第12章 三途の川の戦い
「まさか……ここまで追ってくるとは思わなかったよ」
花畑に降り立った天崎を迎えたのは、驚きを露わにした女の子の声だった。
一面に広がる白い花。桃色と蒼色を混ぜたような、不透明な空。視界を霞ませる黄色い霧。抽象画を具現化したような野原で、その声の主は女の子を抱えて立っていた。
「お前が、月島……裕子なのか?」
「その通り。転校初日と、河原で遊んだ時に洋子に入っていたのは私だ」
記憶にある月島裕子の顔とは、少しだけ違っていた。
あの時は洋子の身体を借りて、裕子が表情を作っていたからだろう。同じ狐顔ではあるものの、今天崎が対面している女の子の顔は、前に見たよりも凛々しかった。
だけども……それが月島洋子の姉妹であることは、すぐに分かった。
天崎は、裕子が抱えている女の子に視線を移して表情を引き締める。
どうやら洋子の魂は、完全に気を失っているようだった。
「三途の川まで追ってきて、君は何をするんだい? こっちとしては、もう君と遊ぶつもりはないんだけど」
「月島洋子の魂を連れ戻しに来た」
はっきりと宣言する天崎に対し、裕子は鼻で笑った。
「はは、できることなら私だってそうしているさ。でも残念ながら、もう無理。遅すぎるよ。肝心の洋子は気絶しちゃってるしね」
「遅くはないだろ。まだ間に合う。お前が月島をこっちに渡せば……」
「だから無理なんだってば。……そっか。ここ三途の川だし、実際に見てもらった方が早いのかな?」
「?」
自分で納得した裕子が、眠っている妹をその場に寝かせて三歩引き下がった。
そして天崎は目の当たりにする。
洋子の腕が、裕子の身体を雁字搦めにしている光景を。
「視えるだろ? 私の意思じゃ、この拘束は解けそうにない」
「これは――つまりお前が現世に留まりたいから月島に絡みついてるんじゃなくて、月島がお前を離そうとしていないってことなのか?」
「そうだよ。お母さんから聞いてなかったのかい?」
聞いていない。というよりも、おそらく月島母は知らなかったのだろう。
彼女は姉妹の魂が複雑に絡み合っていると言った。けど天崎が視る限り、それは大きく認識が異なっている。妹の魂が、姉を逃がさないように覆いつくしているのだ。
「だから諦めてよ。私の魂の寿命を延ばすことなんてできないし、洋子を説得することもできない。生きる術は八方塞がりだ。だったら……一緒に死ぬしかないじゃないか」
「でも……」
反論しようとするが、言葉が続かない。具体的な対策案が見つからない。
本当に……何もできないのか? やっぱり自分は無力だったのか?
俺は、月島を助けることができないのか?
考えを巡らせる。この短時間で解決策を見つけることは……できない。
「あ、そうだ。いいこと思いついた」
「?」
天崎がじっとしたまま佇んでいると、裕子が嬉しそうに両手を合わせた。
そして悪戯をする子供のような悪い笑みを浮かべて、ゆっくりと近づいてくる。
「よかったら、天崎君も一緒にあの世へ逝こうよ」
「は?」
「洋子、天崎君に惚れてたみたいだよ。姉としても妹の恋路は応援してあげたいし、だったら三人仲良くあの世へ逝って、幸せに暮らそうよ」
「何を馬鹿なこと言って……ん?」
近寄ってくる裕子から距離を取ろうと身じろぎするが、身体が上手く動かなかった。
まるで底なし沼に嵌ったような感覚だ。
「魂だけで活動するのは、これが初めてなんだろ? だったら自由に動けるわけないさ。私だって普通に歩けるようになるまで、一ヶ月はかかったもん。君も慣れるまで、もう少し時間が必要だよ。……ん? ちょっと待って。じゃあ君はどうやってここまで来たんだい?」
ふと、裕子の視線が天崎の手に移った。
握られている折れた日本刀の刀身を見て、すべて合点がいったようだった。
「なるほど。私の魂の一部だもんね、それ」
嬉しそうに言って、天崎の手から刀身を取り上げた。
すると突然、日本刀の柄の部分が現れる。瞬きが終わる頃には、完成形が裕子の手の中にあった。
