第10章 ホームハルト
「――ッ!?」
一陣の風が吹き抜けるのとともに、目の前にいたはずの天崎が忽然と姿を消した。
アランは金色の髪が横切っていった方向へと視線を移す。十数メートル先の暗闇の中、瀕死の天崎を抱きかかえたリベリアがアランを睨みつけていた。
「ミシェルの奴め……」
頭を抱えたアランが、苦虫を噛み潰したような顔を露わにした。
「ミシェルさんを怒らないであげてください。すべて私が悪いんです」
「ふん。どのみち結果は変わらんわ」
リベリアが解放されたことなど些事とでも言わんばかりに、アランが吐き捨てた。
「それでリベリアよ。この状況からどうするつもりだ?」
アランの問いは至極真っ当なものだった。
リベリアは昨夜アランによって折檻されたばかり。現時点でもかなりの満身創痍だ。それに加え、吸血鬼ハンターの杭で拘束されていた両手はしばらく使い物にならないだろう。
一方、天崎もまたかなり憔悴しているようだった。一応まだ意識はあるみたいだが、ようやく現状を認識した様子。うわ言を漏らしながら、虚ろな眼差しで彼女の顔を見上げている。どうやら先ほどの虚勢が最後っ屁だったらしい。
アランもそれなりに体力を消耗しているが、目の前の二人を抑えつけるくらい訳ない。リベリアもそれをよく分かっているはず。
だがリベリアの瞳から光は失われていなかった。
少しだけ俯いた後、彼女は覚悟を決めたように歯を食いしばった。
「こうします」
天崎の首筋へ、ゆっくりと唇を近づける。
「天崎さん。本当にごめんなさい。こうするしか方法はないんです」
「リベ……リア……?」
「少し痛いかもしれませんが、我慢してください」
囁き、リベリアは天崎の首筋へと牙を立てた。
破られた皮膚から赤い血液が溢れ出る。天崎の大切な血を一滴すらも逃さぬよう、リベリアは今ある力の限り目一杯肌へと吸い付いた。
「あが……うが……」
瞬間、天崎の身体が勢いよく跳ねた。心臓が脈打つとともに激しく上下する。
リベリアの腕の中でのたうち回っているうちに、天崎に変化が起こり始めた。
虚ろだった瞳が金色に輝き、瞳孔が縦に割れる。
竹の成長が如く、犬歯が伸びる。
傘を差すかの勢いで、背中からコウモリのような翼が生えた。
――吸血鬼化だ。
「なるほど。この場を切り抜けるためだけに、この男を眷属にするわけだな?」
目の前で妹が凶行に及んでいるというのに、アランは意外と冷静だった。
リベリアが助けに入った時点で、ある程度のことは想定していたのだ。残された手段はこれくらいしかない、と。
しかし意味はあるのか? と、アランは心の中で妹の愚行を憐れに思う。
ミシェルを見れば分かるように、人間から吸血鬼になった者は、どう足掻いたところで純粋な吸血鬼には敵わない。しかも天崎はすでに手負いの状態。多少は治癒能力がマシになるとはいえ、絶体絶命の状況を打開する策としてはあまりに稚拙だった。
やがて天崎の身体に起こっていた変化が鎮まっていく。
リベリアの腕の中でぐったりしている天崎の目が、アランを捉えた。
「いや……別に眷属になったわけじゃなさそうだ」
「なに?」
意味が分からず、アランは訝しげに顔を歪ませる。
だが次の瞬間、疑問を抱くどころではなくなった。
天崎がゆっくりと立ち上がったのだ。
「バカな! この短時間で完治したとでもいうのか!?」
両脚は完璧に折ったはず。たとえ吸血鬼の治癒能力があろうとも、完治までには小一時間は掛かるだろう。
「治っちゃいねえよ。痛いの我慢して無理やり立っているだけだ」
だとしても、たった数分で立ち上がるなど常軌を逸していた。
「何を驚いてんだ? まさか今さら俺が普通の人間だと思っちゃいないだろうな」
「『完全なる雑種』、か」
忌々しげな目つきで睨みつける。
元々『完全なる雑種』自体、普通の人間よりも傷の治りは早い。それが吸血鬼化したことにより、治癒能力の相乗効果にでもなったということなのだろうか。
「それで、眷属になっていないとはどういう意味だ?」
アランは先ほどの疑問を投げかけた。
吸血鬼が人間の血を吸う意味は、大きく分けて二つある。一つは捕食行為として人間を食糧にするため。もう一つは人間を吸血鬼に変化させ、己の眷属として仕えさせるため。他にも快楽を得るために殺戮を犯す吸血鬼もいるが、今は省くとする。
だからこそアランは理解できなかった。
パターンからして『眷属になっていないが普通の人間』か、『眷属になった吸血鬼』しかないのだ。『眷属ではないが、吸血鬼になった』などという中途半端なことにはならないはず。明らかに矛盾している。
