十、男の子の沢木
乱れた前髪を直している隙に、目に映る世界が変わっていた。
空と直接的な接触を拒む全蓋アーケードで雨から守られている商店街。全部の店がシャッターを閉じている。
「ただいま二十階にご到着で~す」
男の子の沢木がエレベーターガールの口調を真似る。瞬時に移動できるのを見せたかったのか、せめてエレベーターのカゴくらいの演出があってもよさそうなのに、余裕がなかったのかもしれない。
エリカはキョロキョロと目で周りの状況を把握しようと必死。
「現実の世界で薬を飲んで場所を移動したの?」
それしか考えられなかった。男の子の沢木が気を失ったような状態のときに現実の世界で薬を飲んで “オリジナルの僕は決断するよ 〟と言うまでが薬が効くまでの時間差。
「ネタバレ早すぎぃ」
種明かしをされても男の子の沢木は満面の笑み。
「なぜ商店街なの?」
「現実の世界でこの商店街で働いていた記憶を頼りに再現したんだよ。そこの花屋で結構長く働いていたんだ」
男の子の沢木が指を差す。シャッターに消え欠けの緑色の文字で、花の……までは読めた。間口が狭く、個人で細々と経営している感じがする。
「かわいらしい店で働いていたのね」
「花にはいろんな個性があって、面白いんだよ。世話をするのも大変なんだけど、同じ種類でも性格が違う。見ているだけで幸せだった。でも、人間って欲深くて会話したいと思っていたら、ある日突然、花達の声が聞こえるようになったんだ。花達との会話は楽しくて疎外感は微塵もないんだよ。そうしているうちに話しているのが花なのか、自分自身なのかわからなくなって……」
何か他にも言いたいことがあるような顔をして、男の子の沢木は途中で言葉を呑み込んだ。
「それで私達人格は花の名前がつけられているのね」
「二番目の人格の花子はセンスが悪いと言わないでね。名前は僕の潜在意識から勝手に生まれたもの……だと思う」
「断言できないのね」
「無駄話はこれくらいにして、僕は高みの見物させてもらうよ」
うまく話しを逸らされてしまった感じがした。しかも男の子の沢木は瞬間移動して、防犯カメラが設置してある支柱の上に腰を下ろした。高さは五メートルくらい。
「追いかけっこはしないわよ」と私は見上げて言う。
「鬼にならなくていいよ」
その言葉の意味はすぐに理解できた。『花沢商店街』と記したアーケードの出入口から細くて毛の短い犬らしき姿。しかもが三匹。パチン!と男の子の沢木が指を鳴らすと、尖った耳をアンテナみたいにこちらに向けた。短褐色で筋肉質の体を黒光りに照らしながら走ってくる。
「早く!」
私はエリカの腕を掴む。
自分でも信じられない行動に踏み切ろうとしている。人間の弱い部分に汚染されてしまった。エリカがお荷物になることはわかりきっていた。
手を離せば縁は切れ、逃げ切れる可能性が少しは高まる。ただし、自分が生身の人間に近づいたせっかくの感覚を手離す気がしてならない。
少年の沢木に試されている?
本当に癪に障る。
粘性の涎を垂らして向かってくる犬を目にしてしまうと、私とエリカが手を組むことをどうしても阻止したいらしい。
睨んでやろうと男の子の沢木を見た。うずくまって猫のように体を丸めている。どうせ嘲笑っているんだろうと思っていたら、少し様子が違う。笑いを堪えているのではなく、支柱からずり落ちそうになって恥ずかしそうな顔をしている。
腕を引っ張られているエリカはうつむいたまま付いてくる。少しは感謝してくれているのか気になるけれど、今はそれどころじゃない。走力は圧倒的に負ける。獣の荒い息づかいが追いかけてきて、距離が詰まっていることを肌で感じる。
商店街のシャッター通りの両サイドが壁に見えてくる。身を隠せる場所を探さないといけない。狭い路地が目に入る。一般の住宅に混じって飲み屋が点在し、奥行きがありそうな通り。
「ここに入って」
運が良いことに体を横にして、やっと通れる建物の壁とブロック塀の隙間を見つけた。エリカを先に行かせる。ここだと犬は一匹ずつしか入ってこられないし、自由に動けない。
犬達が集まってきた。ウロウロしてどっちが先に入ろうか迷っているように見える。
その隙に奥に進もうとしたけれど、家の壁で行き止まり。窓もなく、侵入経路がない。ブロック塀を越えても三階たてのマンションが立ちはだかっていて、浴室に設けられていると思われる猫の抜け道程の窓しかない。でも、家とマンションの間にさらに狭い隙間がある。ブロック塀によじ上れば、伝って歩くことはできそうだ。
「おまえら、さっさといけよ」
粗暴に指示する男の子の沢木の声が聞こえた。声には張りがあるのに、ブロック塀と壁の隙間から見える表情は精気がない。
「くそっ、犬じゃ役に立たないか」
瞬間移動してきたはずなのに、男の子の沢木は体を屈め、膝を折り、はぁはぁ息を切らしている。相手を心配している暇などなかったけれど、視線が吸い寄せられる。
男の子の沢木は念じるみたいに二本の指を眉間に付けた。さっきは指を鳴らして犬が現れた。わざわざ私達に見せつける位置に立ってやるポーズに意味があるとすれば、カッコつけたいだけのような気がする。
「あっ、そうだ、いいこと思いついた」
目の前のカンペを読み上げるような棒読みをして、こちらを横目で見た。何か閃いたみたいに表情に明るさがともると、三匹の犬が機械的な動きで小刻みに揺れた。故障した出来損ないのロボットみたいな動きのあと、上部が黒で下部が茶色でドーベルマンとおぼしき犬達は体の内部から分泌されたドロドロの石油のような液体に包まれた。真っ黒い俵型になると、今度は小さな粒となって分離した。目を凝らすと、黄色と黒の縞模様になっていて、小さな粒が独立して動きはじめる。
私の苦いトラウマで、気持ちを覚醒させる武器だった。ここぞという場面で利用されてしまったスズメバチ。
いや、土壇場で利用するために私の記憶に植え付けていたんだ。
スズメバチは指示を待っているかのように、男の子の沢木の頭上を旋回している。
「スズメバチの恐怖心は克服できているのかな」
「エリカ上って」
エリカの両脚に抱きつく。そのまま垂直に持ち上げると、「あっ」と空気の抜けるような声がした。私の行動に戸惑っている。
「信用していいのかなぁ~」男の子の沢木は饒舌に言葉を吐き出せても、憔悴して顔は汗でテカっていた。「逃げることに必死で僕の声は聞こえないか」
「大人の沢木と同じように、精神世界で能力を使うことは体の負担になるみたいね」
エリカをブロック塀に避難させてから、相手をしてあげた。というより、エリカの逃げる時間を稼ぐためだ。
そこまでしてあげる必要があるのか?という思考も湧いてはきたが、すぐに片隅に押し出すことができた。
成長?
