散歩に出よう
墓の話題から遠ざかろう。
それも大事だが、生きてる私のことを祖父は心配しているはずだわ。
「いいところに勤めろよ、それか玉の輿に乗れ」
顔を合わせばいつもそんなことを言っていたけど、孫がそうモテることもなく、物事をパッパと片づける能力もないことが明らかになるにつれ、祖父は何にも言わずにお菓子を分けてくれることが多くなった。気の毒に思っていたのか、二十歳を過ぎた孫にティッシュに包んだおやつを渡してくれる。
「いらないよ、いいからー」
どう言っても黙って握らせようとする。
あの頃から、本当は認知症が進んでいたんだろうな。私は湿ったティッシュに包まれたせんべいがたまらなく嫌だった。でも、みんなに内緒のつもりでくれるんだからその場はもらっていたが、そのままゴミ箱に入れることもあった。
今思えば冷たい孫だなあとつくづく反省する。
早く仕事を探さなくちゃ。とりあえず、美味しいコーヒーを飲んで考えよう。自然と足はまつぼっくりに向かった。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「ギャラリーが変わったんですよ。ちぎり絵になってます」
「あら、これもいいわねえ」
「ええ、柔らかい色が素敵ですよ」
マスターはパンジーを摘んでいる。咲き誇るパンジーがまたテーブルを飾っていく。
「コーヒーでよろしいですか」
「ええ」
マスターの手慣れたしぐさでポットにドリップコーヒーができていく。熱い湯に浸ったカップを大きな鍋から出してリネンの布巾で拭いている。
「いい香り」
「そうですか」
「あの、マスター、ここではバイト要りませんか」
「え? 働いてくれるんですか」
「ええ、私、不器用ですけど働かせてください」
「それならぜひお願いします。ただ、給料は安いんですよ。モーニングの始まる八時から夕方五時までなんですが。賄はおいしいです」
「ありがとうございます」
マスターはカレンダーを見ながら日程を決めようとした。
「いつから来ていただけますか」
「いつからでも」
「え? それはうれしいな」
「でも、私はコーヒーを出すことはできても作れません。料理も無理です」
「それは僕がしますから、ウエイトレスということでいいですか?」
「ええ。お願いします」
「よかったー」
「私も」
二人で顔を見合わせながらほっとして笑った。やっと働くことができる。
『おじいちゃん、やったわよ』
心の中でささやいた。マスターがこれはサービスですと言いながらコーヒーをマグカップに入れてくれた。
「大盛りですね」
「はい、料金もいいです」
「すみません」
マスターはカウンターの中からテーブルの砂糖や楊枝の補給、新聞のホッチキスの止め方などを話してくれた。注文はメモして、暗記は覚えられないからと言われた。
「喫茶店だけど、ランチなどもあるからエプロンをしたほうが汚れませんよ」
「わかりました。持ってきます」
「忘れたり、汚れてもここにも置いてるから心配いりません」
「はい。メモは?」
「この引き出しに大量に作ってます」
メモは新聞の折り込み広告で裏が白紙のものを束ねてあった。
「すごいですね」
「ええ、家内が暇なときに作ってるんです。リハビリを兼ねて」
そうだった。マスターの奥さんは倒れたって聞いていたわ。
「細かいことが好きな家内でね、毎日新聞が三紙も来るからチラシがもったいないって。糊付けしてメモ用紙にしてるんですよ。これが結構重宝するんです」
マスターの優しい口調が心地よい。
「病院へはいつ行かれるんですか」
「ここが休みの月曜日と日曜の夜です。やっと外泊が許されるようになったので日曜の夜に迎えに行って、月曜日に送るんです」
「そうですか、よかったですね」
この店で働けるなんて本当によかったな。
帰り道、流れ星を見つけた。
「えーと、えーと、健康に!」
願い事ってきっちり言うことなんてできないわよ。
流れ星、早いんだもん。