思い当たるのは先ほどの獣人化だ。リベリアの影響を受けて『完全なる雑種』の中の吸血鬼の血統が覚醒したんだとしても……やはり眷属になっていない理由に説明がつかない。
「知りたいんなら教えてやるよ。あんた、吸血鬼がどういう仕組みで眷属を作るか知ってっか?」
「……どういう意味だ?」
「ま、知らんよな。俺だって自分がどうやって歩いてるかなんて考えたこともないし」
そう言って、天崎は説明を始めた。
「俺もリベリアに血を吸ってもらって初めて知ったんだけどな。吸血鬼が人間を眷属にする場合、二種類の遺伝子情報を相手の体内に組み込むんだよ。一つは吸血鬼という種族の遺伝子。もう一つは吸血した吸血鬼の個人情報だ」
「遺伝子だと?」
「吸血鬼の遺伝子情報を送り込むことで、人間を吸血鬼へと変化させる。んで吸血鬼本人の個人情報で、主に従わざるを得なくなる本能を遺伝子レベルで刷り込むんだ」
人間を吸血鬼にする遺伝子。
吸血鬼を眷属にする遺伝子。
その二つを注入することで誕生するのが、『吸血鬼の眷属』だった。
「でも俺は『完全なる雑種』だ。リベリア本人の遺伝子情報なんて、何万とある血統の中に溶け込んじまったのさ」
様々な種族の遺伝子を持つ天崎にとって、『リベリア』という一個人の情報など、森の中に植えられた一本の木のようなものだ。確かに木は存在しているとはいえ、全体から見れば微々たるもの。天崎の中で占めるリベリアの割合など、一パーセントにも満たないだろう。
「あんたが本気を出す前、指を噛んで自分の血を吸っただろ? 『吸血の時間』とか言って。それも似たような原理さ」
天崎は己の人差し指を噛むふりをする。
「あれは自分の中に吸血鬼の遺伝子を送り込んで、吸血鬼としての存在濃度を遺伝子レベルから強化してんだよ」
ドーピングというのは、まさに的を射た表現だった。
己の吸血鬼としての存在レベルを向上することで、日光やニンニクといった吸血鬼ならではの弱点をさらに敏感にする代わりに、身体能力や治癒能力などを一時的に増幅できるのだ。吸血鬼の中のさらなる吸血鬼として、その場限りの進化を遂げるのである。
そしてリベリアの吸血行為は、どちらかと言えばこの『吸血の時間』の方に近かった。
リベリアに血を吸われたことにより、元々天崎の中にあった吸血鬼の血統が増幅した。つまり自分で自分の血を吸う代わりに、吸血鬼であるリベリアが天崎に『吸血の時間』を行ったようなものだったのだ。
「そ、そんなことが……」
まったく意図していなかったと、リベリアが目を丸くする。
だが、それは天崎も同じだった。
「ああ、俺も驚いたよ。でも事実だ」
肩越しに振り返っていた天崎が、リベリアに妖しく笑いかけた。
続いてアラン、屋上にいるミシェルへと視線を移す。最終的に夜空を仰ぐと、天崎は未だ折れているはずの両腕を大きく広げて歓声を上げた。
「俺を吸血鬼にしてくれて、ありがとな。おかげで今、最高に気持ちがいい」
ゆっくりと息を吸い、肺一杯に酸素を取り入れる。
瀕死の重傷を負っているにもかかわらず、瞳に生気が満ち溢れていく。
そして……天崎の姿が唐突に消えた。
「――ッ!?」
何の予備動作もなく、一瞬にしてアランとの距離を詰めたのだ。
決して油断していたわけではない。だが、反応できない。脇腹へと食い込んだ回し蹴りにより、くの字に折れたアランの身体は為す術もなく吹っ飛ばされていった。
先ほどの前蹴りが砲弾なら、今度は新幹線にでも撥ねられたような衝撃だ。
翼を広げて威力を緩和させる余裕もない。二度三度地面でバウンドし、アランは無様に地面を転がっていく。
やがて停止するも、身体が思うように動かなくなっている。起き上がろうと腕を支えにしたところで、大量の血を吐いた。
内臓をやられた? いや、今はダメージの診断をしている場合ではない。
早く立ち上がらなければ……マズい。
焦り始めるアランだったが、天崎が追撃してくることはなかった。
見れば、天崎は蹴った方の足を押さえて悶絶しているようだった。
「痛ってええええええ!!!」
当然だ。未だ両脚も折れているのだから。
天崎の考えなしの行動が、切羽詰まったアランに思考する余裕を与える。
リベリアとド突き合い、天崎に撃墜され、挙句の果てには『吸血の時間』の反動によって、自分はかなり体力を消耗してしまっている。対する天崎は、吸血鬼の血統が覚醒してハイな気分になっているよう。負傷度合いは大差ないはずだが、端から見ればどちらが優勢なのかは一目瞭然だった。
いや、そもそもの話、もし自分が万全な状態だったとしても、今の蹴りは避けられたか?
