一、アヤメ
私の頭の中に一匹のスズメバチが棲んでいる。
結構長い付き合いになってきたのではないだろうか。
一度本物に刺されたので、トラウマとなって甦ってくる。思い出というにはあまりにも苛酷な記憶で、夢や不意に象徴として現れてくるのは苦痛。
次刺されるとスズメバチの毒に過剰に免疫が反応してアナフィラキシーショックを起こし、死に至る可能性がある。
すべて花子のせいだ!
六年前……刺された原因は彼女の罠。
『ねぇ、あなたスズメのような小さな鳥さん好きでしょ?』
『うん』
その頃、まだ小学生だった私は素直だった。
『あそこにスズメに顔が似ている珍しい昆虫がいるのよ。お母さんと一緒に見に行かない?』
“お母さん ”という懐かしい響きに心が動かされた。
手を握られ、家の裏側に連れて行かされ、花子が『そこよ!』と指をさす。周りが雑草に取り囲まれて土が少しだけ盛り上がっている。よく見ると土が隆起していた。まるで生きているみたいに土が呼吸している。
見ていて気持ち悪く、その場から離れたいと思った。
次の瞬間、頭上を黒い影が通過していく。
野球のボールくらいの大きさの石。それは動いていた土の上に落下。花子が投げたんだと気づいたとき、時すでに遅かった。スズメそっくりで悪意ある顔をしたハチの大群が襲う。
必死に逃げたけれど、私は左腕を刺され、体の内部から熱くなってきた。左腕は三倍くらい腫れる。
私は知らなかった。木や家の軒下にぶら下がっているだけじゃなく、土の中にもハチが巣を作ることも。私は知らなかった。その日、花子が珍しく私に用意してくれた服が半袖の黒いTシャツで、ハチが好む色が黒であることを。逆に彼女は白で統一した厚手の生地の服にベール付きの帽子を被っていた。私は知らなかった。刺されて病院に行くまで二十四時間かかっていたことを。
熱でうなされ、気づいたときは病院のベッドの上。
たまたま家に来た親戚の人に促されて、花子は嫌々私を病院に連れて行ったらしい。
花子は二番目のお母さんで、私と血の繋がりはなく、それまでもご飯を用意されていなかったり、ずっと洗濯しなかったりと、 “変だな? ”とは思うことはあった。スズメバチの件は私に対する悪意が本物であることが証明された気がする。
私が退院して間もなく、お父さんは事故で死んだ。酔って道路で寝ていたところをトラックに轢かれた。お酒は好きだったけれど、泥酔するほど飲むなんて見たことがない。素直に事故だとは受け入れ難い。
葬式で派手な化粧をした女友達に『籍を戻さないの?』と花子が訊かれ『面倒だわ。それに名字なんかどっちでもいいわ』と、まるで自分自身に興味がないようなことを言っていたのを盗み聞きした。
お父さんには遺産もないし、二人がケンカや言い争いをして揉めたことはないけれど、これまでの事故を単なる暇つぶしと考えると、お父さんを殺した動機にはならないだろうか?実の娘でない私を時々いたぶることの延長上に、お父さんの事故死があったとすれば、花子の態度や行動は一致する。
花子はいつでも好きな時に、私を思いのまま殺せると思っているのだろうか?
彼女は重大な過ちを犯した。
刺されたスズメバチの毒が関係しているかは知らないけれど、不条理なことをされると脳内にスズメバチが湧いて暴れる。頭に血が上って最初に支配されるのは “殺してやる! ”という残酷なメッセージ。
体が燃えるように熱くなる。
胸が熱い。
脳内も心もすべて焼き尽くされるくらいに、途方もない火力で体内が燃えているのがわかる。
スズメバチに刺された記憶は、一生消えないだろう。うまく付き合っていくしかないんだ。冷静になれば、嘘のように熱が下がってスズメバチも消えてくれるのだけれど、じわじわ攻めてくる気持ち悪い熱にうなされ、不眠症に悩まされたことだってある。
有効と思われる対処法を考えてみる。
原因になったものを消せれば、体内に宿るスズメバチは消えるのではだろうかと思う。
でも、病院は行かない。
この感情の熱さを花子への復讐で利用しない手はない。スズメバチは爆弾の導火線と一緒で、もしものときに予想以上の力を発揮させてくれる原動力になってくれるかもしれない。もちろん、復讐を完結させるには、困難が待ち受け、肉体的にも精神的にも無傷で終わることできないだろう。神経質なくらいの用意周到さと忍耐強さと覚悟が必要だ。花子を始末すれば、脳内のスズメは消えるはず。
自分でも捻くれて恐ろしいことに頭を働かせていることは自覚している。いざ実行するかといえば難しいだろう。いまのところ防御策が最善と思われる。答えというのは意外と単純なところにあるもの。例えば消しゴムをなくし、あちこち探していたら自分の手にしっかり握られていたとか、そんな情けない結果になってしまうことだってある。
まず、体を鍛えることからはじめよう。
私は心肺機能を高めるために天気が良ければ毎朝二、三キロ走ることにした。そのときに体が熱くなった記憶がない。走っていると、色んなことを考えてしまうのに、花子にいたぶられる姿を想像してもスズメバチは現れなかった。
よくよく考えてみると、水分補給のためにペットボトルに冷蔵庫で冷やした水を持って飲んでいる。冷たい飲み物が冷静にさせてくれる、と思うのは当たり前のことなのだろうか?見当違いだろうか?もう少しデータを収集してから判断するべきだろうか?
