間 章 とある幽霊と人間の対話
十七年前、月島姉妹は双子としてこの世に生を受けた。
姉の裕子は父親似。妹の洋子は母親似。双子といっても二卵性双生児なので、顔はあまり似ていない。ただ生まれた時間が限りなく近いためか、普通の姉妹以上に仲は良かった。
しかし当たり前のような姉妹の生活も、わずか十年程度で幕を閉じてしまう。
運命の分岐点があったのは、今から六年前。二人が十一歳の時。
当時から、二人の性格の違いは誰の目にも明らかだった。
姉の裕子はやんちゃ者で、むしろ野蛮と言い換えても差し支えないほど。クラスメイトの男子とチャンバラをすることが趣味で、負けたことは一度もない。どころか男子相手に怪我をさせた回数は、両手の指では収まらなかった。
対して妹の洋子は、妙に恥ずかしがり屋だった。家族以外とは相当親しい間柄じゃないと視線を合わせようともせず、常に俯きがちで、身体の前で手をもじもじさせていた。友達も少なく、自分と似たような性格の女の子ばかりと遊び、外に出ることも少なかった。
そんな引っ込み思案な妹を見かねた裕子は、洋子を無理やり外へと引っ張り出した。荒治療というほどではないが、外で遊ぶ楽しさを知ってもらおうと思ったからだ。
だが裕子はまだ幼かった。
公園で友達と遊ぶことに夢中になってしまい、連れてきた妹の存在をうっかり忘れてしまったのだ。
姉やその友達との遊びについていけず、洋子は家に向かってとぼとぼと歩き出した。
自己嫌悪で頭がいっぱいだったせいか、彼女は気づかない。
公園から出て行こうとする自分を追ってくる姉の姿も――猛スピードでやってくる自動車の存在にも。
「洋子!」
叫び声はクラクションによってかき消された。
驚いて顔を上げる洋子。
そして――。
前方に弾き飛ばされた洋子は、頭を塀にぶつけた。膝と腕も擦り剥いてとても痛いのだが、泣き出すほどのものでもなかった。
ぐわんぐわんと揺れる頭を押さえながら、洋子は現状を目の当たりにした。
さっきまで自分が立っていた場所。
そこには――頭から血を流した裕子が倒れていた。
事故直後は混乱して頭の中がぐちゃぐちゃだったが、少し時間が過ぎれば、幼い洋子でも何が起きたのかはしっかりと理解できた。
車に撥ねられる直前、姉が自分を突き飛ばし、代わりに犠牲になったのだ、と。
ただ事実は把握できても、意味は掴み損ねていた。
なんでお姉ちゃんは自分を庇ったんだろう。
なんでお姉ちゃんは代わりに死んでしまったのだろう。
私が死ぬはずだった。
私が死ぬべきだった。
「お姉ちゃんもそう思うよね?」
ベッドの上で伏して動かない姉を前にしながら、洋子は呟いた。
だが彼女は姉の身体を見てはいない。息を引き取った姉の身体に座る人物を視ていた。
この頃には、母から受け継いだ不思議な力をすでに持っていた。
人間の魂を視る能力。
普段は気配を感じる程度であり、念の強い魂でもぼんやりと視えるくらいである。しかし血の繋がった双子だからなのか、今の裕子の姿ははっきりと捉えることができ、しかも心で会話することも可能だった。
『そんなこと言わないでよ。私が洋子の代わりに死んだ意味がないじゃないか』
「事実を言っただけだよ。根暗な私よりも、未来の明るいお姉ちゃんが生きるべきだった」
『生きるべきとか、死ぬべきとか、やめようよ。結果的にこうなっちゃったんだからさ』
「どうして私を助けたの?」
『洋子が大事だったからさ』
「私もお姉ちゃんが大事」
『じゃあ助けてよ』
「助けたいよ」
『嘘だよ』
「私は嘘じゃない」
困ったものだ。こんな泣き虫な妹を残してでは、安心してあの世にも行けない。
霊体の裕子は、妹の肉体を優しく包み込んだ。
『お姉ちゃんの最後の我が儘を聞いてくれないか? 私が死んでも、洋子は元気でいてくれ』
「私からも最後の我が儘、いい?」
『いいよ』
「やっぱり生きるべきなのは私じゃなくて、お姉ちゃんの方だよ」
『今さら何言って……んん?』
気が付けば、裕子は身体の自由を失っていた。まったく動かない。洋子から離れることができない。
手元を見ると、霊体の自分の右手と洋子の魂の右手が一体化していた。
『これは……』
「お姉ちゃんの魂を、私の魂に縛り付けたの。これでお姉ちゃんは成仏できない。私の身体、あげる。好きに使って」
『冗談はよしてよ』
「冗談じゃないよ」
裕子は妹の目を直視した。
覚悟は決まっている。決心は揺らぎそうにない。
「どのみち私はお姉ちゃんがいなくちゃ生きていけないよ。だから……もうちょっとでいいから、一緒にいよ?」
『洋子……』
生まれて初めて見る妹の強い意志に、裕子は根負けしてしまった。
しかしそれは裕子の失態であった。裕子はこの時、気づくべきだったのだ。