思い出してみて、身の毛がよだつ。
天崎の中に眠る吸血鬼の力量は、まさか自分よりも……上?
思考はそこまでだった。
気づけば、天崎が背中の翼を大きく広げていた。
「足が痛けりゃ飛んできゃいいだけだよな!」
地面すれすれの低空飛行で、天崎が急接近してくる。
ようやく片足を立てられたアランに回避は不可能。防御は? 果たしてどれだけの効果があるのかと苦渋の表情を露わにしながら、アランは咄嗟に両腕を交差させた。
その時、空から何かが降ってきた。
ミシェルだ。
「アラン様!」
無謀にも、アランを庇うようにして目の前に立ち塞がる。
だが無茶だ。まだ天崎の実力を正確に測れているわけではないが、いくら何でもミシェルが敵う相手ではない。
考える間もなく、アランは軋む身体を酷使して前へと躍り出た。
「馬鹿者!!」
ミシェルを庇うようにして抱き寄せた瞬間……アランの左腕が飛んだ。
まるで鷹が狩りをするかのよう。二人の脇を高速ですり抜けた天崎は、アランの左腕だけをもぎ取って後方へと着地する。
そして奪い取った腕を弄びながら、嘲笑の雄叫びを上げた。
「はははははは! おいおい、形勢逆転だな! 待ってろ、今すぐぶっ殺してやるさ!」
再び翼を広げた天崎が前のめりになる。
もし今の攻撃をもう一度食らえば、ミシェル共々命はないだろう。だが絶望的状況の中、アランは意地でも諦めようとはしなかった。
「吾輩は……」
生まれて初めて味わう『死』の恐怖を前に、アランは吼える。
「吾輩はまだ死ぬわけにはいかん!」
愛する妹のために、この身は何としてでも生き永らえさせなければならない。
故にアランは抗う。己の命が終わるその瞬間まで、狩る者を全力で睨み威嚇する。
が、助けは思わぬところからやってきた。今にも飛び掛かって来んばかりの天崎を、リベリアが真横から突き飛ばしたのだ。
天崎にとっても予想外だったのか、為す術もなく転がっていく。
「天崎さん、何やってるんですか! 殺しちゃダメでしょう!?」
リベリアの訴えは当然だ。彼女が戦っている理由は、兄を死なせたくないがため。儀式を断念させる程度に力でねじ伏せられればいいのだ。こんなところで殺してしまったら、それこそ本末転倒である。
だがしかし、リベリアのタックルを受けてゆっくりと起き上がった天崎は、まるで理解していない様子だった。
「あぁ~?」
気怠そうな声を漏らし、憤るリベリアにガンを飛ばす。その態度はまさに、口うるさく注意してくる教師へ反抗する不良学生のようだった。
何か、変だ。
吸血鬼の血統が覚醒し、気分が高揚しているだけとは思えない。明らかに人格が入れ替わっているかのような変貌ぶりに、リベリアは違和感を覚えた。
「貴方……誰ですか?」
「誰か、だって?」
ともすればバカにされたと受け取られかねない質問。
だが天崎はリベリアの指摘を素直に受け入れ、己の両手を注意深く観察し始める。
そして――、
「くくくく、ふははははは、あははははは!!!!」
突然、笑い出した。
「なるほど。そうか、そういうことか! ようやくこの機が巡ってきたのだな!?」
恥も外聞もなく、一人だけ何かに納得したように歓喜の声を上げた。
あまりの狂気に、その場にいる誰もが言葉を失ってしまう。
