無法の街
『あらゆる自由が許される街』
そんな世界があると噂されたのはいつの頃だっただろうか。
その噂が本当であると周知されたのも、自分がそこに行きたいと願ったのも、現にこうしてその街で暮らしているのも。
そのどれも定かではないな、と。こうして路地裏の影に潜みながら思っていた。
「お願いです! 私達をこの街に住まわせて下さい!」
くたびれたスーツ姿の男が頭を下げて、ボスに懇願する。
薄暗く、夜明かりが怪げに照らす路地のなかで、深々と頭を下げる男には、中々に度胸があるようにも見える。
側にいるのは女と子供。家族共々この場に逃げ込んで来たのだろう。だが男と違い、二人ともこの場に恐れを抱いているのか、互いに寄り添っていた。
「……この街に、ねェ。で、理由は?」
歯で断つような鋭い声でボスがそう言うと、周りの空気に緊張が張り詰めた。
品定めだ。この街にふさわしいのか、そうではないのかという。
「……私はもう、働く事に疲れたんです。もっと、自由に生きていたい。何も悩むことなく、自分のやりたいことをしていたいんです。以前は小売業をしていまして……」
話を始めた男は、まるで独白のようにつらつらと身の上話を続けた。
他人の苦労話なんて別に聞きたくないが、ボスが止めない以上は放っておくしかない。
苦労話に次ぐ苦労話。
やがて話に区切りが着くと、ボスは怪しげな笑みを称えながらこう言った。
「……ンで? そこの二人はどうなんだ?」
鋭い視線を向けられた女は、怯えて声も出ない。
その間に入るように、くたびれたスーツが割り込む。
「……家族です。一緒じゃ駄目ですか」
「ンな事言ってねぇよ。オレはソイツに聞いてンだよ。ちょっと黙ってろ」
男を退かせたボスが、女に問いかける。
この場にまた、張り詰めた空気が漂う。
「別にとって喰ったりしねェよ。ただ、正直に答えればいい。聞きたいのは、この場に来た理由だ」
「……夫が、この街で暮らしたいと言ったので。これといって理由は……」
へぇ、と。何処かで小さく呟く声が聞こえた。
それと同時に、こちらも気を引き締める。
あの女性には手を出せない。出してはいけないのだ。
「そっちの嬢ちゃんはどうだ」
鋭い声で尋ねられた子供は一瞬涙目になるが、ボスの側付きから優しい声をかけられ、飴を貰うと小さな声で一言話した。
どうやら、母親と離れたくないからだという。
「……よし、理由はわかった。とはいえ、コレで街に住むのを拒否したりはしねェよ。この街は何よりも『自由』を尊重される場所だ。入るのも出るのも全部テメェの自由だからな、オレもとやかく言うつもりは無い」
「そ、それじゃあ、ここで暮らしても良いんですね!?」
男の問い。その回答まで一瞬の時であるというのに、随分と長く感じた。
失礼します、と。側付きは少女の目を覆った。
これから起こることを予見した結果だろう。アレは子供には衝撃的過ぎる。
やがて、その口火はボスの一言により切られた。
「あぁ、今日からテメェらはここの住人だ」
瞬間、張り詰めた空気は決壊した。
同時に、路地裏の陰から躍り出た男性軍。
そしてその全てが頭から真っ赤な血を吹き飛ばし、死体が数人分散らばった。
「……は?」「……え?」
新人の夫婦は、突然の理解できない事態に呆けた声を上げるのみ。
唯一目を隠されていた少女のみが、この場にて残酷な情景を目の当たりせずに済んだ。
「いけませんねぇ。新人の歓迎とはいえ、美しい女性を狙うなんて。そんな紳士にあるまじき行為、許す訳がありません」
影から現れたのはスーツ姿の男。
その周りには屈強なガードマンが数人立っている。
彼はたった今、無法者達がぶちまけた脳漿の上を、赤いカーペットを歩くかのように現れた。
何処からか聞こえる「また服飾家か」「身を引いて正解だったな」という声で、自分の勘が正しかったことを再確認した。
あの場で女性を狙った全ての人間が、この場に潜む者に殺されたのだ。
勢いで飛び出した日には、アレと同じ目になっていただろう。
「失礼しました。私、この街で服飾家を営んでいます。名はこの場で言うことができませんが……どうか私と供に暮らして頂けませんか」
まだ状況をよく飲み込めていない夫婦……ではなく、その妻の方に語りかける。
毎度の光景とはいえ、あの行動はこの街の住人を象徴するものだ。何度見ても、見事な求婚だ。
自由の街らしく、常識に対する配慮も、迷いも全く無い。
「お、おい! 人の嫁に対してそんな……あ"!?」
「あいにく男の方には興味がありませんので。少し大人しくしてて下さい」
くたびれたスーツはガードマンに組伏せられ、言葉1つ返す事が出来ない。
そんな状況には目もくれず、服飾家は片膝をついて女性の手をとる。
女性は困惑した様子で、夫と彼の間で視線を揺らしていた。
そんな状態でも子供の手を放さなかった事を、服飾家は目の端で評価した。
「……ご返答を」
「そんな急に……私達、家族なんですよ」
「……なるほど。この街の事をあまりご存知ではないとみえる。それでは、少しご説明しましょうか」
服飾家は大袈裟に手を広げて、語りだす。
この街の魅力がいかなるものか、と。