生身の人間の思考に着実に一歩近づいた?
不思議な高揚感に包まれる。
「その知ったかぶりな口調もそこまでだよ」
男の子の沢木は指揮者のように腕を振った。スズメバチがストレスから解放されたみたいに一斉に襲ってくる。
耳障りな羽音が大きくなり、恐怖心が煽られる。私の体にスズメバチが接触した。手で払いのけようとすると逆に興奮させてしまったらしく、右腕を刺される。激痛が脳天まで達した。果物ナイフを振ってみる。刺され方がまだ浅かったようで、左腕は動かせた。手遅れになる状態にならなかったのは幸い。けれど、スズメバチを果物ナイフで切り落としていく創造が追いつかず、あっさり避けられてしまう。
複雑な動きを予測する手間よりも、脳内のスズメバチを退治できたように、寒さを強調するものを創造した。私にそれだけのことができるのか懐疑的だった。でも、冷たい風が私の頬を撫でたとき、思わず卑しい笑顔をこぼしてしまう。分厚い灰色の雲が覆う空から小さな氷の結晶の固まりが舞い降りてくる。ふわりと軟着陸してきたそれは、手に触れると冷たい。空気中の水蒸気を凍らせ、わずか0.6mmの結晶は六角形で角の部分でくっついた集合体。
私の周りを飛んでいたスズメバチが落ちて地面に屍骸の山ができる。
「気温がマイナスになるだけで死んじゃうなんて、意外と貧弱よね」
「まさか……雪を降らせた?」
男の子の沢木の驚きは尋常じゃなく、嫉妬に近い表情で睨まれた。
自分の能力のレベルが引上げられているのを実感する。脳内にスズメバチを発生させなくても簡単に精神世界の自然現象を変えることができた。これは二、三、五番目の人格が消えた影響があるかもしれない。減った分だけ私の能力の質が向上した可能性がある。五つに分散されていた人格がいまは二つになったのだから、それだけ濃くなったと思えばいい。
「こんなの朝飯前よ」
もっとかっこいい台詞を言いたかったけれど、古臭い言葉しか思いつかなかった。言ってから少し後悔。それでも私はここぞとばかり不適な笑みを浮かべてやる。
「僕を乗っ取るつもりなんだね……そんなことできっこない……できっこないんだ」
自分を叱責するくらい自問自答してからの悔しがり方は、歯軋りの音が聞こえてきそうなくらい鼻に皺を寄せた。
「面白い芸当でしょ」
「オリジナルの人格より、他の人格が能力で上回る兆しがあるのは、危険な兆候だね」
男の子の沢木は深呼吸してから、落ち着きを取り戻して言う。
「実は初めてじゃないんだ」
笑顔を見せて思わせぶりな言い方をしてみる。
「二番目、それとも三番目を殺しとき?第一の人格が力を使うには頭の中にスズメバチをイメージしないとできないんじゃないの?」男の子の沢木は喰いつく。「大人の女の人に成長して観覧者に乗っていたときは省いてね。あれは僕の力だから」
「どっちだったかなぁ~創造したら異次元の動きができたのよ」と馬鹿にするように言ってやると、男の子の沢木の顔は険しくなる。「直里はニトロが入ったビーカーを一瞬で山積させてたけどね」果物ナイフを投げてビーカーの中を移動させたのはあえて伏せた。わざわざ手の内を教える必要ない。もしかしたら最後の手段で使うかもしれないのだから。
「そんなことまで……オリジナルじゃないくせに生意気な創造を使いやがって……せっかく武器を与えて殺し合うように仕向けたのに」
男の子の沢木は、子供らしさの口調を手離し、頭を髪の毛をかきむしる。
「アヤメの力は創造したモノではなく捏造したモノで、気にする必要はないと思う」
エリカがブロック塀の上から突然会話に割り込む。まだ逃げていなかったという苛立ちよりも、男の子の沢木を慰めるような言い方に聞こえ、自然と眉間に皺が寄る。
「おまえら人格のせいで、僕が現実の世界でどれだけひどい目に遭ってきたかわかるか?普通の生活ができないんだよ」男の子の沢木が嘆きと泣き言を織り混ぜ、そして、エリカに向かって話す。「ねぇ、エリカお姉さん。頭の中から早く二人とも消えてよ。僕を楽にしてくれるんじゃなかったの?」と子供らしさを取り戻した口調で訴える。
「私を消す約束をしたの?」
私はエリカをあえて見ないで尋ねた。どんな顔をしているか見るのが怖い。
「ごめんね」
エリカの声は小さかったけれど、心に伝わってくるものがある。
「どうせ口約束なんだから、守らなくたって問題ないわよ」
私は揺さぶられた心を破棄すべく素っ気なく返す。想っていることと逆の言葉が口から出てしまう。
「それは……できないわ」
静かで短い言葉の中にエリカのブレない頑なで強い意志を感じる。彼女の心を解かすのは容易じゃない。
「善意って踏み染みられるものなのよ」
私は振り向いて嫌味をぶつけた。男の子の沢木に裏切られるのは目に見えている。
「アヤメは私を助けてくれたじゃない」
「だからって一緒に死んでと言われて納得できるわけないじゃない!」
激しく拒絶する。助けても恩を仇で返された。
エリカは悲しそうな顔をして無言になる。
「そう、それでいい。多重人格同士が仲良くなれるはずがないんだ」
男の子の沢木は自分自身を納得させるようにうなずく。私もエリカも黙ってしまった。このままだと男の子の沢木の言ったことを肯定したことになる。反論したい。私達には絆があるのよ、なんて言ってもすぐに否定されるだろう。エリカの気持ちを私に傾けるのはもう手遅れのような気がする。
「僕を、オリジナルの人格を力ずくで奪えばいいよ。そうすれば現実の世界で自由に暮らせる」男の子の沢木からの誘惑はあえて逆効果を狙ってきている。「できるものならね」と怒りを通り越して呆れさせてしまうことも忘れない。
「手出しできないのを知っているから、そんなこと言えるのよね」
売り言葉に買い言葉が続く。男の子の沢木にまだどんな能力が残されているのか不明で、具体的にどうすればオリジナルの人格を乗っ取れるのかも知らない。直接的なあダメージを与えればこちらに返ってくることも考えられる。
「僕にはまだ策があるんだよね」と言いながら、男の子の沢木が意味ありげに視線を上げる。
その方向を見たけれど、何もない。
「痛い!」
エリカが身を屈めた。ブロック塀から落ちそうになってヒヤヒヤする。何が起こっているのかわからない。
「生き物なんかに頼ならければいいんだよね」
男の子の沢木の言葉はとても下品に響いた。
