ!」




