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09 過去

 その日は通院日で、私は朝から精神科に向かっていた。入院施設もあるその病院は山の奥の方にこっそりと……というわけではないんだろうけど、まあそんな感じのところにあって、自然の多い病院にも、山中に立てられた要塞にも見えるつくりだった。白かったのであろう壁は、すっかりくすんでしまっている。

 私の主治医は中年の女性だ。はっきり言うけどこの人はかなりのおしゃべりで、なおかつすごい変人である。これは褒めている。以前、私が過食症になってお菓子ばかり食べていた時、その主治医は真剣な顔をして、真面目な声色でこう言った。


「栄養バランスが崩れるのはよくないわ。お野菜もちゃんと食べなさい。そうだ、抹茶アイスとかどう。あれ緑色だから野菜でしょ、きっと野菜よ、緑黄色野菜。……え、違う? うそ、あれ野菜じゃないの? 違うの? そうなの?」


 ――いまだに、あの発言が本気だったのかネタだったのかは判別がついていない。



 診察室に入ると、主治医はいつもの笑顔で出迎えてくれた。この人はいつも、にかっと笑う。大人っぽくない笑い方。でもそれが好きだった。


「二週間、どうだった? かわりない?」


 仕事を辞めてからの私は、一日中寝ていることが多かった。主治医の言う「かわりない」は、寝たきりの状態を指す。はっきり言ってこの二週間も、ほとんど外出していない。でも強いていうなら、寝たきりよりも少しだけ活動した。


「チャットをはじめました」


 私が言うと、主治医は興味深そうに私の目を見た。


「ほほう。また、どうして?」

「……なんとなく、人と話をしてみたくて」


 ふんふん。鼻歌のように頷きながら、カルテに何か記入している。ここのカルテはデジタルではなく、いまだに紙――つまりはアナログだ。ぶっちゃけ主治医は字があまり上手ではなく、何を書いているのかはパッと見では分からなかった。

 さすがに、イザナミと二人きりで自殺について語っているというのは言えず、私は0507ルームの話をした。

 ――チャットでなんの話をするのか、ですか? 私はバーチャルアイドルの話をしてます。先生、初野ミクって知ってます? そうそう、コンビニでたまにコラボしてるあれです。あれのゲームの話とか、新曲のこととか。……え、そのチャットの利用者ですか? そうですね、個性的な人が多いなあって印象です。私も人のこと言えませんけど――――

 カルテを書く手を止めて、私のどうでもいい話を聞いていた主治医はやがて、笑顔という名の真顔で私に質問をした。


「チャット、楽しい?」


 もちろんそれは、責める口調ではなかった。それはただの質問で、確認だった。私は答える。楽しいです。まだ二回しか行った事ないですけど。それを聞いて、主治医はふふふ、と笑った。


「半年前のあなたならね、きっと楽しめてなかったよ。半年前、覚えてる? ここに入院してきた時に、あなた言ったのよね。『もう誰とも関わりたくありません』って。それが今は、自分からチャットしようとしてるでしょう? 人に興味が出始めてる。いい傾向だと思うよ。ネットだから、現実でこうやって面と向かってお話するのとはまた違うわけだけど、画面越しに誰かがいるのは確かでしょ」

「そう、ですね」

「……ただ、たまに相談受けるのよね。チャット依存のこと。依存しすぎて親にパソコン壊されましたっていう相談まであるわよ。でもそういう子って、ネカフェに走ってやっぱりチャットしちゃう。チャットって、そういう一面があるよね。なんて言えばいいかなあ。……変な言い方しちゃうけど、境界線がないのよ」


 境界線ですかあ。私がぼんやりと復唱すると、主治医は頷いた。


「そう。チャット依存の相談受けて、何度かチャットルームを覗いたことがあるんだけどね。その時の印象が、そんな感じだった。その部屋ひとつで、共同体みたいになってるの。利用者全員で、ひとつ。だから離れにくくなる。あれなんだろう、お互いの距離が近すぎるのかな。……私くらいのおばさんになると、そこら辺の感覚は疎くて分かりにくいんだけど。あなたなら、なんとなく理解できるかもしれない」