エリカは露出している頭や足の肌を隠すように体を丸めて、目に見えない何かから身を守ろうとしているように見える。
「スズメバチの針だけを使ったんだ。つまり間接的な攻撃になったわけ。さっきは無駄な体力を消耗しちゃったな」何をしたの?と私が聞く前に男の子の沢木が答えた。「たぶん瞬間移動だけじゃなく、どうしてそんなことができるんだろうと思ってるよね?ね?それは僕がオリジナルで、この世界の創造主だからさ」
「よかったわね」
私は抑揚ない口調で応える。特に創造主という言葉を強調したくて言ったはずで相手にする必要はない。
「一番目の人格がどんな反応を示すのかよく顔を見せてあげてね」
男の子の沢木が顔を伏せているエリカに向かって言う。
「痛い……痛い……痛い……痛い……」
エリカは体を振るわせながら悶える。たくさんの針に刺されている。
やめて!という叫びは心の底にねじ込む。
代りに果物ナイフを力強く握る。私は狭い路地を抜け、右足で地面を蹴り、宙で回転しながら男の子の沢木の背後に着地する。創造したとおり背後をとれた。男の子の沢木は首だけを動かして傍観しているだけのように見える。
果物ナイフを突き出す。
けれど、間一髪瞬間移動されてかわされてしまう。
私を直接消すことがでないのだから、エリカと同じようにいたぶる程度でしか反撃できないはず。瞬間移動を創造させるより早く先読みすればまだいける。でも、果物ナイフの刃がかすりもしない。攻撃が単調なのだろうかと自分を疑う。男の子の沢木は軽やかなバックステップで後退しながら、体を巧みにねじらせて避ける。表情も徐々に笑顔になり、逆に私は焦りを感じて振りが大きく雑になる。
確か花子と戦ったとき、私も同じようなことができた。男の子の沢木は私がやったことを真似て楽しんでいる。
「ダンスって、いつかは終わるんだよ」
くさい台詞が言えるくらい余裕が出てきた。
追うのを止めて立ち止まる。
「あれ、諦めるの?」
男の子の沢木は目をクリっとさせて不思議そうな顔をする。
果物ナイフを逆手で握り、投げた瞬間消える創造を鮮明に焼き付けた。あとは腕を動かすだけだったのに、視界に黒い影が飛び込んでくる。
「エリカ邪魔しないで!」
不快感さを腹の底から吐き出して叫ぶ。
「もう終わりにしようよ」
エリカが男の子の沢木の前に立ちはだかった。
男の子の沢木は針による攻撃をやめて、エリカが止めに入ることを計算していたのかもしれない。
「私は現実の世界を一目見たいだけ、邪魔しないで!」
この台詞をあと何回言うことになるんだろうと思うと、嫌気が差す。
「駄目よ。それは完全にオリジナルの人格を乗っ取ることに等しい行為よ」
「乗っ取って現実の世界を見ることがそんなにいけないこと?」
「アヤメは現実の世界を目の当たりにしたとき、ずっと居座りたいと心変わりしないと言い切れる?」
言い終わったあとにエリカの唇が震えている。若干興奮気味だ。
「その子を庇う理由はなに?見た目で同情しているんでしょ?言っとくけど、その子は現実世界の姿はどうせ中年のオッサンよ」
「見た目なんて関係ないよ」
「どこまでお人好しなの」
私は呆れて憤慨する。
「オリジナルの人格じゃない私達は、現実世界に出てはいけない存在なのよ」
言い切ったエリカは私に辛辣な表情を向けた。
「どうして?」
「ブリッジキックマンに会ってから、精神世界のことを知ってから、アヤメも直里も人を殺しそうな目をするようになったから」
「現実の世界で、私が人殺しをするって言いたいの?」
私はエリカに問いかけながら自分の本心にも訴える。
爪痕は残したいけれど、それは人殺しのことじゃない。
答えてはくれないエリカ。硬い表情で私への不信感は排除してくれていない。
「人格ごときが話し合いをしても結論なんか出せやしないよ」
男の子の沢木が会話を断ち切ろうと、横槍を入れてくる。二人がやり合うのを期待して黙っていたくせに我慢できなくなってきたようだ。
「邪魔しないでもらえる」とは言ってみたけれど、エリカとは完全に考え方が違う。話が行き詰っていたことは事実で、逆に邪魔されてよかったのかもしれない。
「さすがに時間切れだよ」と、男の子の沢木。
「私はここから離れない」と、エリカが右腕を水平にして男の子の沢木をかばう。私が刺した左腕は痛いらしく、垂れ下がって痛々しくはあるけれど、いままでのエリカからは信じられないくらい意志の強さを感じる。
「私だけが利害が一致していないみたいね」
「やっと立場をわきまえてくれるのかな」
「あなたの顔が私の目に映り込むのも嫌になってきたわ」
「お互い瀕死の状態にまで叩きのめす、という気持ちが一致しているようだから、そろそろ決着つけようよ」
「そこだけは利害が一致してるわね」
宣戦布告をしておきながら指先が震えてくる。雑巾を絞るように果物ナイフを握って震えを止めた。連動するように真っ赤な炎に包まれる自分の姿をイメージしてしまう。 “決着 ”という言葉が脳内に浸み込んできて負を連想させてしまったのだろうか?殺される、消滅させられるんじゃないかと最悪なことばかり浮かんできそうで、慌てて頭の中を白紙にした。すると、化学反応するみたいに心に急激な不安が押し寄せてくる。口から臆病な言葉が出てきそうで、気づかれないように静かにため息を飲み込んで押し戻す。
カラン……と緊張感のない音が響く。
果物ナイフが手から滑り落ちてアスファルトでバウンドした。
「ひょっとして脅えているの?」
「ち、違うわよ」必要最小限に短く否定する言葉でさえさらっと言えない。急いで果物ナイフを拾うとき、また落としそうになって慌てて両手で掴む。悟られてはいけない。「これは武者震いよ!」と間抜けな意地を張る。
「たった今、一瞬だけ、炎に包まれる自分の姿をイメージしたよね?」
男の子の沢木に訊かれ、答えはしなかったけれど、驚きがもろに伝わる表情をしてしまう。
「三番目の人格も見えたよね?」
今度はエリカに尋ねた男の子の沢木。
エリカは黙ってうなずく。
「僕が強く創造さえすれば、他の人格に伝えることができる」
私に種明かししたあと、男の子の沢木はゆっくり後退りする。「僕は賭けに出るよ」ニヤッと白い歯を見せて決意を表す。「ここを爆破して、僕だけ違う階へ避難するよ」
爆破?階へ避難?
