なんでなのーーっ!
前田麗が見ていた書類。
婚姻届。
頭は真っ白。
さよなら、デート。
楽しかった思い出。
まだキスもしていないのにもうお別れ。
私って不幸な女。
美人薄命って言うけど、その日も近いかも。
騙されたのね。
お金も体も奪われてないけど、えーと、何を奪われたっけ。
そうよ、女の一途な思いを踏みにじられた。
マスターが私の顔を不思議そうに眺めている。
「どうしたの、急に顔色が悪くなったよ。お腹でも痛いの?」
「いえ、大丈夫です」
とは言ったものの本当に具合が悪くなった。
「あの、少し外の空気に当たってきます」
「うんうん」
心配そうなマスターの視線を背中に感じながら外に出る。ケータイを取るがこの時間はむっちゃんは仕事だから出られない。
煙草を吸ったことはないけど、こういう時に吸うと気持ちが和らぐんだろうな。ぼうっとしてると声を掛けられた。
「佐織さん」
「はい」
前田麗だ。
「私、ちょっと聞いてほしい話があるんだけど」
聞きたくない。
二人の結婚に文句がないわけがないじゃないの。
映画だって、公園の散歩だって、コンビニのコーヒーだって飲んだ間柄なのよ。
いろいろと迷っているけど言葉が出ない。
「顔色が悪いわね。大丈夫?」
「大丈夫です」
毅然としていないと負け女に見られるわ。びしっと言ってやらないと。
「む、むっちゃんは承知してるんですか」
「武藤さん?」
「ええ」
そうよ、武藤猛。私の恋人?のはずだった。
「ええ、もちろん」
「あ、そうなんですか」
私って本当に馬鹿みたい。むっちゃんにとってはただの小日向さんの孫なのね。彼女には手を握ったりキスをしたり、そして、そして、あんなこともこんなこともしたのかしら。
やっぱり魅力がない女なのね、私って。
つーっと、涙がこぼれる。
「本当に大丈夫? 頭が痛いの?」
前田麗はいい人なんだ。心配してくれるけど、あなたの所為なのよ。
支えようとする彼女の手を遮ってこう言った。
「私、納得がいかないわ」
「え? 何に?」
「あなたの結婚」
そう言い放つとまつぼっくりに入った。
立ちすくんでいた彼女は黙ってコーヒー代を払って帰って行った。
ほらね、私だって言ってやった。そうよ、ちょっとは言わせてもらうわ。寂しそうな背中にちょっと違うかなという気もしたが、私だってガールフレンド以上恋人未満なんだから。
その日は仕事にならなかった。マスターは明日も具合が悪かったら休んでいいからと言ってくれた。この調子では今夜から熱が出そうだ。心の傷は深い。
自転車で立ち漕ぎで来た私も、帰りはよろよろと力なく自転車を押して帰る。
激しいクラクションを鳴らされた。
「バカ野郎。どこを見て歩いてんだ!」
トラックの運転手に怒鳴られた。いつの間にか道の真ん中を歩いていたんだ。
「すみません」
頭を下げてあわてて横に飛び退く。
「何やってるんだよ、姉貴」
「あ、良」
弟の顔を見たら涙がぽろぽろこぼれてきた。
「なんだよ、こんな道の真ん中でいい歳して泣くなよ」
「だって」
自転車を持ってるから、涙もぬぐえず、鼻水も垂れ流す。
「姉貴、汚いなあ。ほら」
ハンカチを差し出すかと思ったら軍手。
「何、これ。ハンカチは?」
「文句言わないの。自転車持ってやるから」
仕方なく軍手で涙と鼻水をぬぐう。その軍手を返そうとしたら要らないから持ってろと言われた。
「何で泣いてるんだよ」
言いたくない。
姉としてのプライドが邪魔をする。
押し黙ったままの私に弟が黙って指差す。
「ほら、彼氏だよ」
見ると、春爛漫の送迎バスが祖母を送って来た。運転しているのはむっちゃん。にこにことさわやかな笑顔を私に向ける。
「おばあちゃん、おかえり」
弟が私に自転車を返し、祖母の手を取っている。
私は会釈したが忙しいふりをして自転車を片づけるために裏へ回った。そして勝手口から家に入った。弟は祖母と居間に入って来た。
「姉貴、感じ悪いぞ。あの人だろ」
「何が?」
「付き合ってるんだろ」
「別に」
「ははーん、泣いた原因はフラれたか」
思わず弟の頬をひっぱたいた。
「痛い! 何するんだよ!」
「うるさい! 黙れ!」
「何にも言ってないだろう!」
「うるさい、うるさい!」
そう叫びながら二階へ駆け上がった。ドアをけたたましく締める。祖母が地震かねと弟に聞いている。「違うよ、姉貴のヒステリー」
「そうかね、すごいねえ」
「ほんと、ゴジラみたい。だからフラれるの! くそ、痛い」
バカな良。殴った手も痛い。本当にデリカシーがないんだから。ベッドに体を投げ出す。このままあの世に行けたらいいのに。痛くもなく行けるならいいなあ。
ケータイが鳴るけど、出てやらない。
私は怒ってるんです!