「ああ、失礼した。感極まりすぎて、ついつい感情が抑えられなくなったのだ。気にしないでくれ」
未だ隠しきれない喜びを口元に浮かべながらも、天崎はリベリアに向けて軽く頭を下げた。
「俺が誰か知りたいのであれば教えてやる。我が名はヴラド。ヴラド三世だ。ヴラド・ツェペシュ、もしくはドラキュラ公と名乗った方が分かりやすいかな? とはいえ、目覚めたばかりでまだ記憶と人格があやふやだがな」
「…………はい?」
純粋に意味が分からなかった。
ヴラド三世だって? もちろんその名は知っている。
現代を生きる吸血鬼なら誰もが敬い畏怖する人物。
歴史上、最も残忍と言われた吸血鬼。
……だから何だと言うのだ? 何で天崎がヴラド三世の名を口にする? この場この状況で飛び出すにはあり得ない人物の名を耳にし、リベリアの中でさらなる混乱を招く。
「困惑するのも無理はない。だが事実だ」
すると天崎は、まるで演説でもするかのように高らかに声を上げた。
「今から五百年ほど前、当時すでに『完全なる雑種』だった天崎という一族の遺伝子に、俺の意識の一部を植え付けたのさ。俺の存在が完全に消滅する前にな」
「意識を……植え付ける?」
「そうさ。そして天崎家の親から子へ、子から孫へと受け継いできたのだよ。いずれ吸血鬼に血を吸われることを期待して」
「いったい……何のために……」
「こうやって復活するために決まってるじゃないか!」
ヴラド三世は、天崎の顔を使って嬉しそうに口角を上げた。
理解に及ばないながらも、リベリアは必死に頭を回す。
ヴラド三世の言っていることが真実ならば、彼は死亡する直前、天崎の先祖に己の意識を植え付けた。代を継ぐにつれて意識は移動していき、最終的に天崎東四郎まで到達。そしてリベリアが血を吸うことで吸血鬼の血統が覚醒し、己の復活という悲願を達成した……ということなのか?
だとしたら、記憶と人格があやふやだと言うのも納得がいく。
ヴラド三世は天崎の先祖を何人も経由しているのだ。おそらく体験した先祖すべての人格と子を成すまでの二十数年間の記憶が、すべて混じり合っているのだろう。言葉を聞いている限り、とても五百年前の偉人の喋り方とは思えなかった。
疑わしくはあるが、天崎が冗談を言っているようにも見えない。
リベリアはアランたちの方をチラッと盗み見た。
現時点でアランはもう戦えそうにはない。ヴラド三世が自分たちと敵対するかどうかを見極めることも含め、現状の打開策を練る時間を稼ぐためにも、リベリアは兄たちの盾となって質問を続けた。
「随分と博打みたいなことをするんですね。吸血鬼が天崎さんの家系をピンポイントで狙って血を吸いに行くなんて、あまりにも確率が低すぎるんじゃ……」
ありませんか? と続けようとして、リベリアは硬直した。何かに気づいたように「あっ……」と声を上げる。自分が天崎を求めた理由を思い出したのだ。
「もしかして、ヴラド三世が遺したと言われている、あの伝説って……」
「察しがいいじゃないか。その通りさ」
リベリアは頭の中で反芻する。『吸血鬼としての能力を喪失する新月の夜、一夜にして千の血を飲むことにより、さらなる上位の存在への進化が叶うであろう』。もしこれが、己が復活するために蒔いた種だったとしたら?