私の困惑する顔を楽しむかのように、したり顔をする男の子の沢木。
「犬やスズメバチを出すだけでも体力を消耗しているのに、そんなことができるのかしらね」
次の手を考える時間が少しでもほしくて、ゆっくりとした口調で話す。
「やってみる価値はあると思う」とエリカが男の子の沢木を励まして後押しする言葉をかけた。さらに「ある程度リスクを侵さないとなにも成し遂げられない」と教訓っぽいことを言って唆す始末。
「僕だけが生き残る保証でもあるの?」
男の子の沢木が目を細くして疑いながらエリカに訊く。一人だけ助かる前提の口振りに聞こえる。
「私の勝手な希望的観測」
具体的な証拠になることや信憑性のある答えじゃないのに、エリカは毅然とした態度で言い切った。
「人格に答えを求めるのが間違ってたかな」
男の子の沢木は満足そうな顔をしている。返ってくる答えがはじめからわかっていた気がする。
「どうして、そこまで邪魔するのかな」
諦めに近い言葉をエリカに伝えた。
「現実の世界でこの子の人格が変わったら、家族はどう思う?」
エリカの口調は淡々としていたけれど、目には涙が溜まっている。
「まだそんなことを……」
“この子 〟とまだ言うのか…と絶望する私。
男の子の沢木は一人身の孤独なオヤジの可能性が高いのに、エリカは子供かもしれないという低い確率のほうを心配している。
「アヤメ観念してよ」
「見た目に騙されていることがまだわからないの?」
私にはエリカを納得させるだけの知恵も知識もない。だから口調が感情的になって余計説得力のない言葉しか出なくなってしまう。
「早く爆破させて!」
私の言葉を完全に無視したエリカは、男の子の沢木に命令する。
「一分でいいから時間を稼いでくれ」
男の子の沢木はそう言うと両目を閉じた。
「わかった」
エリカはひとつ返事で承諾する。
意気投合しているところを見せつけられ、嫉妬しそうだ。
地面が揺れた。男の子の沢木の能力だろう。とんでもないことが起こる臭いがプンプンする。
私の創造力に迷いはない。
両手で握った果物ナイフをエリカの心臓に突き刺す。
大丈夫、絶対に大丈夫!……と心の中で叫ぶ。
そのまま突き進む。
エリカの体にぶつかって、男の子の沢木に覆い被さるようにして押し倒す。
果物ナイフはエリカの体に吸収されていく。
意識して柄から手を放すと、果物ナイフはエリカの体に吸い込まれる。直里のときと同じように果物ナイフの瞬間移動が成功することを祈った。
三人一緒に倒れ、バキッと果物ナイフの刃がアスファルトで折れる音がする。成功したと思った。けれど一番下敷きになっていなければいけない男の子の沢木が消えていた。完全に作戦が見抜かれていたらしい。刃が折れて使いものにならない果物ナイフが落ちていた。
人の気配を背後に感じて、慌てて振り返る。
男の子の沢木が棒立ち状態で、まったく動かない。
目も宙を彷徨っている感じがする。
無防備な姿。
普通に考えればチャンス到来なのだけれど、すでに手遅れな予感がする。
男の子の沢木は足元を軸に硬直させたまま体が不安定に揺れはじめ、糸が切れたみたいに頭から倒れていく。致命傷に近いケガを負うことを期待して傍観していたけれど、頭がアスファルトとに激突する寸前、エリカが痛いはずの左腕を伸ばして助けた。
「積極的に正義感を実行できるなんてうらやましい」
嫌味を言わずにいられない。エリカは私よりも男の子の沢木を優先させていることはわかっているつもり。それでも、身を挺してまでやるとは思わなかった。
「早く逃げて!」エリカは男の子の沢木を抱えると、必死の形相で訴えてくる。「この階は爆発する!」悪戯に恐怖心を煽っているように見えない。
「私はエリカを信用していいの?」
弱音まじりの尋ね方をした。エリカの本心がわからない。それともエリカの気持ちがわからない自分が悪いのか……直接エリカに答えを聞くしか答えが出てきそうになかった。
「この辺りが炎に包まれることになる。この子は衰弱して気を失うまで能力を使ったのよ」
エリカの言葉は妙に説得力を感じる。
「逃げ道でもあるの?」
さっきエリカが “この階は ”爆発する!と言った。 “違う階 ”が存在するなら、避難できる場所があるはず。
「エレベーターがどこかにあるはずなのよ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「今はエレベーターを探すことが先よ」
エリカが前向きで効率的で適切な提案をしてくれた。
しかし、心強いなと思ったエリカが何かの視線に釘づけになり、まるで幽霊を見てしまったかのように表情が固っている。
正直同じ方向を見るのに勇気が入ったけれど、新たな脅威だとすると目視で確認しておく必要がある。
通りの奥から白い影が歩いている。両手をだらりと下がっているのが見えたので、相手にしてはいけない厄介な部類の人間だと脳が咄嗟に判断した。酔っ払いの千鳥足みたいに倒れそうで危なっかしく、局地的な地震が起こってるんじゃないかと思うくらい、奇妙なリズムで左右に揺れている。
女の子……かな?と、ある程度予測できる距離まで近づいてきたところで、白い影が止まった。私に視線を合わせてくる。
『わ……た……し……と……お……は……な……し……し……よ……う……よ』
声が聞こえた。まだ一〇〇メートル以上離れて口の動きは見えないのに、少女の声が耳に届いた。不快な雑音のような声。
背筋が疼き、鳥肌が立つときの寒気に似たものが走る。
女の子は不安定な足取りながら、方向を修正しながら向かってきた。白い布地にピンク色の花を散りばめた浴衣を着ている。写真をそのままプリントしたものなのか妙にリアルな柄に思えた。
「無機質な思考に転化します」
今度は耳障りな感じはしなかったけれど、事務的で抑揚のない口調だった。女の子は機械的な動きで頭をカクンと垂らす。涙を流すみたいに眼球を落とした。しかも赤くてビー玉のように硬質。次々とこぼれてゆっくりと落下。バウンドすると、重力に逆らってふわりと風船みたいに宙に浮いていく。
質感が硬質から軟質へ変化している。
地面に落ちてもすぐに爆発しなかったのはラッキーだと思った。
出てきた数は十個。
パン!と一番最初に落ちてきたやつが脈略なく割れた。音は完全に風船。ただ、破片は残っていない。
パン!……パン!……と二個目、三個目と一定のリズムで割れていく。
これって、まさか……カウントダウン?!
