第2章 不幸を呼ぶ座敷童
先日と同様、おののき荘の近くの児童公園で月島と待ち合わせすることになった。
月島からは「学校から一緒に帰ればいいのに」という提案を受けたが、天崎は却下した。ただでさえ付き合っていると勘ぐられているのに、一緒に帰宅なんかしたら、根も葉もない噂に拍車をかけるだけだ。月島に迷惑が掛かってしまっては、申し訳が立たない。
公園で合流し、おののき荘へ向けて歩き出したところで、月島が訊ねてきた。
「そういえば、部屋って空いてるんだっけ?」
「空いてるぞ。しかも大家のばっちゃん、いつの間にか二号棟まで造ってたから、満室になる心配はしなくていい」
「二号棟?」
頭の上に疑問符を浮かべるのが見えたが、天崎としても説明しにくかった。
正直、大家から直々に説明された天崎ですら理解に苦しんでいるのが現状だ。もしかしたら友達がそのうち入居するかもしれないと話しただけで、保険のために新しくアパートを建ててしまう大家の行動力。ちょっと意味が分からない。
「まぁ、なんていうか……近くにおののき荘と同じアパートが建つらしい」
「そうなんだ。でも私、天崎さんと同じアパートがいいな……」
「大丈夫大丈夫。まだ二部屋も空いてるから、一ヶ月二ヶ月じゃ埋まんねーよ」
入居希望者が殺到する立地でもないしな。と、天崎は笑った。
会話が途切れたため横見ると、月島は地面をじっと見つめながら俯いていた。しかも何故かほんのり頬を朱に染めて。
「どうしたんだ?」
「なな、なんでもないよ! あ、あれだからね! おののき荘で一人暮らしするって決めたのは、大家さんが良い人そうだからであって、別に天崎さんがいるからとか、そんな理由じゃなくて!!」
「確かにアパート選びする時って、大家の人柄は大事だもんなぁ。まぁ俺もいることだし、困ったことがあったら頼ってくれよ」
「う、うん……」
頷くと、再び俯いて黙り込んでしまった。
その様子を見ていた天崎は、困ったように頭を掻く。月島と出会ってから一ヶ月くらい経ったが、彼女の内気な性格には未だ慣れていない。周りにいる女性が気の強い人たちばかりだからか、時折見せるおっかなびっくりな月島の態度に、どう反応していいのか分からないことがあった。
「あ……それと、この前、天崎さんが話してたことって本当なのかな?」
しかし、こうやって月島の方から話しかけてくるようになったのは、出会った当初に比べて心を開いてくれたからだろう。
「この前の話って?」
「住人のほとんどが人間じゃないって話」
「あぁ……」
そういえば前回の来訪時、ちょこっとだけ話をしたのを思い出した。
あの時は大家に会わせるだけだったので詳しい説明は省いたが、住むとなれば話は別だ。多少は事前情報を与えておくべきだろう。おののき荘の住人は、一癖も二癖もある連中ばかりなのだから。
「本当だよ。まず最初に、この前会った大家のばっちゃんと俺は人間……だ。ばっちゃんは占い師っていう稀有な職業だけど」
人間という単語で言葉が詰まったのは、『完全なる雑種』である自分を人間と分類していいかどうか一瞬だけ迷ったからだ。とはいえ、社会的にも遺伝子的にも人間として普通に生活しているわけだから、とりわけ説明はしないでおいた。
「んで、確か空美さんとは顔だけ合わせたよな? 部屋着同然の恰好で、コンビニ行こうとしてた人」
「うん」
「俺の部屋の隣に住んでるんだけど、その人がサキュバス。名前が有沢空美。仕事はお水……キャバ嬢って言ってたかな」
具体的な仕事内容を聞いたわけではないし、実際に空美の働いてる姿を見たわけでもない。未成年の天崎は、それ以上のことは何も知らなかった。
「サキュバスで……キャバクラの人、か」
呟いた月島が、消沈気味に顔を伏せた。
その態度が示している月島の内心を察知し、天崎は慌てて弁明する。初対面時の第一印象が悪すぎたのだ。
「大丈夫だって。サキュバスっていっても、普通の人間とほとんど変わらないからさ。少し言葉に棘があるけど、基本的には良い人だぞ。俺も世話になってる」
一部を除いて本心だった。
天崎としても、空美からは幾度となく生活の知恵を頂いているし、何かと助けてもらってはいる。ただ棘があるどころか、吐く言葉一つ一つに毒が含まれるのが玉に瑕だが。
「リベリアには会ったんだっけ? 吸血鬼の」
「ううん。会ったのはお姉ちゃん。私はシルエットをぼんやり覚えてるくらいかな」
リベリア本人からも月島と決闘したとは聞いていたが、それ以外で二人が接触したことはないようだった。