 理解できているのかは分からない。けれどあの0507ルームにも常連がいるところからして、やっぱりチャットは居心地のいい場所なのだろう。離れたくないと思わせる何かがあるのかもしれない。それがもしかしたら、境界線のなさ、なのかも。共同体、という言葉が私の頭の中を巡った。

 主治医は芯の出ていないボールペンで机をこつこつと叩きながら、そうねえ、と言った。


「話を聞く限りだけど、今のあなたはチャットやその人達と距離を置けていると思う。だから私も止めようとは思わない。チャット自体に害があるとは思ってないからね。チャット……ううん、ネットそのものか。悪い面ばかり指摘されがちだけど、良い面だってもちろんあるわけよ。それに依存して、私生活に支障が出たりするようになったら問題だけど。だから、あなたがそうなりそうな時は、私がこっちに連れ戻すわ。私はそのためにいるわけだしね」


 ……イザナミのことを話したら、まず間違いなく連れ戻されるだろうなあ。もちろん主治医に、それは言わないけれども。

 ところで、と主治医は笑った。


「チャットサイトって、すんごくいっぱいあるでしょう。あれってさ、どうやって選ぶの?」

「……私は、気になる単語で検索をかけて、その中でも利用者が多いサイトに入りましたね」

「へえ。ちなみになんて検索かけたの?」

「……『死にたい、チャット』で」


 さすがの主治医も、これには苦笑いだった。


 三十分ほど話して退室する。処方箋の変更はなかった。私の退室間際、主治医はカルテに目を落としながら、「まっしろだわ、本当にまっしろ、どうしよう」を繰り返していた。これもいつものことだ。私の主治医は基本的に、話を聞くときは患者の目を見る。つまるところ、話を聞きながらカルテを書くのが苦手なのだ。そのため、診察が終わるころになってもカルテが真っ白なのは日常茶飯事で、それに慌てふためく主治医を見るのももはや慣れたことだった。さすがに四年も通院していると、主治医の癖も分かってくる。

 会計を済ませ、院内に併設された薬局の前で名前を呼ばれるのを待ちながら、私は半年前のことを思いだしていた。



 半年前の私は、まだ無職ではなかった。正社員ではないものの、フルタイムのパートとしてスーパーで働いていた。店長は四十歳間近の中年男性。正直少し傲慢で、おまけにあまり手際がよくなかった。店長は、自分の嫌いな従業員にはやたらと冷たく、好きな従業員に対してはベタ甘だった。そしてなぜか、私を特に贔屓ひいきにしていた。話し相手には常に私を選んだし、駄菓子やらなんやら色々買ってくれた。

 店長と私のそういった関係について、周囲の従業員が何を思っていたのかは分からない。


 そこに転属してきたのが、スーパーマンのような女性社員だった。仕事はできるし性格は良いし容姿もよかった。……ああ、女性だからマンじゃないか。ウーマンか。

 はっきり言ってうだつの上がらない店長にくらべ、この女性社員の方が店長に向いていると私ですら思った。店長候補としてうちの店にやってきたのは明白で、そのせいか店長はこの女性社員を毛嫌いした。どうでもいいような嫌がらせをするようになった。すごくすごく小さな嫌がらせだ。けれどそういうのも積み重なると、当然だけど反感を買う。


 私以外の従業員は全員、女性社員の方に傾倒するようになった。それはそうだろう。女々しい嫌がらせを繰り返すうどの大木より、しゃきしゃき仕事をこなして誰にでも笑顔を振りまく女性社員の方が頼りになるに決まってる。やがて従業員間で、店長に対する愚痴が増えはじめた。どんどん増えた。

 ところで。私は何故か、この女性社員とも意気投合してしまった。職場はシフト制だったから、休日をあわせて二人で出かけたり、ご飯を食べに行くようになった。女性社員の家に遊びに行った事もある。