二度ほど刀を振った裕子が、天崎の前で上段に構える。
反射的に防御姿勢を取ろうとするものの、腕が上がらない。
ただ裕子は天崎を斬ろうとしたわけではないようだった。
「斬らないよ。君は斬らない。洋子の大事な伴侶を傷つけはしないさ。斬るのは、こっちだ」
背後に回り込む裕子。
素早く動くことのできない天崎は、歯を食いしばりながらその行動を見守るのみ。
今さら気づいたが、自分の腰の辺りから白い紐のような物が出ていた。それは後方へ永延と伸びている。
「まったく。三途の川へ来るのに、こんな場違いなもの引っ提げちゃって」
「それは……」
問うてはみたものの、その紐がなんなのかすぐに思い至った。
安藤が渡してきた、現世に帰るための道しるべだ。
裕子は今、それを日本刀で切断しようとしている。
「やめてくれ。それを斬られると、帰れなくなる」
「帰れなくなる? いいや、違うさ。これは帰るための紐じゃない。川の向こうに逝かないためのものなのさ」
「川の向こうに、逝かないため?」
「現世へ帰るだけなら、後ろをまっすぐ歩いていけば自然と戻ることができるよ。肉体が残っていればね。でも、この紐がなければ帰りたくなくなるんだ。いや、川を渡りたくなると言った方が正しいのかな? ま、どっちでもいいや。斬ってみれば分かる」
「おい!」
制止の呼び声に聞く耳を持たぬまま、裕子は日本刀を振り上げる。
そして――音もなく帰りの道しるべが切断さされてしまった。
わずかに前方へとつんのめった天崎が、驚愕の表情を浮かべて無理やり振り向く。紐が消失したわけではないが、完全に分断されてしまった。
「さぁ、一緒にあの世へ逝こう。きっと洋子も喜ぶ」
馬鹿を言え、ふざけんじゃない。誰があの世へ逝くものか。
強い意志を持って、断固拒否する。何があっても、前へ歩き出してはダメだ。
……あれ? なんで歩いちゃダメなんだっけ?
疑問が浮かぶ頃には、すでに一歩一歩と足が進んでいた。
そもそも、俺は何でこんなところに来たんだ?
っていうか、ここはどこだ?
どうやって来たんだっけ?
ん、あれ? 俺って誰だ?
頭の中が空っぽになった。必死に思い出そうとするが、疑問の糸は解答に結びつかない。思考能力がすべてシャットダウンし、ただ快楽を求める亡霊へと成り下がる。残った理性的な行動目的は一つだけ。
もう、どうでもいいや。
虚無だけが、天崎の心のすべてを支配していた。
そのままゆっくりと前進する。夢遊病者のようにおぼつかない足取りで、目的もなく、目標もなく、引っ張られる力に依存する。流れに身を委ねることだけが、今の生きがいだった。
やがて地面が緩やかな下り坂になった。
その先は川だ。物理的な距離は分からない。けれども対岸が見える距離。
「川を渡れば、二度と戻ってこれないよ」
背後で誰かが何かを言ったが、別にどうでもよかった。
戻るつもりはない。戻りたくない。俺は川を渡って楽になりたい。
あ、川の対岸に誰かいる。手を振っている。見知った顔が、手をこまねいている。
おばあちゃんだ。大好きだったおばあちゃんが、すぐそこにいる。
会いたかった。久しぶり。俺も今そこへ行くよ。
じっと対岸を見つめながら、天崎の足が川の端を踏んだ。
そして――腰の辺りが後ろへ引っ張られるのと同時に、天崎は目を醒ました。
「こらこら、東四郎はまだそっちへ逝くべきじゃないだろ?」
「誰だっ!?」
裕子の叫び声。しかしその前の穏やかな囁きは、聞き覚えのない声だった。
天崎は慌てて振り返る。背後で老婆が座り込んでいた。
「切れた紐は、もう一度結んでやればいいんだよ。こうやってね」
老婆の手元では、切断されたはずの紐が固結びになった状態で繋がっていた。
どこからともなく現れた彼女が、紐を結んだのだ。
「どっこいしょ」
腰を庇うようにして立ち上がった老婆は、天崎の方へ正面を向ける。
それは見知った顔であり、三年も前に永遠の別れを告げた人物だった。