「家庭の事情で一ヶ月ちょっと前に入居したのが、そのリベリア=ホームハルトって奴だ。吸血鬼っていっても無害な奴だから、心配しなくてもいい。俺が保証する」
「うん。お姉ちゃんも言ってた。すごくひょうきんな吸血鬼だったって」
「ひょうきんっていうか……ただバカなだけなんだけどな」
最後の一言は月島に聞こえないように呟いた。
あまり自分の口から印象付けてしまうのも良くない。
「後は作家やってる半妖怪の安田清志って奴がいるんだけど……コイツにだけは気をつけろ」
「気をつけるって……怖い人なの?」
「いや、人当たりは悪くない。むしろ初対面だったら好印象だと思う。だからこそヤバい」
「詐欺師、とか?」
「そういうわけでもないんだけどなぁ……」
なんて説明すべきか、困ったものだ。
おののき荘に住むにあたり、一番の懸念事項が奴の存在だ。
つい先日、天崎は安田と話す機会があった。その時、あの性欲妖怪は完全に月島を狙っているような言い草だった。できれば会わせたくない。
チラリと横目で月島を窺うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
まさか襲われる危険があるから気をつけろ、と言えるはずもない。
「とにかく、その安田って奴にはあまり関わらない方がいい。間違っても部屋に上げるなよ」
「大丈夫だよぉ。男の人を部屋に上げたりなんてしないよ」
危機感のない笑みを見せる月島に反して、天崎は余計に心配になった。
安田はぬらりひょんと人間のハーフだ。ぬらりひょんがどうやって他人の家に忍び込むのかは知らないが、万が一にも勝手に入ってこられた時のために、何か対策をしておいた方がいいのかもしれない。
「最後は魔法使い、ってか魔女が一人住んでるんだけど……最近めっきり帰ってこなくなったんだよなぁ、アイツ。そもそも旧おののき荘が倒壊したことも知らないんじゃないか?」
天崎が知る限り、新おののき荘になってから一度も帰ってきていないはずだ。少なくとも、一ヶ月近く顔を合わせていない。
「帰ってこないことが普通なの?」
「そう。どこで何やってるかは俺も知らん。ただふらっと帰ってきたと思ったら、いつの間にかいなくなってて、数ヶ月部屋を空けることもあるくらいだ。実際、俺もそんなに会ったことはないんだよ」
「へー、そうなんだ。なんだか家賃もったいないね」
「それには同意」
月単位で帰ってこないのならば、部屋を借りる意味がないんじゃなかろうか。
「というわけで、全八部屋で計六人。まぁ、実質七人だ、け……ど……」
まるで財布を失くしたことに気づいた時のように、天崎の表情から血の気が失せた。
思い出した。思い出してしまった。というか、なんで忘れていたのだろう。
天崎の部屋にはもう一人、幸運を呼ぶ居候がいるではないか。
「どうしたの?」
「いや……」
狼狽が顔に出てしまっていたようだ。
小学校中学年程度の童女と一緒に暮らしている男子高校生とは、世間的にどう見られるのだろうか。それが妹や親戚ならまだしも、まったくの赤の他人であり、しかも人間ですらない。かといってすべてを説明したところで、理解力は相手に委ねられる。
天崎は動揺を隠せず、手で口元を覆いながら月島を一瞥した。
遊びに来る程度なら、親戚の子供を預かっていると言い訳できるかもしれないが、同じアパートに住むともなれば別だ。円の存在は、決して隠しきれるものではない。
歩きながら話していたので、おののき荘はもうすぐそこだ。
今から引き返すのは後ろめたいことがあると言っているようなものだし、さすがにこんな短時間じゃ上手い言い訳も浮かばない。
天崎は覚悟を決め、包み隠さず話すことにした。
「月島。一つ、言っておかなきゃいけないことがある」
「?」
「俺の部屋には……座敷童が住み着いている」
真剣そのものの口調だった天崎に対して、月島はアホを見たかのようにポカンと口を開けていた。ちょっと悲しい。
「座敷童?」
「そう。小学校三年生くらいの見た目なんだけどな。家主の俺ですら気づかないうちに、いつの間にか部屋に住み着いていたんだ。今は実質そいつと二人で暮らしてるんだけど……驚かないでくれよ?」
「サキュバスとか吸血鬼の後に座敷童って言われても、インパクトに欠けるかな」
「た、確かに……」
友人を紹介するような感覚でサキュバスやら吸血鬼やらの話をしていたものだから、座敷童にだけトーンを落とすのは確かに変だ。月島もあまり深刻に考えていないようだし、取り越し苦労だったかもしれない。
