プロローグ
それは幼い頃の記憶だった。
春の陽気を楽しむように、縁側で日向ぼっこをする老婆が一人。
スズメすら寄ってくるほど微動だにしない彼女の元へ、一人の少年が駆け寄ってくる。小学校からの帰りなのか、ランドセルを部屋の方に放った少年は、一目散に老婆のひざ元へと抱き着いた。
少年は泣いていた。
「うっぐ……えっぐ……」
「おやおや、どうしたんだい? 東四郎」
何かを話そうとする少年だが、嗚咽がひどくて言葉になってはいなかった。
抱き着いたままいつまで経っても泣き止まない少年の頭を、老婆は優しく撫でる。緩慢なその動作は柔らかく、そして慈愛に満ちていた。
次第に少年の泣き声も治まっていく。
目元を涙で腫らしたまま、少年は老婆に短く問うた。
「ぼ、僕……人間じゃないのかな?」
「どうしてそう思うんだい?」
問い返してはいるが、かといって本当に疑問を抱いている様子ではない。老婆の口調は、まるで孫におとぎ話でも語り聞かせているようなものだった。
「学校で言われたんだ。『完全なる雑種』は、人間じゃないって」
『完全なる雑種』。それはあらゆる種族の血統を持つ者に与えられる蔑称である。
純潔ではなく雑種。何者にも属さない、穢れた血。少年――天崎東四郎もまた、『完全なる雑種』の末裔だった。
学校で『完全なる雑種』と言われたと聞いて、老婆はピンときた。
おそらく、東四郎のことを『完全なる雑種』と言ったのは人間ではない。人間社会に溶け込んで生活している妖怪か何かだろう。人間が世界を支配するようになった今の時代、『完全なる雑種』という言葉を知っているのは、ほぼ人ならざる者だからだ。
しかし老婆は、そんな裏事情など一切関わりのない言葉を自分の孫に言った。
「大丈夫だよ、東四郎。東四郎は人間さ」
「ほ、本当?」
「あぁ、本当だとも」
「でも僕、『完全なる雑種』なんだよね?」
「もちろん、そうだよ」
少年は意味が分からず混乱した。
自分は『完全なる雑種』であり人間である。それは矛盾しているのではないだろうか? だって『完全なる雑種』には、人間ではない血がたくさん混じっているのだから。
「東四郎は『ほぼ』人間ってこともあるけど、問題はそこじゃないんだよ」
混乱の頂点に達して言葉を失っていた少年に、老婆は優しく言い聞かせた。
「東四郎が自分を人間だと思えば、人間になるのさ」
「人間だと……思う?」
与えられた答えは爆弾だった。
頭の中で爆発した新たな言葉は、思考の混沌を巻き起こす。
ただ老婆の方も言葉足らずだったと自覚しているようだ。
「例えば……そうだねぇ。あそこにいる鳥はなんだと思う?」
老婆は庭先で戯れているスズメたちを指で差した。
首を傾げた少年は、見たまんまを答える。
「スズメ?」
「そう、スズメだね。じゃあ何でスズメって言うんだろうね」
「何でって……」
そりゃスズメって名付けた人がいるからだろう。最初に発見した人か、野鳥を研究している学者かは知らない。けど誰かが命名して、みんながそれを認めているからスズメと呼ばれているのだ。
しかし老婆が示したのは、少年が思ってもいない方面からの解答だった。
「なぜならね、東四郎があの鳥をスズメだと認識しているからスズメになっているんだよ」
「……どういうこと?」
「つまり東四郎があの鳥をカラスだと思ってたら、アレはカラスだ」
少年はもう一度、木陰で戯れている鳥を観察した。
手のひらサイズで、ずんぐりむっくりな体型。その姿は、少年が物心ついた頃から知っているスズメで間違いはない。決して、真っ黒でカァカァうるさい獰猛な鳥ではない。
向き直った少年は、老婆に異を唱えるように頬を膨らませた。
「えー」
「不満かい? だったら東四郎は東四郎を人間じゃないと言った子と同じだね」
学校での出来事を思い出しているかのように、少年は沈黙した。
クラスメイトは自分を人間ではなく『完全なる雑種』だと指摘した。
庭で遊んでいる鳥は、自分がスズメだと思ってるからスズメになっている。
ってことは、自分で自分のことを人間だと思えば自分は人間になる?
つまり見る人によって人間か『完全なる雑種』か変わるってこと?