花子への復讐が終わるまでスズメバチには去ってほしくないし、冷たい水を飲みながらコントロールしていけば、スズメバチをうまく活用できる気がする。
夏が近い。
今日もペッドボトルをキンキンに凍らせて朝のランニングに出かける。走っている途中でいい感じに溶けてくれるはず。
家から三百メートル離れたところに数奇矢橋という結構大きな橋があるのだけれど、そこを走っていたとき、自転車に乗った何者かが前から通り過ぎようとした。その瞬間に理不尽な暴力を受けた。私は蹴られて倒された。痛みより、驚きの方が大きい。そして、ペットボトルを落としてしまう。硬質なタイルに跳ね返って、ペットボトルが運悪く欄干の隙間をすり抜けて川へ落ちた。
細いタイヤ、スポーティで黒いフレーム、軽量で高そうなクロスバイクに乗った何者かはスピードを落とさず走り去っていく。
意図的なの?
クロスバイクに乗っている何者かは、紺色のウィンドブレイカーを着て、フードを頭からすっぽり被っていた。後ろ姿の骨格から推測すると男だと思う。
ぶつかった場所を見ると、白いパーカーにくっきりスニーカーの足跡がつけられていた。まるでお前は俺の獲物なんだと刻印を押された感じがする。
畜生!
後ろ姿を血走った目で追うと、数奇矢橋の袂でクロスバイクが停止した。
もしかしたら頭くらい下げて謝るかな?と思ったら、フードで八割隠した横向きの顔で、にやりと白い歯を見せた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
私は声を張り上げる。なのに、クロスバイクに乗った男は無視をして逃げていく。
赤の他人からこれほど理不尽な暴力を振るわれたことがない。
スズメバチが暴れはじめる。脳が溶けるくらい熱が一気に充満していく。頭の中が真っ白になっていく。スズメバチは脳内から下降して、胃や肺をチクッと刺していく。
用意周到に水を凍らせてきたのに、この様である。
倒れてしまった。怒りが頂点に達すると、復讐どころではなくなることを学んだ。
気づけば人生二度目の病院のベッドの上。
傍らで若い女の看護師さんがカルテを持って立っていた。
「どうして、お金払わないといけないのよ!」
廊下から花子の怒鳴り声が聞こえる。
私はベッドから起き上がった。
「あっ、気が付きましたか。どこか痛いところないですか?」
外からの声は女の看護師さんにも聞こえたはずなのに、ほっとしたような顔で語りかけてくる。
私は無言のまま部屋を出た。
「ま、まだ、動かないでください……」
頼りない感じがした。まだ、新人なのかもしれない。
処置室という赤いランプが点灯している部屋を出ると、母親が男の医師に食ってかかっていた。
「なんの治療もしてないのに、五千円もふんだくるの?」
「あのですね、救急車で搬送された場合は五千円いただくことになっておりまして……」
男の医師は冷や汗を流しながら対応に四苦八苦。
そのとき、目が合った。鼻が詰まったような声を出すくせに、私を発見する嗅 覚は鋭い。
花子がするどい眼光で一瞬だけ私を睨む。
この場で殺すには無理がある。未成年者が病院内で母親を殺す!というセンセーショナルな記事が踊ってしまう。
世間に目立つことは目的じゃいない。
逃げた、と思われてしょうがない。
不測の事態なのだから。
私は早歩きで病院を出る。
「アヤメ待ちなさい」
優しい母親を演じる花子の穏やかな声が聞こえた。
男の医師は豹変した母親の姿を見て気味悪がっていることだろう。
五千円を払う、払わないで時間の猶予はあるはず。
花子との距離をあけるため、私は走る。
家へと急ぐ。
安住の地じゃないけれど、自然と足が向く。住んでいる家は新興住宅地から少し離れたところにある。どうやって帰ったのか覚えていない。道中、頭の中は花子のことで一杯だった。
家はかわいい三角屋根の二階建てでペンション風。周りに民家がないから近所付き合いはない。
急いで階段を上がり、さらに貧弱なアルミの梯子を使い三角屋根のてっぺんへ。二階に自分の部屋はあるのだけれど、病院の様子からすると、花子が牙を剥いてくるだろう。
