第7章 兄妹喧嘩
わずかに欠けた月明かりが照らす、とある高校の屋上。淡い光の中で佇むミシェルは、ぼんやりと夜空を見上げていた。
おののき荘の一件から、すでに丸一日が経過していた。
逃げるように飛び去った後、ミシェルは人里離れた森の中へと身を隠していた。直射日光の当たらない適当な岩場を見繕い、そこで日中をやり過ごす。ずっと安静にしていたためか、天崎に折られた両腕はほぼ完治していた。
昨夜の出来事に関しては、特に感情を抱いていなかった。腕を折られた憎しみも、リベリアの考え方に対する軽蔑も、連れ戻せなかった自責の念も。
ただ、ミシェルの中に浮上するのは疑問のみ。
リベリアに寝床を提供した人物(もしくは無理やり押し入ったのかもしれないが)が、『完全なる雑種』だったという意外性。そして肉体の一部を他種族の特徴に変化させるという、あの能力。
そもそも事は単純だったはず。成人の儀を拒んだリベリアが実家から逃げ出し、彼女を連れ戻すために自分が追う。それだけの話。なのに何故あんなイレギュラーが発生するのだ?
何か……嫌な予感がする。
どのみちミシェルが対処できる領域ではなくなった。あとは主のアランに判断を仰ぐのみ。
そのため、ミシェルは今こうして空の開けた場所で彼の到着をじっと待っていた。
ふと、顔を撫でる夜風に不気味な威圧感が混じった。人間であればそれだけで足が竦んでしまいそうな重圧の中で、ミシェルは飄々としたまま周囲を見回す。
給水塔の上に、いつの間にか何者かが佇んでいた。
長身痩躯の男だった。夜闇を溶かしたような漆黒の燕尾服を身に纏い、同色の髪は見事なオールバックで整えられている。それ故、病的に白い肌と痩せこけた頬がよく目立つ。まるで何年も入院を余儀なくされている病人に、無理やり正装を施したような出で立ちだった。
黄金色の双眸で射抜かれ、ミシェルは恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました。アラン様」
「うむ。遅くなった」
感情の薄い声で頷いたアラン=ホームハルトは、ミシェルの側へと降り立った。
ただ、ミシェルは妙な違和感を覚える。長年仕えている彼女だからこそ感じる程度だが、アランの声に覇気がない。どこか気疲れしているようだった。
だがそれも、頭を上げたところで正体に気づく。
アランは片手に一人ずつ人間を抱えていたのだ。両名とも意識がないらしく、ぐったりしている。コンクリートの地面へ投げ捨てられても、生体反応らしい動きは一切見せなかった。
まるでゴミのように成り果てた人間たちを見て、ミシェルは眉を寄せる。
「この者たちは?」
「吸血鬼ハンターだ。吾輩が無断で城を離れたのが気に食わなかったらしくてな。こちらも事情があると説明したのだが、問答無用で襲い掛かってきた。故に排除したまで。ふん、新月以外で吾輩に挑むなど無謀な連中よ」
少々手を焼いたがな。と、アランは煩わしそうに肩を回した。
アランが疲労している理由、そして入国が一日遅れた理由には合点がいった。しかしミシェルはこの状況を憂わずにはいられなかった。
「……死んでいるのですか?」
「まさか。気を失っているだけだ。リベリアに負の遺産を遺すわけにはいかぬからな」
懸念が晴れ、ミシェルは主に気づかれないよう小さく息をついた。
吸血鬼を人間に置き換えるとするならば、吸血鬼ハンターはいわば『意思疎通のできる蜂』のようなものである。一匹二匹程度では脅威ではなく、駆除することも簡単だが、刺されれば痛いし、最悪の場合には死に至ってしまう。
とはいえ、蜂とて強大な敵に歯向かって無暗に命を散らしたくはない。
そこで行われたのが『言葉』による交渉である。
人間と吸血鬼の間で契約を交わし、自由と制限を決める。自由の範囲内ならば人間は吸血鬼の行為を黙認し、制限を越えれば吸血鬼ハンターが排除に乗り出す。そうやって両者の間に秩序が保たれてきた。