「一夜にして千の血を飲むなんざ絶対に不可能なんだよ。たとえ、どれほどの実力を持った吸血鬼でもな。だからこそ俺は、そのような無理難題を伝説として遺した。完全な存在へと進化を願う吸血鬼が、『完全なる雑種』を狙うように」
吸血鬼を辞められさえすればいいという些細な理由だが、実際にリベリアという吸血鬼が伝説を頼りに天崎の元を訪れた。ヴラド三世の目論見は、あながち間違ってはいなかったというわけだ。
「だとしても、よくもまあ完全な存在なんていう都合のいい話にしましたね。自分を棚にあげちゃいますけど、誰もそんな話を信じていなかったからこそ復活まで五百年も掛かったわけでしょう? そもそも完全な存在って何なんですか?」
「何を言っている? 目の前に実例があるじゃないか」
「目の前って……」
「何故分からん? 『完全なる雑種』こそが、すべてを超越した完全な存在なのだよ」
「…………?」
改めて説明されても、リベリアにはいまいちピンと来ていなかった。
数日ほど天崎と一緒に暮らしていたが、彼は決して完全な存在などという仰々しいものではなかった。人間の中では優れている方であるものの、それでも逸脱しない程度の一般人。普通の高校生。完全な存在とは程遠い、平凡な人間だった。
ただ、そこで反応したのがミシェルだ。
ビクッと身体を震わせ、アランを抱き寄せる力がさらに強まる。
「やはり……」
「ミシェルよ。何か知っているのか?」
アランの問いに、ミシェルは神妙な顔で頷いた。
「はい。これは純粋な吸血鬼であるアラン様やリベリア様には理解できない感覚なのかもしれません。吸血鬼が地上で最も優れた種族なのは疑いようのない事実ですが、もしこの少年みたいに、吸血鬼と獣人の遺伝子を両方持ち合わせていたらどうでしょう。しかも自由自在に操れるのだとすれば……それはもう、吸血鬼を越えた存在なのではありませんか?」
要は単純な足し算である。
吸血鬼の血統を万全に引き出せるのなら、その時点で純粋な吸血鬼と同格。また昼は別の種族で過ごすことにより、吸血鬼の弱点である日光を完全に克服できる。天崎にとって、吸血鬼の弱点は弱点になり得ない。
さらに言えば、天崎の血統は吸血鬼と獣人だけではないのだ。『完全なる雑種』というくらいだから、神や悪魔や天使などの地上に存在しない生物も含まれているだろう。それが時と場合によって使い分けられるんだとしたら?
先日、天崎を前にしたミシェルが戦慄した理由はそれだ。
想像を絶する少年の正体に気づき、身体の芯から恐怖で震えていたのだ。
目の前で立っている少年は、いったい何なのだ、と。
「その通り。俺は何としてでも『完全なる雑種』の身体が欲しかったのさ」
そうして現在、ヴラド三世は念願叶って天崎東四郎の身体を手に入れた。
すべての生物を超越した『完全なる雑種』の血統を。
だが、それで終わりではなかった。ヴラド三世が語ったのは、あくまでも天崎家の遺伝子に入り込んだ理由に過ぎない。彼は『完全なる雑種』の血統を手に入れて、これから何を成そうとしているのか。
しかしリベリアが問うよりも先に、ヴラド三世はアランの方へと視線を移す。
そしてミシェルに介抱されているアランを嘲笑った。
「にしてもホームハルト家の末裔か。くくく、あの脆弱な一族の血筋が未だ今世まで続いているとは驚きだよ」
「……なんだと?」
急に矛先を向けられ、アランは不満を露わにする。
ヴラド三世は構わず、得意げに語りだした。
「知らんのか? ホームハルト家は昔から落ちこぼれの一族だったのさ。軟弱者のホームハルト、腰抜けのホームハルト、挙句の果てには人間と相互理解を深めようとする、吸血鬼らしからぬ思想を持つ吸血鬼。ああ、そうか。ここまで生き残れたのは人間に媚びでも売ったわけだな?」
「貴様……」
「成人の儀などと言って親族を喰らうのがその最たる証拠だろうに。貴様の一族は何故そのようなことをする? 吸血鬼の中でもホームハルト家だけだぞ」
「……ホームハルト家の当主として、一人前の吸血鬼へと成るためだ」
「それをおかしいと思えと言ってるのだ馬鹿者が。わざわざ用意された試練を乗り越えなければ一人前になれないほど弱いと何故気づかん。いや、そもそも親族を喰らうだけなら試練にすらならんな。積極的に喰らおうとはせんが、喰えと言われたらさっさと喰うさ」
「…………」
「故にホームハルト家は異端中の異端。吸血鬼の中でも最底辺の血筋なのだよ」
「――ッ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたのか、アランが飛び掛かろうとする。