「分かった。天崎さんの部屋には座敷童がいるんだね。今さらそんなことじゃ驚かないよ」
「そう言ってくれると助かる」
月島に理解力があってよかった。と、天崎は安堵した。
そうこう話しているうちにも、おののき荘へと到着した。空き地の真ん中にある人面の窪みを月島は凝視していたが、特にコメントは入れず、二人は二階への階段を上った。
鍵を開け、部屋の中へ。円は普段通り退屈そうに寝転んでいた。
「ただいま」
「おか」
畳の上でクロールしていた円の動きが、ピタリと止まる。
驚きに満ちた視線の先は、天崎の背後だった。
「…………」
「…………」
驚くのも無理はない。友達を連れてくるなんて一言も言っていないし、円と月島は初顔合わせだ。当然の反応と言えよう。
しかし天崎の背後もまた、何故か無言のままだった。
部屋に座敷童がいることを伝えたのは、ついさっきだ。こちらが驚く理由は特にないはず。またいつもの人見知りスキル発動か? と心配になって、天崎は肩越しに振り返った。
玄関先で佇んでいる月島が、目を泳がせていた。
「……座敷童って、女の子だったんだね」
「――――ッ!!?」
しまったああぁぁぁ!! 一番重要な情報を話してなかったああぁぁ!!!
という心の声が顔に出てしまうほどの狼狽っぷりだった。
「で、でも座敷童だもんね。性別なんて関係ないよね。別にやましいことは……ないよね?」
「その優しさが痛い!」
もちろん犯罪めいたことは何一つないのだが、納得する理由をいろいろと考えてくれている月島の善意が心を抉った。
「だれ?」
置いてきぼりになっていた円が、眉を寄せて首を傾げた。
「えっと、俺のクラスメイトの月島だ。今度おののき荘に住むことになったから、今日は間取りを見に来たんだよ。怪しい人じゃないから、警戒しなくていい。で、こっちがさっき話した座敷童。名前は円。不愛想なのは不機嫌とかじゃなくて、普段通りだから気にするな」
相互に紹介した天崎だったが、円の強張った顔を見て訂正しようかと考えた。
……円の奴、なんか機嫌が悪くないか?
「よろしくね、円ちゃん」
初対面の相手に笑顔を向ける月島に対し、天崎は少しだけ驚いた。
人見知りと言っても、子供に対しては普通に接することができるんだな。
しかし、対する円はというと……、
「…………」
顎に梅干しを作って、猜疑心を露わにした目で月島を睨むだけだった。
やっぱり、かなり不機嫌だ。
「私、何か変なことしたかな?」
「さぁ?」
月島が不安げに囁くが、天崎としてもさっぱりだった。
「こら、円。挨拶は?」
「…………よろ」
とだけ言って、そっぽを向いてしまった。どうやら相当ご機嫌斜めらしい。
「……悪いな、月島。不愛想っていっても、普段は挨拶くらいできる奴なんだけど……」
「ううん、大丈夫だから。円ちゃん、お邪魔するね」
月島が礼儀良くお辞儀をするも、円はごろっと寝転がって壁を向いてしまった。
円が不機嫌な理由は不明だが、間取りを見てもらうのに差支えはないだろう。とりあえず月島に上がってもらい、適当に荷物を下ろした。
「間取りっていっても、見ての通り六畳一間の狭い部屋だ。一人暮らしする分には問題ないと思うけど、家具はあんまり置けないと思う」
そう言って、天崎は改めて自分の部屋を見回してみた。
六畳の畳の上には、食卓用のちゃぶ台。壁際にはタンス。その横には教科書用の本棚と小さな引き出し。それだけだ。布団は押し入れだし、勉強はちゃぶ台でできる。
「……自分で言うのもなんだけど、昭和の苦学生以上に個性のない部屋だよな」
「一時的な仮住まいだから、こんなものじゃないかな?」
月島のフォローが今は暖かかった。
その後は炊事場と風呂とトイレを見て回った。本当にただ見ただけなので、所要時間は五分もかからなかった。
「こんなところだな。ザ・下宿って感じの一間だけど、これで家賃一万っていうんだから驚きだよな。しかも新築」
「でも、あんまり繁盛してないみたいだよね」
「そこは俺も不思議に思ってる。立地条件を差し引いても、もうちょっと入居希望者があってもいいはずなんだけどな。不動産屋のリストにも載ってないんじゃないか?」
駅まで徒歩二十分。オフィス街や大学までは遠く、駐車場もないとはいえ、天崎を始めとする住人は普通に生活できている。他に入居希望者がないのは、知られていない以外の理由が思いつかなかった。
月島をちゃぶ台の前に座らせた天崎は、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。
