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私だけこんな目に合うのね

 足取り重く自転車漕げば当然転んでしまうわね。

 まつぼっくりに行く途中、転ぶ転ぶと思っていたらやっぱり転んで側溝へ入っちゃった。

「もう、やだ。臭い」

 昨日から朝にかけて降っていた雨がたまっていたのね。側溝は嫌なにおいが満ちている。誰も掃除をしていない幅の広い側溝は、私が入るのにはぴったりの大きさだった。

「何やってるんだろ」

 自転車を持ち上げて道に出す。ハンドルにバッグが引っかかって中身がざーっと側溝の水たまりへ。

「あああああーっ、ケータイが、財布が……」

 悲しいことにポチャンポチャンと音を立ててスローモーションを見ているかのように落ちていく。

 むっちゃんのメールが来てるのに。返事していないのに。

 財布は中身がコインだけだから洗えるけど、ケータイは大事。

「とりあえず、まつぼっくりに行こう」

 自転車は落ちたはずみでチェーンが外れた。なんていうこと。私が何をしたというの、神様。人が見たら気の毒な女と思って何か恵んでもらえそうなほどの出で立ち。

「おはようございます」

 戸を開けた途端、常連の田村さんが声を上げた。

「あら、汚い」

 マスターはあまりのことに声が出ない。

「裏へまわります」

 締めて裏口へ行く。寒い中水で洗おうとしていると、マスターが出てきて家のシャワーを使いなさいと言ってくれた。

「すみません。本当に私という人間はダメな子で」

 話しているうちに涙が出てきた。情けないにもほどがある。二十三にもなって溝に落ちるか。

「さあ、お湯が出るから洗って。服は僕のジャージーでいいかな。タオルはここに置いておくから」

「はい」

 ズルズルと鼻水を流しながら風呂場に入る。 

 シャワーを浴びマスターのジャージを借りる。少し長いがまあいいか。文句は言えません。

「すみませんでした」

「おやおや、佐織ちゃんは朝から溝に落ちるほどの恋煩いしてるの?」

 田村さんは鋭い。思わずびくっとしてしまう。

「あら、当たり? わかりやすい子ね」

 マスターはそんな話を聞きながらも余計なことは言わない。

「さあ、これを運んで」

「はい」

 店は朝からタクシーの運転手たちがモーニングを待っている。タクシーの運転手が集まる店はコーヒーが美味いとよく言うがその通りだ。

 モーニングとランチの間に誰もいない静かな時間。

「今のうちにパンでも食べるかい」

「はい、いただきます」

 卵を焼いて、卵トーストを作ってくれた。コーヒーとそのトーストをいただくと、体に力が湧いてくるような感じだ。

「あったまります」

「そうだろ」

「すみません。服まで借りてしまって」

「いいよ、この間スーパーで買ったからまだ着てないよ。安心して」

「あ、そんな新しいジャージーでしたか。すみません」

「気にしないの。そんなことより足元が寒そうだ。ソックスもあったはずだ」

「大丈夫です」

「かみさんの履いていないソックスがあるはずだから。ちょっと待って」

「本当に大丈夫です」

 マスターは聞こえないように奥に入って行った。素足に借りたサンダル。確かに人が見たら寒そうに見える。でも、私は恥ずかしさでいっぱいだ。

 マスターの持ってきたソックスはかわいいクマの柄がついていた。

「可愛いですね」

「ああ、こんなキャラクターがついてるのが喜ぶんだよ」

「そうなんですか」

 まだ、会ったことのない奥様を想像する。きっと穏やかで優しい雰囲気の人なんだろうな。

「ところで、怪我はしてないかい」

「はい、大したことありません」

「そうか」

 話しているとケータイのことを思い出した。さっきタオルで拭いたけど使えるかなあ。ポケットから出す。

「あれ、ケータイもか。使えるかい?」

 おそるおそる開いてみる。私のケータイ古いタイプだから、水がダメ。仕事が安定しない私はケータイは学生時代から同じものだ。

 やっぱり電気がつかない。

 むっちゃんの電話もメールももう届かない。電話番号覚えてないもん。

 これって別れることが運命ってことかもしれない。

「卵トーストもっといるかい?」

「いえ、もうお腹いっぱいです。ごちそうさまです」

「楊枝と砂糖を補充してくれる?」

「はい」

 テーブル席のセッティングをしていると、学生の一団がやって来た。みんな大盛りのランチを頼むから大忙しになった。

「マスター、もう一つ追加してください。ご飯の大盛り」

「ああ、あと二つでランチ終了」

「はい」

 みんなにお気に入りのランチはあっという間に終了した。時々来る学生の一団。どうもこの近くのグラウンドに体育の授業で来ているらしい。にぎやかな雑談に気もまぎれる。

 振り回されるほどの忙しさがやっと終わったころ、むっちゃんが来た。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

「なんだかスポーティーだね」

 どうせ、借り物のジャージーよ。放っておいて。

「何になさいますか」

「すごい他人行儀だね」

「そんなことございません。お客様は神様です」

 思わず言ってしまったセリフにむっちゃんは大爆笑。マスターも後ろを向いて笑いをかみ殺しているのがわかる。

 顔が真っ赤になっていく。

「二人ともゆっくり話していきなさい。店はもう終わりだから。佐織ちゃん、僕ちょっと病院へ行ってくる」

「奥様のところですか?」

「うん、届け物があるから」

「はい、いってらっしゃい」

 マスターは紙袋を持つと出かけて行った。むっちゃんにコーヒーを出すと、まじめな顔でこう言われた。

「腹を立てているようだけど、説明してくれないと僕はどうしていいかわからないよ。何も言わないのはよくないと思うよ」

「言うことなど何もないのですけど」

 聞きたい。前田麗とのいきさつ。

「じゃ、僕の方から一つだけ。話がある」

 え? やっぱり別れるのね。私たち。

「ちょっと待って」

 思わず大きな声が出た。

「あのね、言いたいことあります。結婚はいつするんですか」

「え? 結婚? それは、その、まだお付き合いをして……」

「どうして、そういう大事な人がいるのに私とデートしたんですか?」

「え? ちょっと待って」

「待てません。ひどいです。ショックです」

「違う、何の話ですか?」

「婚姻届です」

「話が見えないんだけど。誰の婚姻届?」

「あなたでしょ!」

「え? 僕? 僕はまだそんなこと」

「ダメよ、はっきりしないなんて。彼女は婚姻届を持っているのに」

 むっちゃんはあっけにとられたように口が開きっぱなしだ。

「僕の話? それ誰の話? 彼女って誰?」


 バシッ!


 むっちゃんの頬にビンタが。

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