弱点があるとすれば慢性的な腰痛。梯子は上ってこられない。屋根裏が私のパニックルーム。
花子は外面が良く、血の繋がっていない娘を懸命に育てる母親を演じている。親戚から聞こえてくる評判はいい。娘は反抗期でいろいろ不幸が重なって荒れている、と電話で話していたのを耳にした。嘘みたいな単純な名前のくせに、私に対する包囲網は盤石で、抜け目なく策略家。
髪は眩しいほど金髪、ミニスカートを履き、化粧も派手で、つけまつ毛は爪楊枝がのるくらい太くて長く、爪には本物なのか偽物なのかわからないけれど、キラキラ光る石を散りばめ、鶏ガラみたいにひどく痩せている。私からすると目に毒な自己主張の塊。水商売をして稼いでいるらしいけれど、賃金の良い店を転々としていて、今現在どこのなんという店で働いているのかは知らない。
「あぁ~痛い……ねぇ、アヤメどこにいるの?ふぅ~はぁ~痛い」
階段を上るのがしんどそうな声がした。
私は隅に移動する。
「あら、よっぽど慌てたのね」
そう言うと、花子がカタカタ何かを揺らす音が聞こえてきた。
梯子を引っ張り上げることを忘れていた。
どうせ上がってこられない、という安心材料が冷静さを保つ。
「今日の私は一味違うわよ」
いつもは舌打ちや捨て台詞を残して去っていく。しかし、今回はゆっくりではあるけれど、梯子を上ってくる音が聞こえる。よほど逆鱗に触れたらしい。
「お嬢さんは普段から貧血気味だったのですか?CTで頭に異常なかったのですが、意識を失っている時間が長かったものですから……だって。ハハハハハッ……最高だったわ。あぁ~笑いがとまらない。ねぇ、いまの話の中でいったいどこに笑うポイントがあったと思う?」
花子の訊き方は何かを言いたくてむずむずしている。
こんなとき、無視してやるのが一番。
「お嬢さんだって、あなたをお嬢さんだって!」
興奮気味な声のあと、クククッと卑しい笑いがもれてくる。
馬鹿にされた。一匹のスズメバチが脳内を飛び始める。体が熱くなることを期待した。そうすれば感情のまま復讐することができる。感情的に殺せば、計画性がなかったということで罪が減免されるかもしれない。
女らしく、冷静に毒殺するという手もあるけれど、理科準備室から薬品を盗むとか、ネットから注文するとかだと、証拠が残ってしまう恐れがある。怪しい外国人からの入手は危険すぎる。それにうまく青酸カリなどを飲ませることに成功できても、たぶん達成感は薄い。花子の苦しみもがく姿を見られるはうれしい。ただ、私への恐怖心を刻み込んで逝かせるには、毒殺は騙し討ちみたいなもので、毒に即効性があった場合、私に殺される、という意識がないまま死んでしまうかもしれない。鉛筆の芯を細く削るようにいたぶってからポキッと折って殺してやりたい。
「お嬢さん、お嬢さん……思い出すだけで笑えてくるわ」
花子の嘲る笑いは、私が考えている最中も続いていた。
殺意がもっとあふれてきてもおかしくないのに、スズメバチは脳内で思ったより暴れてくれない。私が待ちわびていた事態なのに、肝心なときに機能してくれない。スズメバチは原因を作った花子の回し者かもしれない。
私自信にも恩義というものを感じている部分があって、いまいち感情が高ぶらないのかもしれない。
花子は一枚の千円札をリビングに置いてくれている。毎日欠かさず、忘れたことはない。私の生活費なのだけれど、お父さんの死を境にお小遣いを置いてくれるようになった。学校へ行く前に私を睨んだままテーブルの上に置いたのが最初。態度が気に食わなかったし、千円札の野口英世は横を向いて無視してるし、もらうつもりはなかった。でも、背に腹は変えられない。お金をチラつかされてしまうと未成年は太刀打ちできない弱い立場なことを認識させられた。一日千円の生活費をくれるのは、私が警察や市役所などに助けを求めた場合の予防線なのはわかっていた。
一応養ってもらっているという弱みがあるから、殺意に達するまで体が熱くならないのだろうか?このままだと人生はお金だということを肯定してしまうことになる。自らの力で気分を盛り上げる努力をしないと、花子を始末する勇気が出てこない気がした。
