夕暮れは赤く染まる
ーーーーー死にたいと、そう思った。
シミ1つ無い清潔なベッドの上で青年は、今しがた手にしていたスマートフォンを取り落とした。
震えが止まらない手で、胸に爪をたてる。
自らの心臓を握り潰すように、強く。
ーーーーー本当は分かっていたのだ。みっともらしく、生にすがり付いていると。
ここに、自分が生きている理由はなく。
そんな存在が今、確かに誰かを傷付けた。
ただ呼吸をする。
それだけで、苦しむ人がいるのだ。
ならこの命にはきっと、一片の価値もない。
「……もう……疲れた」
心も。体も。
力なくそう呟いた彼は、視線を窓枠の、外の世界に向けた。
もう何度も見た景色。手を伸ばしても届かない景色。
だが今日に限っては、そうは思えなかった。
彼は窓際にしがみつくようにして、立ち上がる。
足は、自分の体重を支えることもできず、今にも崩れ落ちそうに震えた。
それでも、彼は手を伸ばす。
あるだけの筋力を使ってギリギリのところで鍵を開けた彼は、1度崩れるように倒れこんだ。
そしてまた、窓に抱き付くようにして立ち上がり、それを開け放つ。
「……寒い」
初春の夕暮れの空気が、無駄に伸びた髪をさらう。
オレンジ色のペンキをぶちまけたような陽の色が、目を焼く。
何度も見た景色が、今日はひどく鮮やかに見えた。
ーーーーー願わくば。
窓に手をつき、身を乗り出す。
その挙動1つに、迷いは一切なかった。
ーーーーー自分の居ない世界が、幸せでありますように。
ねっとりとした浮遊感が体を包む。
数秒後に訪れる死を前に、様々な記憶が巡った。
と、同時に。
「あ……」
青年は見た。
その思い出の大半を占める、大切な人が。
自分を見上げて叫ぶ姿が。
「……そ、っか」
驚き。戸惑い。心配。
信頼を裏切ったことへの怒り。
唐突な状況で、様々な感情をのせた彼女の叫びを聞いて。
あんな泣きそうな顔を、させてしまって。
気付いた。
ーーーーー自分は『生きること』から、逃げたのだ。
後悔と、辛さと。
彼のあらゆる感情を乗せて、口から溢れた。
「……ごめん」
小さく呟いたその言葉は、風にさらわれて。
残された脱け殻は、その日の夕焼けの色を、少しだけ濃くした。
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「……適合者が、死んだのぉ」
暗い夜道の中、怪しげな装いの一人の老婆が呟く。
フード付きの真っ黒なコートから、突き出た鼻先と、曲がった背骨。
骨で出来た割れた仮面で、口全体を覆った不気味な風貌。
その姿は老婆が放つ空気からしても異質なものだったが、道行く人は誰一人、その存在に気づくものはいない。
「そう。ならアタシが」
老婆の声に答えたのは、女性。
こちらも同じ姿をしており、フードを深く被っている。
彼女はそれが仕事であることに、とまどいを持たない事務的な対応をした。
「アタシが、刈り取ってくる」
彼女が手を伸ばすと、何もない空間に黒いもやが生まれる。
そこから引きずり出すように取り出したのは「鎌」
身長の倍はあるそれは、凶悪なほどに無機質に曲がっていた。
「いつみても、お前さんのソレは怖いのぉ。見てるだけでこっちの魂が刈り取られそうじゃ」
「……オババがそれを言っても、嫌味にしか聞こえないわ」
「いやいや、現役だった頃でもそれほど禍々しくなかったのぉ」
ふぉっふぉっ、と笑っている老婆に女性は不満の目を向けたが、老婆が目的の方向を指差すと、そちらを真剣な眼差しで見た。
そこは、なんのへんてつもない、普通の病院だった。
「まぁ今回はそれほど気を張る必要もあるまいて。下手すりゃ、無抵抗で刈らせてくれるじゃろ」
「……下級、なのね」
「それも、下級の中の下級じゃな。じゃが……」
オババと呼ばれるその老婆が骨の仮面を外し、滅多に見せない笑い顔を見せた。
「綺麗な魂をしておる。この時代にも、こんな若者が居るのじゃな」
あまりに嬉しそうなその声に耳疑う女性。
少し遅れるように気を取り直し、鎌を肩に乗せた。
「どっちでもいいわ。貴重な人材なんだから、ぜいぜい役にたってもらいましょ」
目的地に歩き始めた彼女を見守る、老婆。
「……時代が、変わる予感がするのぉ」
なんとなく呟いた言葉は、スッと闇に消えた。
「アンタね。適合者は」
彼女はそこに転がっていた魂を見て、ふっと息をついた。
オババが言っていた通り酷く弱々しく、人の形すら成していない。
おそらくはなんの影響も与えられないその魂に、拍子抜けしたのだ。
「刈る前に聞いといてあげる。アンタの後悔はなに?」
その魂が揺らめくようにして、答えた。
『……殺してくれ……俺が生きてたら、駄目なんだ』
少し驚いた素振りを見せる女性。
この魂が、今まで刈ったどの魂にも見たことのない反応をしたからだ。
「ふーん。アンタ、生き霊のクセに未練とか無いんだ。変なの」
彼女はその魂を上から下までながめると、やがて興味失ったかのように、肩に担いだ鎌を振り上げる。
「あなたの魂。その未練ごと、刈り取ってあげる」
そして、決まりの言葉と共に、その魂を薙いだ。
ーーーーーこの世に残ってしまった魂を刈り取る。そんな役割を持った彼女達のような存在を『死神』といった。
これはそんな世界に足を踏み入れた、ある青年の物語。