だが体力的にも返り討ちに遭うのは目に見えている。これ以上の負傷は確実に死へと繋がると判断したミシェルが、慌てて取り押さえた。
「一つ問おうか、ホームハルト家の末裔よ。貴様は今まで何人の人間を殺したことがある?」
「……わざわざ覚えているわけがなかろう」
「だろうな。では質問を変えよう。今までに何人の人間を残虐に痛めつけて殺した?」
「…………」
意図が分からず答えなかったが、アランの頭の中にはぼんやりと浮かんでいた。
己の人生において、残虐に殺した人間の数。それは、およそ十数人ほど。百年以上生きる吸血鬼としては、異常なほど少ない数字だった。
しかも、そのほとんどが幼い頃に行ったものだ。人間の子供が意味もなく羽虫を分解するように、アランもまた人間の腕や足をもぎ取って遊んでいた覚えがある。
しかし大人になってからは、そのような行為は一切しなくなった。
今でも人間を殺しはする。だが殺すならば、できるだけ痛みを与えず、恐怖を感じさせず、速やかに一撃で行ってきた。それが当たり前だと思っていた。
何故そんなこだわりがあるのか、改めて自問してみる。
否、今さら問うまでもなかった。
なぜなら、痛いのも、苦しいのも、辛いし……可哀想だから。
「そういうとこだぞ、ホームハルト家の末裔よ。吸血鬼とは本来、残虐非道なもの。人間をいたぶり、苦しむ様を見て興奮する。大抵の吸血鬼はそうだ。人間の感情に共感し、可哀想だからと同情するのはホームハルト家くらいのものだ」
「吾輩は……」
「この身体、天崎家の末裔を殺すチャンスは何度あった? その度にどうして殺さなかった? さっさと殺して無理やり妹を連れて帰ればよかったのだ。躊躇した結果、お前は追い詰められているではないか」
「ホームハルト家は……」
「妹は妹で兄を喰らうのは嫌だとゴネ、お前はお前で身を挺してまで眷属を庇う。眷属が主の代わりに死ぬことはあっても、逆は絶対にあり得ないぞ」
「…………」
「ここまで愚かな一族の血筋が途絶えなかったのは、まさに奇跡としか言いようがない」
ヴラド三世の挑発に、アランは……何も言い返すことができなかった。
事実だと、認めてしまったから。
最後まで天崎を殺さなかった理由? リベリアが悲しむと思ったから。
ミシェルを庇った理由? 愛する眷属を失うのは嫌だったから。
そう、すべては愛ゆえの行動だった。個が絶大な力を持つ吸血鬼の中で、家族を愛し思いやる一族。それがホームハルトだ。
「ふん」
愕然と肩を落とすアランを前に、ヴラド三世は完全に興味を失ったようだ。
鼻を鳴らした後、夜空に向けてゆっくりと上昇していく。
「ま、待ってください!」
「まだ何か用があるのか?」
慌てて引き止めるも、冷徹無慈悲な瞳で睨まれ、リベリアは物怖じしてしまう。返答を違えば即座に首を刎ねてきそうな威圧感だった。
「どこへ行くんですか?」
「さてな。明確な目的地があるわけではないと思うのだが……正直なところ、目覚めたばかりで未だ思い出せないのだよ。生前の俺が何を考えていたのかがな。だが自分のことだ。大方のことは予想できる。おそらく俺が求めていたのは支配だろう」
「支配、ですか」
「時間はあるんだ。己の目的など徐々に思い出せばよい。それよりも、せっかく手に入れた新し肉体だ。性能を試すついでに虐殺を楽しもうじゃないか!」
「あ、ちょっと!」
リベリアの制止を無視して、ヴラド三世は高々と飛び上がって行ってしまった。
取り残され、呆然と夜空を見上げるホームハルト家の面々。
するとその時、この場にいる誰のものでもない声が三人の耳に入った。
「……参ったな。さすがにこれは想定外だ」
暗がりから現れたのは、学生服をきっちり着こなした黒縁眼鏡の少年だった。
見覚えがあり、かつ意外な人物の登場にリベリアは素っ頓狂な声を上げる。
「あ、安藤さん!? いつからそこに……」
「最初から見てたよ。ここは僕が張った結界の中だからね。それよりも……」
同じく空を見上げた安藤が、苦々しげに……いや、忌々しげに歯噛みした。
「天崎の身体を借りて現世に復活を果たしたヴラド三世だって? 冗談じゃない。ヴラド三世は自国民も含めて十万もの人間を串刺しにしたと記録されてるほど残忍な吸血鬼だ。野放しにしてたら、街中の人間が殺されるかもしれないぞ」
「ど、どうすればいいんでしょうか!?」
「残念ながら、お手上げだよ。今の僕にはどうすることもできない」
「知恵を貸してくださいよぉ! どうすれば天崎さんは戻るんですか!?」
「天崎を元に戻す、か」