「んー……うーん?」
ちんぷんかんぷんだった。
最終的に、少年は考えることを放棄した。
「もー。おばあちゃんの言ってることって、いつも難しくて分かんない!」
不貞腐れた少年は、再び老婆の胸へとダイブした。
無遠慮に抱きついてくる彼を、老婆は優しく受け止める。
「いいんだよ、分からなくて。東四郎はまだまだ子供だからね。大きくなったら、おばあちゃんが『完全なる雑種』の生き方を教えてあげるから」
「『完全なる雑種』の生き方?」
「そうさ。あんたのお父さんみたいに、立派な大人になれるようにね」
膝の上でうとうとし始める少年の髪を、老婆は優しく撫でつける。
心地の良い日差しに当てられ、意識が徐々に薄れていく中、少年は耳元に落ちた老婆の声を拾った。
「今はただ、東四郎がここにいてくれるだけで十分だからね」
満足げに頷くと、少年はそのまま深い眠りへと落ちていった。
天崎東四郎の、幼少期の一幕だった。
少しばかりの肌寒さを感じて、天崎は目を覚ました。
起床する際は本来、天井の木目が視界に飛び込んでくるのだが、今は真っ暗闇だ。おそらくまだ日の出前なのだろう。
二度寝することも考えたが、一度だけ上半身を起こしてみる。
窓の外は、徐々に白ばみ始めているようだった。
「……っていうか、なんか下半身が重いな」
目を凝らして自分の膝の辺りを見てみると、そこには一人の童女が膝枕をされる形ですやすやと寝息を立てていた。ただ天崎は別段驚いた様子もなく、「あぁ、円か」と呟いただけで現状を認める。頻繁ではないが、よくあることだ。
そのまま天崎は、童女のおかっぱ頭を優しく撫でた。
そういえば、昔は自分が膝枕をされる側だった。
「結局、高校生になってよく考えてみても、おばあちゃんの言ってたことは九割方意味不明なんだよなぁ」
夢の中身を思い出して、天崎は一人でぼやいた。
残念ながら天崎の祖母はすでに亡くなっていた。おののき荘で一人暮らしを始める前なので死に目には会えたが、できればもうちょっと長生きしてほしかったと思う。
「『完全なる雑種』の生き方ってのも、ついぞ聞けずじまいだったし」
『完全なる雑種』に嫁ぎ、『完全なる雑種』の子を産んで成人まで育て上げた祖母なら、教育者としてこれ以上の適任はいない。他種族の血統を引き出す訓練は父が監督してくれたが、結局彼も祖母が何を教えようとしていたかは分からなかったそうだ。
「自分で自分が人間だと思えば人間になる、か」
暗闇に浮かぶ自らの手を凝視する。
高校に入学してから早一年半。天崎はすでに自分なりの結論を出していた。
意図的に遺伝子を操作し、他種族の特長を自由に引き出せる『完全なる雑種』。小学校のクラスメイトが言っていたように、どう足掻いても自分は純粋な人間ではない。
とはいえ、肉体の大半は人間なのだ。何か特定の種族に当てはめるのなら、やはり人間以外にはあり得ない。
自分は『完全なる雑種』であり、人間でもある。
幼い頃は理解しえなかったこの矛盾を、天崎は受け入れることにしたのだ。
誰かに否定されてもいい。誰にも理解されなくてもいい。
自分だけは、自分という存在を無条件で信じてやろうと思った。
……祖母が言っていたのは、たぶんそういう意味だったのだろう。
だが――。
「『完全なる雑種』って、いったい何なんだ?」
先日の事件が、天崎の価値観をガラリと変えた。
今まで他種族の遺伝子を活性化させても、意識を乗っ取られるなんて経験はなかった。原因はヴラド三世の工作だとはっきりしているが、自分の中に別の存在が根付いているのは、あまり心地の良いものではない。
そして彼が表に出てきた時に言っていたらしい、『完全なる雑種』の真実。
数多の血統が混じっているだけではなかったのか? すべてを超越した存在? 確かに状況に応じて血統を使い分けることができれば、汎用性は広くなるのかもしれないが……。
「…………」
自らの両手をじっと眺めながら考える天崎。
答えは――出ない。
「……寝よ」
答えの出ない疑問を考え続けても無駄だ。再びヴラド三世を蘇らせるわけにもいかないのだし。
パタリと再びベッドの上に倒れこんだ天崎は、一呼吸する間もなく寝入ってしまった。
起床の時刻まで、あと一時間半。