第3章 リベリアの秘密
リベリアは午後七時過ぎに外出し、遅くとも深夜二時には帰ってきている。それも毎日のように。本人も含め、他のおののき荘の住人からも確認は取れたので間違いはないだろう。
なので安藤には七時におののき荘へ来てもらい、リベリアが外出したら尾行を開始する。何事もなければ、ある程度の時間で切り上げることを条件に、安藤は同行を承諾した。
そして夜七時。几帳面な性格の悪魔が、時間ぴったりに天崎の部屋を訪れた。
「はい、円ちゃん。差し入れだよ」
来る途中で買ってきたらしい缶ジュースを、安藤は円に渡した。
「わーい、オレンジジュース!」
「なあ、安藤。俺のは?」
「新設してからここに来たのは、これで二度目かな。改めて見ても間取りがまったく変わってないのは不思議だ。大家さんのこだわりでもあるのかな?」
「俺の分は?」
先日の吸血鬼襲来事件により、旧おののき荘は全壊してしまった。
しかしそれを見越していた占い師の大家が、あらかじめ別の場所に新しいおののき荘を建築していたのである。つまり、このおののき荘は二代目だ。新築という点を除けば前身とまったく変わり映えのしない内装に、安藤は感嘆と疑問の声を漏らした。
家主に招かれる前に部屋へと入ってきた安藤が、畳の上へと腰を下ろす。
いろいろと諦めた天崎は、早々に今夜の計画を切り出した。
「で、尾行の件なんだが……」
そう言いかけた天崎を、安藤は手で制した。
訝しげに首を傾げた天崎をよそに、安藤は懐から取り出したノートに何やら書き始める。
『吸血鬼は意外と耳が良い。もしかしたら、ここの会話も聞こえてるかもしれない』
なるほどと納得した天崎は、学校用のカバンからノートを取り出した。
ただその途中で、重要なことに気づく。
『耳が良いってんなら、俺たちの尾行も気づかれるんじゃないか?』
『かもね。しかも夜目も効く』
『そういうことは先に言えよ』
これでは考えていた計画がパァだ。というよりも、尾行対象が夜行性かつ人外ということを考慮に入れていなかった天崎に落ち度があるのだが。
『どうする?』『(?_?)』
『僕に訊くなよ。君はどうするつもりだったんだ?』『(-"-)』
『普通に尾行するつもりだった。アイツの知覚のことなんて考えてねえよ』『(~o~)』
『じゃあそれでいいんじゃないか? あまり深く考えるなよ。見つかったら見つかったで、適当にごまかせばいい』『(*^_^*)』
「いや、お前は書かないでいいから」
途中から自分の自由帳を取り出して、しきりに顔文字を被せてくる円を制した。
どうやら彼女は何かの遊びだと思っているのだろう。天崎と安藤が筆談をやめても、まだクレヨンで何か書いているようだった。
「どのみち一晩中ってのは無理だからね。君は人の言うことを信じなきゃ」
「つってもなぁ」
信じたくはあるが、相手は吸血鬼だ。腕を払っただけで、人間の首が吹っ飛ぶ力を持った化け物だ。本人はこの街に来てから人間を殺していないとは言っていたが、それでも生き血を食糧とする生き物であることには変わりはない。
「後手後手になってしまうけど、何かあったら僕も処理するよ。いつも通りね」
「処理?」
言葉に引っかかりを覚えた天崎が、安藤を睨んだ。
その反応を目の当たりにして、安藤は心の中で呆れてしまう。
天崎は自分の中の矛盾に気づいていない。口ではリベリアを信用していないと言うものの、処理という言葉には嫌悪感を現わす。安藤の『いつも通り』を知っている天崎にとっては、その意味は深い。
ならば何故天崎は、安藤に同行を求めたのか?
最悪の場合を想定しての保険だったのではないのか?