口元を押さえ、安藤は最速で頭を回す。しかし短時間で導いた結論は、安藤の中でも苦渋の選択だった。
「可能なら……もう天崎を殺すしかない」
「そんな……」
「もしくは……ヴラド三世の意識が吸血鬼の血統とともに覚醒したんだとしたら、それを抑え込めば何とかなるかもしれない。天崎が瀕死の重傷を負えば、強制的に人間に戻ることは実証済みだけど……」
安藤が言い淀むのも当然だ。
今述べたことは、あくまでも『可能ならば』という前提に尽きる。まさに机上の空論。ヴラド三世を殺害するにしろ瀕死に追い込むにしろ、安藤には現実的な手段が浮かばなかった。
そんな中でも、まだ諦めていない吸血鬼が一人。
表情を引き締めたリベリアが、胸に手を当てて堂々と名乗り出た。
「分かりました。私がやります」
覚悟が決まれば、後は行動に出るのみ。一秒も無駄にはできないと、すぐさま己の翼を広げて飛び立とうとする。
もちろん、この場にいる誰もが賛成ではなかった。
「リベリア!」
我が最愛の妹を止めようと、アランが声を上げた。
追ったところで勝ち目があるとは思えない。それどころか返り討ちに遭うのは目に見えている。ならばアランとしては、この街の人間すべてを見捨てようとも、妹を守りたいと思うのは当然だった。
だがリベリアは、心配する兄に向けて自虐的な笑みを見せるのみ。
「大丈夫ですよ。私は兄さんが思っているよりも強くなりましたから。それは兄さんもよく知っているでしょう?」
「リベリア……」
いつまでも兄の後ろを付いて回っていたあの頃とは違うのだ。
己の力を証明するため、リベリアはヴラド三世を追って夜空へと飛び上がっていった。
一方、ヴラド三世は未だ結界の中にいた。
学校のはるか上空で滞空しながら、眠りに就いている街並みを一望している。その顔に、不愉快極まりないと言わんばかりの表情を貼りつけて。
「多い、多すぎる。たった五百年で人間とはこうまで増えるものなのか? まさに虫けらの如き繁殖力だな」
自分の目、そして天崎の所持している知識を参照し、ヴラド三世は忌々しげに吐き捨てた。
かつての自分は、オスマン兵の士気を削ぐために何万人もの人間を串刺しにした。やり方もさることながら、自国を守り抜いた功績は現代でも語り継がれている偉業と言えよう。
それがどうだ。こんな極東の片田舎ですら、目の届く範囲だけでもそれ以上の人間が暮らしているらしい。さらに先の大戦では何千万もの犠牲が出たという。残忍性はともかく、数字だけなら自分の実績が霞んでしまうではないか。
何とも度し難い。故に面白い。
今から自分が、この無駄に繁殖した種族を支配下に置くのだ。絶対に抗えることのできない力に恐れ戦き、為す術もなく死んでいく様を想像すれば滾るというもの。
「まあよい。では手始めに、この街の人間から間引くとするか」
抑えきれない欲望を笑みとして漏らし、ヴラド三世は体勢を傾ける。
しかし前進することは叶わなかった。地上から飛び上がってきた金髪の少女に、行く手を阻まれたからだ。
悦びから一転、ヴラド三世の顔は憮然としたものに包まれた。
「なんだ、わざわざ殺されに来たのか?」
「なわけないでしょ。貴方を止めに来ました。天崎さんに身体を返してあげてください」
「それこそ願い下げだ。ホームハルトの小娘ごときが俺を止められるわけがなかろう」
「両腕と両脚が折れてる相手に後れを取るほど弱いつもりはありません」
「お前は両手に穴が開いてるがな」
「…………」
「…………」
売り言葉に買い言葉。対峙した二人は一歩も譲ることなく、睨み合う。
時間を無駄にしたくないと先に折れたのは、ヴラド三世の方だった。
「埒が明かないな。このままでは夜が明けてしまう。吸血鬼らしく、己の主張は力で押し通そうじゃないか」
「……そうですね」
不敵に笑うヴラド三世を見据えたまま、リベリアは己が人差し指を口元へと運ぶ。
強い言葉を使ってはいるが、お互い虚勢であることは明白。おそらく決着は一瞬で付くだろう。ならば後先考えず、最初から全力を出すまで。
「行きます。『吸血の時間』」
己の血液を摂取することにより、リベリアの吸血鬼としての存在濃度が爆発的に向上した。
空腹の肉食獣が如く瞳が輝き、金色の産毛が猛々しく逆立ち始める。普段のおちゃらけた振る舞いは完全に消え、ただ戦闘に特化した怪物へと変化した。
「ふん。落ちこぼれがいくら粋がろうと落ちこぼれには変わりないさ」
軽口を叩き、ヴラド三世もまた己の血を吸うべく右手を上げる。
と、そこで彼はようやく気づいた。
腕が……動かない?