とても当たりそうな嫌な予感が頭の中を駆け巡る。
私はエリカの背中を押すようにして走って逃げた。
犬に追いかけられてきた道を引き返して、商店街に戻る。さっきと変わらない風景。あと数秒でエレベーターを探すなんて雲を掴むくらい難しいような気がする。エリカが迷いなく進んでくれているのが救いだった。
電柱の陰に隠れて誰も気づかないだろうという場所に、ひっそり置いてある証明写真の自販機の前でエリカが立ち止まった。青いカーテンを開くと中へ入り、私の腕を引っ張る。一連の動きに迷いは感じられない。中は証明写真の自販機らしくなく、カメラ装置や椅子もない。出入口の脇に①から⑳までのボタンが並ぶ操作盤があって、カーテンの上にはニキシー管で表示された16という赤い数字が表示されている。エレベーターの階数を示しているものに似ている気がした。
爆発音と同時に地面が揺れる。商店街の地面に敷かれているタイルがゴムみたいに波打ち、隆起して荒れ狂う津波そのような勢いでタイルを粉々にしていく。
「早く押して」エリカに言われて反射的に腕の高さの位置にあった⑤を押した。旧式の凸型のボタンで、押している指を離すと、電気が点いたボタンが反動で戻ってくる。でも、何も起きない。手当たり次第に押していく。でも変化がない。「⑱を押して!」強く指示されて⑱だけ電気が点いていないことに気づく。押すと機械的なガコンという音がした。
外から熱風が吹き込んできた。役に立つとは思わないけれど、カーテンを閉める。証明写真の自販機が縦横無尽に揺れはじめた。カーテンが透けて外が真っ赤に染まっていくのがわかる。網膜が焼ける嫌な創造をしそうで、力を入れて両目を閉じた。
鈍い金属音のあと、重力に押さえつけられ、床に仰向けになってしまう。落下しているらしい。加速して自販機本体がぐんぐん急下降している。運命を託すにはあまりにもお粗末な構造の自販機だけれど、いまは身を委ねるしかない。カーテンの上の赤い数字が目まぐるしく変わる。
死の予感しかなかった状況が唐突に、前触れなく終了した。
数秒前の揺れが嘘のように静止する。床に押し付けられていた重力から解放された。赤い数字が18と表示されて止まっている。階数でいえば二階しか移動していない。
カーテンの下から人工的な光が射し込んでいた。
「止まったみたいね」と言ったのはエリカ。男の子の沢木を抱きかかえて立ち上がった。
私は床に伏せたままの状態で、カーテン下の隙間から外の景色を窺う。寒々としたコンクリートで固められた壁。白いペンキで書かれた番号がふられた太い柱が等間隔に配置され、球場くらいのスペースがありそう。車輪止めや白い枠線が引いてあるから、地下駐車場に間違いない。ただし、車は一台も停まっていないのが不自然に思えた。アスファルトで舗装されている路面は水が撒かれていて、鏡のように反射している。
とても静かで不気味な感じはするけれど、狭い自販機の中にずっといるわけにもいかず外へ出る。自販機の外壁が巨大な怪物に殴られたみたいに凸凹にされていた。
「ここで一生暮らすことになるのかな」
すぐにあとをついて出てきたエリカが言う。
具体的に階数を指定したのだから、どこに辿り着くのかも知っていたことになる。
「エリカはこうなることを望んでいたの?」
私はこれでもかというくらい力を入れて眉を寄せた。
「自分でもわからない。でも、アヤメがこの世界が精神世界だと知る前の学校生活が一番幸せだった」
「私には思い出になるくらいの記憶ななんて残ってないわ」
ちゃんとした答えをもらえず、口調が荒くなる。
「こんなことになってごめんね。この子を助けるためには、アヤメの協力が必要になると思ったの」
「私はボタンを押すことしかしてないわ。その子のために五番目の人格のブリッジキックマンに致命傷を追わせたの?」
「この子にもらった武器で刺した」
「刺した?」
「アヤメが机の中に忘れていった果物ナイフでね」
エリカの答え方が素っ気ない。ブリッジキックマンを消すことに抵抗はなかったようだ。
もっと肝心なことを聞かなければいけない。
「エリカの本来持つことが許されている武器はなに?」いまさら難しい質問ではないはずなのに、エリカは視線を逸らせる。「へぇ~私に教えるとまずいことがあるんだ」不快感を惜しげもなく表すために、小刻みにうなづきながら言ってみた。
「アヤメ……ずいぶん臆病になったね。そんなに私に消されることが怖いの?」
エリカが挑発的な尋ね方をしてくる。私の言い方が気に食わなかったというだけで腹を立てたとは思えない。私の人格を全否定する意図が垣間見える言い方に聞こえた。
「あたりまえでしょ!消えるということは自分の存在がなくなるってことなのよ。私達の記憶は浅い。現実の世界の人からすると偽物の記憶で創らされた邪魔な存在なのかもしれない。だから、せめて、現実の世界で存在していたいという爪痕くらいは残しておきたい」
感情的になってしまう。
「アヤメは現実の世界でなにをするつもりなの?」
「ひと目見みるだけが望みだったけれど、欲望が芽生えたわ」
「欲望って、あまり良い響きの言葉じゃないね」
エリカがその言葉は聞きたくなかったというような顔をした。
「人殺しするとでも思っているんでしょうね」
「そんなことないよ」
エリカの目が潤み出す。泣くポイントなんてない。口調や表情をころころ変えてでも私が男の子の沢木を消すのをやめさせたいらしい。
「なぜ、そんな顔するの?私を憐れんでいるの?」