三つのグラスに注ぎ、自分も腰を下ろす。
「あ、ありがとう。そういえば前のおののき荘って、なんでなくなっちゃったんだっけ?」
「吸血鬼に襲撃されたからだよ。……あぁ、吸血鬼っていってもリベリアじゃなくて、アイツの兄の眷属な。そん時は大変だったぜ。床に穴を空けられるわ、屋根が根こそぎ持ち上げられるわ、挙句の果てには瓦礫の山にさせられるわ。なっ、円!」
同意を求めたのだが、円は無反応だった。
のそのそと起き上がり、不機嫌なまま自分のオレンジジュースを一気に飲み干した。
「へ、へー、そんなことがあったんだぁ……」
円からの返答がないと察するやいなや、月島が目を泳がせながら声を上げた。家主としては気を遣わせてしまったようで、少し申し訳なく思った。
と、その時である。
喉を潤そうと、月島が自分のグラスを手に取った。
グラスの端に唇をつけ、傾けた瞬間――オレンジジュースを盛大に溢してしまった。
「ぐぷぅ」
おそらく手首の傾き加減を間違えたのだろう。
中身を全部ブチ撒けるほどの勢いだった。
「だ、大丈夫か?」
友人のドジに笑ってしまったり、畳の心配をするより先に天崎の口から出たのは、月島の身を案じる言葉だった。まるでオレンジジュースで溺れるんじゃないと思わせるほど、月島の溢し方が豪快だったからだ。
「ご、ごめん……ね。大丈夫……」
「タオル持ってくる」
口元からオレンジジュースを垂れ流す月島にタオルを渡し、自分は畳を拭く。
顔や畳は大丈夫そうだが、月島のセーラー服はオレンジ色で染まってしまっていた。
「天崎さん、ごめんね。本当にごめん」
「いいって、気にすんな」
「ちょっと……水道借りてもいいかな?」
「あぁ」
べたべたする口や手を洗いたかったのだろう。
立ち上がった月島は、流し台の蛇口を逆さに向けた。
だが二次災害は即座にやってくる。
上を向いた水道からは、噴水のごとき勢いで水が噴出したのだ。
慌てて水を止めるも、時すでに遅し。蛇口を真上から覗き込んでいた月島は、突然の豪雨に見舞われたように、全身に水を浴びてしまった。
「円!」
一連の不幸の原因をいち早く察知した天崎が、円の名前を叫んだ。
しかし円は頬を膨らせたまま、水浸しになった月島を半眼で睨みつけているだけだ。そして天崎の矛先が自分へ向くやいなや、こそこそと押し入れの中へ引っ込んで行ってしまった。
「ったく、今日のアイツ、どうしたっていうんだよ」
オレンジジュースを溢しただけなら月島のドジで済まされたのかもしれないが、水道管が破裂したような勢いで水が噴出したのは別だ。連続した不幸は、何らかの作為を疑わずにはいられない。この部屋でそれができるのは、円だけだ。
特に否定もしなかったし、円の仕業で間違いないだろう。
「うぅ……天崎さん、ごめんなさい……」
「いいよ。月島のせいじゃないから気にするな。ほら、タオル」
泣き出す寸前のように声を震わす月島を不憫に思った天崎は、とりあえず新しいタオルを渡した。泣きたい気持ちは分かるし、かといって月島のせいじゃない理由を説明するのもちょっと難しい。困ったものだ。
「とりあえず、シャワーでも浴びて来いよ。風邪引くぞ」
「シャ……シャシャシャシャワー!!!???」
「あーっと……」
今のは失言だったなと、天崎は頭を掻きながら目を逸らした。
「えっと、その……大家さんの部屋のシャワーは借りれないかな?」
「そうだな。そうしよう……ってダメだ。確かばっちゃん、葬儀で地元に帰ってるんだった」
昨日の夕方、しばらく帰ってこないと言っていたような気がする。
でも、だからといってこのまま帰らせるのは身体に毒だ。十一月に入ってから急に寒くなってきたし、間違いなく風邪を引いてしまう。
「リベリアはまだ起きる時間帯じゃないし、安田は論外。となると、今いるのは空美さんくらいか……」
一人思案する天崎は、目覚まし時計を一瞥した。
おそらく今の時間だったら起きているはずだ。というか、さっきからちょこちょこ足音が聞こえていたので、出勤前の準備をしているのだろう。
けど、問題は……。
眉間にしわを寄せた天崎は、今度は月島の顔を窺った。
どうやら天崎の独り言は、彼女の耳にも届いていたようだ。
「お隣のサキュバス……有沢さんならいるの?」
「たぶんな。で、事情を説明すればシャワーも貸してくれると思うんだけど……」
空美の部屋でシャワーを借りるなら、天崎は自分の部屋で待機だ。
果たして月島と空美を、一対一で会わせていいものだろうか?
