空 白 その6
兄を喰うという悪夢から抜け出したリベリアが一歩前に踏み出すと、何もない真っ白な空間に突如として月島と小噺が現れた。これで三人が夢の中で合流できたわけだ。
「ようやく来たわね、吸血鬼さん」
「夜に寝ることなんて滅多にありませんから、なかなか寝付けませんでしたよぉ」
待ちくたびれたとでも言いたげな小噺に対し、リベリアは軽くおどけてみせた。
ともあれ二人の無事な姿を確認できて、リベリアは内心でホッと安堵する。自分と同じく、月島と小噺にもサキュバスの妨害があっただろうから。
その証拠に、小噺は大きく肩を落として愚痴を漏らした。
「ま、吸血鬼も月島さんも無事で何よりだわさ。サキュバスが夢への侵入を阻むために、トラウマに準じた悪夢を見せてきたみたいでさ……ホント、勘弁してほしいわね。高校ん時に好きな男子にこっぴどく振られた時のことなんて、完全に黒歴史だし。ちなみに二人はどんな悪夢だったの?」
「私は実の兄を喰らう夢でしたねぇ」
「わ、私は事故で亡くなったお姉ちゃんの代わりに車に轢かれ続ける夢です……」
「……なんかゴメン」
自分のトラウマが如何に些細なものだったかを知り、小噺は目を泳がせた。
そこへ三人以外の女の子の声が割って入る。
「女三人が集まって姦しいなら、もう一人加わったらどうなってしまうんだろうな?」
月島の背後から現れたのは、彼女の姉、月島裕子だった。
その姿を見て、リベリアが目を見開く。
「貴女は……」
「やあ。久しぶりだね、吸血鬼。私のこと、覚えてるかい?」
「覚えてるも何も、顔を合わせるのは初めてだと思いますよ。月島裕子さん。貴女が遊びに来た時は、そちらの月島さんの中に入っていたわけですから」
「ふふふ。恐れるものが何もない私にとって、それが唯一のトラウマになるのかな。だが今やれば私が勝つよ。ここは夢の世界。肉体ではなく、精神力がモノをいう世界だからね」
「どうだか。人間が吸血鬼の精神力に敵うとは思えませんけど」
挑発しながら睨み合う二人。お互い笑みを見せてはいるものの、敵愾心は剥き出しだった。
今にも喧嘩が始まりそうな中、見知らぬ人物の登場に小噺が慌てふためく。
「ちょ、ちょっとちょっと。何やってんの? ってか、誰?」
「えーっと……私の姉です」
「???」
月島が申し訳なさそうに紹介するも、小噺の頭には疑問符が浮かぶばかり。あれ? さっき亡くなったとか言ってなかったっけ? と、混乱しているようだった。
しかし忘れてはいけない。ここは敵陣の真っ只中なのだ。
侵入者を排除すべく、少し離れた場所に夢の主が現れた。
「他人様が作った夢の中に入り込んで好き勝手騒ぎ始めるなんて……まったく、常識というものが欠如してるみたいね」
「おっ、なんだ? 痴女がいるぞ?」
楽しそうに吐き捨てる裕子だったが、ある意味で的確な表現だった。
現れた絶世の美少女は一糸纏わぬ姿であり、大切な人形でも抱えるように、意識のない天崎をその豊満な胸に押し付けていたのだから。
「「天崎さん!」」
まるで彼氏の浮気現場を目撃してしまったように、リベリアと月島が狼狽した。
動揺する二人を見て、全裸の美少女は恍惚とした表情を浮かべる。
「ああ、なんて愉悦なのでしょう。大切な大切な彼氏を奪い盗られた女の顔を見る時こそが極上の至福。サキュバスに生まれて良かったと思える瞬間だわぁ」
「うわっ、ナルシスト臭いな」
「貴女がそれを言うんですか……」
わざとらしく鼻を抓む裕子に、リベリアは横目でツッコミを入れた。
そこでふとリベリアが気づく。
「みなさん、見てください。悪役に囚われて意識を失っている王子様と、それを救おうとする姫たち。眠り姫とは配役が逆ですが、王子様にキスをすれば目を覚ますとは思いませんか?」
「キ、キス!?」
驚いた月島が自分の口元を押さえる。
その反応が面白かったのか、リベリアはさらに鼻息を荒くして捲し立てた。
「つまり誰が天崎さんの唇を奪うかの争奪戦だと思うのです!!」
「――ッ!?」
力説するリベリアに対し、月島は息を呑んで、裕子はニヤニヤと笑みを浮かべた。
ただテンション低めに否定的な意見を漏らす娘が一人。
「えっ、うちはイヤだけど?」
別に天崎に恋愛感情なんて抱いていない小噺その人だ。
しかし彼女の意見は無視という形で封殺される。
「そういうことなら我が妹が天崎君の唇を奪えるよう、私は全力でサポートするとしよう」