もちろん吸血鬼側が人間と契約を交わす義務はない。
だが近年、人間はその数を爆発的に増やしてきた。いくら個々の力が強い吸血鬼だろうと、数の暴力には敵わない。そのため現代を生きる吸血鬼は、人間の作った規則にある程度従うことを余儀なくされているのである。
そしてホームハルト家もまた、人間に存在を認められている吸血鬼の一族だった。
住処である城の周辺に無断で立ち入った人間を殺して喰っても良い反面、遠出をする際は許可と監視が必要となる。しかし今回、リベリアの反乱は予定外のことだった。故に手続きをする時間が無かったのだ。
幸か不幸か、リベリアとミシェルが城を離れたことは気づかれなかった。が、当主であるアランは別だったらしい。異変を察知した吸血鬼ハンターが警告に訪れ、そして返り討ちに遭ったというわけだ。
吸血鬼ハンターとの交戦は、アランにとっても苦渋の選択だった。この先アランが死に、リベリアがホームハルト家の当主となる。その時のために、人間とはできるだけ関係を悪化させたくはなかった。
だが今はリベリアを連れ戻すのが最優先。殺しさえしなければ交渉の余地はあるだろうという判断の元、アランは吸血鬼ハンターを昏倒させる程度に止めたのである。
「それで、リベリアは見つかったのか?」
「はい。リベリア様は街中にあるアパートに身を隠しておりました。ですが……」
ミシェルが言葉を詰まらせるのは珍しい。
怪訝に思いながらも、アランは先を促した。
「元より貴様には何も期待していなかったのだ。責任を感じる必要もなければ、吾輩が責め立てるようなこともない。何が起きたのか、説明してみせよ」
「……分かりました」
期待してないという言葉は辛辣かもしれないが、それも無理のないことだった。
力で劣るミシェルが実力行使でリベリアを連れて帰るなど、まず不可能な話だ。また兄のアランが引き留められなかった時点で、リベリアがミシェルの言うことを聞くとは思えない。結局アランにとっては、リベリアの居場所さえ分かれば十分だったのだ。
ミシェルの流れるような説明を聞き終えたアランは、先ほどよりもさらに訝しげな声で問い返した。
「『完全なる雑種』、だと?」
やはりアランも同じところに疑念を抱いたようだ。
逃げ込んだ先に『完全なる雑種』がいたなど、偶然にしてはあまりにもできすぎている。それすなわち、リベリアが何かしらの意図を持って『完全なる雑種』に接触したという証明に他ならない、と。
しかしアランは巡らせていた思考を無理やり遮断させた。
「まあよい。どのみちリベリア本人から聞けば分かること。ミシェルよ、案内を頼む」
「かしこまりました」
確かに、ここで考えていても答えは出ない。本人に聞けばいいなど、最初からリベリア捕縛を諦めていたミシェルにはできない発想だった。
家出娘を迎えに行くため、二体の吸血鬼は翼を広げた。
だが、その時――異様な気配が二人の行く手を阻む。
足音だ。校舎内から屋上へと続く階段を上る足音が、徐々に近づいてくる。まるでアランたちが飛び立つのを阻止するように、わざと大きな音を立てながら、ゆっくりと。
やがて遠慮がちに開かれる扉。外へ出てきたのは、一人の男子生徒だった。
黒縁眼鏡に黒い髪。これといって特徴のない典型的な日本男児の顔立ちであり、また着込んでいる学生服も特に着崩した様子もない。どこの学校にも必ず一人はいる、クソ真面目な優等生……のはずだが、今の状況がそれを完全に否定していた。
「……何者だ?」
問うも、普通の人間でないことは明らかだった。
先ほど話に聞いた『完全なる雑種』と同じだ。日付が変わって間もない深夜、アランたちが屋上にいる今この瞬間に登場するなど、常識的に考えて偶然とは思えない。彼はアランたちの存在を承知しており、かつ用があったと考える方が妥当だろう。倒れている吸血鬼ハンターを目撃しても一切の動揺を見せないのが、何よりの証拠だ。