裕子は洋子の言葉を『たまに私の身体を使ってもいいから、一緒に生きよう』という意味で解釈していた。だが洋子の意志は、まったく異なるものだった。すなわち『私が代わりに死ぬから、お姉ちゃんはこの身体で生き続けて』と。
裕子が妹の真意に感づいたのは、ずいぶん後になってからである。
それから一年が経った。
時に裕子になって外で遊んだり、時に洋子に戻って家で過ごしたりと、二人は一つの身体を共有しあっていた。父親の前で裕子が表に出た時『気持ち悪いからやめろ』と拒絶され、二度と会わないと誓ったこと以外は、特に不便もなく日常生活を送っていた。母親に多少ながらも霊感があり、理解を示してくれたことが大きかったのだろう。
一年が経過したある日、洋子は母親に連れられて、とあるお寺を訪れた。
そこで驚くべき真実を知る。
「もって五年……といったところでしょうか。このまま裕子さんの魂が解けなければ、洋子さんの魂も引っ張られて、冥界へと連れて行ってしまう」
やはり一つの肉体に二つの魂が宿ることはできないのだ。
住職の話を聞き終えた裕子が、洋子に語り掛けた。
『今の聞いてただろ? 遠くない未来、私は否が応でも成仏しなくちゃならない。今すぐじゃなくてもいいから、そのうちこの手を離してくれないか? そうしなければ、洋子まであの世へ逝ってしまうことになる』
「やだよ。お姉ちゃんが死ぬくらいなら、私が代わりに死ぬ。もともと私が死ぬべきだったんだから」
『私はすでに肉体がない身だ。洋子の身体に適応できないかもしれない。なら長く生きれる洋子が生きるべきだよ』
「じゃあ私もお姉ちゃんと一緒に逝く。独りはやだ」
『…………』
洋子は決して姉の手を離そうとはしなかった。
残りの時間を二人で一緒に過ごし、時が来れば一緒に逝く。あわよくば、姉に自分の身体を提供して、自分が死ぬ。姉を見捨て、自分が生き残るという選択肢は、すでに洋子の中にはなかった。
それからは住職が提案した延命方法を試した。
定期的に寺や墓地を訪れ、魂の安定化を図る。
ただそれも、ほんの少ししか先延ばしにすることができなかったのだが。
「たぶんこれが最後の転校になるかな」
『……そうだね』
父親の仕事内容についてはまったく知らなかったが、今までの転勤ペースを考慮するに、これが最後になる可能性が大きかった。
すなわち魂が限界を迎えていることを、洋子自身が自覚しているのだ。
「今回も……やっぱりお姉ちゃんが自己紹介してよ」
『またか。最後くらい、洋子がしたらどうだ?』
「やだ、恥ずかしい」
『まったく、仕方のない妹だ』
甘やかしすぎているという自覚は裕子にもあったが、もうこれが最後だ。
洋子の肉体的にも、裕子の精神的にも、そう長くないことが分かる。洋子の肉体への定着率がかなり悪くなってきたし、何より裕子自身の精神が安定しなくなってきた。
妹の身体を使っている時に、たまに我を忘れてしまう。
目的を持って行動している時は、まだいい。だが少しでも意識を逸らすと、自分でも何をやっているのかが分からなくなってしまうことがあった。
『あぁ……ついにやってしまったな』
転校初日の夜、この地域はどれだけ墓場があるのか、寺を巡っている最中だった。
不意に現れたクラスメイト……天崎と安藤を反射的に斬りつけてしまったのだ。天崎の方はかすり傷だと思うが、安藤は重症だ。人間の腕を斬り飛ばした経験など、初めてだった。
「お姉ちゃん、どうしよう」
犯してしまった罪の割には、洋子はあまり慌ててはいなかった。
裕子に身体を貸している時、洋子の意識はぼんやりと夢を見ているような感覚だと前々から聞いていた。おそらく、あまり大したことにはなっていないと思っているのだろう。
『そうだなぁ。……じゃあ、明日は洋子が学校に行ってくれないか?』
「え、私が?」
『うん。昨夜のことを訊かれたら、自分は幽霊に取り憑かれやすい体質だとでも言ってくれ。昨日はチャンバラの幽霊だった、とか。そうすれば洋子に疑いは向かないはずだ』
「それ、本当に信じてくれるかな?」
『たぶん信じると思うよ。あの二人ならね』
根拠は何もないが、裕子はあの二人から何か奇妙な力を感じていた。
さらに立ち去り際に見た、月を背にしたシルエット。
まるで二人を助けるようなタイミングで現れた。もしあれが噂に聞く、人間の社会に溶け込んでいる人外とやらなら……あの二人も只者じゃない。
そして裕子の予想は、これ以上なく的中する。
翌日、遅れて登校してきた安藤の腕が綺麗にくっついていたからだ。
その日のうちに、占い師だという天崎のアパートの大家と会う。
彼女は言った。天崎なら頼れる。天崎なら助けてくれる。
もしかして本当に天崎なら――、
洋子を救ってくれるんじゃないか?
