ずぶ濡れってどうしたの
仕事が始まりました。
まつぼっくりの仕事は私にとってぴったりの仕事だった。
客層は結構曜日によっても違っている。平日は高齢者のお一人様と仕事の途中によるサラリーマン。そして、子どもたちを送り出したママ友たち。休日は家族連れでモーニングにランチ。こんなにも外食するのかと驚いてしまう。公民館での講座の後どっと繰り出す高齢者の皆さん。
「いらっしゃいませ」
この声も初めは小さかったけど、今では平気。喫茶店でもテレビはつけないというマスターの方針で静かなクラシックだけが流れる店。サッカーや野球ファンは来そうにない。
「佐織さん、お疲れ。暇になったからご飯食べて」
「ありがとうございます」
マスターってとっても上手。今日は干し大根とベーコンの煮物、豆腐の味噌汁、フグの味醂干し。大体は日替わりランチの残りだったりするけど、売り切れたら美味しいチャーハンやサンドイッチが出る。
マスターはいつもコーヒーとサンドイッチくらいだ。バイトの私の方がずっと食べてる。
「すみません。マスターは食べないんですか」
「僕は昔から昼はあんまり入らないんだよ」
「普通は朝食べないって言いますよ」
「いや、朝は仕込があるししっかり食べておかないと働けない。でも、昼のあわただしい合間に食べるのはのどを通らないよ」
その話を聞きながらしっかりご飯を頬張る私。いつでもどこでも食べれちゃう。
電話がかかって来た。出ようとする私を制止し、食べてなさいと小声で言いマスターが出る。
「はい、まつぼっくりです。え?小日向さんですか? ちょっとお待ちください。佐織さんだよ」
「え? 私ですか。すみません」
噛んでいた味醂干しを飲み込んで、電話口に出る。
「もしもし、お電話代わりました」
「あ、佐織ちゃん。おばあちゃんだけど」
「どうしたの」
「あのね、デイに服を届けてほしいんだけど」
「汚したの?」
「全部濡れちゃった」
頭に失禁した祖母の姿が浮かんだ。可愛そうに。途中でむっちゃんが電話に出た。
「どうもお仕事中すみません、武藤です。小日向さんが服を着たまま風呂に入ってしまった友達を脱がしているときに、シャワーの柄を持っていた方がお湯を出してしまってびしょ濡れになってしまいました。誠に申し訳ありません。こちらにある服を着ていただいてるんですが、帰りにこれを着て帰るのはちょっと嫌だということでお電話した次第です」
どうも意味不明だけど、認知症の進んでいる人がいることは前から知ってるし、きっと祖母が手助けのつもりで風呂場に入っていたのだろう。想像すればおかしいけど、施設の人も困っただろうな。
「でも、私も仕事中なので。母に連絡してみます」
「それがお母様は墓地の下見で遠くまで出てらっしゃるということなので」
「あ、そうだった」
マスターが迎えに行ってあげてって口が動いてる。
「わかりました。伺います」
電話を切るとマスターにもう一度頭を下げて帰らせてもらうことをお願いした。
祖母は失禁ではないのはよかったけど、こういうことってあるのね。みんなデイの友達も高齢なんだから。
自転車で通い始めた私は立ち漕ぎで家に向かった。
祖母の部屋に入ると、服と下着を靴下などを紙袋に入れた。引き出しの隅に大きな封筒があることに気付いた。中を見ると、百万の札束が五つも。
「す、すごい。おばあちゃんって金持ち。これもおじいちゃんの保険金かしら」
こんな無造作に入れてていいのか心配だったけど、今はそれどころではないから、また封筒に入れて引き出しを閉めた。
春爛漫の入り口にはむっちゃんが立って待っていた。
「どうもすみません」
「いいえ、これでいいかしら」
「お預かりします」
「私が着替えをさせます」
「そうですか、ではどうぞ、こちらに」
通された待合室で祖母は湯をかけられた友だちと談笑してる。
「おばあちゃん、お待たせ」
「悪いねえ、今度から着替えを持ってくるわ」
「その方がいいね」
「こちらは、えーと、どなただったかしら」
祖母は友達の名前を忘れているようだ。むっちゃんは隣から声を掛けた。
「井上さんです。井上悦子さん」
「そうそう、悦子さん。何回聞いても忘れてしまうわ」
カラカラと笑う祖母とそれを見つめる悦子さん。悦子さんに私を紹介する祖母。
「この子は孫なの、佐織って言うの」
「私はまだ孫はいないけど。娘がいるの」
そう話す悦子さんにむっちゃんは笑いながら話しかける。
「悦子さん、ひ孫までいるじゃないですか。でも、いつまでも若いからひ孫がいるとは思えません」
「え? いたかしら」
みんなで笑う。いいなあ、この歳のとりかた。