その2 とある座敷童の一日
「んじゃ、いってきます」
「いってら」
午前七時半。学校へ行く家主を見送る。
そのまま特に何をするでもなく、座敷童の円は部屋の中でごろごろし始めた。
午前八時。いいかげん転がることに飽きた円は、今は自分の縄張りと化している押し入れの中から、暇つぶしの道具を取り出した。何百回と読んだ絵本に目を通したり、自由帳に落書きしたり。物の少ない天崎の部屋だが、暇つぶしの方法はたくさんあった。
午前九時半。お日様がいい具合の高さまで昇ってきたので、日向ぼっこがてら、おののき荘の敷地内にある空きスペースへと出る。先日できた顔型の窪みを一通り観察した後、敷地の端まで移動した。
狙うはアリの行列だ。巣穴から、どこへともなく伸びている黒い線を、じっと、じぃーっと眺めていた。
午前十時。敷地内の家庭菜園に水をやりに来た大家と出会った。
「おや、円ちゃん。おはよう」
「おは」
あいさつを交わした後は、再びアリの観察に戻ってしまった。
水やりを終えたタイミングで、大家が円に声を掛けた。
「そうだ、円ちゃん。おはぎ作ったから食べに来んかい?」
「たべる!」
目を輝かせた円は、そのまま大家の部屋へとお邪魔した。
正午。おはぎをご馳走になり、大家とお手玉で遊んだ円が天崎の部屋へと戻ってきた。炊飯器からご飯を、鍋から味噌汁を拝借し、朝食の残りを添えて、質素なお昼ご飯の完成だ。
午後零時半。食べ終えた食器をシンクの中へ放り込んだ後は、お昼寝タイムだ。
自分のテリトリーである押し入れへと潜り込み、襖は開けたままで眠りに落ちた。
午後二時。時間を計ったかのような正確さで、円は目を覚ます。
洗面台で顔を洗った後、円は意気揚々と外へと飛び出した。
向かう先は、近所の児童公園だ。この時間帯、小学校低学年の児童はすでに授業を終え、公園に集まることが多い。
「あ、まどか姫だ!」
「まどか姫が来た!」
円が公園へと到着すると、男の子も女の子もかまわず嬉しそうな声を上げた。
そして何故か円は、まるで重役が出勤するかの如く、堂々とした足取りで児童たちの輪の中へ入っていく。
「まどか姫ちゃん。砂場で一緒に遊ぼうよ!」
女の子の誘いに、円は黙って頷いた。
女の子が砂の山にトンネルを掘っている間……円は立派なお城を建築していた。
「まどか姫ちゃん、すごい!」
円は泥だらけの指で、得意げに鼻の下をこすった。
「まどか姫! 靴飛ばししようぜ!」
男の子の誘いに、円は言葉もなく了承した。
男の子がブランコで勢いをつけている隣で……円はひと漕ぎで草履を公園の端まで飛ばした。
「まどか姫スゲー!」
円は無表情のままガッツポーズを披露した。
その他にも、うんていでは余裕の表情で最後まで渡ったり、おままごとでは一人何役もの演技をしたり、缶蹴りでは無類の強さを発揮した。
そんななんでもできる円に付けられた異名が、『公園の女王 まどか姫』である。
「まどか姫! ジャングルジムで勝負しようぜ! 先にてっぺんに登った方が勝ちな!」
勝負を挑んできた男の子に、円は無言で受けて立った。
よーいどん! で、お互い反対側からジャングルジムを登り始める。小柄な円は鉄の棒の間をすいすいと通り抜けられるが、比較的体格の大きい男の子は、身体がつっかえてあまり進むことができない。
そうこうしている間にも、円はあっという間にてっぺんに到着してしまった。
そして自らがナンバーワンとでも言いたげに、人差し指を天へと掲げる。
「くそう、いつになったらまどか姫に勝てるんだ!」
すでに負けは確定しているのだが、それでも男の子はジャングルジムを登り続けた。
と、その時である。
焦っていたためか、男の子は頂上付近で手を滑らせてしまった。両手は鉄の棒を掴むことができず、後方へとバランスを崩す。そのまま男の子は、頭から地面へ真っ逆さまに落ちてしまった。
「あっくん!」
男の子の友達が、何人か駆け寄ってくる。
衝突する際、けっこう嫌な音がした。そうでなくとも、ジャングルジムの高さは三メートル弱はある。たとえ大人でも、打ちどころが悪ければ最悪死ねる高さだ。
なのだが――。
「痛った……。肘を思いっきり打っちゃった」
「あ、本当だ! 止血しなきゃ!」
男の子の身体には特に異常はなく、肘を少し擦りむいた程度だった。
ジャングルジムの頂上で男の子の無事を確認した円は、安心したように息を吐いた後、再び天に向けて人差し指を立てた。
男の子が特に大事に至らなかった理由。それは、円が自らの能力を行使したから。
一時的にジャングルジムを閉鎖的な空間に見立てて、男の子の幸運の値をブーストさせたのだ。故に大怪我をすることはなく、肘を擦りむいた程度で済んだのである。その気になれば無傷で助けることもできたのだが、そこはちょっと痛い授業料ということで。
午後四時。陽が沈むにはまだ早いが、小学校低学年の子供達はすでに帰宅する時間だった。友達と家へ向かう子供もいれば、親が迎えに来ている子もいる。
「まどか姫ちゃーん。ばいばーい!」
各々の帰路に立つ友達に、円もまた大きく手を振って応えた。
さて、そろそろ円も家へ帰らねばならない。家主が帰宅する前に家へ戻らねば、二度とその家に入ることができなくなるのだから。
と、公園を出る途中で、円は不意に立ち止まった。
視線の先は、仲睦まじく歩く母親と娘だ。
円は自分の過去を知らない。いつ、どこで、誰から生まれたのかも分からない。気づいたらこの世に生を受けており、座敷童としての責務を果たしていた。
だから――母親と一緒に買い物に出かけたことなど、一度もなかった。
「…………」
勇んだ足取りは弱くなり、心なしか表情も沈んでいた。
羨ましくはある。が、寂しい訳ではない。ただ、絶対に手に入らないものを望んでしまうのは、それはそれで辛いものがあった。
午後四時半。おののき荘に到着する。
天崎の部屋へ戻って五分後、家主が帰宅した。
「おか」
「ただいま」
「お腹すいた」
「……お前はそればっかりだな。もう少し待ってろよ」
いつものやり取りがあり、天崎は着替え始める。
夕飯を作る準備が整い、冷蔵庫を開けたところで、彼は声を上げた。
「うげっ。しまった、忘れてた。そういえば冷蔵庫の中、空だったんだ。悪い、今から買い物してくるから、今日の夕飯はちょっと遅くなる」
短く謝ると、天崎は財布を持って慌てて出て行こうとする。
ふと、円が天崎のシャツをつまんだ。
「いっしょに行く」
「なんだ、珍しいな」
「あいす」
「……そうだったな」
完璧に忘れてた。と言いたげに、天崎は視線を泳がせた。
少し前、アイスを買ってやる約束をしたんだったっけ。
「分かったよ。買ってやる。一緒に行こう」
「わーい」
表情を変えずに喜んだ円は、天崎と並んでスーパーへと向かった。
道を歩いている途中で軽く手を挙げると、天崎が自然と手を繋いでくれた。
俯いた顔が綻んでいるのを、円の家主はまだ知らない。