ならば、この少年は吸血鬼にどのような用事があるというのか。
核心に迫る前に、彼はアランの質問に礼儀正しく答えた。
「こんばんは。僕の名前は安藤といって、あなたたちが話題に出していた『完全なる雑種』の友人です。はじめまして」
「ほう?」
あの会話を聞かれていた? 普通の人間どころか、本当に人間かも怪しくなってきた。
にしても、渦中にある『完全なる雑種』の友人ときたか。また面倒なことになりそうだと、アランは顔を歪めた。ここは相手にしないのが無難か。
「吾輩に何の用かは知らないが、姿を見られたからには生かしておくわけにはいくまい。覚悟はできているな? 逃げるなら今のうちだぞ?」
「僕を殺すというのであれば、別に構わないよ。でも、やめておいた方がいい」
「何故だ?」
「数年後、確実に後悔することになる」
「…………」
意味を捉えかね、アランは眉を寄せた。
ただ、嘘とは思えなかった。この少年を殺すことで、自分たちは確実な不利益を被ることになる。彼にはそう思わせるほどの巨大な何かがあり、アランの本能が絶対に殺すなと強く訴えかけていた。
「貴様……人間ではないな?」
「ご明察。僕は悪魔だ」
「悪魔と言っても幅広い」
広義に解釈すれば、アランやリベリアのような吸血鬼も悪魔と呼ばれることがある。場合によっては大罪を犯した人間にも呼称されるくらいだ。種族とは別にしても、その意味はけっこう曖昧だったりする。
しかしアランは何となく察していた。コイツはおそらく地上に存在しない類の悪魔だ。
後悔するとは、そういう意味か。吸血鬼ハンターと同じで、リベリアに負の遺産を遺すわけにはいかないのだから。
「それで、貴様の用件はなんだ? 『完全なる雑種』の友人だとか言ったな。奴の寝床が破壊された件で、意趣返しにでも来たのか?」
「いやいやいや。そんなつもりはない、あなたたちの邪魔をするつもりはないよ。僕はただ、お願いがあってここに来たんだ」
「お願い、だと?」
「そう。実は僕、本来は魔界で生活していた悪魔なんだけどね。今こちらで一番勢力を増している人間とやらの実態を調査せよと、上から命令が出てさ。仕方がないから、一通り人間の人生を送ってみてる最中なんだ」
気の遠くなる話ではあるが、悪魔としての安藤は有史以前から存在しているのだ。人間の短い一生など、片手間の仕事にしか過ぎないのかもしれない。
「吸血鬼のようなイレギュラーが介入してしまうと、正確なデータが取れなくなる危険性がある。昨日アパートをぶっ壊したように、地域住民の不安を煽ったり人死にが出るほどの災害を起こされては困るんだ。だから意趣返しという意味では、文句くらいは言いたいよ」
僕も苦労してるんだ。と、嘆息した安藤はミシェルを睨みつけた。
対するミシェルは物怖じした様子もなく、どこ吹く風といった感じだったが。
「お願いとは、そういうことさ。この街で騒ぎを起こさないでほしい。住民に迷惑を掛けないでほしい。できることなら吸血鬼としての姿を誰にも目撃されないでほしい。じゃなきゃ、僕が困る」
「ならば問題ない。我々は利害が一致してしているようだ。こちらとしても事を荒立てるつもりはないからな。リベリアを確保したら、速やかに城へ帰る予定だ」
「それは良かった。その言葉を聞けたおかげで、今日は安眠できそうだよ」
ホッと胸を撫で下ろす安藤。その仕草がとても芝居臭かった。
当然と言えば当然だ。吸血鬼の言葉を手放しで信じるほど安藤も愚かではない。事実アランは、ミシェルがおののき荘を破壊したことを咎めもしなかったのだ。リベリアを連れ戻すためには多少の犠牲もやむを得ない、くらいのことは考えているに違いない。