「よくわからないけれど、涙が出てくるのよ」と言ったあとで、エリカの右目から一筋の涙が流れて、頬を伝って落ちた。
「エリカ」
その一粒の涙に視線が吸い寄せられていく。ストレスと憎しみで爆発寸前だった心が浄化されそうになる。感傷的になってくる。心の脆さを露呈した。私達人格の精神は薄っぺらい構造でできているのかもしれない。それだけ男の子の沢木を抱え、優しい目でこちらを見るエリカの姿は神々しく見えた。
「三番目の人格の武器を知ってる?」
男の子の沢木が瞼を重そうに上げた。さっきの会話を盗み聞きしていたみたいで、私が知りたがっていたことを再び点火させて二人の仲を引き裂こうとする。「僕は賭けに勝ったのかな?負けたのかな?わからないや」今度は白い歯をこぼして何事もなかったかのように話す。頭をもたげると、目をぱちりと開けて周りの景色を確認する。「ここは十八階かな?」首を傾げ「僕の質問に二人は答えてくれないんだね」すねたような声を出す。「もう修復は無理かもね」さらに嘆いた。「君達人格はここから永遠に出られない」最後はやたらと低い声で脅してくる。
「消えるか、ここに止まるしか道はないの」
エリカも同調して、絶望的な未来の展望を私に告げる。
「こんなところで終わりたくない」
喉に詰まっていたアメ玉が口から飛び出すみたいに言葉が弾いてしまう。悲痛な叫びに近く、完全に心が折れていることがバレバレだ。
「そろそろ自由にしてもらえる」
男の子の沢木が言うと、エリカは丁寧に下ろす。
一瞬ふらついたけれど、なんとか自力で立ったかと思うと、片膝を濡れているアスファルトに付けて、両手を握っておでこを接触させた。お祈りのポーズで沈黙はしばらく続いた。
これから何が起こるのかエリカは知っているらしく、表情を変えない。
環境が変化したのは水が張られている表面の一部。透明な水の膜が隆起してくる。男の子の沢木は両手でそれを包み込んだ。宝物を扱うみたいで、仕種には厳かな儀式を感じさせた。
「人格を最小限の力で殺せるモノを創造してみたよ」
男の子の沢木の手のひらに無色透明で小さな瓶が存在していた。中に緑色の怪しい錠剤が二つ入っている。
「苦しまない?」
「即効性がないから、眠るように死ねるよ」
男の子の沢木がエリカに笑顔で答えた。
瓶を受け取ったエリカが私を見る。「一緒に飲もう」今にも顔をクシャクシャにさせて泣き出しそうで、こっちの心臓が締め付けられる想いにさせられてしまう顔をしてきた。
わかった……心の中ではすでに返事をしていた。
思い返してみると、ここが現実の世界じゃないとわかってから、似たような会話が続いて、行動がなぞっている。既視感といってもいいくらい。いつも選択を迫られ、他の人格を消すか、消されるかを繰り返している。こんな世界が長く続くとは思えない。自分はオリジナルの人格の一部でしかないのだから、記憶や知識に限界がある。自力で構築されず、開拓されることのない記憶の中でしか生きられない。善意から悪意へ簡単に裏返ってしまう思考回路。
一瞬だけでもいい。
やっぱり現実の世界を目に焼き付けておきたい。
できるなら、爪痕も残したい。
欲望が、じわじわとぶり返してきた。
さすがに、もう決断しないといけない。
「私から先に飲むね」
私の返事を待たずにエリカが言う。瓶を逆さにして手のひらに落とす。それから私に向かって瓶を転がしてくる。蓋はついてないのに、残りの一つの錠剤は飛び出すことなく、私の足元でちょうど止まった。
「無味無臭だから心配ないよ」
男の子の沢木は稚拙な誘いで、私に錠剤を飲ませようとする。
瓶を拾う。緑色の細かな粒子が詰まったカプセル錠剤。瓶を傾けて落ちてきた錠剤を手で握った。顔を上げると、エリカがすでに錠剤を飲み込んでいた。
「ア、アヤメ、ど、どうして……すぐ飲んでくれないの?私、飲んじゃったよ……」
先走ったエリカの一言。私に悩ませる暇さえ与えず、容赦のない脅迫をしかけてくる。
私は拳を突き出して指を広げる。錠剤が落下。音もなく、アスファルトの水面に吸い付く。
「おかしいと思ってた。エリカが武器を私に教えないで、しかも一度も見せなかったのは……演技力が武器だったからよ」
「何言ってるの?」
エリカが片側の眉を一瞬だけピクッと斜め上に反応させた。
「わかりやすく言ってあげようか?私を騙すために目に涙を溜めたり、泣いたり、偽善ぶってたってこと。もし違うなら武器を見せてよ」
最低なことを言っている自覚はある。確信も半信半疑。でも、もやもやとした余計なストレスが取り払わられて気分が楽になっていくのも事実。
「よくわかったね」
男の子の沢木は両膝をペタンとアスファルトにつけた体勢で口を挟んできた。いまの返事を素直に受け取れば私の推測が正解ということになる。
「ロミオとジュリエットは時間差で毒薬を飲むことになったけれど、友情は愛には勝てないみたいね」
言ってから注意深くエリカを見た。血の気の引いた顔をしている。薬は本当に飲んだみたいだ。私の視線に気づくと、唇をきゅっと結ぶ。
「もう三番目の人格は薬飲んじゃったから、一番目の人格に現実の世界を見せてあげようかな」
男の子の沢木から思わぬ言葉が飛び出した。エリカがもうすぐ消えることになって状況が変わり、譲歩してきた。
「どうせ現実の世界を見てきたら、すぐ帰ってきて消えことが条件なんでしょ?」
「それくらい妥協してよ」
「さっさと頼むわ」
「もう準備はできてる」
男の子の沢木が指を差す方向に証明写真の自販機がある。驚いたことにさっきは凹んでいた外装がきれいになっている。まるで新品みたいに。