月島の顔は嫌がっているというよりも、死地へ赴く戦士のように表情を強張らせていた。
「えっと……その有沢さんって、悪い人じゃないんだよね?」
「そうだな。面倒見の良いお姉さんって感じだ」
ただ性格は月島と正反対のタイプだ。水と油というよりは、毒と清涼飲料水といった感じだろう。空美は相手を毒で犯すタイプである。
「……分かった、行ってくる。これからお世話になる人を怖がっちゃいけないもんね」
「月島がいいって言うんならいいけど……」
両手の拳で決意を表明した月島の覚悟を、天崎は蔑ろにすることができなかった。
ただ、ほぼ初対面の月島がシャワーを貸してくれと頼みに行ったところで、素直に了承してくれるとは思えない。頼み込むのは天崎だ。
部屋を出た二人は、すぐ隣の部屋へと移動した。
チャイムを押すと、気怠そうな声と共に扉が開けられ……なかった。声がしてから、ゆうに一分近くは待ちぼうけを食らってしまった。
「ああん?」
やっとこさ扉が開いたかと思えば、第一声がチンピラみたいな挨拶だから困る。決意を固めた月島が、天崎の背中で怯えてしまっていた。
「空美さん。起き抜けで悪いんですけど、月島にシャワーを貸してやってくれませんか?」
「…………」
無言のままメンチを切り続ける空美に対し、天崎と月島は酷く狼狽えていた。そのまま挽肉になってしまうんじゃないかと思うほど、空美の眼力は強力だった。
そして三十秒間、二人を嘗め回すように交互に見比べた後、唐突に口を開いた。
「いいよ。入れ」
表情がそのままなので、上機嫌なのか不機嫌なのかも判断しがたい。
怯えに怯えてしまった月島は、心なしか目じりに涙が溜まっているようにも見えた。
「い……行ってきます」
「お、おう……」
まるで注射を怖がる子供のように、月島の覚悟はすでに霧散していた。
天崎としてはどうすることもできず、閉じられた扉をただただ見つめることしかできなかった。空美が月島を悪いように扱うとは思えないが……本当に大丈夫だろうか?
「……っていうか、マジで円はどういうつもりなんだよ」
未だかつて、お客さんに対して不幸を与えたことなど一度もなかった。にもかかわらず、月島の顔を見るやいなや不機嫌になり、挙句の果てには水まで被せやがる。一度、ガツンと言ってやらなきゃいけないかもしれない。
自分の部屋に戻った天崎は、水浸しになっている炊事場は後回しにして、押し入れの前へと腰を下ろした。
「おい、円? どうしたんだ?」
「…………」
返事はない。だが、身じろぎをする音が聞こえた。
円程度の腕力が相手なら、無理やり襖を開けることもできるが……。
「…………」
頭を掻きながらため息を吐いた天崎は、襖を開けようとはしなかった。
それをやっても意味がないような気がする。
「まぁ、その、なんだ。気に入らないことがあったんなら別にいい。俺が何を言っても、無視すればいいさ。けど月島には謝っておけ。約束だからな」
「…………」
やっぱり返事はない。ただ押し入れの奥から、深い深い吐息が聞こえてきた。
それを了承の意と勝手に受け取った天崎は、水浸しになった床を片付けるため、渋々立ち上がったのだった。