大家との会話で、妹の意志が決して揺るがないことを、裕子は知った。
ならば試してみる価値はある。天崎に……助けを求めよう。
『今から遊ぼうよ』
洋子に身体を借り、天崎を人気のない場所へ呼びつけた。
殺すつもりはない。傷つける気もない。
ただ、自分たちが置かれている状況を知ってもらいたかっただけだ。
ちょっとだけ遊んで……裕子は眠っている妹を叩き起こした。
『ごめんね、洋子。私はここまでだ』
「え?」
いきなり身体を返す。無力化した洋子は、膝をついた。
おそらく、急に姉がいなくなったことに戸惑ってしまったのだろう。天崎の顔を見つめる妹の瞳は、涙で溢れていた。
「お姉ちゃんを、助けて!」
まったく、馬鹿な妹だ。もうすぐ自分が死ぬかもしれないというのに、それでも姉の身を心配するのか。
必死に訴える妹の懇願は、嬉しくもあり、悲しくもあった。
急に身体を出ていった影響か、魂が引っ張られた洋子は一時的に意識を失った。
いや、現段階では一時的かどうかも怪しい。昔は即座に魂の入れ替えができたものの、お互いの精神と肉体が衰弱している今となっては、もしかしたらこのまま目を覚まさないかもしれなかった。
『ごめんな』
「私のことは、いいよ。それよりお姉ちゃん、考え直してくれた?」
『何を?』
「私の身体を使ってくれること」
やはり洋子は、未だに自分を犠牲にして姉に生きてほしいと思っているのだ。
手を離せば……裕子を成仏させれば、洋子は普通に生きていけるというのに。
裕子は目を伏せながら、首を横に振った。
『ダメだよ。私は洋子を殺してまで生きるつもりはないし、そもそも私の身体じゃないのに生きられる保証はない。洋子の方こそ、いい加減手を離してくれないか?』
「前にも言ったよね? お姉ちゃんと離れて生きていくくらいなら、一緒に死ぬって」
あぁ、ダメそうだ。たぶん、もう何を言っても聞いてくれそうにはない。
天崎に助けを求めはしたが、そちらも効果は出そうにない。すべての解決策は、洋子が手を離してくれるかどうかの一点だけ。まだ出会って日の浅い天崎が、妹を説得できるとは思えなかった。
ならば……妹の望み通り、共に逝こう。
裕子もまた、決意を固めた。
『でも心残りがある。私の最後の我が儘、聞いてくれないか?』
「我が儘なんて言わないで。この身体はお姉ちゃんの物なんだから」
心残りとは、数日前に見た人外の姿だった。天崎は、アレが吸血鬼だという。
そんな伝説上の生き物が本当に存在するかどうかは置いといて……。
裕子は、最後に吸血鬼と遊んでみたかった。
運良く出会うことはできたのだが、結果は惨敗。魂を具現化した日本刀は折られ、無様にも逃げ帰ってきた。
唯一助かったのは、まったく傷を付けられなかったこと。いくらもう寿命が残っていないといえど、妹の身体を傷物にするのは嫌だった。
そのまま病院に戻った裕子は、ベッドの中に潜った。
そして――限界だった。
裕子の魂は、期限が来たと言わんばかりに、天へと引っ張られる。絡み合っている妹の魂と共に。
『無理させすぎちゃったかな』
すでに意識のない妹の魂を抱きかかえながら、裕子は導かれるまま昇っていく。
やがて青いトンネルを抜けると、広い花畑に到着した。
花畑に降り立った裕子は、抱えている妹の顔を愛おしそうに眺めた。
とても安らかな寝顔だった。
『ここは三途の川だ。魂にとっては安らぎの場所。私も昔、チラッとこの場所を目にはしたけど、あの時は洋子に連れ戻されたんだったなぁ』
誰にともなく呟き、裕子は思い出を懐古していた。
そのまま近場を流れる川に向けて、足を踏み出す。
『さぁ、行こう。あの川を越えれば、二人だけの楽園だ』
二歩三歩と、裕子は躊躇いながらも歩を進めた。
ふと、背後に気配を感じて立ち止まった。
誰かいる? おかしい。ここは月島姉妹だけの場所なのに。
誰とも見当もつかないまま、裕子はゆっくりと振り返った。
そこに立っていた人物を目の当たりにして、彼女は驚愕のあまり目を見開く。
同時に、これ以上の面白い喜劇はないと言わんばかりに笑って見せた。
『まさか……ここまで追ってくるとは思わなかったよ』




