02 勧誘
駅のホームほど不思議な場所はないと思う。
ふとした拍子に飛び込みたくなる。自殺を考えている時はもちろん、さんざん楽しんだ女子会の帰りだったり、美味しい物をたらふく食べた直後でも、その現象は起こるのだ。線路の向こうを覗いてみたいという衝動的欲求。踏切音なんて、人間を誘っているようにしか聞こえない。
けれど更に不思議なのは、『それ』をいまだに実行していない自分だ。平然とした顔で電車を待ち、自分の前を通過する電車を見て、「あーあ」と思う。そうして、先ほどまで飛び込むつもりでいた電車に乗り込むのだ。なんのためらいもなく、人の流れに合わせて。
私は私の前で、人が飛び込むのも見たことがない。それがまた不思議だった。これだけ死にたくなる場所なのに、なんで目の前で誰も死なないのか。皆は、飛び込もうと思わないのだろうか? スマホをいじったり新聞を読んだりしながら電車を待てる人々が、私は不思議で仕方がなかった。
そう思っている私の左手には、読みかけの小説がある。私も結局、周りの人と変わりない。生と死の境界なんて、あいまいだ。
仕事を辞め、家に引きこもるようになった今となっては、私はその不思議な場所へ出向くこともなくなってしまった。けれど今の私が駅のホームに立ったら、ふらりとそのまま飛び込めるような気もする。……バラバラになることと、賠償金のことさえ気にしなければ。
重度の鬱になって仕事を辞めた時は、自殺をする気力がなかった。もちろん、自殺の事なんて毎日考えた。それでも一日中布団で寝ていたし、パソコンやスマホを使う余裕もなかった。お風呂ですら、一週間に一度入れればいい方だったのだから。
ところが鬱が少し良くなりだすと、途端に自殺をする力がわいてくる。希死念慮はある程度そのまま残ってるくせに、身体を動かす力が加わるのだからタチが悪い。鬱は治りかけが一番危険だと聞いていたが、今、身をもって体験している。
二十六歳、アラサー、独身。彼氏なし、仕事なし、趣味なし、実家暮らしのパラサイト。精神科医には就職を止められているが、働こうと思えば働けると自分では思っている。自宅療養中というのは聞こえがよく、普通に言ってしまえばただのニートだ。生きている理由がまったくもって分からない。いや、分かってる。人間が生きていることに理由なんてなくて、そういうのは自分で作り出すものだ。けれど、私には生きたいと思う理由がない。
もう詰んだ、と思った。人生詰んだ。今更やり直せるとも思えない。やり直せたところで、ろくな人生が待っていないことなんて、この二十六年間で学習出来たことだった。
「自殺、かあ……」
九月に入ったころ、何か月も考えていたことをぽろりと口に出した。自室には私と猫しかいないので、物騒なことを口にしたところで何ら問題はない。いつもは大人しい猫を抱きかかえようとすると、四肢をばたばたと暴れさせ、あっという間に逃げて行ってしまった。猫にすら避けられている。なぜかその程度の事で、人生が終わっているような気がした。猫を追いかける気力もない。
「自殺……」
猫に逃げられた。だから自殺を考えたわけではないけれど、その時の私は至極真面目に、自殺を考えた。二十六歳、アラサー、独身。彼氏なし、仕事なし、趣味なし、実家暮らしのパラサイト。自殺してもおかしくはないだろう。
自室にある白色のノートパソコンを起動させ、とりあえず『自殺』で検索する。インターネット百科事典が真っ先に上がってきた。面白くない。自殺の意味を知りたかったわけではないのに。
とりあえず、自殺の方法を紹介しているらしいサイトをいくつか覗くことにした。首吊りが楽だとか、飛び降りは意外と気持ちいいとか、薬で死ぬのは難しいとか、焼死は特に苦しいとか、とにかく色々書いてある。そんなサイトを三つほど覗いて、私の頭にクエスチョンマークがついた。どのサイトも、おすすめの自殺方法がほとんど一致している。それについて説明する文章も、内容がほぼ一緒だ。なんでこんなに文章が似たり寄ったりなんだ?
訝しがりながらも開いた四つ目のサイトを下までスクロールすると、とある本の写真が貼られていた。黒っぽい表紙に、棺桶の絵が描かれている。本のタイトルはずばり、自殺のマニュアル。ああこれ、昔流行ったっていうやつだ。自殺について詳しく書かれてるって評判の。読んだことはないけれど、…………。
……もしかしてどのサイトも、この本をぱくってるだけ?
