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四、エリカ

 顔を持ち上げると見慣れた風景だった。

 私は自分の机の上に顔を伏せて寝ていようだ。

 居るのは自分の二階の部屋。

 窓から外を見ると西日が射し込んでいる。

 どこから記憶が飛んだのか、指で眉間を突いて記憶を促す。

 沢木 京……そんな名前を聞かされた直後だったと思う。

 見た目からするとブリッジキックマンのほうがお似合いだ。

 あぁ~そうか、私はブリッジキックマンの人格の一部にすぎないという戯言を聞かされて他の人格を消す消さないの話の最中に…気を失った?のだろうか?

 できるかぎり記憶を辿ってみる。

 ブリッジキックマンこと沢木に蹴られてうまく感情がコントロールできなくなり、病院へ搬送された。病院に花子が来て家に逃げて屋根裏で花子に首を絞められ、それから目覚めたのが学校の教室で、心配して家まで付いてきてくれた直里に刺され、ブリッジキックマンとの会話までは覚えている。

 記憶が飛ぶくらい首を絞められたり、刺されたりという衝撃だけじゃなく、唐突に気を失っている事実を勘案すると、ブリッジキックマンが現実の世界で睡眠薬を飲んだときに私が気を失うという理屈のほうに説得力がある。

 もっと具体的な証拠をこの目で見たい。

 手始めに二番目の人格の花子から消すのが妥当。人格を消す行為がどんな状況の変化をもたらすのか、楽しみな感じもしてきた。

 消す?!

 すでに自然に “殺す ”ではなく “消す ”と言葉を使ってしまっている。少しでも罪悪感から逃げたいのかもしれない。

 私って残酷だろうか?

 いまの感情のままだと、直里やエリカも消しそうだ。人間として破綻しているのではなく、人格の一部だからこんな精神状態だと考えよう。しかも、あのブリッジキックマンが本体だとすると一応は自分を納得させられる。

 まず花子を消すには武器を調達しないといけない。

 残酷な思考が加速していく。

 歯止めがかからない。

 私は自分の部屋を見回す。覚えがあるような、ないような感覚。家具は机とベッドだけ。他のスペースはダンボールが支配。屋根裏部屋と変わらない。ダンボールの中にサスペンス系の単庫本が乱雑に入っているはず。花子がゴミ同然と思っている父親の遺品。滅多に掃除なんてしないくせに、父親の物はすべて処分してしまった。私が気づいて収集車行きを免れた貴重な遺品なのだが、中身が空っぽ。

 花子が捨てたのだろうか?

 クローゼットや押入れを開けて中を確認してみる。何もなかった。私の服や教科書もない。引出しや箱に入っていなければいけないものが盗まれている。いや、消えている。直里と一緒に家の中に入った違和感と同じ。そうか、これが花子の嫌がらせじゃなくて、記憶が抜け落ちているんだ。携帯もどこかに忘れたと思っていたけれど、沢木が創った精神世界は睡眠薬を飲むごとに記憶にほころびが出るみたいだ。張りぼての記憶。ぽっかり肝心な記憶まで構築されていない気がする。

 こんな状態が私の部屋だけじゃないとすると、武器になるようなものを探すのは難しい。

 屋根裏部屋に行っても期待していた果物ナイフは落ちてなかった。

 残された場所は一階。キッチンの引出しを片っ端から開けたけれど、何もなかった。蛇口から水は出たけれど、フォークさえ入っていない。記憶と記憶の間で繋がっていなければいけない細かい部分に配慮がない。気を失う前と後で、あったモノがなくなるのは、ここでは自然なことなのかもしれない。

 家に花子はいなかった。時間的に職場に向かっている頃だ。自分もそうだけど、人格がきっちり沢木の精神世界で生活していると考えるとちょっと笑える。

 他の人格達は私を殺しに来るのだろうか?沢木とはすでに面会済で、この精神世界のことを知っているのだろうか?

 直里はそのことを知っていて、私を刺した?!