「望むところです」
「ねえ、聞いてる? うちは人数に入ってないよね? しろって言われても絶対にイヤなんだけど?」
と、リベリアが諦めたように肩を落とした。
「って言いたいところですが、役割的に微妙なんですよねぇ。仕方ありません、今回ばかりは譲ります。まあ月島さんが立ち止まるようなことがあれば、問答無用で私が突撃しますが」
「なんだ、吸血鬼のくせに物分かりが良いじゃないか」
「……疎外感が半端ない」
誰にも取り合ってもらえず、ついにいじけてしまう小噺だった。
一人脱落しながらも、話はまとまった。成り行きをあんまり理解しておらず、呆然と佇む妹に向けて裕子が発破をかける。
「そういうわけだ、洋子。走れ!」
「は、はい!」
信頼する姉からの号令を受け、月島は天崎の元へ向けて一直線に走り出した。
その両サイドを、リベリアと裕子が並走する。
天崎を救うため、少女たちの進撃が始まった。
「何か策でもあるのか知らないけど、この子を誑かすのにもちょっと飽きていたところ。面白そうだから少しだけ相手してあげるわ」
妖艶な笑みを浮かべたサキュバスの美少女が手を挙げる。すると先頭を走る月島の前に、突如としてライオンとティラノサウルスが現れた。
「キャッ!」
どちらも月島が恐れる生物だ。幼い頃に観た映画やドキュメンタリーが頭の中に浮かび、絶対的な『死』を連想させる。捕食される寸前の小動物のように震え上がった月島は、思わず足を止めてしまった。
「立ち止まらないでください!」
「私たちが何とかする!」
だが隣にいるのは、さらに心強い味方だった。
リベリアがティラノサウルスの頭を拳で砕き、裕子がライオンの胴体を真っ二つに斬り捨てる。二人から勇気を分け与えてもらった月島は、再び走り出した。
つづいて様々な恐竜や猛獣が月島の前に現れるも、彼女を守る二人にとっては何の障害にもならない。幾重もの疑似的な命を、その手で葬っていく。
その中に、黒衣を纏った長身痩躯の男を発見した。
リベリアの兄、アラン=ホームハルトだ。
「兄……さん……」
アランと対峙したリベリアの額に冷や汗が浮かんだ。
果たして自分は兄に勝てるのか。仮に敵ったとして、今までの猛獣と同じように容赦なく屠ることができるだろうか。
躊躇した一瞬の隙が、リベリアに敗北をもたらす。
目にも止まらぬアランの拳が、リベリアの頬に直撃した。
「くっ――」
吹っ飛ばされている間にも体勢を整えるリベリア。
最悪だ。今の一撃で、どう足掻いても勝てるわけがないと印象付けられてしまった。そうでなくともリベリアには兄に喧嘩で勝った経験が一度もないのだから。
もしかしたら自分のトラウマのせいで全滅してしまうかもしれない。
目の前の強敵を睨みつけながら、リベリアが焦りの色を見せ始めた――その時だ。
追撃のため腰を低く落としていたアランの首が、呆気なく斬り落とされた。
「こんな病弱そうな奴に怯むなんて、情けない吸血鬼だなぁ」
「……そりゃ、この世界で唯一私が尊敬している人物ですからね」
裕子の挑発に、リベリアは軽口で応えた。
自分にとってはトラウマでも、他人にまで影響を与えるとは限らない。特に裕子は吸血鬼に喧嘩を売るような無謀な者。リベリアの兄というだけで今さら怖気づくはずもなかった。
すると今度は、余裕をかましていた裕子の元へ乗用車が突っ込んできた。
速度はすでに限界を突破しており、このまま真正面から撥ね飛ばされれば、人の形を保つことすらままならないだろう。しかしここは夢の中。月島が見た悪夢の時と同じく、刀一本で対処することも可能だが――、
「……マズいな」
予想外の奇襲に、裕子の手は鉛のように重くなっていた。
そこへ作った借りは即座に返すのが吸血鬼の流儀とでも言わんばかりに、リベリアが割って入る。彼女が回し蹴りを放つと、乗用車は一瞬にしてスクラップと化した。
「何をビビってるんですか? たかが車ですよ?」
「ま、私が死んだ原因だからね。多少は遅れも取るさ」
負けじと裕子も反論する。
と、その時だった。
「キャー!」
後方で悲鳴が上がった。
恐れ戦きというよりは、どこか黄色も混じった金切り声。どれほどの化け物が出たのかと、リベリアと裕子は慌てて振り返る。だがスタート地点付近にいたのは、複数のイケメンに囲まれて悦に浸っている小噺だった。