「僕の用件はこれで終わりだ。今日はもう帰るけど……約束を破ったら怒るからね」
最後にダメ押しで釘を刺し、安藤は踵を返した。
だが扉に手を掛けたところで、思い出したように告げる。
「ああ、そうそう。実は今、この学校の敷地に結界を張っていて、夜の間だけ異界化するようにしてあるんだ。出入りは自由にできるけど、敷地内ならどれだけ暴れようとも外に被害が及ぶことはないよ」
「…………?」
言葉が頭へ浸透するよりも早く、安藤は扉の向こうへと消えてしまった。気配も完全に無くなっている。
しかし去り際の一言は、いったいどう判断したものやら。
「敷地の異界化、だと? また訳の分からないことを」
とはいえ結界が張られているのは本当らしく、また閉じ込められているというわけでもないようだ。おそらく安藤は、近隣住民への配慮のために手間をかけたのだろうが……。
「……ここで暴れるつもりはないのだがな」
「あの方は我々を破壊の化身とでも思っているのでしょうか?」
ぼやくアランに対して、ミシェルはすまし顔で憤慨していた。
約束を厳守できるかは別として、利害が一致していることに嘘偽りはない。吸血鬼ハンターどもの反感を高めないためにも、事はできるだけ速やかに、そして秘密裏に行うに越したことはないのだ。
それに、あの悪魔の存在も不穏すぎる。このような街、一秒たりとも長居したくはない。
そうと決まれば話は早い。想定外の出来事はあったが、やることに変わりはない。
改めてミシェルに案内せよと指示し、アランは翼を広げた。
だがしかし――、
安藤がこの場に訪れた真の理由を、アランはすぐに知ることとなる。
立ち去った安藤と入れ替わるようにして、再び気配。
だが今度は階段ではない――空だ!
しかもアランとミシェル共々、この圧迫感には身に覚えがあった。
突如として嵐が発生した。屋上の砂埃が狂ったように巻き上がり、二人の吸血鬼は両腕で顔を防護することを余儀なくされる。
そして……見た。縦横無尽に吹き荒れる嵐の中心に降り立つ、一人の吸血鬼を。
月光の如く輝く金の髪。威風堂々とした佇まい。己が狩る側だと信じて疑わない凛々しき顔立ち。服装は変わっているが、見間違えるはずもない。アランの妹、リベリア=ホームハルトその人だ。
リベリアが地に足を着けたことにより、周囲に纏う風が徐々に収まっていく。そして夜の静けさが完全に蘇った後、彼女は物憂げな声で呟いた。
「……兄さん」
「おお、リベリアよ」
対するアランの声は歓喜に満ちていた。
無理もない。数日前に喧嘩別れした愛しの妹が、自分から戻ってきてくれたのだから。
「自ら姿を現したということは、ようやく帰る気になったのだな?」
「……違います」
真正面からアランを射るリベリアの瞳には、不屈の意志が宿っていた。
「私は城に帰る気はありませんので、兄さんたちはこのままお引き取りください。今日はそれを伝えに来ただけです」
「我が儘な妹よ。これ以上、兄を困らせるな」
手の平で目頭を覆ったアランは、深いため息を吐きながら夜空を仰いだ。
だが、いくら困らせようともリベリアの意志に揺るぎはない。城へ戻り成人の儀を受け入れることは、すなわちこの手で兄を殺すことを意味する。ずっと兄に生きていてほしいリベリアにとって、絶対に受け入れるわけにはいかない要請だった。
また、アランが諦めるまでここを退くつもりもなかった。
退けば、再びおののき荘を巻き込むことになるだろう。これ以上、自分の都合であの心優しい人たちに迷惑を掛けたくはない。
だからこそリベリアは、天崎に嘘を付いてまで一人で飛び出してきたのだ。
手負いのミシェルがしばらく攻めてこないというのは嘘。
あれくらいの怪我、吸血鬼なら一時間もあれば完治する。
対策を立てるために時間を使うというのも嘘。
近いうちにアランが来訪することは知っていた。
そして……。