 頭がクラっとして一瞬めまいがした。

 私の思ったとおりだとすると、直里の行動に納得がいく。

 人格を消す順番が、私の中で成立されつつあった。

 玄関はきれいなままで、前回の記憶を引き継いでいる。

 家の外へ出てみる。

 いつもの風景と違いはない……ように見えたのは一瞬。

 沢木に蹴られて救急車で運ばれた病院がない。公園になっている。坂を下って、数奇矢橋を渡る。あったはずのコンビニも消えている。バス停は残っていた。よくよく考えると『終点より二つ前』という名前も適当すぎる。

 見たことのある運転手さんがハンドルを握るバスが通過していった。西日がフロントガラスに反射してはっきり顔が見えない。追いかけて違う角度から見たけれど、無駄だった。どうあがいても物の陰や光の反射具合で邪魔をされて見えない。四人の人格以外は顔がなく、曖昧な存在になっている。代わりにいままで気づかなかった継ぎ接ぎの記憶の欠陥部分が確認できたと思うべきかもしれない。沢木の言ったことを裏付ける証拠が次々出てくる。

 家に引き返そうと思ったそのとき、後ろに気配を感じた。

 振り向くとエリカがバス停の横に立っていた。

 えっ?なんで?とお互い目が合う。

 なんて声をかけようか迷っているうちに、エリカが早歩きで近づいてくる。  段々と速度を上げて向かってきた。距離が五メートルくらいに迫っても突進してくる勢いが止まらない。

 刺される?

 直里にされたイメージが頭の中で追いかけてくる。

 私は腰が引けた。

 簿記の調達が急務だったのに怠ってしまったミスだ。

「ど、どうして、私に相談してくれないの」

 エリカが泣きながら両手で私の胸を叩く。痛くはないのだけれど、なぜか心に 響いてきた。予想外の展開。

「相談?」

 なんのことかわからず、頭の中でクエスチョンマークがぐるぐる回転する。

「直里に相談して、私にはできないの?」

「えぇ~と、な、なんのこと?」と言いながら誤魔化した。直里に相談したことといえば数奇矢橋でブリッジキックマンに蹴られたことと花子のこと。

「アヤメが、そんなに悩んでいたなんて、知らなかった」

 エリカは涙で濡れている顔を上げた。自分自身を責めているような言い方に聞こえる。「ご、ごめんね」

 謝ってはみたけれど、私はまったく別のことを考えていた。

 このエリカの態度は直里が私を刺したなんて事実を知らない。まして、ここがブリッジキックマンの精神世界なんてことは知らない感じがする。

「話してくれないの?」

 念を押してきたエリカの眼差しは、私を心配しているように見える。

「家でゆっくり話さない?」

「いいよ」

 エリカの返事は早かった。

 三番目の人格であることをいまの精神状態の彼女に話すとショックを受けてしまうかもしれない。慎重に説明していく必要があると思った。

 家に着くまで二人共無言で、愉快な話になりそうな面白ネタも思い浮かばない。

「どうぞ」と家の中に招くとエリカは軽くうなずくだけでなかなか声を出さない。

 リビングのソファーに座らせた。エリカは敷いてある絨毯の花柄を見詰めて、何を考えているのかわからない表情をしている。

 私はキッチンに向かう。水だと味気ないので、ソフトドリンクくらい入っていないかなと、駄目もとで冷蔵庫を開けてみる。

 オレンジジュースがあった。しかも一個だけ。アルミ缶に瑞々しいオレンジの断面のイラストと控えめな文字で果汁一〇〇%と表記されている。花子が毒を盛っている可能性も考えて、アルミ缶に穴が開いてないかチェックした。甘いものを飲めばリラックスできるかもしれない。

「冷たいよ」と目の前に置いてもまったく手をつける様子がなくて、うなずいて一点を見ているだけで全然動かない。ちゃんと呼吸しているのか心配になってくるくらいで、魂が抜けた人形みたいだ。

「いろいろ複雑な事情があって、エリカに話せなかったんだよ」

 無言の圧力に屈した私はエリカの隣に座る。

「どんな事情?」

 蝋燭を消すみたいに息を吹きかけるだけで飛んでいきそうな小さな声で尋ねてきたエリカを見る。横顔は血の気を失ったように蒼ざめていた。私のことを心配して落ち込んでいるとしたら、申し訳ない気持ちで一杯になる。