「『自由』なのですよ。婚姻という縛りさえ、この街では意味を成さない。法、権力、常識。その下らない全てを、ボスは撤廃されたのです」
だからこそと、服飾家は女性に周りを見ることを促した。
そしてようやく気付いた状況に、息を飲んだ。
物陰から覗く数十という視線が、舐めるような視線を向けていた。
それは、この場で女性が狙われているという自覚を得ると共に、恐怖を抱くに充分な理由だった。
「察しが良くて何より。法が無いという事実は、人の欲望をより強くする。おそらく、この場に潜む者は皆『自由』を理由に貴方へ襲いかかるでしょう」
そう言って手を差しのべる服飾家。
あの手を掴むのが、この場で女性が助かる唯一の手段と言える。
「……もし、あなたに従った場合、家族はどうなるのですか」
「貴方が望むなら、私の力で保護することも考えましょう。特に幼い娘さんをこの場に置いていくのは、私としても望むところではありませんので。ただ……」
前置きという意味で、服飾家は伏した男に視線を向けた。
組伏せられ身動き1つとれない彼を見ながら、条件提示ともいえる一言を付け加える。
「この街の事をよく調べず、貴方を危険に晒したこの男は、個人的に私の嫌うタイプの者です。よく考えてください」
そう言って手を伸ばす服飾家の目は、少しも笑っていなかった。彼が女性に突き付けた要求は2つだ。
夫を見棄てて娘と共に助かるか。
闇に潜む者達に、家族もろとも蹂躙されるのか。
妻は組伏せられた夫の姿をもう一度見た後、確固たる意思を持って男の手をとった。
「娘共々、よろしくお願いいたします」
伏した男は、信じられないという目で、たった今妻では無くなった女性を見上げた。
「もちろん。もし外の世界を臨むなら、この街から出る橋渡しの役割であろうと果たして見せましょう。もっとも、そんな気持ちはすぐに無くなるハズだ」
男は今、女性の目を見て確信する。
『妻』という役割を自ら手放した彼女は、表面上は辛く見えても希望に満ちていた。
彼女の中には少なからず、その関係に不満があったという事だ。
1度自由の素晴らしさを知ってしまった者は、多重に縛られた忌々しい現実には戻れない。
彼女もまた、この街の住人となったのだ。
「では、行きましょうか。別れの言葉は必要ですか?」
「……いえ。必要ありません」
「意思の強い方だ。やはり、素晴らしい」
その言葉に満足した服飾家は、その場のガードマンを何人か女性とその娘につけ、安全な路地へと誘導した。
曲がり角を曲がるまで、彼女達は1度も振り向くことは無かった。
やがてその場には伏した男と服飾家、そしてボスが残った。
「……ハハッ、これで何人目だ?」
不敵に笑うボスに対して、服飾家は姿勢を正して答える。
あの笑みは、この場のやり取りを楽しんでいる者にしかできないだろう。
「それはどちらを指して言っているのでしょうか」
「クックッ……そりャ、どっちだろうなァ」
モノにした女か、殺した男達か。
どうせ二人とも覚えていないのだから、その会話は続くことはなく、果たしてその視線は伏した男に向けられた。
「さァて、コイツの気持ちも聞いてみるか。オイ、手をどけてやれ」
ボスの一言で開放された男は、ようやくまともに呼吸をして、むせかえる。
やがて落ち着いた後、男は酷く憎悪にまみれた視線を二人に向けた。
「人の家族ですよ!? なんで手を出したりするんですか!?」
「おォおォ、まだ全然元気じゃねェか。で、どうだ? テメェの望んだ自由ってヤツはよ」
「何が自由ですか。好き勝手やっているだけでしょう!?」
ボスは一瞬の間の後、やがてケラケラと笑い始めた。
この場の誰もが思った筈だ。
甘い、と。
「こりゃ、天然モノだぜェ? 勘違いも甚だしいってヤツだ。なぁ!?」
「残念ですが、男の方には興味がありませんので。帰って良いですか」
「あァ、帰れ帰れ。どうせこの後起きる事なんてたかが知れてる」
二人はそうして男に完全に興味が失せたようだ。
もっとも最初から興味なんて無かったかもしれないが。
俺もそろそろ、出る準備をした方が良さそうだ。
「ちょっと待って下さいよ!? 住むところはどうするんですか!? これから行くべき場所は……」
「ンなもん自分で考えろよ。『自由』なんだろ?」
スーツ男の顔がいよいよ青くなる。
彼はおそらく、この街には向いていない人種なのだろう。
法や常識の縛りがなければ、生きていけない人間なのだ。
「まァ、わからねェ事があるなら聞けば良い。ソイツらが教えてくれるだろ。新人に優しいなんて奇人が居れば、の話だが」
「何を……言っ、て……」
陰から現れた住人に、スーツ男が言葉を無くした。
男の目にようやく、現実を認識した恐怖が浮かんだ。
「いいか。この街は『自由』だ。略奪、強姦、殺人。何であろうと許される街だ。楽なんて言葉は、それこそ真逆の世界の事だろ?」
これから、あのスーツ男はどんな目に合うだろうか。
それこそこの街の住人からすればどうでも良い話だが、少なくともこの場に留まることは決して無いだろう。
……そろそろ頃合いだろうと、俺も物陰から出る。
やがて始まった略奪の競争。
俺もずっと、あのスーツが欲しかったのだ。