「リベリアよ。まだ成人の儀を行いたくないなどと腑抜けたことを口にするのか?」
「はい。私は兄さんを喰らいたくはありません。そのような時代遅れの儀式で兄さんが死ぬ必要はないと思います」
「時代遅れ、だと? ホームハルト家の先祖を侮辱するのも大概にせよ」
アランの声音に少しだけ怒気が混じった。
口調の変化に気圧されながらも、リベリアは毅然とした態度で答える。
「侮辱しているわけではありません。けど、儀式に意味があるとは思えないんです」
事実、ホームハルト家以外の吸血鬼は、成人の儀などの決まった時期に近親者を喰らったりはしない。仮に意味があるとするならば、他の吸血鬼たちも進んで行っているはずだ。
「意味ならあるさ。近しい者の死は、それだけで精神を大きく成長させる。それが自ら手に掛けたとなれば尚のこと。次期当主たるリベリアには、吾輩の死を乗り越えて立派になってもらわねば困るのだよ」
「当主ならそのまま兄さんが引き継げばいいですし、儀式など行わずとも私は立派になってみせます」
「愚かな……」
我が身を省みることすらできないのかと、アランは呆れ果ててしまった。
嫌だ嫌だと駄々をこね、己の我が儘を貫き通そうとする姿は、まさに子供そのもの。とても成人前の吸血鬼とは思えない。当主を継ぐ継がないに関係なく、何か成長するきっかけがなければ堕落してしまうのが目に見えている。
ホームハルト家の吸血鬼として、情けない限りだ。
「……告白しよう。吾輩も昔は気弱な吸血鬼だった。だが成人の儀にて母を喰らってからは、自分でも驚くほどの自信が満ち溢れてきたのだ。当主としての責任感が、吾輩の精神力に大きく影響したのだろう」
「知っています。兄さんは成人の儀を境にとても立派になられました」
「ならば……」
「でも、嫌なんです!」
リベリアの訴えに涙が混じり始めた。
「兄さんを喰らうくらいなら、立派にならなくてもいい! 吸血鬼でなくなったっていい! 私は……兄さんと別れたくない!!」
「……………………なに?」
瞬間、アランを纏う空気が一変した。
幼い頃、度重なる悪戯の果てに厳しく折檻されたトラウマが、リベリアの中で蘇る。これはアランが激怒する一歩手前の雰囲気だ。あまりの恐怖に、リベリアは一瞬にして蛇に睨まれた蛙と化してしまった。
アランの逆鱗は明白であり、それはリベリアの失言でもあった。
『吸血鬼でなくなったっていい』。ホームハルト家だけでなく、すべての吸血鬼を侮蔑する発言には、穏便に説得を試みようとしていたアランも咎めないわけにはいかない。
だがしかし、今は平時とは状況が異なっていた。
アランの頭の中で、様々な要素が一本の線になって浮かび上がる。結果、次に彼の口から出たのは分からず屋の妹を正す一喝ではなく、深い失望だった。
「リベリアよ。まさかとは思うが……貴様が『完全なる雑種』の元にいるのは、あの伝説が関係しているわけではあるまいな?」
アランの疑問に、リベリアはビクッと肩を揺らした。
偽る選択肢は……ない。アランはすでに確信を得ているよう。どのみち否定したところで、『完全なる雑種』と関わっている理由を問い詰めてくるに違いない。
かといって沈黙は肯定を意味する。肯定することは、すなわち……。
退路を断たれたリベリアの額に汗が浮かぶ。
その時、アランの横からミシェルの怪訝な声が割って入った。
「アラン様。あの伝説とはいったい何のことですか?」
「ああ、そうか。元人間のミシェルは耳にしたことがなかったか」
リベリアを眼で牽制しながらも、アランはミシェルに向けて説明を始めた。
「ホームハルト家に限らず、すべての吸血鬼の間にはこんな言い伝えがあるのだよ。なんでも『新月の夜に千の血を飲むことによって、吸血鬼はさらなる上位の存在へと進化ができる』というものらしい」
「なんと、そんな伝説が……」