「おばあ……ちゃん?」
「久しぶりだね、東四郎や」
穏やかに笑う祖母。記憶の中に残る彼女の顔と、皴の数まで一緒のような気がした。
感動の再会なのだが、生憎天崎は身体を自由に動かすことができない。かといって嬉しさのあまり大泣きするほど子供でもない。懐かしい顔に対面した天崎は、涙腺を緩ませながら「久しぶり」とだけ返した。
いや……いやいやいや。
少し冷静になって考えれば、事のおかしさには十分に気づけた。
「ちょっと待った。じゃあ三途の川の対岸にいるおばあちゃんは!?」
「それは東四郎の記憶が生み出した幻だよ。肉体を失ったばかりの魂ならともかく、川の対岸に死人が留まってることなんかありゃしない。おばあちゃんは三年も前に死んじゃったわけだしね」
「ってことは、ここにいるおばあちゃんは本物!?」
「本物って言うのも、ちょっと語弊があるんだけどねぇ」
祖母が困ったように空を見上げた。
彼女も言っているように、死してすぐの魂ならば、現世や三途の川に留まることもできなくはない。しかし祖母は死んでから、すでに三年も経過しているのだ。月島裕子のような例外ならともかく、決して残留を維持していられる年月ではなかった。
「おばあちゃんはね、魂の残滓みたいなものなんだよ。むしろ概念になりかけているのかな。おばあちゃんの魂の本体は、すでに成仏してあの世に逝ってるのさ」
「そんなことが……できるの?」
「誰でもできるよ。それに言ったじゃないか。もう昔のことだから、東四郎は覚えていないのかな?」
ご先祖ざまと一緒に、東四郎を見守ってあげるからね。
覚えている。忘れるわけがない。
でも、まさか言葉通り、ずっと傍にいてくれてただなんて……。
あまりの嬉しさに、我慢していた涙が頬を伝った。
「東四郎はいつまで経っても泣き虫だねぇ」
「泣かせた本人が言わないでよ」
どうやら軽口を叩けるくらいには成長したようだ。
ふと、視界の端で月島裕子が動いた。
「……なるほど、守護霊というやつか」
日本刀を手にしたまま、半眼でこちらを睨んでいる。
年の功なのか、天崎の祖母は怯んだ様子もなく飄々と言い返した。
「そういうことになるのかねぇ。ま、それ以外の言葉が浮かばないけど」
「これで合点がいった。天崎君からは尋常じゃないほど強い魂の波動を感じていたんだけど、実は天崎君本人じゃなくて、貴女だったんだな?」
「わたしだけじゃないけどね」
おそらく祖母だけではなく、先祖代々の守護霊がついている。
『完全なる雑種』である天崎は、二人の会話からそう悟った。
「くっくっくっく」
裕子が喉を鳴らして笑い出す。
まるでくだらない喜劇を観ているような、声を押し殺した笑いだった。
「私の最後は吸血鬼に捧げたと思っていたけど、まさかこんな所で素晴らしい相手に出会えるとは思わなかった。死に逝く者の最後の願いだ。おばあさん、私と遊んでくれないか?」
「はぁ!? 月島、お前何言って……」
唖然とする天崎を遮って、祖母が前に出た。
曲がった腰を伸ばしながら、天崎と裕子を交互に見比べる。
「こんな老いぼれと遊んでも楽しくないよ。東四郎、相手しておやり」
「えっ、俺!?」
「いい機会だからね。『完全なる雑種』の血の使い方を少しだけ教えてあげる」
未だ不自由な身体を無理やり動かし、天崎は裕子と正面から向き合った。
にしても、血の使い方を教えてあげる? 大まかな基本や応用は、中学の頃に父親からレクチャーしてもらった。普通の人間である祖母が、『完全なる雑種』である父親以上に血の使い方を知っているとは思えないのだが……。
「あの子も把握してなかった種族があるだろ? ほら、先日おののき荘に住むことになった金髪の女の子の」
「もしかして吸血鬼?」
「そうそう。せっかくだから、吸血鬼の力を思う存分に発揮してみなさいな」
「……いや、それはできないんだ」