「もともと僕が創った世界だから修繕なんて簡単さ」
「でしょうね。さっき街ごと破壊できたオリジナルのあなたが、できないはずないものね」
おだてて早く行動を促そうと試みるが、男の子の沢木が両手を路面に付けて吐きそうな顔をした。
「薬を飲んだエリカより元気がないようね」
エリカは顔色は悪いけれど、平然と立っているので、それを引き合いにして嫌味を言う。
「即効性はないって言ったろ……分単位での効き目は……望めない」男の子の沢木の喋りがたどたどしくなってくる。「僕を早く中へ……乗せ……ろ」苦しそうに前屈みに顔を伏せた。
「周りを見れば、いまこの精神世界で一番ピンピンしているのは私だけになったのよね」勝ち誇った笑顔を見せることよりも、これから私が淡々と悪意に満ちた言葉を言うことで立場が完全に逆転できる可能性が浮上。「オリジナルの人格を乗っ取る最初で最後のチャンスかもね」
「くそぉ~畜生ぉ~」
男の子の沢木は水が張った硬いコンクリート面に拳を叩き込む。しかし、パシャと水を弾くだけが精一杯で弱々しい。
予想以上の悔しがり方をしてくれた。
私は心の中で歓喜する。
エリカほどの演技力はないけれど、変に頭の回転が良いだけに私が臭わせただけで、簡単に引っかかってくれた。
「無駄な体力使わないほうがいいわよ」
命懸けでくやしがってくれた恩に対して、優しい言葉をかける。男の子の沢木の後頭部しか見えないけれど、蔑んだ視線で見詰め、両極端な態度を示す。どうしてそんな表情ができるのかといえば、オリジナルの人格である男の子の沢木の性格が基だから。ブリッジキックマンが基だと思ってときよりも自分が陰湿で醜悪になっているのがわかる。
「一緒に行こう」
エリカに手を差し伸べた。悪魔の囁きに聞こえたとしても否定できない。
「私はもうすぐ……」
顔を横に向けられて拒否された。当然だ。薬を一緒に飲まずに裏切ったのだから、
「こんなところで死にたい?」消えたい?と言いそうになるところを意図的に、死にたい?と強調してみた。さらに「ごめんね、これしか方法が思いつかなかった」と後悔の嘆きをもらす。表と裏の顔を交互に見せて本性を晒す。
「大丈夫よ、私も現実の世界を見たら、すぐに追いついて消えるから」
自分で言っておいて、全然説得力を感じないのは虚しかった。それでも強引にエリカの手を引っ張って二人で自販機の中へ入る。
「このままあの子を見捨てるの?」
エリカが助けを求めるように質問してくる。
「この階を破壊して、オリジナルの人格を消さないと乗っ取ることができない」
「どうしてそんなことがわかるの?もしかしたら失敗するかかもしれないじゃない」
当然の疑問を投げかけられた。
「男の子の沢木は商店街の一画から街ごと破壊したでしょ。あれは私達に乗っ取られないためなのよ。自販機のボタンの階数表示は年齢を表しているわ。彼は階数ごと整理してある自分の記憶を壊して、他の人格を消す方法を思いついた。直接殺すことはできないから、自然災害や爆発などの巻き添えで間接的に殺せば理屈は通る」
説明したあと、男の子の沢木を見た。顎をアスファルトの地面につけながら苦し紛れの笑顔を向けた。
「でも、ここに置いていったら……」
「彼は体力を使いすぎた。彼も段々体力がなくなったら街から駐車場へとスペースが狭くなってきている。死ぬのは時間の問題。私達が生きられるのも時間の問題。その前に現実の世界を少し見たからって罰は当たらないわ」
私はエリカの言葉を最後まで許さない。時間がない。理解力より従順さを求めた。まだ言い足りなかったけれど、エリカは寂しそうな顔でうつむいたのでやめた。
「アヤメはこの階を破壊するの?できるの?」
下を向いたまま、念を押して尋ねてくる。
「天井が壊れる創造をすればいいだけよ」
私は駐車場の堅牢なコンクリートの天井を見詰めた。大量の水が入っている巨大な水槽を思い浮かべる。でも、何も起こらない。もっと強烈に創造しないといけない。集中力を全開で高めるにはしかたない。いや、とことん利用してやる。まさか、忌々しいスズメバチをこの土壇場で利用することになるなんて思わなかった。
スズメバチをありったけ脳内に飛ばす。体全体に拡散させて針で刺されたところが腫れて熱を帯びるイメージ。膨張させるくらい熱で充満させる。花子のことを思い浮かべる。熱の成分は憎しみ。鮮明になっていく描写。具現化される創造力。集中力を高めるためのエネルギーは満タン杯。
視界に入っている壁が崩れるイメージへ変換。
重さに耐えきれず、ヒビが入り、縦横無尽に亀裂が走り、水滴が落ちてくる。しばらくするとシャワーのように水が飛び出し、連鎖して天井の崩壊がはじまる。
私は一瞬、気を失っていた。エリカに肩を捕まれていた。予想以上に体力を消耗することを思い知らされる。
「早くボタンを……」
私の声に急かされてエリカは手を伸ばしてボタンを押す。けれど、電気は点かない。
コンクリートの塊がパラパラと自販機の出入口の手前に落ちてきた。
エリカがボタンを押すとガコッと自販機が揺れた。どの番号を押すかわかっているのか迷いがない。
男の子の沢木の上から、小石程度のコンクリート片が雨のように落ちている。それでも彼は笑顔を絶やさず私達を見詰めていた。力の入っていない柔らかい笑顔。強がりにしては虚しすぎる。見ているこっちが切なくなった。歪な形の亀裂が天井に完成している。私が創造していない現象だった。楕円形の大きなコンクリートの塊が男の子の沢木に落下。さすがに押し潰される寸前は目を閉じた。大量の水が滝のように落ちてきて、すべてを洗い流す。