結局、リベリアを信頼しているからこそ、安藤を連れていくことができるのだ。もし天崎が彼女のことを本気で疑っているなら、一人で行動していたはず。安藤の知っている天崎という男は、そういう奴だ。だからこそ昼間の『保護者』という評価は的を射ているなと、安藤は自画自賛した。
だが安藤には関係ない。もし天崎の思い過ごしなら、それでいい。しかしリベリアが本当に人を喰らっていた場合、容赦はしない。たとえ友人が止めようとも、この街に害をもたらす人外には退場してもらうし、場合によっては、どんな手を使ってでも――。
その辺りで安藤は思考を止めた。
それは今考えても仕方のないこと。何かあった場合は、その時に考えればいい。一般的な高校生を装っている安藤としては、吸血鬼を退治しないに越したことはないのだから。
それから少しだけ時間が経過した。時刻は午後七時十五分。
窓際で外を見張っていた天崎が動き出した。
「リベリアの部屋の方から扉の音がした。たぶんもうすぐ通るはずだ」
安藤が窓際へ寄ると、ちょうど金髪の吸血鬼の背中が見えた。
「よし、行くぞ。円、留守番よろしくな」
『いってらっしゃい(@^^)/~~~』
正座しながら自由帳を掲げる円に見送られながら、天崎と安藤はおののき荘を後にした。
電柱などの物陰に隠れながら、リベリアを見失わないギリギリの距離を保ちつつ後を追う。幸か不幸か本日は快晴で、大きな月も出ているため視野は広い。それは同時に相手にも見つかる可能性も増すのだが、夜行性の目を持つリベリアにはあまり関係ないだろうと、天崎は勝手に結論付けていた。
おののき荘を出発してから、住宅街を抜ける。小道らしい小道には入ろうとはせず、目的地があるような迷いのない足取りでリベリアは一本道を行く。
「にしても飛ばないんだな、アイツ」
「飛ぶ必要のない近場なのかもね。目撃されて騒ぎになるのを避けてるのかもしれないけど」
「今さらだな」
太陽は完全に沈んでいるとはいえ、午後七時台ならまだまだ多くの人々が出歩いている時間帯だ。夜空に人間大の物体が飛行していては、一発で見つかってしまうだろう……という以前に、リベリアの背中にはコウモリのような漆黒の翼が生えているのだ。通行人とすれ違った時とかどう言い訳してるんだろうと、天崎は疑問に思った。
そのまま小学校、寺の前を通り、小さな用水路を渡って商店街の方へ。
天崎はこのルートを知っている。というか、彼自身もたまに通っている道筋だ。
「駅に向かっているのか?」
大きな翼の生えたリベリアが吊革につかまって立っている姿は、なんとも想像に苦しんだ。そもそもアイツ、金持ってるのか?
一抹の不安を抱きながらも、尾行は続く。
天崎の予想通り、リベリアの目的地は駅だったようだ。だが改札口へは向かわず、ロータリーを横断して駐輪場の方へ。居酒屋や食堂が立ち並ぶ通りの前に到着したところで、リベリアはとうとう小道に入った。
「追うぞ」
できるだけ足音を立てないように、二人はリベリアが折れた角まで駆け寄る。建物と建物に挟まれた薄暗い路地の奥で、金髪の吸血鬼が立っていた。
「……建物の中に入った?」
一瞬ではあるが、建物から明かりが漏れた。そして扉の閉まる音が聞こえた後、リベリアの姿は消えていた。
「正面に回り込もう」
安藤の意見に賛成し、リベリアが入っていったと思われる建物の正面へと回り込む。
居酒屋と美容室の間に挟まれた雑居ビルの一階。掲げられた看板には、独特の丸文字フォントで『ファンタジースクエア』という店名。店前には『MENU』と書かれたブラックボードが置かれており、一見して普通の喫茶店に見えなくもないのだが……。
「本当に喫茶店……なんだよな?」
天崎が自問してしまった理由は、店の特殊な飾りつけにあった。
入り口の両サイドには女の子のアニメキャラクターの等身大ポップが立っており、窓ガラスにも可愛らしい二次元キャラのシールがいたる所に貼ってあった。
サブカルに縁遠い天崎には、何のキャラクターなのか分からない。かといって、別にオタク文化を毛嫌いしているわけでもない。一般人の感性しかない天崎にとっては、『ちょっと過剰に演出しすぎなんじゃないの?』くらいの感想しか出てこなかった。
「ま、まあただの喫茶店なら大丈夫だろう。入ってみよう」
「待て、天崎」
店の扉を開けようと手を伸ばしたところで、安藤に肩を掴まれた。
振り返る。いつになく真剣な表情をした安藤が、まっすぐ天崎を見据えていた。
「この店に入るには、覚悟が必要だよ」
「覚悟?」
「そう。最終的に泣き喚くくらいの覚悟はしておいた方がいい」
脅すような安藤の言葉に、天崎は息を呑んだ。
思えばこの歳まで生きてきて、泣き喚いた経験など一度もない。意識が飛ぶほどの大怪我を負った時は自然と涙が出たし、大好きだったおばあちゃんが亡くなった時は一晩中泣いていたこともある。
けど、泣き喚く覚悟が必要?
