おばあちゃん大好きよ、本当に大好き
顔が引きつるむっちゃん。
そして私。
なんてことしちゃったんだろう。
むっちゃんは目を見開いて私を見ると、そのまま黙って出て行った。
『ごめんなさい』
背中に向かって声を出そうとしたけど出なかった。
これで終わり。なにもかも終わり。怒りにまかせて行動した私が悪い。だって……。
真っ暗になった店内。マスターが帰って来た。
「まだいたの、佐織ちゃん。もう遅いよ。悪かったね、待っててくれたの」
「いいえ、ただぼうっとしちゃって」
「そうかい、話はできたのかい」
答えを言う前にぽろぽろ涙がこぼれてきた。
「あれ、できなかったの。あったかいレモンティーでも飲むか」
頷く私。マスターはレモンを切りながら話し出した。
「あのね、人は何も言わなくても分かるってよく言うじゃない。あんなこと嘘だよ。僕たち夫婦だって未だに話してくれなきゃわかんないって奥さんに言われるもん。特に、何か確かめたいときは話って大事だよ。こう思ってくれるに違いないとか、そんなはずじゃないとか。やはり確かめるのは相手の言葉だよ」
ああ、そうだ。
むっちゃんがいろいろ言いかけたのに、全部遮ってさらにぶちのめした私。最悪。こんな嫌味な独善的な女、好かれるわけがない。勝手に想像して彼の言葉を一つも聞かなかった。でも、自分に自信のない私は離れていくことしか考えられないもん。
きれいな彼女とお似合いの彼。前田麗が武藤麗になるんだって、思ったら辛くて死にそう。弟を叩いた上にむっちゃんまで。どうなってるんだろう。私は今まで人を叩いたことなかったのに。こんな暴力的な女だったんだ。本質的な部分はサディストなのか。
マスターに入れてもらったレモンティーは心の隅まで染み渡るようで、汚いエゴイストの私の心に溶けていくレモン。
泣くつもりなんかないのに、自然とこぼれてくる涙。
「あのね、私叩いちゃったんです」
「ほう」
「しかも、何にも彼の言葉を聞かないで。そしたら、謝る前にこの店を出て行ってしまったの」
「ほほう」
マスターはまるでフクロウのようにほう、ほうと返すだけ。私が話している間ずっとそうだった。
「こんな女嫌われて当然ですよね」
「そんなことないさ。でも、彼の言い分聞かないと話は進まないよ」
「もう、きっと会ってはくれません」
「ほら、また勝手に想像するんだから。とにかく、言葉が大事だよ。言えないなら手紙にしたら?」
「手紙? 何年も書いたことないのに。できるかな」
「メールよりいいと思うよ」
「そうでしょうか」
「ああ、メールは簡単だけど、手紙の方が自分の考えをまとめられるから。つまりかける時間が重いのさ。出した、ほら着いた、なんて秒単位のメールとは心の重さが違うと思うよ」
「そうですね」
マスターの話を聞きながら、便箋すら持ってない自分に気が付いた。
「マスター、私、帰りに文房具屋によって帰ります」
「そうか、明日はお休みだからゆっくり書いてごらん」
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をして外に出ると、いつの間にかマスターが直してくれた自転車があった。
それを見てまた、深々と店に向かってお辞儀をした。
文房具屋は学校の隣にあった。可愛らしい便箋よりやはり白い便箋がいいと思った。手のしたのは和紙のタイプ。封筒も買った。
家に着くと、机の前に座って心を落ち着かせようとした。けれど、むっちゃんを叩いた場面が頭に浮かび書けるわけがないと椅子にもたれた。
何も聞かなかった私が手紙に書くのは叩くことになった心の揺れ動きや謝罪。
できない、そんなこと。
どう考えても私が悪い。彼は幸せになるんだから。手すら握らず、キスさえもせず、勝手に恋人と思っていた私。その彼が誰と結婚しようが私の許しはいらないはず。
手紙に何を書けるというの。できはしない。マスターはああ言ったけど、私はやたらとプライドが高いのかもしれない。私が考えていることはあなたも分かるはずって、どこかで思い描いていただけ。漫画の読み過ぎよ。
白い便箋を前にして進まないペン。
トントン。
「はい」
「いいかい」
「あら、おばあちゃん。どうしたの」
「忘れていたんだけど、今日むっちゃんが休みだったの。麗ちゃんの結婚式が近いのよ。むっちゃんが来ないから歌の練習も進まなくて。私ここに幸ありを歌うの」
「麗ちゃんの結婚式って、むっちゃんとでしょ?」
「何言ってるの、むっちゃんはあんたが好きなんでしょ。麗ちゃんはデイの後藤君と結婚するのよ。後藤君ってハンサムなの。それでね、私の歌の衣装が……」
おばあちゃん、後の話は耳に入らない。麗さんは後藤とやらの嫁になるって?