天崎の中にある吸血鬼の血統には、ヴラド三世の意識が植え付けられている。そのため不用意に覚醒させてしまった場合、ヴラド三世に肉体を乗っ取られてしまうのだ。吸血鬼とのいざこざがあった、先日の事件で判明したことだった。
その事実は祖母も知っているはずなのに、さも問題ないと言わんばかりに頷いた。
「大丈夫。偉い吸血鬼の意識は、あくまでも肉体の遺伝子に紐づいてるだけだからね。魂だけになった今の東四郎の中にあるわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。それに東四郎が強い意思を持ってさえいれば、そう易々と身体が奪われることはないさ。吸血鬼の血統を覚醒させた上で、意識を失うようなことがない限りね」
確かにあの時、多少は抗えたような記憶がある。
リベリアの兄に瀕死にさせられたから容易に乗っ取られ、その後わずかでも回復したから少しだけ自由を奪い返せた、というわけか。
「一回、おばあちゃんを信じてみ?」
「……分かった」
元より疑うつもりはない。
待ちくたびれている裕子を睨みつけたまま、天崎は自らの人差し指を噛み切った。
「『吸血の時間』」
己の血を啜りながら、吸血鬼の血統を意識する。
すると、天崎の身体に変化が現れた。
瞳孔が縦に割れ、犬歯が伸びる。そして背中からコウモリのような翼が生えた。
昨日、河川敷で裕子と遊んだ時のような中途半端な覚醒ではない。完全な吸血鬼化だ。
「すごい!」
天崎の身に起こった変化を目の当たりにした裕子は、歓喜の声を上げた。
目を輝かせ、無邪気な笑顔を浮かべている様は、まるで子供のよう。
「吸血鬼になっちゃうなんて、天崎君って本当に人間なのかい?」
「……俺は人間だよ」
そして意識もまた、天崎東四郎のままだった。今のところ、ヴラド三世の意思らしい意思は微塵にも感じられない。
一通り天崎の変身を好奇の目で観察した裕子は、最終的に大空を仰いだ。
「あー、可笑しい。可笑しすぎる。私の人生、なんで死んだ後の方が充実してるんだろね?」
「知らねえよ」
吐き捨てるように答えた、刹那――、
裕子の身体が消えた。
「速ッ!!」
自然と狼狽が声に出てしまうも、しっかりと目では追えていた。
一足飛びで距離を詰めた裕子が、瞬く間に天崎の懐まで入り込んでいたのだ。
水平に薙ぎ払われた刀が天崎に迫る。
未だ魂での活動に慣れていない天崎には、為す術がなかった。
「がッ――」
刎ね飛ばされた首が宙を舞った。
空と地面がぐるぐると入れ替わる視界の中で、天崎は考える。
えっ……俺、死んだ!?
「大丈夫だよ、東四郎。ここは魂だけの世界。精神力が物を言う環境なんだよ。自分の意思を強く持てば、すぐに元通りさ」
耳元で祖母の声が聞こえた。
首を斬られながらも、天崎は反射的に後方へと跳び退く。戦う意思を失っていないためか、気づけば頭部が復元されていた。
「ほら、少し動けただろ? 自分ができると思ったらできる。傷だって治ると思えば治る。肉体じゃなくて、精神で制御するのさ。そうすれば、自由に動けるようになるよ」
「なるほどな」
裕子のスピードが河川敷の時の比じゃないのは、そのためか。
元々人間だった彼女が度を越えた速さで動けるのも、精神力が並ではないからなのだろう。
ならば短期決戦だ。相手が負けを認めるまで攻め続けるのみ。
先手必勝。天崎は拳を握って殴りかかる。
対する裕子は日本刀の刃で受けた。結果、天崎の腕は豆腐でも切るかのように両断されてしまう。
「あれま」
驚いたのは天崎の祖母だった。
お互いの獲物が素手と刃物だから、というのは関係ない。ここは魂の世界。最終的に精神力の強い方が勝つ。
「吸血鬼が襲い掛かってきたら、普通はビビっちゃうと思うんだけどねぇ。お嬢ちゃんのメンタルは化け物級かい?」
自分の孫が輪切りにされている光景を眺めながら、祖母は感心していた。
「あはははは! 楽しい、楽しいよ! こんなに身体が軽いのは初めてだ!」
興奮が最骨頂に達した裕子は、人生最後の遊び相手を容赦なく斬り刻んだ。