いったいどれだけ恐ろしく悲しい出来事が、この扉の先に待っているのだろう。
それともリベリアの真実を知ることが、天崎にとって受け入れがたいことなのか。
分からない。天崎には何も分からない。
でも、だからこそ――。
「覚悟は……ある。俺は真実を知りたい。知らなくちゃいけない」
「そうか。分かった。君がそう言うのなら、僕はもう止めないよ」
肩を掴んでいた安藤の手が解かれた。
天崎は肩越しに安藤へ向かって頷く。安藤もまた、深刻な顔のまま頷き返した。
意を決し、扉を開けた二人は未知なる世界へと足を踏み入れる――。
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
案内役の店員を目の当たりにして、天崎は絶句してしまった。
魔法少女がそこにいた。ピンク色を基調としたフワフワなドレスを身に纏い、右手にはデコられたステッキを持っている。おそらくウィッグなのだろうが、ツインテイルに結われた髪は蒼色。化粧は濃く、笑顔で二人を見据えている瞳は翠色だった。
インパクトの強い店員の外見に、天崎は目を白黒させていた。驚きのあまり声が出ず、物怖じしたように一歩後ろへ下がってしまう。何が起きても動じないつもりでいたが、扉の向こうがあまりにも別世界すぎて、抱いた覚悟は早々に揺らぎそうになっていた。
よっぽど沈黙が長かったのか、店員の笑顔が怪訝なものへと変わっていく。
そこでようやく天崎の背後から助け船が出された。
「二人です」
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
「ほら、行くよ」
背中を叩かれ、天崎はやっと我を取り戻した。
魔法少女に案内されながら、店内を軽く観察する。
入り口に並んでいた二次元キャラクターのような視覚的な煩さはなく、全体的に落ち着いた雰囲気を漂わせていた。テーブルや椅子などの家具は木製で統一されており、店内は淡いオレンジ色の蛍光灯で包まれている。奥にはカウンター席もあり、酒類も並んでいることから喫茶店とバーを兼ねているのだろう。今はカウンターに客はおらず、店全体にもまばらに見えるだけだった。
ある一点を除けば、普通の喫茶店だった。その一点が大問題なのだが。
巫女にナースに魔法少女。そして版権物のキャラクターまで。ホールに出ている店員は全員が女性で、統一感のない何かしらのコスチュームを身に纏っていた。
チカチカする目を瞬かせながら、二人は端の席へと案内された。
席に座るやいなや、天崎は小声で安藤に問う。
「おい、なんだよこの店。店員の制服がおかしなことになってんぞ」
「は? 君こそ何を言っているんだ」
もうすべての謎は解けたと言わんばかりに、安藤はくつろいでいた。
その態度に、天崎は若干の苛立ちを覚える。分からないから訊いているというのに。
もう少し強めに問いただそうか迷っている間にも、店員が水を持ってきた。
「いらっしゃいませ! ……あれ?」
店員の気の抜けた声に、二人は同時に顔を上げた。
絹糸のように繊細な金髪。瞳孔がスリット状に開いた黄金の瞳。背中から生える蝙蝠の翼。口元から覗く異様に発達した犬歯。
知り合いの吸血鬼が、お盆を手にして固まっていた。
何故かメイド服を着て。
「あれれ、天崎さんと安藤さんじゃないですか。なんか意外ですね、お二人がこんなお店に来るなんて」
「リベリア! お前、こんなところで何してんだ!?」
「見て分からないんですか? 接客ですよ」
そう言って、リベリアはスカートの裾を摘み上げてから、行儀よくお辞儀をした。
「いや、そんな満面の笑みでお辞儀されても……っていうか、その恰好は……」
「またまた天崎さんは不可解なことを言いますね。コスプレ喫茶ですよ、ここ」
「コスプレ喫茶?」
どうりで店員が全員おかしな恰好をしているわけだ。
……っていうか教えろよ。と、飄々とした態度で水を口にしている安藤を睨みつけた。
「ここで働いてるのか?」
「そうですよ。二週間くらい前からお世話になっています」
「なんで?」