「下らん戯言だがな。もっとも吾輩は、実際に上位の存在へと進化した者どころか、伝説を試してみたという者すら耳にしたことはない。そもそも一夜にして千の血を飲むなど、いくら吸血鬼でも不可能な話だ。が、」
アランの軽蔑に満ちた視線がリベリアを貫く。
「大方この娘は、『完全なる雑種』の血で代用しようとしたのであろうよ」
「……成功するのですか?」
「分からん。しかし試してみる価値はあるだろうな。吸血鬼でなくなりさえすれば、成人の儀を行わずに済むなどと血迷った娘にとっては」
即興で考えたリベリアのアイディアなど、アランにはすべてお見通しだった。
己の謀略を暴かれたリベリアに、もう言葉はない。後は兄の審判を待つのみ。
と、
「くくくく、ふははははッ……」
何が可笑しかったのか、突然アランが笑い出した。
「なるほど、なるほど。これで合点がいった。ミシェルの口から『完全なる雑種』などという単語が出た時は首を捻ったが、まさかあのような伝説に縋るつもりだったとはな。やはりお前はまだまだ未熟だよ」
吸血鬼は高らかに笑う。近所迷惑などドブ川に捨てた勢いで、雄々しく、威風堂々と。
そして――、
「ふざけるなよ」
絶対零度の双眸がリベリアを貫いた。
喉が渇く。思考が曇る。産毛が逆立つ。呼吸が乱れる。
魔眼ではない。ただ睨まれているだけなのに、全身から冷たい汗が滲み出てくる。
人間であれば自害を選んだ方がマシと思わせるほどの恐怖が絡みつき、リベリアは身体の自由を奪われていた。
「成人の儀を拒むだけならまだしも、吸血鬼であることを放棄するだと? それはすべての吸血鬼に対する侮辱であり冒涜だぞ! 恥を知れッ!!」
アランの咆哮が大気を揺らした。
リベリアが屋上へ降り立った時とは違う。翼すら広げていないのに、周囲の砂埃が舞い上がった。それはまるで、無機物すらアランを恐れているかのように。
ならば怒りの矛先を向けられているリベリアは、どれほどの重圧を身に受けているのか。
遠くなりつつある意識を唇を嚙むことで繋ぎ止め、リベリアは無理やり言葉を絞り出した。
「に、いさん……私は……」
「もうよい」
激怒から一転、アランの声が深く沈む。失望を通り越し、絶望に打ちひしがれているよう。
再び夜空を仰いだアランの口から漏れたのは、己に対する反省と諦観だった。
「どうやら吾輩が間違っていたようだ。リベリア、お前を甘やかしすぎた。まさか、この歳になって本気で躾をする必要があるとはな」
妹と過ごした日々を思い出しながら、ゆっくりと顔を戻す。だが次にリベリアを見据えた眼差しは、もはや可愛い妹に向けるものではなかった。
敵。蹂躙すべき相手を前に、アランの瞳に闘気が満ちる。
「くくく。なるほど。あの悪魔、最後の一言こそが真の目的だったのだな? おそらく、こうなることを見越していたのだろう」
それに加え、リベリアが到着するまでの時間稼ぎの意味合いもあった。安藤の無駄話がなければ、二人は結界の外で鉢合わせしていただろうから。
どのみち感謝せねばなと、アランは不敵な笑みを見せる。
対峙するリベリアも、すでに覚悟は決まっていた。今にも崩れてしまいそうな脚を気力で持ち堪えさせ、兄のスパルタ教育を真っ向から受け入れる。
「私は構いません。元よりそのつもりです」
退くこともできない。従うこともできない。ならば戦うのみ。
けど……天崎に付いた最後の嘘が脳裏を過る。
負けないと豪語したはいいものの、今まで一度たりとも兄に勝ったことはなかった。
「決着を付けましょう。兄さんに勝って、私は自分の力を証明してみせます」
負けるわけにはいかない。負ければすべてを失いかねないのだから。
実の兄を屈服させるため、リベリアは自らの人差し指を噛みしめる。
「さあ、『吸血の時間』です」
今宵、異界化された空間の中で、熾烈な兄妹喧嘩が人知れず始まろうとしていた。