「あー……ダメそう。このまま夢から覚めたくないかも」
「何をやってるんですか、あのバカは!?」
呆れて物も言えなくなったリベリアは、月島の方へと向かった。
あんなバカは無視に限る。
「ん、なんだ。助けに行かないのか?」
「嫌ですよ、あんなのを助けるのは。それよりも月島さんを護衛しないと」
「なら私が行こう。洋子の方はよろしく頼むよ」
リベリアに妹を託した裕子が、後方へ走り出した。
手にしている日本刀で、容赦なくイケメンたちの首を刎ねていく。
「こんな夢の中よりも、現実の方がもっと良い男いると思うよ。お嬢さん」
「トゥクン」
自信満々な笑顔でウインクする裕子を前にして、小噺は胸のときめきを感じていた。それは完全に恋に落ちた乙女の顔だった。
「うわっ、キモッ! なんで女相手にときめいてるんですか! 処女ビッチさんはそっちの気もあったんですか!?」
「ギャー! やめなさい! 何であんたがその言葉を知ってるの!?」
「そりゃ空美さんとは何回も女子会してますからね」
「ってことは、あの女の知り合い全員に広まってるようなものじゃない!」
あががががががと奇妙な叫び声を上げて、小噺はぶっ壊れてしまった。
「さ、裕子さん。役立たずは放っといて、月島さんを援護してください」
「夢に入れたのは誰のおかげじゃあ!」
小噺の抗議を盛大に無視したリベリアは、月島に襲い掛かる猛獣や恐竜を粛々と排除していく。だが一瞬だ。目を離した一瞬の隙に、月島は新たに現れた障害に進行を阻まれていた。
背の高い壮年の男が、無表情で月島を見下ろしている。
「誰ですか!?」
よく見れば、立ち止まった月島の脚が微かに震えていた。
月島にとって、その男性は恐怖の対象なのか? いや、そんな感じではない。どちらかといえば、月島の耳元で囁いている男性の言葉が、彼女の戦意を削いでいるようだった。
『裕子じゃなくて、お前が死ねばよかったのに』
リベリアの耳にも届いたのは、呪いの言葉だった。
実の父による存在の否定。どんな恐ろしい猛獣に喰い殺されるよりも、その言葉は月島の心を抉っていった。
「月島さん! 今助けに……」
「待て。君では助けられないよ」
疾風の如き速度で駆けつけてきた裕子が、そのままリベリアを追い抜いていった。そして他の有象無象と同じように父を斬り伏せると、今にも崩れ落ちそうになっている月島を抱き支える。
「安心しろ、洋子。私たちのお父さんはそんなこと言わないし、言ったこともない。それは洋子が一番よく知っているだろ?」
「……うん」
姉の説得に、月島は力強く頷いた。
そうだ。父が自分を疎んでいるなんてのは、結局はただの被害妄想であり、月島が勝手に負い目を感じているだけに過ぎない。どれだけ記憶を掘り返してみても、あんな貌で、あんな声で、あんな言葉を吐く父の姿など見当たらないのだから。
「洋子、行けるか?」
「うん!」
裕子が発破をかけると、月島は再び走り出した。
その時点でサキュバスの方も裕子の異常性に気づく。
「障害になるのは吸血鬼だけだと思ってたけど、思わぬ伏兵がいたものね。てか誰? あの娘の姉って数年前に死んだんじゃないの? なんでいるの?」
過去のトラウマに準じた悪夢を見せるために軽く記憶を探ったのだが、間違いなく死んでることは確認した。それに猛獣や恐竜のような夢の産物でもない。明らかに意思を持っている。裕子が守護霊になった経緯を知らないサキュバスにとっては、訳の分からない状況だった。
「ま、いいわ。邪魔になるのなら、優先的に潰すだけよ」
サキュバスが裕子へ照準を定めると、彼女の周りに歪みが生じた。空間が生物のように蠢いて、その中から鎖が射出される。この場所へ来る前、月島を拘束した鎖と同じ物だ。
音速で放たれた鎖は瞬く間に裕子の四肢を捕縛する。まるで蜘蛛の巣に囚われた蝶々のように、裕子は空中で張りつけにされてしまった。
「死ね!」
サキュバスが死刑宣告を下すと同時に、四本の鎖は一斉に外側へと巻き上げられる。当然、裕子の身体が耐えられるはずもなく――、
「ぐああああッ!」
「お姉ちゃん!」
苦痛に歪んだ声を上げたのも一瞬。裕子の両腕両脚は、羽虫でも分解するかのように根元から引き千切られてしまった。
断面からは大量の血液が噴出し、白い床に真っ赤な池を作る。四肢を失った裕子の胴体は、無残にも血だまりの中へ沈んでいった。