「なんでって……えぇ……」
鬱陶しそうに表情を歪めるリベリア。
天崎としても、彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。
「おののき荘の家賃を稼ぐためです。大家さんはいつでもいいと言ってくださってますが、さすがに何ヶ月も滞納するのは悪い気がしますので。天崎さんにも何度もご馳走してもらっていますし、これでもいずれは返そうと思ってるんですよ」
「そ、そうだったのか……」
ちょっと気恥ずかしげに告白するリベリアに対し、天崎は未だ呆けていた。
まさかリベリアが、そんなことを考えていたなんて……。
信じられないと疑うよりも、まるでいつの間にか娘が彼氏を作っていたことを知ったお父さんのような感覚だった。
「でも珍しいですよね。この店のことは、以前からご存じだったんですか?」
「いやぁ、それはだな……まぁそんな感じだ」
露骨に視線を泳がせた天崎は、狼狽にも似た嘘で言葉を濁した。
「リベリアさんの後を付けてきたんだよ。天崎は夜な夜な君が人間を襲っているんじゃないかと心配していたそうだ」
「バッカ、本当のこと言うなよ!」
「えー、ヒドイですぅ。私、何度も何度も人間は殺してないって言ってるのに……。信じてもらえてなかったんですね……」
お盆で顔を隠したリベリアが、しくしくと泣き出した。
慌てふためく天崎。何故か数人の客がこちらを睨みつけているようだったが、今はそれどころではない。
「なーんて、冗談ですよ。天崎さんとは初対面がアレでしたからね。疑われるのは仕方のないことです。少しずつ天崎さんの信頼を獲得していきますよ」
「はは……」
ぐっと握り拳を作って意思を表明したリベリアに対し、天崎は曖昧に笑うだけだった。
別に天崎はリベリアが人間を食べている場面に遭遇したわけではない。ちょっとばかし好戦的で、手違いで人間を殺してしまいそうな勢いがあっただけだ。
「では私は仕事中ですので、長話はできません。ゆっくりしていってくださいね」
知り合いとしてではなく、客に対しての営業スマイルを浮かべたリベリアが、店の奥へと引っ込んでいった。あんな仕事上の笑い方もできたんだなと、天崎は素直に感心してしまう。働き出して二週間と言っていたが、すでに板についてきているようだった。
とりあえずリベリアに対しての感想はそこまでにしておいて、居住まいを正した天崎は、再び正面の友人を睨みつけた。
「安藤。お前、いつから気づいてた?」
「何に対して?」
「リベリアがこの店で働いていたことだ」
「知らないさ。彼女が建物の中に入って、そこが喫茶店だと判明した時には、なんとなく予想はついていたけど」
「ここがコスプレ喫茶ってことは?」
「入り口のポップを見て分からない方がおかしいだろう」
この小悪魔は……。
と言いたげに、天崎はリベリアとは違った意味で拳を握りしめた。
だが二人の会話は遮られる。リベリアが去っていった直後、巫女装束を身に纏った別の店員が二人の元に歩み寄ってきたからだ。
「あの。もしかして君たち、リベリアさんのお友達?」
ただの客にしては親しそうに話していたので、そう思われたようだ。
未だコスプレ姿の店員に慣れていない天崎は、少したじろぎながら答えた。
「えぇ、まぁ……そんなところです」
「こいつが同じアパートに住んでるんですよ。今日は彼女に誘われて来ました」
「そう、なるほどね」
安藤の説明で納得した店員が、リベリアの動向を肩越しに窺った。
そして内緒話でもするように、お盆で壁を作って彼らに言う。
「もし機会があったらでいいんだけど、あなたたちからリベリアさんに忠告してほしいことがあるの」
言い知れぬ不安感が天崎を襲った。
忘れていたわけではないが、リベリアは吸血鬼なのだ。あの牙、あの瞳、あの翼。どう見たって普通の人間ではない。そんな化け物が、人間と同じように働くのはやっぱり無理があったのだ。人間を喰う生き物と一緒に働くなど、周りも穏やかではいられないだろう。
しかし天崎としても、リベリアに働くなとは言えなかった。
