エピローグ
顔が熱かった。
何が起こったのか思い出せない。
私はヘルメットを装着させられていた。どうりで息苦しいと思った。
傍らにヘルメットが転がっている。
血がついていた。
私の目の前に白い足が現れる。
血がついているルメットを拾い上げ、頭に被ったようだ。
体を持ち上げられ、肩に担がれた。
抵抗する思考が働かない。腕を動かすには脳からどうやって神経に伝達させるのか、覚えていないみたいだ。
能への損傷がひどくないことを祈るだけ。
エレベーターが屋上に到着。
ここで私に最悪な考えが浮かぶ。
白いスーツをお互い交換すれば、刑務官と死刑囚は逆の立場になってしまう。
着替えさせる時間は十分にあった。
エレベーターの扉が開く。
十メートルくらい先まで視界は確保できるが、外は茶色い濃霧に覆われていた。大気は鉛濃度・ヒ素濃度が尋常じゃないレベルの数値に達して汚染されている。床はフェンスネットのように網状の鉄板が敷かれ、同じ構造の柵で側面を囲い、落下しないようにはなっているが頼りない。工事現場のような雰囲気で、屋上は無期限建設途中な感じがする。
兵士が二人立っていた。凹凸の少ないシンプルなデザインのマシンガンを肩からベルトで吊している。
「死刑囚がエレベーター内で暴れましたが、問題なく制圧に成功しました」
彼女が私の演技をする。
「そんな連絡は受けていない」
右側の兵士が異議を唱える。死刑囚を肩に抱えていることもおかしいのだけれど、死刑囚と彼女が口にしたことで、すでに彼女は間違った情報でここまで来てしまったことになる。彼女は正確には死刑囚ではなく、模擬死刑囚と呼ばれる存在。
「やっぱり駄目か」彼女がボソッと呟く。次の策があるかのような余裕ぶり。「少しでも動けば、この刑務官をここから放り投げる」と一言添えて兵士が迂闊に手を出せなくなる状況をつくってしまった。
エレベーターの出入口付近はヘリポートくらいのスペースが確保されてはいるけれど、その先は細長い一本道しかない。網状の鉄板が橋のように直線状に伸び、側面は×印の細いアルミの筋交で組まれた手すりがあり、不安定に揺れていた。
下が透けて見えるその橋は、信じられないタイミングで切れている。ぶつりと 途切れてすべてを断ち切る橋として有名。
彼女は二人の兵隊と距離を取り、慎重に足を運びながら橋へ。
茶色い濃霧の粒子がヘルメットのバイザーについた。
二人の兵士が後を付いてくる。
早く撃って!と口を動かしたけれど、伝わらない。
奥に進むにしたがって、視界がさらに悪くなってくる。
このままだと前が見えなくて、足を踏み外してしまう。
模擬死刑囚6641号……沢木 京。
彼女は五年前の二十歳のときの成人式で、隠し持っていた刃物で次々と会場に 来ていた成人達を切り裂いていった。死者二名、負傷者六名。多重人格、統合失調症、演技性人格障害、など様々な病名が法廷で飛び交い、精神薄弱により責任能力なしと認定。事件を起こす前まで彼女は花屋でバイトをしていたらしい。
ひと昔前なら無罪。しかし、現在は倫理観が異なる。
それまで “責任能力なし 〟が法廷の常套句だったが、七年前に起きた「スクールバス惨殺事件」で流れが変わった。未成年Fは幼稚園児を乗せていたスクールバスに近付き、改造銃で幼い命を奪い、周りにいた人達に取り抑えられるとき、未成年Fが繰り返し叫んだ言葉は『僕に自殺する権利を下さい』だった。改造銃の弾は残っていなかった。
この事件を切っ掛けに責任能力のない重罪犯者は自殺を促す『自害助長法』というものが適用されることに。自殺なら死刑を執行したことにならず、きれいに社会の癌を排除できることになる。死刑制度に国際社会からの風当たりが強くなってきたことへの苦肉の策でもあった。
大気汚染が深刻化し、地球の表面が茶褐色の有害物質が追い、私は人々の心も濁ってしまっていたのではないだろうかと思っている。
沢木 京は従順で模範的な囚人だった。過去形である。私を騙すために、この機会を狙っていたとすれば、浅はかすぎた。
「無駄な抵抗はやめなさい!」と言ってはみたけれど、私の声はヘルメットの中で反響するだけ。頼むから予告もなしにいきなり落ちるのだけはやめてね、と願うことしかできない。
「おい、それ以上進むとやばいぞ」
兵士が助言してくれた。私の思ったことを実行してくれて望みが出てきたと思うのは楽観的すぎる。ここまで来たからには彼女の目的はひとつ。
後ろ向きのままゆっくり後退りしていく。