「お姉……ちゃん……?」
「そんな……」
絶望的な光景を見せつけられ、月島は膝をつく。リベリアですら驚きのあまり立ち止まってしまったくらいだから、肉親である彼女の失意は計り知れないだろう。
あれはもう……助からない。
それと同時に理解する。ここはサキュバスが作った夢の中。なんでも奴の思い通りになる万能な世界。直接自分たちに干渉する以外なら、いくらでも殺す方法はあったのだ。猛獣を出現させるなど回りくどいことをしていたのは、ただ遊ばれていただけ。
リベリアは苦々しげな顔を浮かべた。裕子がこうなってしまった以上、このまま進撃を続けるのは不可能に近い。いつ殺されるかも分からない恐怖を植え付けられた今、サキュバスはその一点を狙ってくるはずだから。
やはり敵のホームグラウンドで天崎を守ろうとすること自体、最初から無理があったのだ。となれば現実でサキュバスの居場所を突き止める以外に方法はない。円が顔を見ているはずだし、時間を掛ければいずれは見つけ出せるだろう。
今回は敗北を認め、リベリアは悔しそうに下唇を噛んだ。
――その時だった。
「ああ、私なら大丈夫だ。これくらいなら何ら問題はない」
ほんの一瞬目を離している間に、裕子は完全復活を遂げていた。
「は?」
一同が唖然とする中、最も驚愕していたのは夢の主であるサキュバスだった。
四肢を引き千切り、確実に殺したであろう敵が何事もなかったかのように佇んでいるのだ。悪夢以外の何物でもない。
「な、なんであんた、立っているんだい?」
「なんでって。だってここは夢の中だろ? 実際に死んだわけじゃない」
「そりゃそうだけど……」
理屈は分かる。これは夢。四肢が欠損しようが、身体を輪切りにされようが、胴体が爆散しようが、実際に肉体が傷ついているわけではない。強く念じるだけで、いくらでも元に戻る。
しかし精神面までは別だ。
腕や脚が千切れた感触は、現実ではなく事実として記憶に残る。さらに四肢を失った視覚効果も絶望感に拍車を掛けるだろう。普通の夢より意識がはっきりしている分、その感覚はより現実に近いはずだ。
それを夢だからと割り切るだけで、大怪我をなかったことにできるか? まるで他人事のように、気にも留めないでいられるか? できるわけがない。
事実、裕子の大復活を目の当たりにしたリベリアはドン引きしていた。吸血鬼の異常な治癒力があったとしても、これが夢だと明確に自覚していたとしても、あんな画像を挿げ替えるように一瞬で再生できる精神力は持ち合わせていない。そんな自分は想像すらできなかった。
「お前は……精神力の化け物なのか?」
「まあ、六年も幽霊やってればね」
苦虫を噛み潰したような顔を露わにするサキュバスに対し、裕子は軽くおどけてみせた。
予想だにしないイリュージョンの後に訪れた静けさの中、隙を見たリベリアが動く。驚愕のあまり注意が散漫になっていたサキュバスへ奇襲を掛けた。
「チッ」
間一髪で危機を察したサキュバスが空へ飛び上がった。しかしリベリアたちにとっては僥倖だった。慌てて逃げたせいで、抱えていた天崎をその場に取り残してしまったのだ。
「チャンスですよ、月島さん! さあ、天崎さんにキスを!」
「は、はい!」
裕子に支えながら立ち上がった月島が、ラストスパートを切った。
ここで天崎を瞬間移動でもさせられたら厄介だ。リベリアは上空を睨み上げ、サキュバスを牽制していたのだが……追いついたはずの月島が、なかなかキスをしようとしない。見れば、困ったように眉尻を下げている月島と目が合った。
「?」
疑問を抱くも、すぐに月島の視線の意図を理解した。
キスの仕方が分からないわけでも、尻込みしているわけでもない。ただ後ろめたいのだ。先に到達したのはリベリアの方だし、本当に自分がキスをしてしまってもいいのか、と。
なのでリベリアは大したことでもないといった感じで、あっけらかんと言い放った。
「あっ、私に遠慮しなくても大丈夫ですよ。過去に二回ほど、私はすでに天崎さんとキスしていますので」
「ええええーー!!??」
地味にショックな告白だった。
ならば逆に、こんなところで負けてなんかいられない。つい先ほど、天崎が欲しいと強く願ったばかりなのだから。
意識のない天崎の顔を見下ろした月島は、一度だけ唾液を嚥下する。
そして決意を固めると、想いを寄せる彼と唇を重ね合わせたのだった。