あいつはあいつなりに考え、しっかり答えを出して行動している。誇り高き吸血鬼が、人間のために汗水たらして働いている。確かに周りに危害が出る可能性はゼロではないが……せっかくこの地で前に進もうとしているリベリアの意志を、天崎は踏みにじりたくはない。
だからこそ、この店員がリベリアを吸血鬼だと疑うようなことがあれば、全否定してやろうと身構えたのだが……。
「リベリアさん、毎回毎回自宅でコスプレしてから出勤してきてるのよ。ほら、あんな可愛い子が一人で深夜に出歩いてたら危ないじゃない? もっと身体の線を隠せる服着てって言っておいて。着替えにちょっと時間かかってもいいからさ」
「コ、コスプレ?」
「あれ、吸血鬼のコスプレでしょ? 店のコンセプトとしては吸血鬼メイド。外国人だからってのもあるけど、完成度高いわよねぇ」
コスプレだと思われていたのか……。
肩透かしを食らった天崎は、曖昧な返事を返しておいた。
「えぇ、言っておきますよ。たぶん本人は聞かないでしょうけど」
たとえ暴漢に出会ったとしても、命が危険なのはそっちの方だ。そういう意味では、リベリアが変態に襲われないよう願うばかりだ。
「ところでリベリアさんって、この店では結構人気なんですか?」
「分かる? 入店してからまだ二週間だけど、あの娘目当てで来るお客さんも多いのよね」
安藤の質問に、店員は嬉々として答えた。
あぁ、なるほど。と、天崎は勝手に納得する。
先ほどリベリアが泣きマネをした時に睨みつけてきた客は、彼女のファンみたいなものだったのか。確かにリベリアの容姿はとても美しい。吸血鬼だからというのもあるが、日本人ではない顔立ちが、コスプレの魅力をより一層引き出しているのだろう。
……退店する時は背中に気を付けようと、天崎は思った。
「それじゃ、よろしくね」
と言い残し、巫女の店員もまた自分の持ち場へと戻っていった。
グラスの水を口に含んだ安藤が、一息ついた。
「言質は取れたね」
「二週間ってとこか?」
「そう。それに人気もあるらしいから、頻繁にシフト入ってるんじゃないかな?」
絶対に人間を襲っていないという証拠にはならないけれど、毎夜外出しているのは、ここで働くためで間違いなさそうだ。
というより、天崎はもう疑うことをやめた。こちらが信じてやらなければ、いつまで経っても距離を詰めることはできないだろう。兄から絶縁され、孤独となったリベリアを突き放せるほど、天崎も情のない人間ではない。
そう決心すると、あっという間に気持ちが晴れた。
心配事がなくなり、心が軽くなる。故に、食欲も出てくるというわけだ。
「ま、せっかくだから何か食おうぜ。俺たちが金を落とせば、リベリアのためにもなる」
意気揚々とメニューを広げた天崎だったのだが――、
メニュー表に並んでいる数字の羅列を目の当たりにし、彼は絶句した。
「カレー……一杯……千二百円ん!!??」
「君と出会ってそこそこ経つけれど、その声は初めて聞いたな」
料金の隣のサンプル写真に眼を移す。特別大盛りとかではなく、高級感は皆無。ただのカレーライスが千二百円。
「だって見ろよ、コレ! この値段! こんなんレトルト買ってきて家で食べれば三百円もむぐぅ……」
突然、安藤に口元を押さえられた。
彼は残念そうに、首を横に振るだけだった。
「天崎、それ以上いけない。それ以上は……ダメだ」
眼球を動かして周りを窺うと、他の客や店員がチラチラとこちらを見ている。
確かに飲食店にて原価を説くのはご法度だ。それは天崎もちゃんと理解している。だけど、いくら何でも高すぎやしないか?
他のメニューにも目を通す。
ドリンク一杯六百円。サンドイッチ八百円。オムライス千百円。
その平たい紙には魔物が棲んでいた。
「覚悟はあるって言ったのは、どこの誰だったかな?」
「そういう意味なら先に言えよ! 覚悟はあっても実物がねぇよ!」
「ちなみにこういう店には席のチャージ料ってのがあって、この店は一時間一人三百円って書いてあるな」
この時天崎は、人生で初めて泣き喚く経験をした。
ただし懐が、ではあるが。