身体から、どっと力が抜けた。時計を確認する。二時間。四つのサイトをめぐるのに、二時間。二時間も同じ文章を読んでしまった。真剣に延々と。我ながら馬鹿だ。なんでもっと早く気付かなかったのだろう。
猫は気づけば夕ご飯を貰っていて、上機嫌でそれを食べているところだった。ささみをほぐしたやつと、ドライフード。うちの猫は好きなものから先に食べるので、今はささみにがっついている。分かりやすい子だ。撫でようと思ったけれど、やめておく。食べている最中に撫でられるのも気分が悪いだろう。
無駄にした二時間を取り戻すべく、私は検索ワードを変えることにした。『死にたい』。これでどうだ。
――心の相談ダイヤルなるものが一番にでかでかとあがってきた。こういう番号があるのは知っている。心の相談をするつもりなら、『死にたい』なんて検索せず、とっくの昔にやっているだろう。私は溜息をつき、そこでふと思いついた。……相談。
「他の自殺志願者って、何考えてるんだろう……」
そういえば、他の自殺志願者と話をしたことがない。精神科の待合室でも常にスマホいじって、誰も近寄るなオーラを出してるし私。待合室で他の患者と話をしたことってなかったかもしれない。しかしさすがに、病院の待合室で自殺について語るのも気が引ける。
自殺を考えてる人。そういう人たちが集まって、話すところ……。
私は『死にたい』と書かれた検索欄に『チャット』を付け加えて、再検索した。ほんの一瞬であがる、チャットサイトの数々。『憩い』という優しい文字もあれば、『疲れました』という切実な文字もある。皆、疲れてるんだ……。
真っ先に目についた自殺者専用のチャットらしきものに入室してみたけれど、利用者は誰一人いなかった。過疎状態ってやつだ。管理人ももう管理していない無法地帯らしい。チャットのログは真っ白で、ここはもう見込みがないと思った。さっさと退室して、次は『死にたい人のお悩み相談』なるサイトに入る。サイトのタイトルにでかでかと『生きていけないと思ったあなたへ』と書かれている。ここならどうだろう。
サイトの中にはチャットルームがいくつかあった。『病気』『人見知り』『つぶやき』などと命名された目的別ルームが五つほどある。けれどそれらの部屋に利用者はいなくて、賑わっているのはメインチャットと呼ばれる部屋だった。メインチャットの名前は『0507』。どこからその数字が出てきたのかは分からない。入室しないとログを見れないシステムになっているので、中で何を話しているのかは分からなかった。けれど入室者の数は、九名とある。利用者が、自殺志願者が九人もいるのだ。ここなら、死にたい人の話を聞けるかもしれない。私は少し緊張しながら、しかし匿名なのもあって気軽に、ためらいもなくその部屋に入室した。余談だけれど、ハンドルネームは自分の好きなアニメのキャラクターの名前にした。
――入室して二十分。はっきり言う。そこはカオスの世界だった。
入室者のうち、男女二人は延々とバーチャルアイドルの話をしていた。
あとは、語尾に「くまー!」をつける、年齢性別不詳の方。
かわいい彼女(三次元)について話をしている方と、それに突っ込む方。
神や天使についてひたすら熱弁をふるっていらっしゃる方。
ネットゲームについて延々と語る方。
たまにダジャレをぽつりと言う方。
その方々を片っ端から否定する方。
――私は入室時の「こんばんは」以外、一言も発しないままその場に残り続けていた。サイトのタイトルを確認する。死にたい人のお悩み相談。……死にたいとはなんだったのか。
利用規約を確認すると、『死にたい人達で相談したり雑談したりする場所』となっていた。きっとこの、緩い規約のせいで場が混沌としているのだろう。雑談と言われれば、そりゃあ人間なんだって話す。バーチャルとか彼女とか神様とか。
この場で死にたい、と言ったらどうなるだろうか。話を聞いてくれるだろうか。無視されて、ログが流れていくだけだろうか。分からない。死にたいという言葉すら、ここでは場違いな気がする。おかしい。死にたい人用のチャットのはずなのに。この人達は死にたいのだろうか。分からない。
一時間粘ったものの、それらしい会話は一切出てこなかった。私はというと、いい加減に疲れ始めていた。退室するか、会話に参加するかしたほうがいいのかもしれない。幸い、バーチャルアイドルについてなら知っている。初野ミクっていう歌うアンドロイドだ。これの話に乗ってみようか……。
その時だった。
『イザナミ > YOU あなた、もしかして死にたいの?』
「!?」
背景が水色の発言が急にあらわれた。他の人の発言は、すべて背景が白色だ。どういうことだろう。ログを追う。みんな、さきほどと変わらず各々の話を続けていた。私は入室者の、イザナミという人を探した。……バーチャルアイドルの話をしてる人だ。初野ミクの、おすすめの曲について話している。私に向けた発言らしきものはないように見える。そう思っていたら、また発言が飛んできた。
『イザナミ > YOU この発言はあなたにしか見えてない』
思わず、チャットの設定一覧を確認した。特定の誰かにだけ、発言する機能。そんなもの、備わってないように見える。どうやっているんだろう。
私があたふたとしている間に、イザナミからの三つ目の発言が飛んできた。
『イザナミ > YOU 本当に死にたいのなら、ここに来て』
ここに来て、の下に、他のサイトのURLが貼り付けられている。怪しい。明らかに怪しい。なんのサイトだろうこれ。変なウイルスとか送られないのかな……。
イザナミは私にURLを送り付けると、「ごめん、そろそろ落ちる。おつ」とチャットに書き残して退室してしまった。
時刻は二十三時すぎ。私のベッドで猫が寝ている。窓の外からは、鈴虫の鳴き声。騒がしいはずなのに、とてもとても静かで、長い時間。
私は十分ほど迷って、けれど『本当に死にたいのなら』の文字に惹かれて、死ぬつもりならパソコンにウイルスを送られようがどうでもいいやと思って、イザナミからのURLをクリックした。
それが、私とイザナミの出会いだった。