距離を取ってもすぐに詰められ、防御をしても関係なく真っ二つにされる。
痛みはない。身体はすぐに再生する。しかし自分の魂をバラバラにされる感覚は、あまり気分の良いものではなかった。
「どうすりゃいいんだ!」
ほぼ無防備に等しい天崎が嘆いた。
ただ刀を振り回しているだけなのは、河川敷の時と同じ。技術もへったくれもない。お互いに肉体があり、なおかつ天崎に殺す気があれば二秒で決着がついていたはずなのだが……。
「さあさあさあ、早く反撃してきなよ天崎君! 吸血鬼の力はこんなものじゃないだろ!?」
「んなこと言われたって……」
怪我や死への恐怖もないため、天崎の方も刺し違える覚悟で何度も拳を放っている。だが裕子は反撃と認識していないようだ。己の身体が崩れようとも、攻めて攻めて攻めまくるのみ。
「東四郎や。もう身体は十分に動かせるだろ? なら本気を出してやりな」
囁く祖母の声に、天崎は応戦しながら落胆した。
「本気なら最初から出してるっての!」
「いんや、出してないね。何より大切なのは、絶対に勝つって気持ちなんだから」
「…………」
絶対に勝つ、か。と、天崎は祖母の言葉を心で受け止める。
もし、このまま裕子に負けてしまったら? 約束事をしたわけではないが、やはり月島姉妹と一緒にあの世へ連れて行かれるのだろうか。そうなったら自分は本当に死ぬ。死んだら悲しむ奴らがいる。知り合いを悲しませるのはイヤだ。
そして何より――。
無理やり距離を取った天崎が、右手の拳を見下ろした。
相手の顔つきが変わったためか、裕子は少しだけ怪訝な表情を見せる。
「何をするつもりだい、天崎君!」
それでも裕子の足は止まらない。中段に構えた日本刀の切っ先を天崎に向け、突進する。
「俺は……」
対する天崎は、正面から受けた。
迫り来る日本刀に物怖じすることなく、右腕を振り上げて前へと進む。
「俺は何としてでも月島を救う!!」
「――ッ!?」
裕子の刺突が天崎の喉元を貫き――、
天崎の掌底が裕子の頭を粉々に砕いた。
バランスを崩した裕子は地面に大の字に倒れ、天崎もその場で片膝をついた。
双方痛み分け。だが天崎にとっては転機となる一撃だった。
初めてダメージらしいダメージを与えられたのだ。天崎の精神力が裕子を上回ったという、何よりの証明である。
だが、ここでようやくスタートラインなのも事実。すでに何十回と斬られている天崎と同様に、裕子もまた何度も立ち上がってくるだろう。
反撃に備え、天崎は早々に身構えたのだが――、
頭部を復元させた裕子が、再び刀を構えることはなかった。
「参った。降参だよ」
「……え?」
あまりに唐突な敗北宣言に、天崎は呆気に取られてしまう。
潔すぎて、耳を疑ってしまったくらいだ。
「急にどうしたんだ?」
「元々、私の魂はボロボロだったんだ。それを精神力でカバーして動いてただけ。もう戦える体力はないよ」
その言葉に嘘偽りはない。けど裕子には、まだ隠していたことがあった。
他人のために命を懸けて戦う天崎の意思は本物だ。その相手が自分の妹なのだから、ただ遊びたいだけの自分が一方的に蹂躙していいはずがない。そんなものは間違っている。
先ほどの一撃は、裕子の心の迷いが招いた結果だった。
一時的に精神力が低下し、天崎の攻撃をもろに受けてしまった。そして自覚する。この戦いで、自分の精神力が再び天崎を上回ることはないだろうと。
大の字に寝転がったまま起き上がらない裕子を見て、降参に嘘はないと天崎は判断する。
気を抜いてその場に腰を下ろすと、身体が普通の人間の姿へと戻っていった。
「結局、吸血鬼化はあんまり意味がなかったな」
「そんなことないよ。現世で普段使いできない血統なんだ。多少は慣れたんじゃないかね?」
「まあね」
また不本意に吸血鬼化してしまっても、ヴラド三世の意識が浮上してくるまで多少は抵抗できるようになったんじゃないかと思う。
天崎と祖母が話していると、寝転んだままの裕子が雑に腕を上げた。