「帰りにバス停で待っていたら、いきなり直里が現れたの。彼女は私を心配して追いかけてきたのよ。だから、エリカに話すタイミングがなかったの」

 エリカがどこまで知っているかわからないが、順を追って話した。

「もっと前に打ち明けてくれたらよかったのに……」

「あのね、私達には記憶が所々抜け落ちている可能性があるのよ」

「何を言ってるの?」

 困惑顔だったけれど、やっとエリカがこっちに顔を向けてくれた。

「これから話すことを黙って最後まで聞いてくれる?」

「うん」

「まず、ここは現実の世界じゃないんだ……」ブリッジキックマンの精神世界の話をした。エリカが信じてくれるかは半信半疑だった。嘘っぽく聞こえてしまうといけないので、説明が支離滅裂にならないように注意した。「その人が何者なのかわからないけれど、私には反論できる証拠がなかった」ブリッジキックマンが蛇の容姿であることは荒唐無稽すぎるので伏せておいた。それと直里に刺されたことも話すのをやめた。傷でもあれば見せたかもしれない。

「アヤメの言うことは信用できるけど、その男の人は信用できないな」

 好感触な答えが返ってきた。意外と冷静に受け止めてくれている。

「そうだよね。でも、私の記憶が薄いのは事実で、直里、エリカ、花子以外の人達の顔が思い浮かばないのよ。エリカはどう?」

「いままでどうして気づかなかったんだろう……私は……お父さんやお母さんの顔も思い出せない」

 エリカは泣きそうになる。

「記憶があればいいってものでもないよ」

 スズメバチに刺されたことやお父さんの葬式など、トラウマになる嫌な思い出しか私には浮かんでこない。

「アヤメの記憶がうらやましい」

「えっ?」

「だって、いくら思い出したくない記憶でも、それは過去に生きていた証でしょう?思い出がないと存在する意味がないわ。電気が入っていない冷蔵庫と同じで中身が腐ってる」

 エリカは冷えた缶ジュースを力強く握った。

「でも、私や直里の記憶はあるんだから……」

 私は慰めにならないようなことを口走ってしまう。

「明日になれば忘れてしまうかもしれない」

 エリカは寂しそうに遠くを見詰めた。

「直里から他に何か聞いてる?」

「アヤメが橋で蹴れたこと、お母さんから虐待を受けたとしか聞いてないよ」

「そうなんだ」

 直里はなぜ話したんだろう?

 エリカが心配して私の家に行くように仕向けた?

 そんな必要があるのだろうか?

 エリカに私の秘密を話して得することがなにかあったはず。

「直里を責めないでね」

 エリカは私の苦労を知るはずもなく、直里を庇う。

 ここで私は重大な選択を迫られる。

 生き残れる人格はひとつ。ブリッジキックマンに言われ、一番目の人格である私にその権利があること。いずれエリカにも消えてもらわないといけないこと。どれを話しても私に得になるようなことがない。黙っておけばエリカは直里に消されるかもしれない。勝手に人格が減ってくれるぶんには楽になる。さすがに自分の手でエリカを消すのは気が引けてきた。

 とりあえず「わかった」と返事をする。

 会話が弾まなくなる。流れる沈黙に息苦しさえ感じる。損得で物事を考えてしまっている自分の人格はブリッジキックマンのせいにして丸投げしよう。

「私、そろそろ帰るね」

 沈黙に耐えかねたかのように、エリカがソファーから立ち上がる。

「心配してわざわざ来てくれてありがとう」

 言ったあとで、ちゃんと感情がこもっていたか、追い返すような言い方じゃなかったか、心配になる。

 礼儀としてバス停まで見送ることにした。

 その道中でエリカは「家に帰っても本物の家族がいるわけじゃないんだね」と嘆いて、寂しさをさりげなくアピールしてくる。バスが来て乗り込む動作ものろくて、私が引き止めるために少しでも時間を延ばそうとしている気がした。

 一緒に協力する手もあるけど、エリカは足手まといになるだけ。それに、いずれ消さなきゃいけない相手なのは変わらない。

 バスが動き出す。エリカが窓を開けた。

「運転手さんの顔、真っ白でよく見えない」

 エリカは怯えている。助けを求めている。視線が私から釘づけだった。ずっと見詰められていると、こっちが辛くなる。背中を向けて去った。

 結局なにもできなかった。いや、何もしなかった。そんな自分に腹が立ってイラつきながら数奇矢橋を渡る。集中力が欠けていたと思う。背後から猛スピードで突っ込んでくる自転車に気づかなかった。


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