真四角に切り取られている屋根裏部屋の出入口が、パカッと開く。白くて細い腕が蓋を支えている。
三角屋根の左右側面に二つ窓があって、ダンボールが山積みされているだけの屋根裏部屋なのだけれど、その中の一つにステンレス製の刃の果物ナイフを隠していた。殺傷能力の高いナイフだと一突きで致命傷を与えてしまう恐れがある。そんなことは許されない。許されるべきじゃない。刃渡り十二センチの果物ナイフで何十回も刺さないと気がすまない。
果物ナイフを握り、刺すシーンを想像すると、スズメバチが騒いだらしく、じんわり体が熱くなってくる。
これは、チャンスだ。
正当防衛を成立させるには、刺した果物ナイフの柄に花子の指紋でも付けておけばいい。刃物を持った母親に追いかけられ、屋根裏部屋まで逃げて、もみ合っているうちに刺してしまったと言えば、納得してもらえる。精神疾患などを演じて複雑に偽装すれば、嘘を嘘で塗り固めることになってしまい、かえって計画的な犯罪だとばれてしまう。
一刺しで殺す技術はないし、結局何度も刺すことになってしまうのでないだろうか。
体が震えてきた。
「あら、そんなモノで私を刺すつもり?」
床に真四角に設けられた出入口の縁を掴んだ両手で重たそうに体を引っ張り上げながら、花子が上半身を出す。表情に恐怖心が浮かんでいない。果物ナイフの効果がなく、期待はずれ。
「あら怖くて声も出ないの?かわいいところあるじゃない」
花子が年甲斐もなく首をちょこんと傾ける仕種をする。
頭の中で素早く殺人をイメージした。まず先制攻撃。脇腹と肺を刺して、動きを止める。次に右腕。利き腕の自由を奪う。次に左右のアキレス腱。完璧に動けないようにする。それから雑談タイム。たっぷりいままでの恨みをぶつけて罵ってやる。そして、首の頸動脈を切って苦しむ顔を見てやる……こんなところだろう。
「まともに向かい合って話すのは、久し振りね」花子が私の返事を待つ。彼女の要求に答える義務はない。「どうしたの?まさか本当に怖くて声も出ないの?」さらに煽って、挑発してくる。
口を開いて喋って、同じ空間の空気を吸うのも嫌な相手に、どう対処すればいいのか悩んでしまう。
「そんなんじゃ私を刺せないわよ。あなたが私をどう思ってるか想像はつくけど、刺すには動機が弱いから、踏み切れないのよ。刺すにはそれなりの覚悟が必要なのよ」
まさか説教されるとは思わなかった。この期に及んで母親面するつもりなのだろうか?
「手が震えてたら、刺せるモノも刺せないわよ」
怒りで手が震えている可能性はあった。自分の手を見る。震えてなんかいない。
ほんの少し視線を外してしまった。
あっ?!と、思った瞬間、花子の両手が私の首を掴む。爪が食い込み、体が浮く。
「たいしたケガもしてないくせに、救急車で運ばれやがって……本当に迷惑ばかりかける悪い娘ね」
花子の憎らしい顔に唾をかけてやりたいのに、苦しくて呻くことしかできない。頭の中だけで考えた計画は破綻。リハーサルが必要だったかもしれない。
「寝込みでも襲って、さっさと殺しておけばよかった……て、後悔してるでしょう」
私を逆なでする言葉をメモでもしていたかのように次々出してくる。
この女は私の心が読めるのではないかと思ってしまう。偽物の親子という目に見えない仮の絆が成立してしまったのだろうか?一つ屋根の下で暮らしていただけで、私の性格を把握したとでもいうのだろうか?
人生ってこんなにも呆気ないものかと思ったとき、手から果物ナイフが滑り落ちた。
刺せるチャンスはあった。ほんの数秒前も、寝込みも実行しかけたことだってある。
花子が仕事から帰ってくるのは朝方で、休みの日は寝てばかりいる。大きな鼾をかいて寝ている無防備の花子を刺すのは、楽しみを半減させてしまう気がした。逆に花子にも私を刺すチャンスはったはず。お互いこれまで遠慮していたのなら笑ってしまう。
油断してしまった。
お祭りで飼った三週間後の金魚みたいに、酸素を追い求める力も尽きそうだ。
記憶が遠のく。
私は生きることを諦めてしまったのだろうか?
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