「今回は私の負けだから、天崎君のことは諦めるよ。自由に帰ってくれ」
「ほら、東四郎! 帰っていいってさ!」
「いや、帰れと言われても……」
三途の川まで来た目的を忘れたわけではない。
天崎は洋子の魂を連れ戻しに来たのだ。しかし彼女は姉の魂を掴んで放さない。話ができる状態ならまだ説得できる可能性もあったが、意識がないのでそれも叶わない。八方塞がりだった。
「なら無理やりにでも裕子と一緒に現世に連れ戻して、延命を図るか……」
「それは不可能だよ。三途の川に来てしまった以上、肉体の残っていない現世に戻るのはかなりしんどい。そうでなくとも、私の魂の寿命はとうの昔に尽きてしまっているからね」
ということらしい。
このまま何もできず、すごすごと引き下がるしかないのだろうか。何としてでも救うと豪語した手前、思いつく限りの方法は試したいのだが……。
黙したまま思案していると、天崎の前に歩み出た祖母が、花畑の中で眠っている洋子の顔をじっと見下ろした。
「東四郎もだけど、この娘もまだ死ぬべき人間じゃないみたいだね。起きそうにないから、東四郎が下界まで運んでおやり」
祖母の言葉を耳にした裕子が苦笑した。
その方法がないから四苦八苦しているというのに。
「私たちの事情を聞いていなかったのかい? 洋子は決して私を放そうとしないから、こんなことになってるんだ。どうしようもないし、妹は私がこのまま連れて逝く」
「バカ言っちゃいけないよ。肉体も残ってるのに、こんな若い子供を殺しちゃいかん。あの世に連れて逝くなんて、もっての外さ」
「じゃあ、どうすれば……」
「切ればええ」
何を思ったのか、祖母は裕子の側に転がっている日本刀を拾い上げた。
そして姉妹を繋いでいる魂の絆を――その刀で断ち切った。
「えっ……」
呆気なかった。裕子が死んでから六年間、一度も解けることのなかった繋がりが、あっさりと分断された。断たれた紐の残骸は、ゴムが収縮するかのように姉妹それぞれの身体へと戻っていく。
その出来事には、当の本人である裕子ですらも言葉を失っていた。
代わりに、彼女に比べてショックの少ない天崎が確認するように訊ねた。
「そんな……簡単に?」
「簡単だよ。現世にいる時は、肉体があったから解けなかっただけさ。例えば筒の中を通っている結び目を解くようなもの。筒が邪魔で手が入らないなら、いったん紐を外に出してから解けばええ。そうだろ?」
「そうだけど……」
ものすごく苦労して計算した結果、教師が当たり前のように公式を持ち出して、ものの数秒で問題を解いてしまったような感覚を味わった。
ただ裕子にとっては、難しい理論などどうでもよかったようだ。
妹の束縛から解放された事実を前にし、すすり泣き始めた。
「うぅっ……ありがとう。ありがとう……」
やはり裕子としても、妹をあの世へ連れていくことは忍びなかったようだ。
大切に想う家族が生き永らえられることを知って、喜びの涙を流した。
「お礼なら、東四郎に言いなよ。この子が肉体を飛び出してまで追いかけなかったら、魂を切断することなんてできなかったんだからさ」
「うん、そうだね。ありがとう、天崎君。何度も刀で斬りつけてごめん」
「はは……」
それを今謝られても……いや、今だからこそか。
心の底から浮かべる感謝の笑みは、今までで一番女の子らしいなと天崎は感じた。
「あ、そうだ。おばあちゃん、前から訊いてみたかったことがあるんだけどさ」
「なんだい?」
「結局『完全なる雑種』の生き方って、なに?」
二度と聞けないと思っていた、祖母からの解答。
自分ももう十分に大人だ。自分の考えを持ち、自分で行動できる。どんな答えでも流されることはないから教えてほしい。
そういう意図も含めた質問だったのだが――、
祖母は衝撃的な言葉を口にした。
「ん? ああ……そんなものはないよ」
「え?」
さすがに耳を疑った。
数年くらいずっと悩んでいた『完全なる雑種』の生き方が……ない?