「?」
骨折は未だ完治していないものの、動かす程度なら問題ないはず。にもかかわらず、まるで自分の身体ではなくなってしまったように自由が利かない。
そう、すでに己の物だと思い込んでいたからこその油断だった。
『勝手に人の身体を使って虐殺しようとしてんじゃねえよ、タコ』
「なに!?」
頭に響いた天崎の声。予想外の介入に、ヴラド三世は狼狽する。
「貴様ッ! 何故意識が残っている!?」
『はあ? 逆だよ、逆。何で残ってないと思ったんだ? あんた、別に俺を殺したわけじゃないだろ?』
そもそも俺を殺すなんてできやしないだろうけどな。と、天崎は鼻で笑った。
ヴラド三世が吸血鬼の血統の中で眠っていたのだとしたら、天崎の意識は人間の血統に紐づいていると言っても過言ではない。遺伝子そのものを除去しない限り、天崎の意識を殺すなんてことは不可能である。
また今は吸血鬼化しているとはいえ、天崎を構成する遺伝子のほとんどは人間だ。吸血鬼の血統の肥大化がヴラド三世の覚醒を促したのと同様、遺伝子の大部分を占める天崎が一時的に自意識を取り戻したとしても、何ら不思議ではなかった。
『つっても、今はこれが限界だけどな。だから早々に決着をつけてやる』
「決着、だと?」
天崎の全力の抵抗が、発言の主導権を取り戻す。
そして目の前のリベリアに向け、震える声で伝言を残した。
「リベリア……下で、待ってるぞ……」
「へ?」
端から見れば、いきなり一人芝居を始めたようなものだ。リベリアも戸惑いを隠せない。
だが、言葉の意味はすぐに分かった。頭の上で両手を組んだヴラド三世が、自分の頭頂部を押し付けるようにして墜落し始めたのだ。
「まさか……」
まるで二つの意思が反発しているような奇行。間違いない。天崎の意識が身体の内側からヴラド三世に抵抗しているのだ!
墜ちる、墜ちる、天崎の身体が一直線に地面へと墜ちていく。
その後をすぐに追うリベリア。
そして――、
「ぐああああああ!!!」
ぐしゃっと破裂音がして、両脚が弾け飛んだ。足からの着地には成功したものの、元より折れていたため衝撃に耐えられなかったのだ。
あまりの激痛に悶絶する天崎。
その目の前に、リベリアが降り立った。
「天崎さん……」
「……おう。あとは……頼んだ……」
「でも……」
「迷ってる、暇はない、ぞ。コイツは、この街の人間を、虐殺するって、言ってた。それに、抑えつけるのも、もう限界だ」
ゆっくりと広げられる両腕は、何かに抗うように震えている。おそらくまだヴラド三世の支配に蝕まれているのだろう。
だからこそ徹底的に。再び血統が暴走しないよう、天崎は完全な鎮静化を願う。
託されたリベリアは、一度だけ目を閉じた。瞼の隙間から、涙が零れ落ちる。だが次に見開いた瞳には、覚悟の光が宿っていた。
「……分かりました」
処置は一瞬だった。
リベリアの右手が天崎の腹部を貫いた。
外部へ飛び散る大量の血液。全身から生気が失われていくのと同時に、ヴラド三世の意識が消えていくのを実感する。
ゆっくりと前のめりに倒れていく天崎の身体を、リベリアは受け止めた。
力ある限り抱きしめ、子供のように泣きじゃくる。
「うぅ……あ、天崎さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。すべて私のせいです。私が悪いんです。私さえ、私さえ来なければ……」
成人の儀が嫌だと逃げ出し、天崎の元までやってきた。自分が我が儘さえ言わなければ、天崎がアランと戦う必要も、死ぬほどの大怪我を負うこともなかった。
すべては自分の弱さが招いた結果だ。
しかし天崎はリベリアの言葉を否定するかのように、彼女の背中を優しくさする。
「気に、すんな。結果なんざ……誰にも分かんねえんだから、自分を責めても意味ないって。それよりも……損な役回りを任せちまって、悪かったな」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
謝り続けるリベリアに身を預けながら、天崎はゆっくりと眠りに堕ちていった。