ガクッと彼がバランスを崩した。両膝を付けて動きが止まる。チャンス!と思ったけれど、兵士達は撃たない。彼女の腕の力が抜けるのがわかった。私は彼の肩から緩やかに落とされる。いや、置いてくれたのかもしれない。
「やっとここまでこれた」
「あなたは誰?」
私はヘルメットのバイザーを上げて訊く。
「エリカ」
沢木 京から現れた三番目の人格。一番大人しい性格で利己的で、出てくる頻度も多い。エリカは他の人格より明らかに扱いが楽で、前回現れたことを記憶していて会話を継続することが可能。一々自己紹介からはじめなくてよかった。当然だ。三番目だと思った人格はオリジナルだった。彼女いわく、精神世界を崩壊させるために自分本来の人格で三番目に姿を現したとのこと。
そして、口癖のように他の人格にこんな世界は見せられないと言っていた。
ちなみに私が把握している人格は五つ。一番目最初に現れたのはアヤメという名前のエリカと同じ女子高生。自信過剰な性格だけれど、ケーキの早食いで日本一になって爪痕を残したいなんてかわいいことを言う一面があった。
二番目はアヤメの母親の花子。三番目がエリカ。四番目は野心をひた隠す直里。五番目はブリッジキックマンと名乗っていたり、急に少年の口調で沢木と名乗ったり、かなり危険な人格。私の口癖の “ネタバレだけれど 〟を真似て馬鹿にされたりもした。顔の右半分がブリッジキックマンで左半分が男の子の沢木といった具合に使い分けて表情を分散させる薄気味悪さがあり、どちらかを七番目と認定はしなかった。恐らく成人式で事件を犯したのは五番目の人格で橋から人を落とすなど余罪も多数。エリカと同様に前回現れたときの私とした会話を覚えている節があり、問いただしたが否定された。
「それより先に進んだら…」
私の声が耳に入らなかったのかエリカは走り出す。
しかし、かける言葉がない。
これから彼女がやろうとしていることは無意味。
私は無駄だとわかっていても這って手を伸ばす。
エリカは片手で手を振った。
必要ない、なのか、バイバイなのかどちらなのか。
彼女は端まで行くとジャンプするように高々と飛び、茶色い霧の中へ消えていく。悲鳴も聞こえてこなかった。
「あの囚人を助けようとしたのか?」
兵士が後ろから厳しい口調で尋ねてくる。
「そうね、私の仕事は囚人の背中を押すこと」
「今の行動は規定違反では?」
「報告すればいいわ」
詰問してこなかったもう一人の兵士が私に肩を貸そうとお節介を焼いてきたので、手で払い退ける。腹が立っていた。
私はエレベーターに乗り込む。
ヘルメットで殴られた顔の痛みがぶり返してくる。
頬を撫でると痛みが走った。
エレベーターが一階に到着。
幾何学的なオブジェが飾ってあるロビーを抜けた外は騒がしく、観客が集っている。いままで裁けなかった多重人格者の犯罪者が落ちてくるのを観にきているのだ。サッカー場のようなスタンドに座っている観客は、流れ星を見るみたいな感覚なのだろう。自分の席から離れて柵にしがみついていて興奮している輩もいる。チケットはいつもキャンセル待ちで、いまでは貴重な観光資源。
柵の内側には巨大なクッション。
そこにきょとんとした顔をしているエリカ。
彼女は間違った情報を鵜呑みにしている。
刑務官に背中を押され、落下した時点で『自害助長法』は成立。巨大なクッションが設置されるかは観衆の投票で決まる。クッションが置かれないことは稀で、よほどの凶悪な犯罪者でないかぎり、無残な死を迎えることはない。今回の観衆はグロイ光景より、騙されてびっくりする犯罪者の顔を見たい人達の方が多かったのだろう。
観衆は手を叩き、指を差して笑っている。
エリカはなにが起こっているのかまだわかっていない様子。
私は腰のポケットから銃を抜き取る。
周りがへんてこなスーツを着ている私の存在を危ぶむ。
エリカも私に気づく。
撃って!とゆっくり口の動きが読み取れた。
そうか、彼女はびっくりしていたんじゃない。
私を探していたのだ。
ある程度こうなることを予測していたに違いない。
そして、クッションが置かれたときの保険に私を人質にした。
私が無理やり刑務官にさせられた父親を嫌悪していることを知って利用したのだ。
しかも私を襲って危険人物だということを印象操作して、私の刑を少しでも軽くしようという思惑も垣間見える。
私は銃を構えながらエリカに聞こえないのを承知で囁く。
「ネタバレだけれど、それでもこの世界は生きるに値する」
私は引き金を引いた。
【完】
プロローグとエピローグに出てくる建物については【短編】バベル・エレベーターを読んでいただくと、さらによくわかるようになっています。