自販機が急激な下降をはじめる。出入口のカーテンを閉めていないので、扉が開いたままエレベーターが下降している状態になった。真っ暗な壁面が流れ、水しぶきも飛んでくる。
私は天井が崩れるイメージをするのが精一杯で、あとから起こった出来事は蛇足。男の子の沢木が下敷きになったのは万有引力の自然現象。私はちょっと背中を押してあげただけ。なのに、なぜか釈然としない自分がいる。
自販機がほどなくしてから停止した。外に広がる光景は永遠に続く砂漠。植物の姿がなく、さんさんと輝く太陽の下に砂が一面に敷き詰められている。砂の色に濃淡はなく。低学年の小学生が描いた一枚の絵みたいだ。空の青と砂の薄茶の二色しか存在していない。
「ごめん、こんな景色しか創造できなかった」
エリカが景色を創造したことを打ち明けた。
私が出来ることをエリカができないとは限らない…薄々感じていたというより認めたくなかっただけかもしれない。
機転をきかせて急いで創造した世界にしては広大な面積。あらかじめこうなることを予測しておかないと無理なような気がする。それだけで色々不自然だったできごとがつながる。直里が創造したニトロが入ったビーカーに囲まれたとき、机に当たって果物ナイフを落として気づかせたのはエリカ。あのときからもっと疑うべきだった。さっきの “アヤメはこの階を破壊するの?できるの? ”の言葉には、男の子の沢木を殺すことを肯定している要素が含まれていた気がする。
「私達にはそんなに時間がないんだから、死に場所は選ばないわ」
自然と口調が刺々しくなった。
「砂漠にしては過ごしやすいでしょ」
エリカの言うとおり、自販機から足を踏み出してみると、照りつける太陽から暑さが微塵も感じられない。前方十メートル先くらいで砂塵が巻き上がり、風が吹く。体感温度がちょうどいい具合に設定された。
「いまの風は、エリカが創造したの?」
「うん」
「ここは、男の子の沢木の精神世界じゃないのね」
私の言葉に感情がこもらない。
「そうみたいね」
他人事のような切り替えしだった。けれど、私を見る顔は笑っていた。悪気がないというよりも、何かを悟ったような笑顔に見えた。
「こうなること予測していた?というより企んでいた?」
少しだけ語気を強めて訊いた。本当は立っているのが不思議なくらい体力が底をついている。自販機に背中をつけて寄り掛かって支えてもらう。
「すでにネタバレだけれど、私が本物のオリジナル」
重大な告白をしながら、エリカは砂漠のほうに歩いていく。足取りは軽くはない。
「どこかで聞いたフレーズね」
大人の沢木がよく使っていた “すでにネタバレ ”はエリカが起源なのだろう。
「アヤメの協力があったからこそ、他の人格達を殺すことができた」
「嘘の演技で私を利用して騙してきたのね。男の子の沢木を殺すことは最初から迷いがなかったわけね」
「私以外の人格は現実の世界で何をするかわからないから、どんな手を使ってでも殺さないといけなかったの」
「でも、私はまだ消えてないわよ」私は眼力強く、エリカの背中を見た。「それに他の人格をオリジナルのあなたが消したのはまずかったんじゃない?」
「禁忌を犯してしまったから、私の精神世界はもうじき破綻するわ」
「ということはもう少しで地震が起きたり、爆破したり、水没したり、なんてことが起きるのかしらね」
「筋書きは知らない方が面白いかも」
やんわりと結末をはぐらかすエリカ。
「現実の世界を見ないで消えることになるのね」
「あなたは自分の目で見たことはあるのよ。ただし記憶を消されているから覚えていないだけ」
「なんでそんなことするの?記憶があれば私に欲が生まれてこなかったかもしれないのに」
「私の仕業じゃないわよ。現実の世界であなたが暴れたときに薬を打たれたから記憶がなくなっただけ」
「ブリッジキックマンは睡眠薬をどうのこうの言っていたけど、もうどうでもいいわ」
記憶を深く掘り下げるのをやめた。
「やっと情熱を失ってくれたのね」エリカがほんのり僅かに首を傾げた。私には背中越しでも笑顔になっているのがわかる。「情熱がないと消えそうなロウソクの火も守ることができないよ」
「魔法みたいな技で戦ってこられたのは、エリカが創造したからなのね」
「私は創造じゃなく、捏造したんだけどね」
「捏造?そんな言葉で片づけちゃうんだ」
「精神世界で起こることはすべ私の捏造よ」
自慢するんじゃなく、どこか悔やんでいる口調に聞こえた。
「私のやってきたことが無駄になっちゃったな」自分の口から出たとは思えない優しい響き。心が熱くなってくる。スズメバチに刺された時とは違う心地いい熱さ。「絶望を共有させて」
「そんなことしないわよ」エリカの言葉が言い終わるか、言い終わらないかのタイミングで、先端がスムーズに刺さるように尖った細長い鉄パイプが私の体を貫いた。「これが私の本当の武器。天から降り注ぐ矢を創造してみた」
エリカは私の方を見ない。確信しているのだろう。鉄パイプが私の背中の真ん中から左下腹部にかけて貫通していることを。先端が深く砂に刺さって固定されて串刺しにされている無様な光景を。
「ごめんね……すぐに後を追から我慢してね」エリカが振り向いた。顔が涙でクシャクシャ。その顔が、この世界で唯一の救いのような気がする。「アヤメの現実の世界をひと目見たいという願望と、現実の世界の人々に迷惑をかけないために自ら破壊することを決めた私とでは情熱に差があったの」
目の前が真っ暗になるのに、それほど時間はかからなかった。




