プロローグ
数日分の食材が入ったビニール袋を両手にぶら下げてスーパーから出てきた天崎は、道路端の電柱に目を向けて顔をしかめた。
特に何かあるわけではない。犬のマーキングの跡も、アスファルトを突き破るほど根性のある雑草も。普通で普遍的な、薄汚れたコンクリートの柱だ。
何もない。何もないはずなのに……。
そこには間違いなく、何かが……いる。
「こっちが気づいたことを悟られなければ、特に害はない……だったな」
独り言ちた天崎は、不自然にならないように電柱から視線を剥がした。
そのまま素知らぬ顔で前を通り過ぎる。電柱裏に潜んでいた何かが追ってくる様子はない。どうやら天崎が気づいたことに、あちらさんも感づいてはいないようだった。
曲がり角を曲がったところで、天崎は背後を確認し、安堵のため息を吐いた。
「自己責任とはいえ、これはちょっと辛いものがあるな」
電柱の裏に潜んでいたのが何だったのか、天崎は知らないし知りたくもなかった。
ただアレは間違いなく、この世の者ではない。おそらく地縛霊か何かだろう。
本来、天崎には霊を視る能力……霊感は備わっていない。しかし先日、友人の魂をあの世から連れ戻すべく、天崎は幽体離脱をして三途の川まで行った。その際、魂に何らかの影響を受けたため、現世で彷徨う魂……つまり幽霊が見えるようになってしまったのだ。
それ以降、今まで二度ほど地縛霊に襲われたことがあった。
一度目は完全に取り憑かれ、お祓いを受けるまでに至ってしまった。念の弱い霊だったためすぐに除霊できたものの、そこはやはり現代社会。先立つものがなければお祓いも受けられない。一人暮らしの天崎にとっては、手痛い出費となった。
二度目は全力で逃げた。幽霊も追いつけない俺の脚力スゲーと、調子に乗ってしまったことが運の尽き。その時も今みたいな買い物帰りだったのだが、おののき荘に帰ってビニール袋の中を確認したところ、なんと卵が全部割れていたのだ。翌日、「だし巻き卵がないじゃないですか」とリベリアに小言を言われたことはどうでもいい。
そんな過去の事例もあり、幽霊を発見したらなるべく無視し、自分が気づいたことを悟らせないようにすればいいと学習した。
「もうあと数日の辛抱だ」
寺の住職によれば、もともと霊感がないのなら徐々にその能力は弱まっていくらしい。個人差はあるものの、完全になくなるまでおよそ数週間。もちろん、その間に再び幽体離脱しなければの話だが。
今回はちゃんと食材を守り抜いた天崎は、早々におののき荘へと足を向けた。
もう百メートルくらいで到着だ。というところで、天崎は幽霊を発見した時よりも怪訝な目つきで横を睨んだ。いや、もしかしたらそれは、ある意味幽霊なのかもしれない。
「おののき荘……だよな?」
天崎が住んでいるおののき荘から百メートルほど離れたところに、空き地がある。そこは元々、旧おののき荘が建っていた場所だ。
先月の吸血鬼襲来事件の時に、旧おののき荘は全壊してしまった。今となっては瓦礫も撤去され、更地になっていたはずなのだが……そこに建築中のアパートらしき姿があるのだ。
もちろん、天崎も知らなかったわけではない。前々から何か建ててるなぁくらいの認識はしていたのだが、全体像がある程度把握できるようになった今、なんとなくこのアパートに見覚えがあった。
大きさ、部屋数、階段の位置。
どう見ても旧おののき荘と瓜二つであり、現おののき荘とまったく同じだった。
「おや、東ちゃん。買い物からお帰りかね?」
「こんちわ、ばっちゃん」
偶然にも、散歩をしていたおののき荘の大家と出くわした。
ちょうど良かったと言わんばかりに、さっそく訊ねてみる。
「で、ばっちゃん。これナニ?」
「おののき荘だよ」
「?」
あまりにも当然のように答えるので、天崎も余計に混乱してしまう。