「……それでね、赤いドレスに真珠の首飾りってどうかしら」
「おばあちゃん、衣装の話は明日付き合うから、今はちょっと私忙しいの」
「あれ、そうかい。じゃ、明日よろしくね」
「ありがとう、おばあちゃん、大好き」
思わず抱きついた祖母はこんなに小さかったっけと思うほど細かった。昔は抱っこしてもらったのに、今は私が抱き上げることができそうよ。
祖母は私の背中を優しくトントンと叩きながら、いい子だねとつぶやく。
一人になると、途端にペンが進みだした。
勝手に思い込んだ婚姻届。
きっと何か相談があったのね、マリッジブルーの麗さん。
それなのに、私ったらみんなに八つ当たりもいいとこ。何してるの。
手紙は進んだけど、ポストより私が運びたい。
春爛漫のデイにいる前田麗さんに電話か住所を聞いてみよう。それに何より謝らなくては。
麗さんはまだ春爛漫にいた。
「あの、小日向です。先日は失礼な態度でごめんなさい。私勝手に勘違いして。婚姻届が見えたものだからてっきりむっちゃんと結婚すると思ってしまって」
「あら、そうよ。むっちゃんとするの」
ええええええーっ!
麗さんの大きな笑い声がした。
「嘘よ。ちょっと意地悪したかったの。後藤君と結婚するの」
「なーんだ、心臓が止まるかと思いました」
「どうしたの、むっちゃんのこと?」
「あの、電話か住所を教えていただけませんか」
「本当は職員の住所は外部に漏らしてはいけないけど。特別よ」
メモ用紙に殴り書きで書いた。
「ありがとうございます」
「いいのよ。今度は相談に乗ってね」
「はい、いつでも」
聞いた住所は遠かったけど、とにかく謝りたい。顔が見たい。声が聴きたい。
マスターに借りていたジャージーを脱ぎ、ワンピースに着替えた。黒のニットのワンピース。金色のクロスを付けていざ出陣。
「タクシー」
手を上げて止めるとむっちゃんの街まで。
やっと見つけたむっちゃんの家。このアパートの二階。
ピンポーン。
呼び鈴を押す。
「はい」
むっちゃん。
驚いたむっちゃんの顔。
「麗さんに聞きました。ここの住所。手紙を届けに来ました」
むっちゃんはびっくりしながらも受け取ってくれた。
「では、さようなら」
踵を返して階段を降りようとすると、むっちゃんが待ってと声を掛けてきた。
「僕が読み終わるまで待ってて」
手紙を読む間、むっちゃんはますます驚いていたようだった。
「なんで、麗ちゃんと僕が結婚するんだよ。バカだな」
「はい、バカでとんまで間抜けです」
「痛かったぞ」
「本当にごめんなさい」
「寒いから入って」
むっちゃの部屋は殺風景だった。
でも、この日から恋人になったみたいよ、私たち。