 しかしその一方で、相変わらず店長からもかわいがられていた。ジュースをおごってもらったりお菓子を買ってもらったり。私と話す時の店長は、明らかに上機嫌だった。店長が、私以外の従業員に八つ当たりしているのを何度も見かけたけれど、私はそれをされたことがない。店長からは、何故かいつも褒められる。本当に、贔屓にされていた。

 私は店長とも仲良くお喋りしたし、女性社員とも楽しくお出かけした。


 つまりは、どっちつかずの八方美人になってしまったのである。


 そのうち女性社員が店長の事を愚痴りだすようになり、店長もまた女性社員の事を愚痴りだすようになった。私は、その両方の聞き役になってしまった。板挟みってやつだ。二人は、私が板挟み状態なのに気づいていないようだった。


 私の八方美人は長く続かなかった。私以外の従業員が、私の事をどう見ているのかも不安だった。日和見だなって思われていたかもしれない。私はいつまでも『店長』か『女性社員』かのどちらかを選ぶことができなかったのだ。傲慢な店長の優しい部分も知ってしまっていたし、一人でなんでもこなせる女性社員の弱い部分も見てしまっていた。二人の愚痴をはいはいと聞き続けて、板挟みで、でもそれを他の人に相談することができなかった。

 私の頭の中に、愚痴や不満の言葉が蓄積されていった。それを消化する方法を、私は知らなかった。


 そうしてある日、簡単に言ってしまうなら、私の頭はパーンと破裂した。自分の許容範囲を超えたのだろう。……多分。

 実はこの頃のことをきちんと覚えていない。両親によると、様子や言動がかなりおかしかったらしい。


 ――脳内麻薬でらりぱっぱした私は、気づいたら左腕を剃刀で縦横無尽に切りまくって、それをお母さんに発見され、夜間診療している病院に救急搬送された。

 搬送先の病院は偶然にも、形成外科医が当直だった。そして、


「君は死にたいのか! 死ぬ気か! 何を考えているんだ! 切りすぎだ! 精神科には通ってるのか! 通ってるんだな? 縫い終わったら早くその病院に行きなさい! 死ぬな! 死ぬなよ! 死ぬのは馬鹿がやることだ! 君は馬鹿か! 馬鹿だ! だから生きろ!」


 などという、お叱りなのか励ましなのかよく分からないお言葉を受けながら、何十針も縫われた。切った時よりも、縫ったあとの皮膚のつっぱり具合のほうが痛かった覚えがある。

 そうして外科医の言う通り、精神科に行ってみたらあっという間に入院措置を取られた。医療保護入院とかいう、事実上の強制入院だった。これを機に仕事を辞めた。

 板挟みになったのがトラウマで、人と関わるのが怖くて億劫で、入院中はほとんど誰とも会話しなかった。


 二十六歳、アラサー、彼氏なし。八方美人。現在は退院し、自宅療養中。もちろん仕事はしていない。実に非生産な毎日である。生きてても意味はない。というわけで死にたい。以上。


 ……くだらない。生きてるのもくだらないが、私が死にたい理由もぶっちゃけくだらない。私は内心で笑った。本当にくだらない。世界はくだらないことばっかり。



「四十八番でお待ちの方ー」


 薬剤師に呼ばれて、立ち上がった。革製のソファは私が座っていた部分だけ若干凹んでいる。それがなんでか嫌だった。

 薬局の窓口で、いつもの向精神薬を受け取る。飲むのをやめたところで、死にはしないだろう薬たち。だけど今のあなたには必要だから、と主治医に言われた薬。飲んだら少しだけ気分が楽になる。


 ――人はいつか絶対死ぬのよ。今、選ばなくても。


 二週間分の薬を鞄の中に入れて、外に出る。青空。雲一つない。

 飲むのをやめても死なない薬。根本的な問題は何も解決されない薬。だけど、飲んだら少しだけ気分が楽になる。

 私は今日からまた二週間、毎日欠かさずこれを飲む。

 死にたくないからじゃない。死ぬ寸前まで、苦しみたくないからだ。ちょっとでも楽になりたいから。逃避したいから。それだけ。


 きっと、そう。


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