大家の頭越しに、百メートル前方へと視線を移してみる。
天崎の下宿先である、現おののき荘の屋根が見えた。
「正確に言うなら、おののき荘二号棟ってところかね」
「に、二号棟!?」
「もっと正確なら三号棟かね?」
「この際、数字はどうでもいいよ」
もう一度、建設途中のアパートを眺めてみた。
確かに、どっからどう見てもおののき荘だ。
「え、なんで?」
唖然としすぎて質問が雑になってしまったが、大家はちゃんと天崎の意図を汲み取ってくれたようだ。
「この前、東ちゃんが連れてきた女の子が、もしかしたら入居するかもしれないって言ってきただろう? だいぶ部屋が埋まってきたから、また新しく建てることにしたのさ。もしその女の子が入居する時に、全部埋まってても可哀想じゃないか」
「かもしれないってだけで、決定事項じゃなかったんだけど……。いや、でも、それにしても……えぇ……」
さすがに月島のためだけ、というわけではないのだろうが、大家の財力と実行力には舌を巻いてしまった。占い師という稀有な職業を抜きにしても、おののき荘のすごさを改めて実感した天崎だった。
そういえばと、この際だから訊いてみる。
「前々から不思議に思ってたんだけど、なんでおののき荘ってまったく同じ間取りなの? 扉が向いてる方向も同じだよな」
「特に大きな意味はないよ。昔おののき荘を建てる時にね、知り合いの風水師に助言してもらったんだよ。だからまあ、おののき荘の間取りはアイツの忘れ形見みたいなものになるのかもしれないねぇ」
「…………」
忘れ形見、か。
以前、知り合いの霊能力者を紹介してくれと言った時も、その多くがすでに亡くなっていると言っていた。大家も歳が歳だし、その知り合いの風水師とやらも老齢だったに違いない。しかも大家が他人を『アイツ』と呼んでいるのを初めて聞いた天崎には、相当親しい間柄だったということが読み取れた。
ふと、感傷に浸っていた大家の顔が曇った。
その表情の変化を勘繰った天崎は、少しだけ心配になる。
「ばっちゃん、どうかしたのか?」
「いやね。一つだけ、どうしても思い出せないことがあってさ」
「思い出せないこと?」
「間取りとかその他は、アイツや建築士の助言をもらって決めたんだけど、どうしてこの場所におののき荘を建てたんだっけ、と思って」
「地元だからじゃないの?」
「あたしゃの地元はここじゃないよ」
「へー、そうなんだ」
地元以外でアパートを経営しようと思ったら、自分だったらどんな場所を選ぶだろうかと考えてみる。
土地が安いところ。駅や大学から近いところ。立地条件が良いところ。
…………。
特に思い入れのない土地ならば、別に理由なんていくらでもあるんじゃないかと思う。
「もう五十年も前のことだから、全然覚えとらんわい」
「旧おののき荘って、築五十年だったんだ」
豪快に笑う大家とは別に、天崎は旧おののき荘のボロさを思い出していた。
「そんじゃ、その月島さんとやらには、いつでも入居可能って言っておいてな。……あ、それとしばらくの間、あたしゃ家を空けるから、よろしくね」
「どっか行くの?」
「法事さね。実家に住む兄が亡くなったって、さっき甥から電話があったからね」
「あぁ……」
天崎の中で、少しだけ引っかかっていた疑問が解消した。
夕刻のこの時間帯、大家が散歩に出るのは珍しいと思っていたところだ。けれども、さっき兄の訃報があったとなれば……気分を変えたい理由も分からなくはなかった。
「それじゃ、ね」
「あぁ、分かった」
踵を返して歩き出す大家の背中を、天崎はじっと見送る。
皴の刻まれた大家の笑顔はいつも通り朗らかだったが、毎日のように顔を合わせている天崎には、どこか寂しげな面影が残っているようにも見えた。