「どゆこと?」
「人間とか『完全なる雑種』とか関係なく、自分の血に囚われずに、東四郎の思うがままに生きろって意味さ。今のところ道を踏み外した様子もないようだし、おばあちゃんから教えることは何もないよ」
「そっ……か」
正直、納得できたかどうかは怪しい。しかし普段から守護霊として見守ってくれていたことは、涙が滲むくらい嬉しかった。
「さて……」
一息ついた天崎が立ち上がった。別れの時間だ。
吸血鬼化していた後遺症もなく、魂での活動もずいぶんと慣れた。少しばかり気疲れした身体を動かし、洋子の元へと歩み寄る。
「妹に何か言い残すことはあるか?」
異様に軽い身体を持ち上げながら、天崎は裕子に言った。
裕子は考える素振りもせずに、首を横に振った。
「いいや、言うことは何もないよ。別れの言葉は、もう何年も前に済ませたからね。それよりも天崎君に言いたいことがある」
「俺に?」
「妹を、洋子をよろしく頼む。奥手で、なかなか自分の意思を他人に伝えられない子だけど……いつまでも友達でいてやってくれないか?」
「ああ、分かった」
天崎は力強く頷いた。
元よりそのつもりだ。見捨てるつもりなど、まったくない。
「おばあちゃんも、元気で」
「えぇ!? 何を言っとるんだい、東四郎。あたしの魂はすでに成仏しとるし、ここにいる魂の残滓も、ずっと東四郎を見守るつもりだよ。月島さんをあの世の入り口まで案内したら、すぐに東四郎の側に戻るさ」
「あ、そうだった……」
当たり前のように死人と会話していたから、てっきり祖母もあの世へ還るものかと思っていた。普通の幽霊と守護霊の違いが、未だによく分からない。
「じゃあ、俺は戻るよ」
洋子を抱いた天崎は、名残惜しそうに踵を返した。腰から伸びる紐を辿れば、すぐにでも現世へ戻れるだろう。
「さ、あたしらも行こうかね。月島さん」
「はい」
背後で、遠ざかる二人の足音が聞こえる。
一つは足早に、一つは躊躇っているかのように。
どちらがどちらの足音かは、後ろを向いている天崎には分からない。
ただ、薄れゆく意識の端で耳にした言葉は、間違いなく祖母のものだった。
「とはいっても、少しくらいズルしたって神様も文句言ったりはせんやろ」
何のことか気になり、天崎は振り返った。
しかし二人の姿はもうそこにはなく、三途の川の影も遠い雲の向こうへと消えてしまった。
唐突に意識が繋がった。
自分が眠っていたことも、瞼を開けたことすらも自覚がないまま、ただ呆然と天井の木目を視界に入れる。ここはどこなのか、今まで何をしていたのか、今から何をすべきなのか、しばらくの間、頭の中が真っ白だった。
やがて自分が横になっていることに気づいたのか、天崎は上半身を起こした。
「おきた」
横を見れば、おかっぱ頭の童女が驚いたように口を開けていた。
その反対側では、悪魔の友人が安堵した笑みを浮かべている。ちなみに金髪の吸血鬼は、正座をしたまま鼻提灯を膨らませて熟睡していた。
「お帰り。紐が切れた時は、どうなることかと思ったよ。よく帰って来れたね」
「あぁ……おばあちゃんが結び直してくれたんだ」
「おばあちゃん?」
「詳しい話は後だ。それより月島は……」
頭痛がして、天崎は額を手で押さえた。
あれからどうなったんだっけ? 裕子の魂を月島から切り離して、一緒に現世へ帰ってきたはずだ。三途の川を抜けたところまでは覚えているが、それ以上の記憶はない。気づいたら自室だった。
ふと、枕元にあるスマホが鳴った。相手は月島だった。
はやる気持ちを抑えながら、天崎は通話ボタンを押した。
「月島か!?」
「あ、天崎さんですか?」
声は似ているが、どうやら通話の相手は月島母のようだった。
しかし声が掠れている。とても小さく、言葉が断片的にしか聞こえない。もしかして……泣いているのか?
「……洋子が、洋子が……目を覚ましました!」
「本当ですか!?」
叫びながら、逆の手でガッツポーズを作る。
この喜びを全身で表現したい。飛び起きるほどに歓喜した天崎は、近くにいた手ごろな悪魔と無理やりハイタッチを交わしたのであった。